モノとこころ - 2013.09.29 Sun
かつての日本の文化・子育ての教訓の中には、モノに対する戒めというのがたくさんありました。
「ご飯粒を残すと目がつぶれる」「食べ物を粗末にするとバチが当たる」「モノには魂が宿っている」「無駄にすると化けて出る」
「付喪神・九十九髪」(つくもがみ)などといった考え方もその類型といえるでしょう。
また、各地に「針供養」「箸供養」などのモノに霊的なものを認めて祀るという習慣ものこっています。
近いところでは「もったいないお化け」のお話などもありましたね。
元は日本語である「MOTTAINAI」をキーワードに、リサイクルとそれの地域産業化を提唱してノーベル平和賞をケニアのワンガリ・マータイさんが受賞したころ、残念なことに日本ではすでに「もったいない」はあまり使われない消費社会・浪費社会になっていました。
子育ての中で家庭で、モノを大切にすることをことさら重視して子供に伝えているうちというのは、僕の経験の中ではあまり見られなくなってきています。
むしろ今の子供たちは、過剰なほどのモノを与えられつつ育っていると思います。
そういうなかで多くの子供たちを見てきて、モノと心の育ちに関連があることをしばしば感じさせられます。
ただ、このことはあくまで僕の主観でしかないので、それが確実に正しいかどうかというのはわかりません。
なぜそう感じるかと言えば、大勢の子供の中で、モノを大切にできる子と、そうでない子の比較ができるからです。
モノを大切にしない子の中にもいろいろあります。
単になんでも豊富にお菓子やおもちゃなどを与えられるだけの子もいれば、親が手をかけない代わりにモノを与えられることでごまかされてきてしまった子、過剰な早期教育などの頑張りに対してモノでバランスをとってこられた子、などなど。
そういった子供たちの姿から、モノと心の育ちになんらかの関連があることに気づかされます。
昔からのモノに対する戒めがたくさんあるように、このことはなにも僕の発見というものでなくおそらく当たり前のことなのでしょう。
でも、かつての当たり前も現在では必ずしもそうではなくなっています。
なので、僕が感じたことをこうして書いておくこともなにがしかの意味があるでしょう。
モノと心の育ちといっても、たくさんの切り口があります。
全部こと細かに書くのは大変なので、大まかなところだけ簡単な子供たちの姿とともに書いていきます。
多くの人が子供に優しい人になって欲しいと望みます。
この「優しさ」ということもモノの扱いと関わってくると僕は感じます。
モノを大事にできない子は、モノを大事にできる子に比べて、なかなか他者に優しい関わりを見せられません。
モノを大事にしない子は優しくならないということではないですが、モノを大切にできる心が育っている子の方が、よほど他者を思いやったりする心を持ちやすい、もしくは表しやすいということを感じます。
よく小さい子は、モノや虫・花・小さな生き物などに対して擬人化をしますよね。
子供のこういう姿を「幼い・子供っぽい」と捉えて、そこからの脱却を成長として求める人もいますが、僕はこういう子供らしい心の動きというのはとても大切なものだと思います。
僕はしばしば社会性としての対人関係がはじまるのが3歳くらいからで、4歳くらいからそれが本格化していくと述べていますが、もしかすると子供はそれ以前の時のモノに対する扱いをモデルとして人間関係をまなんでいるのかもしれませんね。
「喜び・感受性・満足」こういったところでもモノとの関わりを感じます。
一時預かりで男の子二人の兄弟を預かりました。
食べ物飲み物は各自で用意して持参なのですが、その家庭は食事の時の飲み物として甘い加工乳、通常の水分補給用としてジュースを数本持ってきてしました。
つまり、飲み物が全部ジュース類なのです。
ほかの一時預かりでもジュース類を持ってくる家庭はありますが、それでも通常の水分補給用には麦茶や水などを持ってくる家庭がほとんどです。
こういうところに預けられるから特別にジュースをたくさん入れてくれたのかなとも考えましたが、その子供たちに聞いてみると、普段もジュースばかり飲んでいるとのこと。
保育中も、それこそ水のようにジュースを飲むのですよね。
我が家ではジュースなどは普段からあまり飲まないので、出かけたときやイベントのときなどの楽しみになっていて、そこには喜びや満足があるのですが、この兄弟にとってはジュースは本当に水替わりなので取り立てて、うれしさも満足もありません。
ジュースだけの話で終われば、まあさしてなにほどもないかもしれませんが、最近の子供たちを見ていて感じるのは「感動」のなさです。
なにごとかがあっても「心が動かない」子が多くなっているように思います。
子供が乳児のような小さいうちはそれほど顕著でもないですが、年中年長くらいのある程度の年齢になってくると、次から次へとモノを与えられて育った子供の中には、ちょっとしたことでは関心を示さなくなってしまうという子供がしばしばいます。
例えば、花が咲いていたり、そこで虫が蜜を吸っていたりということを見ても、それをなんとも心に留め置かないのです。
「ほら、蝶がストローのばして蜜飲んでいるよ」ということを伝えても、そこに関心を示さないのです。
先日子供会のバスハイクで大洗水族館に行ってきました。
震災の津波の影響で被害を被っていたので、震災後休館して改装、リニューアルしました。
昨今の流行りの動態展示を取り入れていたり、水槽に仕掛けられたカメラを子供が操作して観察できるなどの新しい仕掛けが随所にあってとても楽しめます。
イルカがジャンプするところの水槽がガラス張りになっていて、そこが眺められたりもするんですよ。
すごい迫力です。
しかし、子供たちはイルカショーなどが終わってしまうと、魚のいる水槽はほとんど流して見るだけ、30分もしないうちに、多くの子がベンチに座って持参のゲーム機で遊び始めたり、お土産の売店やゲームコーナーに行ってしまい、最後まで魚を見ていたのはうちの兄妹だけでした。
このような「心の動き」「興味・関心」にまつわるようなことが近年とてもひっかかります。
もちろん、モノだけが原因ではないでしょうけれども、モノが影響していることは確かにあると思います。
ある5歳女児。
家庭での受容や、自己肯定感の形成があまりうまくいっていない子で、しばしば他児に意地悪な言い方をしたり、他児に命令やひねた言動をすることがあり気になっている子。
あるときこの子がビーズ差しをして遊んでいました。
突起のある盤にちくわ状のビーズをさしてかたちを作る遊びです。
離れたところから観察していると、たしかにそれに集中してよく遊んでいました。
つまんだビーズが指から落ちて、体にぶつかりながら床に落ちていきました。
その子はその落ちていく様子を目で追っていたのです。
でも、その後なんのリアクションもありませんでした。
たいていの子供は、この同じ場面でビーズを拾いに行きます。
モノを大切にする気持ちがどうかという話ではなくて、注意がそちらに強く惹きつけられてしまうからです。
この女の子は、そこでなんの心の動きもなかったような感じでした。
心が動かないという状況になってしまった子供は、とてもアプローチが難しくなります。
褒めたり認めたりといったプラスの関わりをしても、なかなか響かなくなってしまうのです。
この子はまさにそうなってしまっていました。
僕には、そういった心がこわばってしまった姿の現れとして、このビーズ遊びの場面が強く印象に残っています。
長くなってしまったので今回はここまで。
今書いているテーマが多くなってしまったので、続きはちょっと未定です。
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● COMMENT ●
考えさせられます。
慣れてはいても子供も寂しい顔を一瞬することがあります。
でもやはり子供の為強い気持ちを持ちます。
子供が今後どんな人間に育っていくかは誰にも分かりません、これで良いのか不安になることもあります。
○○ちゃんは、何でも買ってもらえていいなと言われたこともあります。
モノではなく、沢山の楽しい思い出を作ってあげたり愛情を注いでいきたいです。
でも降園後、公園で毎日二時間以上虫取りをする娘は頼もしいです。
いろんなことに興味を持ち、小さなことに幸せを感じられる人になって欲しい。
同世代でも定職に就いていなかったり、
向上心のない人は学歴があっても裕福な家庭で育った人が多い気がします。
親に何でも買ってもらえてた人は(やっぱりうらやましかったけど)、氷河期にも関わらず就職活動すらまともにしてませんでした。
心が動くということ。
この記事を読んで思い当たる、うちの子の「なんだかいい感じ発言」があります。
つい昨日のことです。
7歳の長男と、少し離れた公園に自転車で行きました。
下の子を家に置いて、めったにない二人だけの外出でした。
いく途中、歩道沿いに長く花壇があって花がきれいに咲いていました。
それをみて息子は「へー、こんなところあったんだ。」と言いました。
帰る道を息子の好きな方に行こう、と言ったら「おはなのあるみちをいきたい。」と言います。
花びらが黄色で下の一段だけ濃い茶色のマリーゴールドをみて
「たんぽぽが、ちょうねくたいしてる。」と言いました。
(直前に花の名前はマリーゴールドと教えたのですが
たんぽぽに似てるからたんぽぽと表現したのだと思います。)
男の子なのでそのうちこういうことも言わなくなるのだろうなと思うのですが
いつまでもそんなやさしい目を持っていてほしいなと思いました。
おとーちゃんさんのブログに影響を受けてからのうちの方針ですが
・おもちゃは親がいいと思ったものを自信をもって選ぶ
・でもあまりこだわりすぎない
です。
「(テレビ)ゲームなんて、ずっといらない!」と言っていますが、いい子になりすぎて無理してるのでなければいいな・・・と思います。
懐かしいです。
工夫の余地と知的好奇心
モノを与える事(安易に取り除く事も含め)によって、工夫の余地が奪われるのかなーと感じました。以前、公共施設でクリスマスツリーが隔離されていました。触らないよう注意喚起する様子もなく。モノを介在させて問題を回避する事、モノを安易に取り除く事によって問題を回避する事。説明する事や、工夫を凝らす事を怠ってはなかったかなー?と疑問に思いました。
どうしてダメなんだろう?なぜ危ないのだろう?子供の心に湧く疑問に、きちんと説明をすること、一緒になって考える事で、知的好奇心までも育まれるのではないかな?と思いました。
説明ができずすぐに怒鳴りつけたり、物で紛らわせたり。余裕のある時は、私自身も気を付けたい、と強く思いました。
おとーちゃんさんが考える事が好きだから、わたくんとむーちゃんも、知的好奇心がいっぱい芽生えているのでしょうね!ステキです♪満たされている子の話を読むと、心がほっこりします。
miyuriさん
いつまでもそんなやさしい目を持っていてほしいなと思いました。
そういう感性を持っているというのはとても素晴らしいことだと思います。
たしかに消えてしまうかもしれないけど、消えてしまうからこそ、それがもてている今が大切なのでしょうね。
また、そういった感性の芽というのは、ずっと大人になってからまた芽吹いたりもするのだと思います。
>いい子になりすぎて無理してるのでなければいいな・・・と思います。
これは僕も素直すぎる子や、自分の息子を見ていて感じることです。
でも、抑圧されてそう思わされているのでなければ、きっとそれは自分の中でだんだんと折り合いのつけられることだと思っています。
そよかぜ号さん
本当に子供に繰り返してしまう人は、その問題自体(特に自分の)に気がつくこともないですからね。
無理せず子育てが楽しめるようになるといいですね。
はるママさん
おそらくは子供の姿がいろいろと難しくなっているのは、大人や社会がいろいろと変わってきたことの結果なのだろうと思います。
そういう現代に直面して大人も変わっていかなければならないのだと感じています。
ほんとうは大人がリードしているべきことだから、今の日本は大人の対応の方が後手に回ってしまっている状況です。
でも、後手だとしてもそのことに取り組んで、なにも変わらないよりはずっとましなのだと思います。
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我が家のキッチンに取り付けられた柵を見て、私の祖母に「こんな便利な物、昔はなかったよー」と言われました。その後、私の息子は炊飯器から上がる蒸気に手を近付けて、軽くやけどするのですが、それから一切キッチンには近付かなくなりました。危険を避ける為に取り付けた柵。だけど、「言い聞かすこと」を怠っていた為に起きた事故でした。
育児に、モノを上手に取り入れたいです。モノを与える前に、色々な選択肢を持てる親でありたいと思います。そして、選択肢から選ぶ心の余裕も。モノを取り入れる事で、失われたコミュニケーションはないだろうか?と、たくさんの事を考えさせられました。ありがとうございます。