本当にモノがないことはかわいそうなことなのか Vol.2 ―コメントを受けて― - 2013.09.14 Sat
共感や応援という種類のものであればさして気にならないのですが、別々の意見という形での「横コメント」(管理者以外のコメントに対するコメント)がついてしまうと、掲示板化してしまいレスがつけにくいので、こちらの記事でこのことについて掘り下げていきたいと思います。
そういうわけですので、該当記事のコメントには一部相談等を除いて全て返信いたしません。
この記事をもって返信とさせてください。
この点、円滑なブログ運営のためになにとぞご了承ください。
かの記事の趣旨というのは、「モノを与えるべきか」「与えないべきか」ということではありませんでした。
その前の記事との文脈がありますので、そこは無理なく理解いただけるものと思います。
おそらくみなさんもそれは理解していらっしゃるのでしょうけど、自己の生育歴や思い入れなどでもともと思うところのあった意見が、趣旨とは違うことを感じつつも出さずにはいられなかったというところではないでしょうか。
この記事で述べたかったことは、コメントのなかで子持ちししゃもさんが要約してくださったとおりです。
僕はこういったモノの問題に関わらず、人に「○○すべき」「○○すべきでない」という子育ての理屈を押し付けることで子育てをよくしていこうとは思っていません。
もちろん、なかには僕自身「○○すべき」「○○すべきでない」と感じていること、思っていること、信じていることはたくさんあります。(「受容すべき」「体罰するべきでない」などなど)
でも、それを人にそう伝えることで、ものごとが良くなるのだと単純に考えることはしません。
例えば、自分の生育歴ゆえに、どんなに手を挙げたくないと思っていても手が出てしまう人だっています。「体罰すべきでない」というのはある種の正論です。それをその人に押し付けたところで苦しめるだけであって、問題はなにも解決しないのです。
子育てはさまざまな複雑な要素がからみあっています。正しいことを言ったからといって、よくなるというものではないのです。むしろ悪くなることだってたくさんあります。
現在ではその弊害の方が多いといってもいいかもしれません。
この点がデータや研究で積み重ねてきた子育て論や、感情論や精神論からくる子育て論との、現場でさまざまな子供、親、家庭、周囲の人間などと関わることで子育てを考えてきた僕の大きな違いといってもいいのかと思います。
以前から読んでくださっている方は、このあたりのことはよくご存知でしょう。
子育てでもっとも有用な資質は「おおらかさ」
子育てに必要なのは「バランス」
子供も、そして大人もひとりひとりが違う
そういうことを関連する話が出るたびに述べています。
なので、今回のことで言えば「モノを与えるべきか」「モノを与えるべきでない」ということそのものは、さして重点を持たないのです。
本当に大切なのはその向こうにあることでしょう。
モノをたくさん与えられて、満足する気持ちも、モノを大切にする気持ちも、人との関わり方も、人に優しくすることも知らずに育ってしまう子もいます。
モノをたくさん与えられはしたけど、満足する気持ちも、モノを大切にする気持ちも、人との関わり方も、人に優しくすることもきちんと覚えて育つ子もいます。
モノを与えてもらわなかったけど、別のことで十分に満足できる力を手に入れて、他者ともモノを介さないところで関わることを覚え、さらに自分らしさを発揮できるようになるという子もいるでしょう。
モノを与えられないことで、コンプレックスを持ったり、他者と関わることに気おくれをしたり、過度に苦しみながら我慢を強いられてきた子もいるでしょう。
大事なのは、モノの扱いを通してどういった自己を子供が獲得するかということです。
現実にはたいていは親がある程度のバランス感覚を持っていれば、どちらよりの考えであったとしてもおおむね問題のない範囲で育っていくということなのかもしれません。
コメントの中で焦点になっているのは、「自分は親に極度にモノ(やテレビなどの情報)を制限されて育った。それは大変つらいことであったし、これまでの人生にそのことは大きく影響した」という種のことです。
たしかにこういう育てられ方というのは大変つらいものです。
モノのない時代だったり、貧しかったり、最初から得られない状況であったのならばさしてそのようには感じないことだったとしても、そういったことを親の一方的な押し付けでもってさせられたというのであると、そこには子供だとしても納得のできないものが残ることでしょう。
こういったことは、モノの扱いということが表面上の問題とはなっているけれども、実際はその向こうに親の子供に対する見方、立ち位置というものが大元にあるのだと思います。
この親は子供の気持ちをそれを許容するか否かは別として、尊重していたであろうか。
子供の思いを汲もうという気持ちはあったのだろうか。
モノを与えないだけでなく、モノに変わるようななにかを子供に持たせようとしたのだろうか。またそれはできたのだろうか。
モノを与えないという判断は、子供のことを考えてのことであったのか、それとも一方的な押しつけであったのか。
子供のいる状況を認識し、それと親自身の考えとのすり合わせというプロセスをもっていたのだろうか。
などなど。
単にモノの扱いにとどまらない様々な焦点があったはずです。
親の育った時代や環境と、現に子供が育っている時代・環境には大きなへだたりがあります。
時代の流れがゆるやかで、親と子供との世代にほとんど差がないということもかつてはあったでしょう。
しかし今はまずそうではなくなっています。
親が自分の育ったときの価値観を押し付けようとしてもうまくいかないこともたくさんあるでしょう。
しかし、だからといって親が自分の意見や価値観を放棄して、時代の流れに流されるまま子供にさせればいいかというと、それではうまくいきません。
そう育てられてしまうと、子供は価値判断の基準というものを持つことができず混乱するようになってしまいます。
大事なのはそれらをすり合わせ、いまベストなりベターなりと思えるところを親子で模索して、そして両者がそれをある程度でも納得し合って過ごしていくことです。
子供も違い、大人も違い、環境もちがい、家庭のあり方もちがいます。
なので、結果的にはさまざまな形のものが生まれるでしょう。
でも、それが親が子のことを思い、子が親を理解しようとし、それを互いにすりあわせてその上で生まれたものであるならばそれでいいでしょう。
でも、親が自分が楽をするために子供にモノを与えることでごまかしたり、まだなにも問題のないうちから「こうなっては心配だ」とモノを与えることで安心を得てしまったり、本来ならば人が手をかけてすることをモノにさせてしまったり、
子供が親の自分への気持ちを向けたいだけなのに、モノを要求することしか知らなかったり、自分の気持ちの隙間を埋めるためにモノを求めだしてしまうなどの種々の問題は、この「モノを与える与えない」ということとはまた別個のものなのです。
そして、この問題はそういう知識や視点をもって見てみると、わんさかあります。
それは現代の子供たちを蝕んでいると僕は感じています。
いまの親世代、祖父母世代の多くの人は、この視点において盲目です。
モノはいくらでも手に入れることができ、モノで本来ならばかけがえのない行いをすべきところを代行させてしまうことすらもできてしまいます。
これはモノそのものだけでなく、さまざまな子育て産業や教育産業の中にも見出すことができます。
子供はモノを与えられることでの表面的な笑顔とはうらはらに、さまざまなところで苦しんでいたり、身につけたり学ばなければならないことを獲得できないままに子供時代を終えてしまいます。
そうすると、その人の価値観というのはそこで固まってしまいかねません。
その価値観がその子にとって良い形のものでなかった場合、一部の自分を乗り越えることのできる強い人や、そういった機会・環境、周りの人間に恵まれた人だけが、なんとかそれを自分自身ですり合わせ修正することができます。
できたとしてもそれはなかなかに辛い経験でしょう。
でも大概の人は、モノへの価値観は変えられないまま、モノやお金への強い執着やこだわり、対人関係の難しさなどを抱えたまま生きていかなくてはなりません。
もちろんそのことが必ずしも、悪いことであるとか、不幸なことというわけでもないでしょうけれども、なかには苦しんでしまう人がいるのも事実です。
オーバーなことを言ってるように聞こえるかもしれませんが、保育園でも5~6歳で価値観がモノの優劣で判断するようになってしまっている子などあまり珍しくなくなっています。
この子が将来、その価値観で苦しまなければいい、その価値観で他者を傷つけなければいいと願わずにはいられません。
正直こういった価値観は根深いものなので、親ではない保育士程度ではこの年齢になってしまってはなかなか変えていくのは容易ではありません。
考えるきっかけを与えられるくらいが精一杯のところです。
そんなこんな思いがあって、モノを子供にあたえるにおいて、モノの扱いについての視点を多くの人に考えてもらいたいと思った次第です。
これだけたくさんの反響があったのだから、そのことは無駄じゃなかったかなといまは感じています。
これを持ちまして、みなさんのご意見にたいするお返事とさせていただきたいと思います。
もし、ご希望があれば、直接子育ての中での関わり方という種の話ではありませんが、モノの扱いが子供にどういう影響を与えたなどの具体的なところを紹介します。どちらかというとあまり良くないケースの事例ということになるでしょうか。
でも、『息子の成長』なんかも途中なのでちょっと先になるかな。
わりと書いていて気が重くなる類のものなので、あんまり希望がなければやめておきます。
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● COMMENT ●
No title
理想の子育てという苦悩
今回の記事では、おとーちゃんさんが子育ての湖に鋭く投げた石の作った波紋に、本編以上に考えさせられました。改めて、こちらのブログの読者の方たちの真剣な子育ての姿に心打たれます。日々の子育てに懸命に真摯に取り組んでいるからこそ、こちらにたどりついたのだろうし、そこまでの道のりには、ご自身の子ども時代の経験から続く、「理想の人間」、今の時代が求める「理想の子育て」についての悩みがたくさんたくさんあって、いつもそれらとがっぷり四つに組んでいらっしゃるのだろうと感じます。
その一方で、おとーちゃんさんが保育の現場で出会ったり、街で見かける多くの親(祖父母)たちの様子は、あまりにも場当たり的だったり、根無し草的だったり、すべてが他人のせいだったり、子どもと自分の「今」だけが関心事で、3年先も隣の子どもも、実はどうでもよかったり・・・という感じがするということですよね。
流行のものを与えないと、友達関係で苦労しそうだから・・というのも、内心には我が子が他の子から「遅れない」という点に焦点があるわけで、競争社会の中での自分の子どもの有り様にしか関心がないとも言えそうですね。
特に「モノ」については、親自身が商業主義の波の中で成長してきて、深く意味など考える機会もなく、子どものままの物欲で社会に出て稼げるようになってしまった人もたくさんいるわけで、しばしば、ゲームやおもちゃを「他の子から仲間はずれにされないように」と与えたがるのは、世のお父さんたちに多いように思います。よく言えば「少年のまま大人になった」とういう表現もありますが・・・(そういう意味でも、おとーちゃんさんのような、考えて考えて信念をお持ちの大人の方は貴重です。)
かつて(15年前)、我が子の友達のお父さんに「ゲームを積極的にやらせるべき。今の時代のテクノロジーを使いこなし、人間関係を生き抜くのに必須だから!」と説教されたことがあります。その方は事業家で自信家でしたが、私は納得いきませんでした。でも、サラリーマン家庭の我が家にも少なからず似た傾向がありました。家庭内で、父と母の子育て観、理想の子育てが食い違っている場合には、子育て主担当でも主たる収入者でないお母さんの苦悩は一層複雑になってしまいますね。
「自分が子ども時代に買ってもらえなかったから」「今のゲーム機はテクノロジーの象徴だから」「友達の輪に入れないのは不幸だから」などというもの実は後付けの理由で、要するに、子どもにそれらをあてがっておけば、忙しくて疲れている自分が関わる必要が減って便利だからというあたりがお父さんの本音だとすると、
表向きでは今の理想の子育てのハウツーを気にしつつ、いや必要以上に情報過多だから結局疲れて混乱してしまって、「少しぐらいならいっか」と、よくないとは知りつつも与えてしまう・・・あれっ、気がつけば、自分がああだけはなりたくないと思っていた、何も考えていない人たちと同じことをしてると、周囲の人からは見えてる?やだー私ったら・・というのがお母さん。
なんとも、現代の子育て事情は、二重三重に苦悩に満ちているように思えます。
いつの時代にも、正解の子育てなんてないし、どこの家庭にも当てはまる理想の子育てというのも実はないのでしょう。私自身は、前回の東京オリンピックの頃が幼少期で、高度経済成長の真っ只中、当時の理想を追求しまくった両親に育てられましたが、結果たくさんの偏りを持った人間だと思いますし、それが反面教師になった我が子の子育ても、合格点をつけられるかといったら微妙です。子として親として、きっと一生反省し続ける中で、近い将来孫に恵まれたら、今度こそ失敗しないようにしようと思いますし、今の保育士としての日々の関わりの中では、試行錯誤中の保護者の心情に、できるだけ寄り添って、子どもたちを通して黒子のナビゲートができたらいいのかなと思っています。
そんな中、「哲学するパパ保育士」のおとーちゃんさんの視点、問題意識、押し付けない優しさと厳しさをいつも参考にさせていただいています。
長々とお邪魔いたしました。
物の扱いとその影響
とても興味があるので、いつか記事にしてください。
ついでに、
・5,6歳児くらいになると「○○ちゃんは~を持っているのに私は持ていない(悲しいという気持ち)」というような、他人との比較や、
・相手に対して、「私は○○持っているけど、~ちゃんは持っていない」というような優越感って、このくらいの子供は普通にもつ感情なんでしょうか?
宜しくお願いします。
No title
vol.1の方を読んで、自分も同じことをいつも感じているなぁと思い
何か書こうと思ったのですが、
内容についてはもうすべて語りつくされているみたいなので、
同じことを書いてしまうので省略します。
まさに自分と同じことで悩んでいる方たちの
やりとりを読むと共感し気持ちが楽になります。
以前、見当違いなおかしな質問を何度かしてしまいましたが
答えてくださって感謝しております。
おかげさまで少しずつ納得できる付き合い方になってきました。
迷うことがあれば「きっと子育ておとーちゃんならこう言うであろう」と
心の中で唱えています。
これからも、読ませていただきます。
幼稚園選びについて
以前の一斉保育から自由保育へという記事を読ませて頂きました。
幼稚園見学に行き、
お勉強系の園、
自由保育系の園、
勉強はないが設定保育ばかりで自由時間がない園&躾が厳しい園、
色々な園に出会いました。
理想は子どもが自ら考え行動出来る力が育つ自由保育系なのですが
、自由保育は小学校に上がってからウロウロ歩いたり落ち着きがない子が目立つと聞きました。
でもそれは最初のうちだけですぐ落ち着くのでしょうか。
小一プロブレムなど色々気になります。
勉強系を選ぶお母さんからは自由保育系に行くと少し変わった子に
なるとも言われました。
自由保育の幼稚園は少し遠く、小学校に上がる際近所のお友達があまりいない状態も気になります。
保育士おとうちゃんであればどの園を選びますか?
一ヶ月には幼稚園を決定していなくてはならず大変悩んでいます。
ちなみに私が見て子どもが生き生きしていたのは自由保育の園でした。
保育士という立場から教えて頂けると大変嬉しいです。
宜しくお願い致します。
No title
うちは義両親がいわゆる孫フィーバーです。
以前同居中は子供の月齢にふさわしくないお菓子やおもちゃを買ってくることはあっても、時々で(赤ちゃんでじいじが買ってくれたとは理解しないからでしょう)大目にみていたのですが。
いろんなトラブルがあり別居してからは、平日は子供に、とほぼ毎日食べ物、毎週末帰っていますが、毎週プレゼントです。
経済的に潤ってるわけでないのに、ビデオ2台、カメラ2台、すでにあるものを買う、など孫のために無駄な買い物ばかりします。
外出中、お茶を持っていると言っているのに、同じジュースを2本買ったり。1本目も1口しか飲んでないのに。子供が欲しいといったわけでもないのに。
しかし外出時などの出費など、あたしたち夫婦には要求ばかり。
主人が義父の会社で働いているのですが、23万しかお給料をもらえてないのにです。実家のローンなどもあり足りないので私が働きに出てますが、それについては「○ちゃん(子供)はあなたに一生笑うことはないから」など、人でなしのように言われます。
これらやいろんなトラブルについて、いろんな工夫をして少しでも分かって貰おうと努力しましたが、結局、とくにこのくらいの年代の人は変わらないな、というのが私たち夫婦が到達したところです。
しかし、子供が自宅で私と一緒のときはそんなことしないのに、祖父母宅で物を投げたり食べ物を無駄にしたり、祖父母をなめていて叩いたり、そうゆう行動をみていると心配になります。私は叱りますが祖父母はいいと言います。
祖父母宅でお菓子ばかり食べた後帰宅して、ご飯の用意をしようとすると、その気分の延長で「お菓子!」と言い、食材を投げて蹴ったときは、怒りましたが、すごく悲しかったです。
パパもママも必死で働いて○ちゃんの食べ物などを買っている!と伝えています。
親戚の祖母と同居の高校生の子も、ものを与えられすぎて、「1回も使わなかった~」「すぐ飽きて何日かだけ使った~」とか平気で人にあげています。
こんなふうになって欲しくないと思いいろいろ工夫して伝えてきましたが、祖父母についてはあきらめるしかなさそうです。
でも、他にどんな様子の子供がいるんだろうっていうのは知りたいです。
またお時間あるときに、記事にして下さると幸いです。
価値観の違い
でも、Vol.2でまとめていらっしゃるように、問題の本質は
モノを与えるかどうかではないのですね。
私もTV番組などを制限されていて、学校での話題に
取り残されていたくちです。
でも、思い返してみれば本当に辛かったのは
話題についていけないことではなく、
その気持ちを親に理解してもらえなかったこと、
頭ごなしに否定されていたことだったんだと気づきました。
やはり親子できちんと向き合う時間、心が寄り添う時間が
大事なんですね。
自分、主人、祖父母など子供の周りにはすでに違う価値観の大人が
います。これからも、友達や友達のご両親、先生などなどさまざまな
価値観を持った人たちに出会っていくでしょう。
世の中にはいろんな価値観を持った人がいること、
人の価値観を否定しないこと、
人の価値観を認め合って人間関係を築いていくことなどを
子供に教えていけたら良いなあと感じました。
いつもいろいろ考えさせていただいてありがとうございます。
ぜひ事例をお願いします
我が家も義両親がとにかく一歳の子供に買い与えたがります。特に義父は「孫のために買う」という行為自体に己の満足を見出しているようで、ひとつ買うとまたすぐに何かを買いたがりキリがないのです。
洋服、おもちゃ、お菓子・・・もう同じようなもの持ってますと伝えても「いくつあっても困らないだろ」「孫に惨めな思いをさせたくない」と聞く耳もたず。主人はたくさん買い与えることについては良くないと言いながらも、義父の楽しみなんだから仕方ないと容認の姿勢です。
今は方針を伝えた上で「気持ちだけありがたく頂きます」と断っていますが、それでも買ってきますし子供と遊んでいても「今度○○買ってあげるからね」「お菓子たくさん買いに行こうね」の繰り返し。家も近いので頻繁に訪れ買う買う攻撃・・・ストレスになります。
義父母の価値観はもう変わらないと思います。せめて主人だけでもモノを与えるということについて、モノの扱いについてきちんと考えてほしい。そして、今の状況が続くと今後どう子供に影響するのか真剣に考えてほしいと思っています。
タイミングを見ながらおとーちゃんさんのブログの記事を読んでもらおうと、我が家の問題にあった記事をピックアップしているところです。具体的な事例があったらさらにわかり易いと思いますので、ぜひお願いします!
No title
ぜひ、事例を知りたいです。
私自身は四人兄弟で育ったこともあり、貧乏というほどではないけれどあまりモノがない子供時代でした。外食はほとんどせず、手作りの食事とオヤツで、オモチャは誕生日とクリスマスに一つだけ買ってもらうルールでした。
当時はたくさんオモチャを買ってもらえる友人たちがうらやましかったのものですが、今は特に恨みに思うこともありません。
(すぐ上の姉は大人になっても恨みがましいことを言いますが…)
母親になり、経済的に可能だということもあり、一人娘にあれこれとモノを与えてしまっています。
娘が欲しがっていなくても、一緒に遊ぶ私のほうが欲しくなって買うオモチャが多いのです。
収納スペースに限りがあるので、再現なく買うというほどではありませんが…特に知育系オモチャ、公文のものなど財布が緩みがちです。
服は私だけでなく、義母もたくさん買い与えます。
息子二人しか育てていないので、孫娘の服を選ぶのが楽しいそうです。
もうすぐ三才。やはり、少し自制した方が良いのかもしれません…。
今後の参考までに、ぜひ、事例をお願いします。
長文失礼しました。
考えさせられました
なので今回の記事が補足的に書かれてなんとなくホッとしました。
子育ては本当に難しくて正解がないので、ひとの意見に振り回されたり、逆に自分が振り回してしまったり、悩みが尽きませんが、毎日刺激的で(笑)飽きません。
うわべだけのお付き合いだとあまり突っ込んだ事がきけませんが、コメントは皆さん真剣に真面目に子育てに取り組んでらっしゃる方ばかりでいろいろ意見があって、読み込んでしまいます。
一部が大きく話題になってしまいましたが、私も一晩考えてしまうくらいのコメントでした。
真剣に掘り下げて考えるきっかけを与えてくださって感謝です。
あと、それだけ皆さんが気にしているのだなと、記事タイトルのセンスと内容の広さ深さにも改めて脱帽しました。
No title
おとーちゃんさんの意図をさらにはっきりわかりやすく書いていただき、ありがとうございました。
モノを介してのコミュニケーションやつながりを持つこと、周りに溢れすぎていて、普段はなかなか振り返ることすらないのかもしれませんね。
子どもが抱っこをしてくれと要求するのに、重いから…とお菓子を与えて気をそらせたり、絵本を読んでくれときているのに、忙しいからとテレビをつけたり(どちらもとてもよく見る光景です)、そういう何気ない(?)行動も、子どもにはモノで解決するという価値観を知らず知らずのうちに植えつけているのかもと、おとーちゃんさんの今回の記事を読んで思いました。
私は、前回のコメントの内容からは子どもにバンバンモノを与える親のように思われるかもしれませんが、実際はむしろ与えなさすぎる自分の気持ちを吟味して、与えるように頑張っているような状態です。結局、やはり親からの価値観を自分も再現してしまっていることを自覚するからです。
親から受けた愛情(絵本、工作、食事など)はそのままに、おとーちゃんさんの言われる親子のベターをすり合わせる、ということを心がけていきたいものです。
ただやはり、私はいくら親が子のことを考えてあげた上でのことで、かつ子が大人になった時にその気持ちに気付いて納得・理解したとしても、「モノ(やテレビなどの情報)が他の子よりかなり少ない場合はかわいそうだ」とも感じます。なぜなら、親が発信した価値観を子が納得して受け止めているように見えても、特に小さいうちは親の喜び=子の喜び、長じて親の価値観=子の価値観、のように親子の気持ちや考えが同化しているように思うからです。もちろん、その状態があるからこそ、子どもが自分の価値観を培っていけることは否定しません。しかし、子どもが果たして本当に納得しているのか、それとも親が満足しているから自分もそう思い込んでいるのか、子ども本人にとってもあいまいな状態でもあると思うのです。
どなたかのコメントにありましたが、私の親も「他の人と違っていても、自分がいいと思えば気にしない強さを身につけてほしい」とよく言っていました。私には辛い言葉でした。それは、友達のものが羨ましかったり同じにしたかったとしても、それを口にするのを許さない言葉だったからです。
小学生のころとんねるずのバラエティ(仮面のりだーとかそんなのです。歳がばれますね)がはやっていて、みんなそれを話題にしていて、私は見てみたくてたまらなかったけど、くだらないからと許されていませんでした。しかし、同い年の私の夫にその話をしたところ「おれは見てたけど、面白いとは全然思わなかったよ。だから見なくなったよ」と言っていました。人と違っていても平気だという強さは、このように生まれるのではないでしょうか。
おとーちゃんさんの記事とだいぶ趣旨は変わってしまいましたが、元の記事に「子どもにはなるべくモノなどは少な目に」という方が多かったので、そのように育って大人になった自分の体験を書かせていただきました。みんながみんな、私のように思うわけではもちろんないですが、ぜひ参考にしていただいて、子育ての一助にしていただければ幸いです。
No title
以前、4/15の記事のコメントで、戦隊もののアイテムが300円くらいでどこでも売っていて、買い物に行くたびに買ってしまうこと、息子の欲しがり方が中毒的で心配だといったことを相談したことがありました。
その節は、お忙しい中返事をいただいたにもかかわらず、
アドバイスを消化しきれず、すぐには答えが出ず、お礼を書かなくてはと思いながら、なんと書いていいのか分からずに書けずじまいになってしまっていました。申し訳ありませんでした。
ただ、過去のおとーちゃんさんのブログにあったように、
思考停止にだけは陥らないように、いろいろ考えすぎて頭がごちゃごちゃになって、面倒になっても、考えることから逃げることだけはしないように、そこだけは踏ん張ってきました。
それから5カ月がたち、結論としては、戦隊ものは今でもみています。が、買い物にいくたびにおもちゃをねだるようなこともなく、我慢も覚え、買ったものは大切にできるようになってきました。(できないときもありますが)
いま思えば、あのときは、下の子が生まれてすぐ転勤、長い春休みで不規則な生活と、買い物に毎回子供が一緒だったことなどがあって、
原因は「TV番組のせい」ではなく、我が家にありました。
幼稚園が始まったりして、ほかのものに興味が向いたり、私も買い物に行く時間を気をつけたりしているうちに、少しずつ正常な状態(我が家なりの)に戻った気がします。戦隊ものは親も納得した上で見続けていますが、他の遊びも忙しいので、それ自体の時間は減りました。
でもその問題が発生して、悩んだことで、いろいろ向き合うことができました。
子供の気持ちを汲むことも大事、でも時には親は理由を説明できなくてもダメなものはダメ!と言っていいのだとか、
ものを買うことについて我が家はどこのラインにするのか、ものとの付き合いをどう伝えていくのか…
なんだかいままであいまいにしていたことにぶつかり、
壁を一つ越えたような気がします。そして親が変わって子供も変った気がします。
親は葛藤して、自分と、自分の過去と戦って、子供を思い、その家のルールを決めていくって、本当に大変だけど、こうやって「いちいち悩むこと、自分なりの答えを出すこと」ができていれば、なんとかなるかなっていう気もします。
おとーちゃんさんのお返事にも「親として子供にどうしていきたいかときちんと明確にビジョンをもつこと」とありました。
いまさらになりましたが、本当にありがとうございました。
余談になりますが、以前、幼稚園にお弁当を持っていくのに「フォークやスプーンのセットではなく、はしだけのものがいい」といいだすので、その通りにしたら、お弁当を包んだ結び目に、はし箱を挿して「ほかの子がこうやっいたからやりたかった」と言うので、思わずかわいいなぁと笑ってしまいました。ときどき、そういった変なことに憧れをもって帰ってきます。
ほかの子のマネがしたい、みんなで同じ楽しみを共有したいというのは、それ自体は子供らしい感情なんだろうなぁと思います。それが競争心などにもつながっていくのかなぁと。
みんなとまったく同じにはできなんだよ、と、つたない説明をしつつ、できることはしてあげることもあります。「親が自分の話を聞いて、そうしてくれた」という経験もあってもいいな、と思うからです。
バランス、ですかね!
長文すみませんでした。
いつも参考にさせてもらってます
私はゲームやカップめんは禁止で育ち、辛い時代でしたが、今は感謝してます。
カップ麺は今だに食べませんが息子はゲーム沢山もってます。
ナイフは危ないから見せない!育て方をされましたが、私は子供には、ナイフを見せてもこれは料理をするためだけに使うのよと理解させたいと思ってます(^^
おとーちゃんさんに比べたら知識も何もかも足りませので、ゲームの話のときは旦那にも読んでもらい二人で反省したりもしてました
キャラクターもアンパンマンもテレビも見せてます。
これはこれ、本当に人を叩いたりしてはいけない事を伝えればいいかなと…
幸いにも二人とも暴力ふるうことはなかったですが、長男は今だに友達とよく口喧嘩します。
ですがすぐ仲直りして逆に仲良くなったりもします。
おとーちゃんさんの考えや意見を参考にしつつ、自分は自分でこれからも緩い子育て頑張っていきます。
育て方はイマイチだったなと自分でも思ってますが、息子もサッカーに目覚めゲームをセーブできるようになりました。
なんとかなるもんですね(^_^;
はじめまして
私自身、『弱い大人』であり、子供に対して『過干渉、過保護』でした。自分が治さないと行けないところが分かり、気を付けることが出来るようになったと思っています。(まだまだ出来ないことも多いですが)また、自分がしてきた関わりが、間違ってはいなかった。子供にいい影響になっていたのだなぁーよかった!と自信を持てることもあり、嬉しくもなりました。(絵本を毎日読む、こちょこちょ、大好きと伝えるなどは産まれてから、毎日していました)今、一歳九ヶ月になる息子は、今思えば、もともと良く笑い、優しい子だったのに、私は良く周りと比較したり、出来ていないことに悩んだり(体の成長も言葉も比較的早いほうであっても)していました。それで、イライラしたり残念がってみたり。今思うと、息子にとても可愛そうなことをしていました。周りから、『おっぱい離さないと恥ずかしいよ、母親の責任だよ』『げんこつの一つくらいはしないと子供は言うこと聞かないよ!特に男の子は』なんて言われ、こんなに大好きなおっぱいを無理矢理離さないといけないのだろうか。げんこつは出来ないにしても、やはり怒って言い聞かせなくてはいけないのだろうかと悩むことが多かったです。子育てをどのようにしていけばいいかブレブレでした。そもそも、息子が産まれてから『えぇ?!子育てってこんなに大変なの?!知らなかった!そんなこと誰も教えてくれなかったじゃない!これからどうしていけばいいの?!』と戸惑いからはじまりました。情けないですが(笑)
しかし、おとーちゃんさんのブログに出合って、この育児・関わりがしたいと思い、今は育児がとっても楽しいです。子供とは、以前より心が通じている気がしますし、すごい成長を見せています。本当です。なにより、こんなにかわいい子はいないと思えるようになりました。
周りには、色々言われても、はっきり反論できる知識も伝える能力もないので(笑)『そうだよねー』と流すようにしています。と、今回のテーマと全然違う内容ですみませんでした。
今保育園で大好きなお友達がいるのですが、その子に寝かしつけのトントンをしたり、おでこにお休みのチュウをしたりするそうです。泣いている子がいると、『はいどーぞ』とオモチャを持ってきたり、優しく育つことができているのかなぁーと思っています。って、親バカ話で終わってすみません(笑)これからも、ブログ楽しみにしています!
ありがとうございます
おとーちゃんさんのブログを読んだり、いろいろ考えて、
やはり娘に愛情が不足していたと思ったので、
愛情注入作戦を決行しました。お陰さまで、
みごと、大成功!!
その後も、楽しく幼稚園に通っています。
1回で、こんなにうまくいくとは思ってませんでしたが、
本当にありがたかったです。
これからも、愛情が伝わっているかよくよく気をつけて、
子どもを見守って生きたいと思います。
詳しい経過は、ブログに掲載しましたので、
念のため、報告代わりにお知らせいたします。
いつも本当に感謝しています。
http://nonoka0716.blog9.fc2.com/blog-entry-100.html
いつも拝見していますが、おとーちゃんさんの言っていることはわかるのですが、具体例をいただけるとより理解しやすいです。
お願いします!
記事にして下さい!よろしくお願いします!
マロンさん
ただ単に野放しになっているだけのところから、きちんとした目的意識のもとに綿密な配慮や設定のもとに行っているところ。
>自由保育は小学校に上がってからウロウロ歩いたり落ち着きがない子が目立つと聞きました。
「自由保育」だからこのようになるということは全くありません。
それは自由保育という方法に原因があるのではなく、その保育内容の内実に問題があったり、そもそもそれ以前の家庭の養育のあり方や、発達状況などに要因があると思われます。
>小一プロブレムなど色々気になります。
昨今の学習困難などのこういった様子というのは、幼稚園などよりも家庭環境や母子関係などのもっと根本的なところに原因があることのほうが圧倒的に多いことです。
日々のことですので、通いやすさというのもけっこう大事なポイントでもあります。
また、同じ小学校にいく子という点では、あればあったでいいけれども、別にそういう友達がいなくとも小学校に入ってから普通に友達はできるのでさほど気にしなくてもいいとも思いますよ。
takeさん
いまの祖父母世代はそのころのお年寄りの子供に当たる人たちです。
一体どうして針が真逆から真逆へふっきれてしまったのでしょう。
戦争や貧しさでモノのなかった時代と、その後の豊かになりモノが豊富に溢れてきた時代。
いまの祖父母世代も幼少期はモノがなかったという人たちもおりその反動で、モノの豊かさというものにこだわってしまうのかもしれません。
こういう祖父母の世代のモノでスポイルするという行動は、モノへの価値観とは別に「愛情の示し方がわからない」ということもあるのかもしれません。
かつての日本の価値観では、愛情を直接に示すことを恥ずかしいことと考えてきましたので、ただ普通に可愛がればいいところをそれができずに、モノを与えることで示すことしかできない人が、この祖父母世代のなかにはおおいのかもという気がします。
アビ子さん
人にもよるのですが、ときどき効果があるのが、こちらから買って欲しいものを指定してしまうというのがあります。
自分ではちょっと手が出ないような、良質な遊具など、「これが子供のためにいいので、もし機会があったらお願いします」のように、それとなく振っておくことで、両者の満足のいく着地点を見つけられたということもありますよ。
昔はものを大事にするというのを伝えるのはお年寄りの役目だったのですけどねー。
さちこさん
あれをきっかけにいろいろと考えさせられましたので。
ともかくも、家庭での親子の着地点がつかめてよかったですね。
子供がだんだん成長してくると、やはりそういった問題は多くなってくるのだと思います。
こういうときに大事になるのは、親の子供への思いが子供にきちんと伝わるかどうかという点が大きいのではないかと感じます。
子は親への信頼感があって、親が自分への思いゆえにいろいろと考えてくれているということがわかれば、事象的な問題にはきっと落としどころが見つかるのではないかと思います。
そうままさん
「子供が可愛いと思えている」その一点で大きな分かれ目がでてきます。
つまりは、「親バカ」が一番ということですよね。
子育てをいいものだと思ってくれる人が増えてくれるのが僕の何よりの喜びです。
わざわざコメントくださって本当にありがとう。
これまでこのブログを書いてきて良かったと思うことができます。
実は・・・
確か以前おとーちゃんさんが記事かコメントに上げていたので「この手があった」と思ったのですが、うちの義父には通じませんでした(;_;)
おもちゃ屋に行ったときブリオのレールセットのサンプルがあったので「木のおもちゃって子供のためにはいいんですよねー」って振ったら「こんな音もならないのはつまらん」と一蹴。そして値段見て「たいしたものでもないのにこんなにするのか!もっと楽しいおもちゃじいじが見つけて買ってあげるからね」と・・・そして「こんなの親の自己満足だ、子供が本当に欲しいおもちゃはこんなのじゃないんだ」と何故か説教された私。もうどこから突っ込んだらいいのやら・・・
とにかく自分が選びたい、そして孫自らが欲しがるものは何でも買い与えたいと。姪の時はまさしく「おもちゃでいっぱいの部屋」でした。
昨日も散歩に行くと言って近所のおもちゃ屋に連れていき、ド派手な三輪車に乗せて帰ってきました。息子が気に入って降りたがらなかった三輪車がたまたま現品販売で、そのまま買ってしまったようです。三輪車は近くお下がりをもらう予定でそのことは伝えてあったのですが、再度それを言っても「これが欲しかったんだからいいんだよね」「2台あっても困らないだろ」と。義母と主人はそれを見て「しょうがないじいじだねぇ」と笑うだけ。
息子一歳五ヶ月、そろそろ本気で手を打たないとと焦る今日この頃です。
こんな義父とお互いが納得出来る着地点を見つけられる日がくるのでしょうか・・・
No title
今回のテーマは私も日々考えていたことなので、改めて考えさせられました。私もうちはうち、よそはよそという方針を持ってはいますが、子どもが大きくなって、いざ「お友達が持っているからほしい」と言われたらどうしようかと悩むところです。特に、主人はゲーム人間で、主人の実家もほしいものはなんでも与える方針なので、私が与えたくないと思っても、主人の実家からは遅かれ早かれ与えられると思いますが、おばあちゃんちでなら遊んでもいいとしようかと考えています。
親や祖父母が、子どもにモノを与えないとつらい、かわいそうと考えるのは、自分自身がモノがないとつらいと思うからじゃないか思います。特に日本は、人と違うことがあまりいいことでないという価値観がありますし、学校でも、会社でも、ママ友の間でも、みんな持ってるのに私は持っていない、みんなやってるのに、私はやっていないといって気にやんだり、自分を可哀そうだと思う風潮があると思います。
そんな私はというと、また同じように周りに流されていると思います。私自身は、物欲は少ないほうで、携帯でも洋服でも、はやりに流されたりすることはなかったのですが、子育てになるとまた別で、うちの子は3歳半にもなるのにまだおむつが取れていないとか、気に病んだりしています。
何が大切で、何が自分にとって、またわが子にとって必要なものかと見極めるのは、難しいなと日々考えています。
長くなってしまいました。すみません。
はじめまして。
長女がつい先日4歳、長男はもうすぐ2歳になります。
我が家は隣が旦那の実家で、義母がお菓子をすぐに与えてしまい今現在かなり困っています。
チョコも1歳半でバリバリ与えていました。
私はチョコは物心つくまであげないと決めていたので3歳ごろまであげなかったのですが、チョコを食べたい攻撃を1年半もくらいノイローゼになりそうでした。
呪文のように毎日30分チョコ食べたいって言うんです。
最近はお菓子食べたいがためにおばーちゃん家に行きたいと呪文を唱えます。ノイローゼになりそうです。
義母を説得したいんですがいまだにできず、先日も勝手にうちではまだあげてない炭酸ジュースを飲ませたようです。
1歳でチョコを与えることがこれほど大きな弊害になるとは当時思ってもみなかったです。
最近はいろいろおもちゃをすぐに買ってあげているようです。
そうなることでの弊害をぜひとも教えて頂きたいです(涙)
あと余談ですが、我が家の長女は一度幼稚園に入りましたが
あまりに利益のことしか考えてない幼稚園だったので7月に辞めました。
おとーちゃんさんがおっしゃる通りに営利目的の幼稚園・保育園というのはこどものことは二の次になってしまう園が多くなると思います。
その幼稚園はこども園になったばかりで手作り給食がいいと思ったのですが、野菜は中国産のものを使っていて・・・今どきスーパーでもあんまり売ってない気がします。
・・・というわけで我が家も年中から再度入園することにし、おとーちゃんさんのブログを読みお勉強系ではなく、のびのびとした幼稚園に願書を先日出してきました。
今度は失敗じゃないと思います。
最近思うことは、昔ながらの育児が一番いいなと思います。
もう高度成長期より前のです。戦前とか。
こどもを産んでから育児について育児書などいろいろ読み漁りましたが、おとーちゃんさんのブログさえ読んでおけばよかったと思います。
無駄な努力をしてしまった気がします。
脱線してすみません。
せひとも弊害についての記事よろしくお願いします!
アピ子さん
価値観の違いというのを乗り越えるのは、なかなかに難しいことですよね。
日本の子供文化のなかには、「子供に良いものを大人が吟味して与える」という考え方が小さくて、「子供が欲しいものを与える」というのがとても大きくあるようです。
なので、メーカーも子供がよりよく遊べるものを作るよりも、欲しがるように作られたものを売り出すようになってしまっています。
なので、「子供がほしがる」というのは、裏返せば単に「欲しがるように作られた」だけのものでしかないということも多いです。
もうひとつは、「知育」などの教育的要素を盛り込んで今度は、「大人がほしがる・与えたがる」というものを作って売るという流れもあります。
なので、僕はこの知育系の玩具というのも、本質的には必ずしも子供の遊びを深めることにはならないのであまり好きではないのですが、アピ子さんのところのような状況でしたら、知育系のものでおじいちゃんを誘導して、多少はましな状況を目指してみるという手もありかもしれませんね。
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私は四人兄弟で、父母も食に厳しくて食べ物系をたくさん我慢して育ちました。マックやインスタント焼きそばを食べたのは10歳をすぎてから。お金がないので市販のお菓子は滅多に食べれませんでした。
でも、自分が子どもを育てて、自分の母は、もちろんお金の面もあるけども、私たち兄弟の体を思ってきっと苦しみながら我慢させてたんだろうなあ。と最近思えるようになりました。
で、自分の子には、、、というと、おもちゃも子供用ジュースなんかも自分がいいと思えば、買ってます。
お父ちゃんのブログを見て色々理想の子育てを夢見てしまうけども、私はお父ちゃんさんではないし、私の息子もわたくんやむーちゃんではないから、参考にはして、自分なりの子育てをいつも模索します。
でも、お父ちゃんのブログを見て、何をしてても、子供をちゃんと一人の人間として、愛情をもって誠実に向き合えばよいのだあ。そうすれば、間違ってもあとで、修正できるのだな。と思ったので、理想の子育てはできなくても、それだけは、くじけるときもありますがやって行こうと思います。
自分ばなしで恐縮です。
先日、息子が一歳半とコメントに書きましたら、お父ちゃんさんから、よちよち歩きかなと、お返事をいただきましたが、、、10ヶ月から歩き出し、怖いものを知らない息子は、今は家を出れば走り続けます。こちらが小走りで追いかける感じです。階段は登りは手を使いません。さらには物を持ったまま、手を使わず登ろうなんてチャレンジャーしてます。
滑り台なんかもゆうに2mはあるのを、ガンガン登りまくり滑りまくり。
人差し指をつかんで並んで歩いてくれたのは、一回で数秒でした。
将来金メダルでもとってくれるだらうか、なんて考えたりしてます。
いつか、並んでゆっくり歩くのを夢見て、、、。
ではまた、失礼します。