大人と子供の位置 Vol.1 《やさしさ保育園とさばさば保育園の記事・コメントを読み返してみて》 - 2014.03.23 Sun
順番に返信しておりますが、この頃は2週間遅れくらいになってしまっています。
コメントをいただけると更新のモチベーションになるのでとてもありがたいのですが、何分にも筆が遅いものですからはかばかしくなく、皆様にはご迷惑おかけします。
今ちょうど、『やさしさ保育園とさばさば保育園』『Vol.2』の記事のあたりのコメントのところまで進みましたので、コメントと共に記事を読み返していました。
文中での「やさしさ風味の関わり」というのが、子供に対してとるべきよい関わり方なのだと認識していた方や、ごまかしたりおだてたりによって子供を誘導していくのが当然であるとか、それを上手にすることがいいというように思っていたとか、そういう人が周りに多いなどというコメントもありました。
こういった「やさしさ風味」の関わりが子供に対する基本的態度になってしまっている人は、僕の周りにもたくさんいます。
保育士にもいないわけではありません。
こういった関わり方の源流はどこなのかたどってみると、どうも高度経済成長期を迎えさらなる都市化・核家族化が進んできた頃に、そこにおける家庭のありかた・家族観というものがそれまでとは大きく変わってきたこの頃。
以前紹介したこともある、
『<現代家族>の誕生 ―幻想系家族論の死―』 岩村 暢子 著
こちらの本でもそれが触れられていましたが、このころから料理や子育てというものが、流行に大きく振り回されるようになり、またそれまでの古いものが劣るもので新しいものが良いものであるという風潮もでてきています。
子供に対する見方、家族の中での位置関係というものも、このあたりを境に変化が起こっているようです。
それはいい面もあり、悪い面もあるように感じます。
子供というものを尊重するような雰囲気というものも生まれて来てもいるのですが、「子供の尊重」という皮をかぶりつつ、どこかその形もその時代の向きに合わせたいびつなものであるような気がします。
うまく言えませんが例えば、「○○ちゃんは家の手伝いなんかしなくていいから、お勉強がんばっていればいいですからね」というような。
最近ようやく文科省も漢字の「子供」に戻しましたが、「コドモ」の表記を「子供の尊重」という理屈で「子ども」表記に変えるといった中身のない、わけのわからない方向での「尊重」が出てきたのもこの時代です。
叱ること・怒ることがよろしくないのでないかというような考え方が広まってきたのも、どうもこのあたりからです。
「子供」というものを「尊重する」「大切にする」というお題目のもとに、新たな子供観・子育て観というものが醸成され、広まっていくのだけど、なにかそこにはき違えてしまっている、ずれてしまっている、大切なものを置いてきてしまったものがあると思います。
ひとくちでは言い表せませんが、例えば僕がこれまでに指摘した「弱い大人」の問題などにそれは顕著に見当たるのではないかと感じます。
子供はお殿様でもお客様でもありません。
もちろん、子供を虐待したり、親が子供を所有物のように扱っていいものでもありません。
そのほどのよいバランスのとれたところでの「子供観・子育て観」というものが大事なのだと思います。
しかしかの時代に、(その時代の感覚として)不当に子供が貶められていると感じた人達が、「子供あげ」を行った結果、「子供」の存在が大人の手の回りきらないところへと上がりすぎてしまい、現代に至ってそれが現実面で子育ての難しさとして現れてきてしまっているのではないかと感じるのです。
僕は「叱らなくていい子育て」というのを述べていますが、「叱らない子育て」などと聞くと「子供を叱ってはいけないのだ」と短絡的に考えてしまうというような人も珍しくありません。
子供というのは間違いも起こしますし、子供を正しく導いてあげるのはほかでもない親・大人の役目です。
そんなときには当然、叱る・怒るという選択肢だってでてくるわけです。
でも、漠然と世の中に漂う「子供を尊重する」というような感覚からなんとなく導き出されて漂っている「叱ってはいけない」というような雰囲気というようなものなどが、部分的にでも先入観として持ってしまっている人なども少なくなくて、まるで手足を縛られて子育てしているような窮屈な子育ての現状というのがあります。
一昔前によく話題になっていましたが、お隣中国で一人っ子政策の影響からその一人の子供を大事にするあまり、スポイルされわがままになりすぎて「小皇帝」(小さな皇帝のような超わがままっ子の意味)というのが社会問題化しているというのがありました。
子供への見方というのは、上がりすぎても下がりすぎてもよくないわけです。
つづく。
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● COMMENT ●
難しいことは考えず…
叱る基準
記事を読みこどもに嘘なくしっかり伝えることが大切だと思いました。
しかし、まだモヤモヤしている部分があります。「これはやって欲しくない」という基準が問題なのかなと思います。ダメなことはダメと毅然と伝える。でもダメなことが何なのかが自分にはとても難しいです。
例えば支度がやればできるのに、グズグズとやらない子がいる。私は「なぜグズグズするのか」と疑問に思いますが、ダメなことだとは思わないので、声をかけながら待っていたりするのですが、先輩からは「できるのにやらないのは違うから強く言って」とアドバイスをいただくこともあります。でも、なかなか毅然と叱ることができません。保育士向いてないのかと思ったりします。
あゆーさん
とりあえず、
>例えば支度がやればできるのに、グズグズとやらない子がいる
こういうとき。
僕は「どうしたの?」という問いかけをしてみます。
子供と保育士との間に、信頼関係ができれていれば、ここで子供に考えるというプロセスをもたせることができます。
それでどうなるかは、子供によりけり、そのときによりけりですが、最初から頭ごなしに指示をするよりはいい結果が出てくることが多いです。
>先輩からは「できるのにやらないのは違うから強く言って」とアドバイスをいただくこともあります。
新人にはある程度、子供に対して毅然とした態度でのぞめるような力をつけてもらうということはありますから、そういった指導なのかもしれませんし、そこのもともとの保育が子供に力技で従わせればよしという方針なのかは僕からはわかりません。
確かに子供は新しい大人を試したりという行動をとることがあり、それでどうしたらいいかわからなくなってしまうというのは新人が皆通る試練でもあります。
保育士に向いているか向いていないかというのは、ほんとのところは10年くらいやってみないとわからないし、少なくとも3年くらいはやってみないといろんなものは見えてこないと思いますよ。
僕自身10年以上やってもいまいち適性があるのか、ないのか自信がないもの。
保育士にもひとそれぞれ、得意分野があります。
子供を従わせるのが上手い人もいれば、そういうのは下手だけど、子供を受け止めるのはうまいという人もいます。
それでいいのだと思いますよ。
僕はピアノは下手だし、子供に芸を仕込む系の保育は壊滅的といえるくらいだけど、問題のある子・満たされていない子に居場所を作ってあげることはそれなりにできるので、それでもって保育士としてやっていけるという自信が持てます。
そんな感じで全部が全部達人でなくてもいいと思う。
長年やっていれば、苦手分野も及第点くらいにはなるものだしね。
どんな保育にしても、基礎は信頼関係だから、子供を思い通りに動かすのがまだうまくできなくても、信頼関係を築くということだけは普段から忘れないでしていくといいです。
そのためには、楽しい時にしっかりと共感し楽しむこと。
普段から子供たちをきちんと見守り、目があったら「あなたのことをちゃんと見守っていますよ」という温かい気持ちを込めて、微笑んだり、うなずいたり。
認めるとき・褒めるとき、心から喜んであげること。
そういうことを普段から積み重ねていけば、子供はその人を信頼するので、だんだんと自分でやろうとしたり、保育士の気持ちを汲んで動いてくれるようになりますよ。
ありがとうございました!
子どもを従わせられなくてダメ保育士みたいに扱われ、辛いです。2ヶ月で子どもが聞いてくれることが増えてきました。地道に信頼関係を作っていきたいです。
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自分の子供に距離感があるママさん、多いですね。