いろんなものが変わった明治期 - 2012.10.05 Fri
『うさぎ』の歌を皆さん知っていると思います。
『うさぎ』 文部省唱歌
うさぎ うさぎ
なに 見て はねる
十五夜 お月さま 見て はねる
この歌、我々が知っているのは、終わりの部分が
み~て~は~ね~る~
と伸ばされているわけですが、もともとは違ったのです。
みてはねるっ!
というように軽快な調子で歌い、「はねるっ」の部分で子供たちがピョンと飛ぶ、わらべうた・あそびうただったのです。
なぜそれが変わってしまったのでしょう。
それは文部省唱歌として採用される際に、そのままでは西洋式の楽典にあわないとして、楽譜の帳尻を合わせるために、
み~て~は~ね~る~
と伸ばされてしまったのです。
その結果、残念なことにこの歌は子供が歌いながら楽しめる遊び歌ではなくなってしまいました。
もうひとつ。
「にらめっこ」誰でも知ってますよね。
変な顔して笑ったほうが負けとなっていますが、あの遊びしていてどことなく違和感感じたことありませんか。あれってどちらも笑う気満々でいないと、あんまり勝敗つかないのですよね。
だるまさん だるまさん にらめっこしましょ
わらうとまけよ あっぷっぷ
それで、どちらか先に笑ったりした方が負けということになっていますが、実はもともとは違います。
わらうとまけよ あっぷ!
で終わって、そこで息を止める遊びだったのです。
先に我慢できなくなってしまった方の負け。長く息を止められたほうが勝ちです。
明治以前はそういう歌で遊びだったのですが、やはり上と同様に、西洋式の楽譜にしようとした時に(書こうとすれば書けますが)音が足りていないのでおかしいというわけで、
あっぷ >>> あっぷっぷ
になってしまったのです。
あっぷっぷ では息が止めるのには無理があるので、いつのまにか遊びそのものが変質してしまいました。
はっきり言ってこんな些細と思うようなところまで、当時の日本人は一生懸命やっきになって、古い日本を否定してそこから脱却して、近代化・西洋化を目指したのですね。
今考えればちょっと極端だと思うのですけど、その時の人たちはこういうことをしなければならないのだと本気で思っていたのですよね。
初代文部大臣の森有礼は、本気で日本語をやめて国民が英語を話すようにしようと考えていたらしいです。
このころに人々の、歩き方・走り方まで変わっています。
それまでは、右手と右足が同時にでるいわゆるナンバ走り・ナンバ歩きという歩き方だったのですが。
着物を着ているときには、そのほうが着崩れないのだそうです。
しかし、それでは西洋式軍隊の行進はできないので、学校教育の中で歩き方を変革していったのです。
そもそも、江戸時代の一般庶民は「走る」ということがなかったそうです。
走るのは武士や飛脚などの特殊技術のような扱いでした。
江戸時代の火事で逃げまどう絵に描かれた人々が、両手をあげているのは、体重を前にかけ前傾姿勢をとることで少しでも早く動こうとしたからだとか。
そういうわけで、学校の運動会に家族が来て観戦するのは、一説には西洋式のそういった走り方、体の動かし方を子供以外の人々にも知らしめるためだったそうです。
現代人は大変早い社会の変化の速度にそれなりに順応してしまっていますが、のんびりと江戸時代を過ごしてきた当時の一般市民にとっては、明治っていうのはものすごい時代だったのでしょうね。
いまではあまり知られなくなってしまいましたが、まさにこの時期は「創造するためには破壊する」の見本のような時代です。
僕は日本の近代美術が好きなのですが、当時は日本の伝統的なものはみな良くないとされた時代だったので、いまでは重要文化財の絵を残しているような人たちが、二束三文の皿の絵を描くことでなんとか生計を立てていたり、大変優れた工芸品であった「印籠」や「根付」などが、(和装から洋装になった影響ももちろんありますが)「土俗的で卑しいもの」と見捨てられたりしたのを大変残念に思います。
いまでは江戸期の「根付」の優れたものはもうほとんど日本にはありません。
本当にびっくりするほどないんです。
東京国立博物館ですら、古いものは500もありません。(近々その全部と高円宮コレクションの現代根付が合わせて公開されます。興味のある方は貴重な機会なので是非どうぞ)
対して、イギリスの大英博物館には2000点、同じくイギリスのヴィクトリア&アルバート美術館には1000点、アメリカのメトロポリタン美術館には2500点、カウンティ美術館には600点と大量にあります。
仏像も、当時の廃仏毀釈の影響で、いま日本にあれば重文クラスのものが大量に海外に流出してしまいました。
そういった潮流から脱して、日本美術が見直されるには明治30年を過ぎて、フェノロサ・岡倉天心の日本文藝復興運動を待たなければなりません。
余談ですが、震災で流されてしまった岡倉天心ゆかりの北茨城にある六角堂が、創建当時の姿に忠実に修復されたとのことで、ひょんなことから大学時代の友人たちと今度旅に行きます。
久しぶりにみなで熱く語ってこようかと思います。
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● COMMENT ●
No title
一時の目先の利益を追求するために失ったものの大きいこと…。もちろん得たものも多いとは思いますが…。
子育てをするようになってから、流行りや周りを意識しすぎてはいけないなと特に気を付けるようになりましたが、よく溺れます(笑)。
そんなときに、海外の人や、昔の人の話は、とても参考になります。
向こうにも流行りがあるし、社会状況も違うだろうから、別にそのまま真似をするわけではないのですが、常識が常識でなかったとわきまえるだけで、色々と見えてくるものがある気がします。
特に大正生まれの祖母の話などは、ほんとに、目から鱗の連続でした…。育児便利グッズを手当たり次第に購入せずに済んだのも半分くらいは祖母のおかげです(笑)。
その祖母に、息子を保育園に二歳児クラスから入れる話をしたときには、こんな小さい頃から集団行動する最近の子供は窮屈で可哀想なことだねえ、昔は幼稚園もほとんど行ってなくて、行っても年長からで、小学校の直前までおのおの勝手に過ごしていたのに…と言って、亡くなる直前まで、曾孫の私の息子が保育園で楽しく暮らせているか案じてくれていました。
それまで、幼稚園二~三年保育が昔からの常識だと思ってた私は、大層衝撃を受けました…。
そして、自分やお友だちの子供の様子を見ていると、集団行動をしっかりわきまえて、時間の観念もある程度把握して、ストレス少なくこなせるようになってきたのは、満五歳になった年中の途中くらいからだったなあと。
別にだからといって、保育園に行かすのが可哀想だとは思ってませんし、我が家には必要でしたが、長時間保育する以上、そこから子供に生じるストレスをちゃんと大人が認識して、柔軟に対処しなきゃならないのだなあと思いました。
育休中にやってた方法や、幼稚園で短時間保育してる人と、同じ方法で過ごしてたらダメだなあと。
ストレスを受けることは一概に悪いものではないけど、解消できない過剰なストレスは問題ですもんね…大人も子供も…。
記事が違いますが、おとーちゃんさんが、長時間保育には特別なケアが必要だとおっしゃるのも頷けます。
その方法論をブログで具体的にきちんと書かれていることが、本当にありがたいことだと思います。
返信は不要です。長くなってすみません。
いつもありがとうございます♪
とかちさん
こういうことは実にありがちですね。
「子育てはなにをするかよりも、なにをしないかの方が重要である」
そういうときはこの言葉があてはまってしまうのでしょう。
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明治時代の上層部には、日本の誇りというものはなかったのでしょうかね。それまで鎖国をしていて遅れている分を取り戻そうと必死だったのでしょうが…。
お城などもほとんどがこのときに壊されたそうで、残っていれば地元に近いところに見に行けたのにと、残念です(>_<)
子育ても、ちょっとこれに似てるかも?と感じました。優れているよその子と比べ、つい焦って我が子の今の姿を認められなかったり、一定の価値観に縛られて我が子の個性を大切にしてあげられなかったり…。
でも焦って周りに合わせようとしても、かつての日本が素晴らしい文化をたくさん手放してしまったように、せっかく子供が持っているよいところを失わせてしまうのかもしれないですね。
と、今回の記事を読んでいる内に、そんなことを考えてました。