小論文 「指導」の視点と「援助」の視点 -教育現場における障がい児援助の課題- - 2014.10.21 Tue
通常、教育の現場においては「指導」という方法論によって子どもへのアプローチがなされる。
そこで行われる「指導」とは、まず到達すべき目標が設定され、個々の子どもまたは子ども集団がその目標をクリアすることを目指すものである。
その際、その子どもたち全体が均質な能力をもっていると仮定することができるのであれば、最初に決める目標の設定や子どもへの具体的なアプローチを考えることは容易である。しかし、実際には個々の子どもの能力や発達の到達点というのはばらつきがあり、子どもに対する個別的な視点・アプローチというものが要求される。
そして、もっとも個別的な視点・アプローチを要求されるもののひとつが障がいを持った子どもへの対応である。
そこでその子どもに携わる大人も障がいを持つ子どもに対しては、他の一般的な発達の進度を持った子どもと同様の「到達すべき目標」がクリアできないということは理解している。しかし、長年つねに「指導」という方法論によって子どもへの対応考えてきた多くの教育現場においては、障がい児への対応においても「指導」という方法論を用いてしまいがちである。到達すべき目標の設定においては、当然それは一般的な発達進度を持つ子どもよりも低く設定するのだが、それでも「到達すべきなにものか」を設定するという「べき論」でのアプローチとなってしまうことは避けにくい。
その障がいを持った子どもの能力の見積もりが適切で、かつその子どもが情緒や活動に「ムラ」のない子どもであれば、そのような指導によるアプローチというのも比較的たやすいが、障がいを持つ子どもにとって多くの場合そうではない。昨日できたことが今日できるとは限らないし、ある大人との間ではできることが別の大人の前でできるとも限らない。また、周囲の状況やその一日の経過によってある行動ができたり、できなかったりという「ムラ」があることが普通である。
もちろん、指導する大人も多くの場合それは理解していることである。それを踏まえ対応や短期的な目標を修正しつつ関わっていくことだろう。特に個人カリキュラムなどの文書化するような大きな目標においては、それを行うことは難しくない。
しかし、特別意識もしないような日常のこまごまとした子どもへの対応においては、この「指導」という視点だけではさまざまな齟齬を生んでしまう。
「指導」という視点に慣れてしまった大人は、無意識に「〇〇するべき」という意図を持って子どもに接していくことが習慣化してしまいやすい。それが実際にその子が達成できることばかりであれば問題はないが、それができない場合「それができなくてはいけない」「なぜできないのだ」といった否定的な見方や、大人の側の「イライラ」や「困った」という気分的な反応が出てきかねない。障がいを持った子どもの中にはこういった大人の情緒的な反応に敏感な子どもも少なくない。それはその子どもにとって、疎外感や、自己否定感、その大人との信頼関係の低下というものをもたらしてしまう。
またさらに、大人の求める行動ができない場合、さらなる強い関わりをすることによって子どもにさせようとする「〇〇するべき」のアプローチが強化されることもある。具体的には言い聞かせたり、強く言ったり、叱ったり、注意したり、場合によっては子どもに冷淡さを見せることにより疎外感を刺激して大人の思うとおりの行動をさせようとするといった関わりもある。
これらは一般的な発達具合をもった子どもには問題なく有効であっても、発達にハンデキャップを抱えている子にそのまま通じるとは限らない。その場合、引き起こされてしまうのは、その子どもと対応する大人との信頼関係の低下である。
特に、自閉的傾向を持った子どもに対して、信頼関係の低下というのは深刻な問題である。自閉的傾向を持つ子どもは、もともと他者への具体的な関わりを持つことが苦手である。他者に対して積極的な関わりを見せる範囲も、一般的な子どもに比べて著しく狭い。そういった子どもに対して信頼関係を低下させてしまうような関わりの積み重ねというのは、大人からのアプローチを非常に難しくしていってしまう対応である。
一にも二にも信頼関係を構築する関わり・関係性を積み重ねてそれが十分にできてからはじめて「〇〇するべき」的なアプローチが有効になってくる。しかし、注意すべきは一般的な子どもと違い、それが可能なのは信頼関係を十分に築いた特定の相手にまずは限られるという点である。多くの場合、信頼関係を築ける範囲というのは広くない。
職員Aとの間にできたことを、職員Bが「〇〇するべき」という「指導」的なアプローチをしてそれができないからといって、そこで職員Bが信頼関係を低下させるような対応をしてしまったら、職員Aとの間に築いてきた信頼関係も低下していきかねない。この点十分に注意すべきことである。
「指導」という観点からだけで障がいを持つ子どもと関わっていると、結果的にはその子どもを疎外したり、信頼関係を損なう関わりが導き出されやすい。
「〇〇すべきである」という意識が、「〇〇すべきことができない」という子どもの姿に直面すると、その子どもの姿から大人の方にイライラしたり否定的な感情が引き起こされたり、「できないのがよくないのだから」という意識になり無理やり力ずくで子どもを動かしたりという対応となってしまいやすいのである。
大人が物理的な力で子どもに大人の意図する行動をとらせることは、その子どもの心情や意思というものを理解しない・無視するという行為であり、大きな信頼関係の低下を引き起こしてしまう。
手首や二の腕をつかんで大人の意図する方へと引っ張っていくことなど、子どもに対して意識せずにしてしまうことが多いのだが、これは個々の援助者が十分に注意していかなければならない点である。これを普段から当たり前のこととしていては、信頼関係を必要十分なまでに高めてその後にその子の力を引き出していくという段階にはなかなかなり得ない。
◆「指導」から「援助」へ
この点を乗り越えるために必要となってくるのは、「指導」という視点の転換である。そこに代わるものは「援助」という視点になる。
最初に「〇〇すべき」という目標を置いてしまうのではなく、現状のあるがままの子どもの姿をそのまま受け入れ、そこからのアプローチを模索していくのである。「〇〇すべき」の視点を最初から導入してしまうと、そこにはそれが達成されないときの否定的な反応・感情が対応する大人に引き起こされてしまう。
考慮の結果設定するような大きな目標と違って、日常におけるさまざまな「〇〇すべき」は簡単に発達に問題を抱えている子どもの心の中に否定的な対応をされた経験を蓄積させていってしまう。
具体的に見てみる。例えば、大人がその子どもに「朝の準備を自分でするべき」という視点を持っていたとしよう。その子がそれをできてしまえばなにも問題はないが、できなかったとき繰り返し何度も「やりなさい」というアプローチを重ねたり、無意識に怒った感情をのぞかせてしまうかもしれない。またそのように強いアプローチでなくとも、「今日もやっぱりできないわね。はぁ」といった落胆の感情をのぞかせてしまうという場合もあるかもしれない。
そのような反応を子どもは敏感に察知するので、その関わりには信頼関係を損なう積み重ねはあっても、厚くすることは少ない。
「援助」の視点によって、「あるがままを許容する」という大人の姿勢から関わりを模索する場合、この「いまのところできない」もしくは「いまはやりたくない」という子どもの意思をそのまま受け止めることになる。
「いまはできないのだね。では私と一緒にやりましょう」子どもの状況によってはその大人と一緒にするということもできない場合もあるだろう、そういうときは「いまはできないのだね。では、あとでやりましょう」や、「では、私がやっておきましょう」など、そのときそのときの状況や子どもに合わせての対応でいいのである。そこには、その子どもにとって「自分のありのままの姿が受け止めてもらえた」という信頼関係の構築にプラスになる事実が残る。この小さな信頼関係の構築を大切にし、「〇〇できる」などの行動の到達点というものは信頼関係が十分構築されたあとの長期的な目標としていくことが援助の視点においては考えられている。
この際の「いまはできないのだね。では私と一緒にやりましょう」といった関わりは、「指導」という関わりのなかでもでてくるかもしれないが、「できないから仕方がないので、(一緒にやる)」というものとは決定的に違ってくる。「しかたなく許容する」のと「最初から受け入れる姿勢を持って許容する」のでは、それは援助する大人の心の持ち方のなかに大きな違いをもたらすだろう。当然、子どもの心にも違ったかたちで響いていくる。
こういったことを、「それでは子どもに日々の生活の習慣がつかない」というように短絡的に考える必要はない。発達に問題を持った子どもにとっては前述のように、情緒や行動にムラがあったり、ほんの些細な環境の変化などからやりたいと思っていてすらできないことなどが当然あるからである。(例えば朝の家庭での親からの関わりや、慣れない実習生が部屋にいる、普段と物の配置が違う、といった情緒や人的・物的環境の変化など)
また、こういった「日々の習慣」ということであっても、それらを可能にするのはそこにいる大人との信頼関係があってこそのものである。ゆえに優先すべきは短期的な「〇〇できる」ではなく、その子どもがそこにいる援助者を信頼し、その環境で安心して過ごすことができることなのである。
それら大人との信頼関係や安心して過ごせる環境というものがあってはじめて、発達に問題を抱えた子どもへのアプローチというものは可能になってくる。
実は一般的な発達具合を持った子どももこれと同様のプロセスを経てきているのである。ただ、一般的な発達具合を持った子どもは、あらかじめ広汎な大人に対する信頼感や環境に対する順応力というものを備えてきていることが多いので、この意図的に信頼関係を構築するプロセス・安心感を形成するプロセスを省略して、その次の「指導」が可能な段階にきているのである。
この特定の大人とその環境における安心感から子どもの姿・行動が導きだされるというものは、基本的には0~2歳くらいの乳児における留意点と同様のものである。
乳児への関わりにおいては「指導」という視点は少なく、「援助」というものが中心になっている。通常であれば、教育はこういった一定の地歩に到達した子どもに対して行われるので「指導」というひとつの視点からでも、さほど問題なく対応が可能である。
しかし、ここでテーマとした障がい児をはじめ、ADDやADHDなどに代表される発達障がい、またはその傾向のある子ども、いわゆるグレーゾーンと呼ばれる子ども、または家庭での生育歴により一般的な子どもに対するのとは同じようにいかない、対応に個別的な配慮の必要な子どもというのも昨今では大変増えてきている。そこにおいては、「指導」と「援助」というふたつの視点を使い分ける柔軟さが、教育現場においても求められているといえるのではないだろうか。
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● COMMENT ●
興味深い
No title
私の娘は2歳2か月。1歳半からイヤイヤが始まっていました。生まれてから今まで、子育て楽しいと思うよりも、大変という思いの方が強いです。
生後4か月くらいから、パパへの人見知りが始まり長く続きました。デリケートで慎重派、こだわりもわりと強いのではないかと思います。いつもと違う生活パターンは嫌がるので、それはそれは気をつかいながらの生活でした。今はそれは落ち着きましたが、イヤイヤが壮絶でした。
1歳8か月で転勤が重なったのもありますが、絵に描いたようなイヤイヤの毎日でした。
現在は少し落ち着きましたが、今は私のやること全てを手伝いたい様で、それ何、あれ何、貸して、の繰り返しです。
言葉は早いようで、初めて行った子育て支援センターの保育士さんに驚かれました。
今回相談させていただきたいのは、外に出たときの暴走がすごいので何か解決策はないか?という相談です。
買い物中にお店で商品をさわったり、座りこんだり、あっちに行こうと言っても言うことを聞きません。反対方向に走りまわります。駅まで歩かせるのも大変です。ベビーカーには乗ってくれません。
しまいには、パパがあまりに暴走するので、多動が何かじゃなきゃいいけど、と言いだして、私も心配になりました。
産まれてから今まで、本当に大変で、自分なりに工夫して育ててきましたが、イヤイヤがひどくここ最近はめんどくさいとかうるさいとか本人の前でよく言ってしまってます。止めなくてはと思っているのですが。
だからと言って一日中イヤイヤやっている訳ではなく穏やかな時間もあります。イヤイヤのスイッチを入れない様に気を付けているつもりですが、外では、なかなか難しいです。
いつまで、このイヤイヤが続くのかと思うと疲れてしまいます。
長々と書いてしまいましたが、もしお時間があれば、お返事いただけたらうれしいです。
No title
二つの論文についての記事を読んでから戻ってきて読むと、非常に腑に落ちました。最後のあたりとかすごく心を打たれました。
そして感想を書きたくなりました。
私自身が読解力が低いせいもあると思うので、この文章を読んで、こういう捉え方をする人もいるんだなくらいに、軽く流して下さい…。
1つの独立した論考として読ませていただいた時に、最初の「指導」についての記述が気になりました。あえて「」で単語を括っておられるので、独自の概念として指導を位置付けされていると思ったのですが、そこが曖昧なままで論考が進んでおり、読んでいて戸惑いました。
そして「指導」の概念的位置付けについての説明と、あとにその概念と対置される「援助」についての概念の説明が希薄だなと。
指導も援助も地続きであり得るところを、あえて、おとーちゃんさんが、問題意識を持たれて、そこの差異に着目しておられる。これは、乳児から幼児まで連続性を持ってお世話してきた保育士であったおとーちゃんさんだからこその、素晴らしい着眼点だと思います。そして多分、幼稚園や小学校では気が付きにくいし、その職務から培える経験では実感しにくい面があるのかなと想像しています。
そういう場合には、その独自の言葉遣いについて、その意味と、どうしてその差異に着目する必要があるのかが、最初の方に書かれていれば、意図するところが分かりやすかったのかなと思ったりしました。
そこが幼稚園や小学校のような教育機関では特に認識が希薄になりがちだから、留意が必要だという趣旨だと思うのですが、今そこの問題意識が希薄な層に伝えるための論文だからこそ、問題意識を何故持ったのか、どうしてそういう必要があると思うのかが、最初にあれば、印象が違うのかなと思いました。
従来の「指導」の説明から入ると、そこに軸足を置いておられる方が読んだ場合には、何を言いたいのかがボケてしまう気がしました。
最後の支援と指導を柔軟に使い分けるというあたりが、もっと具体的に教育関係者の心に響くといいなと、切実に思います。
なんだか、取り留めもない上に、なんだか偉そうな文章で申し訳ありません。
上の論文を批判するという意図ではありませんが、不適切であれば削除して下さい…。
いつも、おとーちゃんさんの記事を楽しみにしています。
今回のご自身の幼稚園の記事を読んでいて、おとーちゃんさんの気持ちを思うと…。
でも、一石は投じられたと思いますし、園長はともかく、園の中の誰か一人でも、何かを考えるきっかけにはなったのではないかと、そう思えます。
あまり、根を詰めずに、生活を立て直して下さいね。
応援しています!
にじさん
このことは、過去記事の『発達障がいについて考える』の一連の記事のなかである程度考え方を示していますが、「発達障がい」というものそのものがあるわけではないんですね。
実際に大きな影響がでてくるようになったものを「発達障がい」、そこまでいかないものは単なる個性の範疇というものです。
なので、発達障がいとまではいかなくとも、難しい個性を持った子、時期的に発達障がいに見られるような特徴が顕著になっているもの(加齢とともに目立たなくなる)などもあります。
こういった子供のさまざまな性質に対しては、それに合わせた対応方法をしっていることや、そういう子供の特徴というものを理解しておくことで関わりがぐっと楽になるというものもあります。
2歳2ヶ月ということですから、3歳児検診まで様子をみておいてその間、気になっていることなどピックアップしておいてその検診の際に聴いてみても良いかと思います。
もし、気になるのならば3歳児検診を待たずに発達相談なども受け付けていることと思います。
↓この本など参考になるかと思います。
「育てにくい子」と感じたときに読む本―悩み多き年齢を上手に乗り越えるためのアドバイス
佐々木 正美
長男のイヤイヤ期を思い出しました。
それはそれは壮絶な育児でした。
生後半年位からズリ這いで動き回り、
一歳を境に、家の中に有るありとあらゆる物を指差しては、あれ取れ!と指示し、
私が手に取ったものは、これ貸せ!と横取り、
スーパーでは、手の届くところに置いてある商品全てに触ったのではないかと思うほど、手を出しまくり
迷子も頻繁、
とにかく走り回り、
集中してしまうと、自分以外のものが見えないのか、物にぶつかりまくり、
目を付けたものは、絶対に手に入れるとばかりに、戸棚に付けたストッパーなども、破壊したり、あれこれいじって開けてしまったり、
危険過ぎてやらせてあげられない事の方が多く、行動を止めると、泣き叫び、
家でも外でもかなり大変でした。
そんな長男も、3歳になる頃にはそれはそれは見違える程落ち着きました。
今思えば、ただ興味が有っただけ。
触りたかった、やりたかった、
ただそれだけだったんだと。
幼稚園に入ると、そんな個性を発揮し、
生き生きとし、
小2になった今も、色々な事に興味を持ち、日々成長中。
長男が能動的なら、次男は受動的、
今現在は、長男は面倒臭くないけど、次男6歳になった今、凄く面倒臭いです。
通り過ぎて見ないとわからない事が有るのだと。
その時を大らかにやり過ごす事も必要だと悟ったつもりでしたが、今は今で、力が入って、悩んでしまう事も有るから、育児は不思議です。
No title
発達障がいの記事、拝見しました。とても参考になりました。
紹介いただいた本は1歳代のときに読んだことがあります。その頃からすでに、手のかかる育てにくいと感じていて、読んだのだと思います。
うちの子の気になる行動をピックアップして、3歳児検診で相談しては、との事ですね。
もう一度、どんな点が気になるか考えてみるとそれほど、相談するほどでもないのかなという気もしてきます。お店で反対方向に走りだすというのも、走りつつ振り返り私の顔を見ながら笑いながら走っていくので、遊んでいるつもりなのかもと最近気づきました。
でもやはり買い物はひと苦労です。
この育てにくさの原因が明確になれば少しは楽になるという逃げなのでしょうか。もう少ししっかり子どもと向き合って、がんばらなくては。子育ては上手くいかないものですね。つい回りの子と比べてしまって辛くなります。私の育て方が悪いからこんなにイヤイヤがひどいのかと思うと、更に落ち込みます。育てにくい子と思わずに育てられる日が来るように、もう少しがんばらなくてはと思います。
お忙しいところ、本当にありがとうございました。これからも参考にさせていただきたいと思います。
ともまささん
長男さんもイヤイヤが大変だったのですね。今は落ち着いてらっしゃるとのこと、もしやうちの子も今にイヤイヤが収まるのではないかと期待してしまいます。そして次男さんはまったく違う性格のとことで、兄弟でもそんなに違うのだものきっと個性ですよね。希望が持てます。コメントありがとうございます。
長男の幼少期を思い出していたら、書きたい事が溢れてきてしまい、不躾と思いつつも、おとーちゃんのブログをお借りして、書かせて頂く事にしましたm(__)m
おとーちゃん、大目に見てやって下さい。
前回、こちらの欄にコメントさせて頂いた続きです。
長男、生後半年より、やる気満々、好奇心旺盛、口も動きも止まる事を知らず、朝から晩まで気の向くままに行動し、2歳半になりイヤイヤ全開、次男1歳のヨチヨチ歩きの頃、
とうとう、その時がやって来ました!
私にも、心身ともに限界が訪れ…
ポツリポツリと出していた長男に向けられるネガティブ発言が堰を外したかのごとく溢れ出し、気持ちも抑えられなくなり、大爆発。
私は息子の両肩掴んで、今日は逃さないぞ!とばかりに、罵声を浴びせ息子を追い込んでしまいました。
すると、今まで、100%能動的だった息子がまるで別人に。
キラキラした眼差しや、茶目っ気たっぷりの笑顔、思いつくままのおしゃべりが全て消え、身体を硬くし、息子の心は闇の中に入りました。
聴こえないようで聴こえていたんだ、私の言葉。今までも今回も…
私は大変なショックを受け、幾晩も、幾晩も涙を流しました。
あんなに天真爛漫、おしゃべりだった息子なのに。言葉を出そうにも、出て来ない様子。やっと絞り出すも、どもってしまい上手くいかない。息子も戸惑いの中にいるようで、とても辛そうでした。
そして、私も自分を責め、重苦しい日々がつづきました。
自分を改め、前へ進むと決めて、
時たま一筋の光が射すも、一進一退を繰り返し、やっとの事、私達は浮かび上がる事が出来ました。期間にしたらそんなで無くても、私達には、長かった。
とても辛かったけど、現実を知るために経験しなければならなかった、通らずにはいられなかった道。
反省はするけど、後悔はしない。
出来ることは全てやったと、向き合ったと、自分を褒めるしかないと。
少し成長出来た私は自己肯定感を高めたのだと。(以前おとーちゃんの記事にありました)
皮肉にも、息子を傷付ける形でしたが。
でも、この事をプラスに向けず母がどんよりしていたら、息子も報われないと思い、私は前を向きました。
その後私は、「お母さんもピヨピヨ母だよ。一緒に成長しようね」と、以前よりは肩の力を抜いて育児して来たつもりです。
息子を尊重しようと心に決めたあの頃から5年経った今、色んな事があり、今はもっと、息子に対し、尊重モードになってます。
未来の私は、更に、息子を尊重出来ているか!
雨降って地かたまる。をくりかえし…
見ものです。
その頃ちょうど、幼稚園選びの時期でも有り、息子の良い所は行動的な所。
伸び伸び遊ばせてくれる幼稚園に入園させました。
園のママ友は、新聞に載るような凄い発明とかしそう。と、褒めなのか、どうなのか?よくわからないような事を言ってましたから、やっぱり息子は個性際立つ存在だったのでしょう。
今は小2、やりたいことやり続けたからなのか?時が過ぎたせいなのか?
なんだかんだ、収まる所に収まって来ちゃっています。
サッカー少年になり、生き生きしてます。
あの時、息子を心の闇に入れてしまう事件がなければ、きっと私は「幼稚園で矯正してもらわなきゃ!」と、厳しく躾けたり、お勉強させたりする園を選んでいた事でしょう。
実際、そんな事をおっしゃっている親御さんがおられましたので。
そしたら、現在の息子の姿は、どんなだろうな…
話は変わりますが、とっても育てやすかった次男は、6歳になった今、障子にプスッと、指を突っ込んでみたり、壁に油性ペンで落書きしてみたり、前髪をパツンとはさみで切ってみたり、炊飯器の蒸気に手を当てて、アチチなどと言っております。
確認してみたかったの〜。と。
長男1歳前には確認してたけど…
来春一年生になるんだけど大丈夫かな。
手のかかる気配を案じる母です。
にじさん
あの頃の私は悩みに悩み、心配しきり、育児は大変としか思えないかったです。
にじさんと娘さん、穏やかな時間が増えるといいですね。
お互い同志として、おとーちゃんのブログ心の支えに、がんばりましょう。
おとーちゃんさん、本当に長々と書いてしまった事、お許し下さい。
これからも、記事の更新、楽しみにしています。
冷え込んでます。どうぞご自愛を。
ともまささま
2歳5ヶ月男児の母です。
主人が子供を可愛がってくれますが、厳格なタイプで…。
仕事のストレスも抱え込んでいてイライラもあり。
息子は月齢にしては、身体も言葉もしっかししています。よく動き、よくしゃべり好奇心旺盛。
自己主張やイヤイヤも強く出てきていました。そんな息子への父からのハードルはいつの間にか、高いものに…。
ぐずりがでるときには主人の息子への対応は非常にきついものになっていきました。「受容」と「毅然とした対応」の線引きは難しいものですが、私から見て主人の対応は二歳児にはやり過ぎでした。
そんな中、主人と二人で話す機会ができたときに、ともまささんのコメント欄の話をさせてもらいました。
「両肩をつかんで追い詰めるように叱る」これはまさにその頃の主人の姿。
話を聞いた主人はしばらく固まってました…。
その後、一進一退はしてますが、主人は息子に対し、受け止めようと努力してくれてます。
やはり、経験者の言葉は重みがあります。そして、ともまささんの息子さんは現在は落ち着いて、生き生きとされているとのこと。経験者のお話は希望にもなります。
活動的な子は楽しくもありますが、大変でもありますね。好奇心旺盛のうちの息子も今のうちにいっぱいやりたいことしたら、そのうち落ち着いてくれるかな。
長い目で見ていきたいと思います。
期間限定であろういたずら妖精さんとの生活を楽しめるよう夫婦で頑張りたいと思います。
貴重な体験談ありがとうございました。
おとーちゃんさま
コメントへのコメントで大変失礼致しました。
こうままさま
こうままさん
とても素敵なご夫婦だと羨ましく思いました。
うちは、あの頃もそして今も、色んな意味で主人は置いてけぼりになっていて…私から見ると困ったものなんですが、子供にとってはその気楽さがウケている様で。私からすると、何が何だかわからない状態です。
ご主人のお子さんと真摯に向き合う姿、保育園という社会で揉まれる息子さんにとって、頼もしい背中として映っているのかな…と
そして、こうままさんからのご主人やお子さんに向けられるご配慮を
いたずら妖精さんとの生活を楽しめるよう夫婦で頑張りたいと思います。
と言うコメントから感じ、私まで暖かい気持ちに包まれました。
ご主人も仕事のストレスを抱えているとの事。うちもです。
働く人にとって優しい社会じゃないですものね。これは社会全体の問題だと思います。
お恥ずかしい体験談でしたが、こうままさんに拾っていただき救われました。ありがとうごさいました。
そして、この場をお借りしてお話できたこと、とても嬉しく思います。
おとーちゃんさん、書籍の出版を控えお忙しくされている事と、どうぞご自愛を。
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私自身、小学校の特別支援学級で支援者という形で仕事をさせていただいたことがありました。そこで感じたことは、学校では彼らに思ったような援助が出来ないという事。普通学級との交流があれば尚更です。行事も沢山あります。
朝の会までには支度を終えてなければならない。行事には参加しなければならない。自分のことは自分でしなければならない…でも、気分にムラがあったり精神的に幼ければ難しいですよね。本当であれば一緒に遊んだり本を読んだりする時間が必要なのに、最後まで自分でやらせたいがために怒って時間がかかってでも無理にさせたり…担任がそれを目標として掲げていたこともあり、その子には申し訳ないことをしたと思っています。
学校全体にこういう考え方が広がることを願っています。論文への感想なのでお返事はいりません。