ノーマリゼーション -気づこうとしなければずっと気づかないこと-vol.1 - 2014.10.25 Sat
ちょっと専門的な内容かとは思いましたが、一般の方にも広く関心を持ってもらえたことはとてもうれしいです。
早速いくつか研修等で使用したいというお申し出もいただきました。
もちろん自由に使って頂いてかまいません。その際、一応このブログからという出典の明記をお願いします。
少しでも多くの子供の健全育成のために役立ってくれれば、これにすぐる喜びはありません。
もし、どのような取り組みに利用したということを簡単にでも報告していただけましたら、僕の方としても大変参考になります。
どうか皆々様のご活躍を祈念いたします。
今回は、ノーマリゼーションの実践の実例のお話です。
子供の人権について理解して、なおかつそれを踏まえて子供への関わりの中で実践できている人や、ノーマリゼーションや多様な個性の子供を受け入れることについて理解し、さらにそれを実地にも行える人というのはそう多くはありません。(僕の知っている限りでは、理屈や言葉で知っている人はたくさんいます。しかしそれを本当に自分のものとして身につけて、実践できる人はとても少ないです。それを他者に伝えたり教えることのできる人はさらに少ないです。特に保育士は研究発表などする機会もほとんどないですから、その人固有の職人芸的なものとして埋もれていってしまいがちです)
これらは経験も知識も問題意識も豊富に必要で、確かに簡単なことではないからです。
ですので、現場の人間もこういったことの成功例というのをあまり目にすることができません。
また、目にしたとしても、それがその養育者の手腕によるものだということがなかなか理解されません。たまたまそこの子供たちが「良くできた子だったのだ」というように見られてしまうことも多いからです。問題意識が低ければ、そこでの取り組みを観察し評価し、自分のものとする視点も少ないですからそれは余計にそうなってしまいます。
僕自身も、こういったノーマリゼーションのひとつの到達点に達していると見えた例はそう多くはありません。
障がい児援助の研修などでも、こういた実例の事例研究などあまりされているようには感じません。
本当にこのノーマリゼーションの実践というのは、海のものとも山のものともわからない状態で扱われているのが現状だと思います。
成功例も、実践方法もまだ全然確立していない状況にあると言っていいのではないでしょうか。
そういうわけですから、僕自身障がい児援助の専門家ではありませんが数少ない成功例を目にしてきた経験というものをここで述べることで、今後の展開の助けになればよいかと思います。
いまノーマリゼーションの成功例・到達点と言ったことはこのようなことです。
障がいやハンディキャップを持った子供もしっかりと加わった状態でその集団が構成されていると、その集団の中で自然に助け合ったり、それらの子の参加を前提とした状態で遊びや活動を展開したりすることを、子供たちが自発的に行っていくということです。
このことは、ノーマリゼーション導入の頃も、今でもフレーズとしてはよく言われるところです。
「障がいを持った子供もいるところで育つことで、その子もそういう子を差別することのない人に育っていくわよね」
などと、一般の人にも多く語られています。
しかし、実際はそんな簡単なことではありません。
ただ、同じ集団に子供たちを放り込むだけで自然とそのような状況や育ちが達成されるわけではないのです。
それができるかどうかというのは、ひとえにそこの保育者・養育者の姿勢や実際の関わり方、また全体を視野に入れた取り組みにかかってきます。
例えば、ある子が「大人の言うことを聞かないから」という大人の方の先入観で、強引にやらされていたり、普段から叱咤されてい様子を周囲の子供が見ていると、子供たちはその子のことを大人にそのように扱われるべき存在なのだ、そうされてもしょうがないのだと自然と理解していくことになります。
周りの子供自身も、そこでのその子への大人の養育姿勢を見せつけられることによってむしろ垣根を作ってしまうのです。
このことは、大人の具体的なアプローチだけでなく、大人がその子にたいする心情、態度、それこそ声のかけ方、声のトーン、表情なども如実に周りの子供に影響していきます。
例えば、コメントの中で保育士が障がいを持っている子に対して「今日も本当に戦い疲れたわ」ということがあったというものがありましたが、
大人の方が、そういった意識(支援するべき子供をなんとか屈服させて言うことを聞かせる)でいれば、まわりの子供も大人の顔や態度、言葉から必ずそれらを感じ取ります。
そのようになると、その周囲の子供たちは「自分たちとは違う存在」、「大人が対抗している存在」であると認識するようになります。それでは、世間で言われるところの
>障がいを持った子供もいるところで育つことで、その子もそういう子を差別することのない人に育っていく
ということにはならないわけです。
差別などはしないまでも、ゆるやかに遠巻きに見守る程度にしかなりません。
このような状態ではとうていノーマリゼーションが達成されているとは言えないわけです。
このことはつまり、要支援の子への対応の如何は、周囲にいる子供たちへの心の成長にも密接に関わっていると言うことを意味します。
すなわち、障がいやハンデを持っている子供だけがこの問題の当事者ではないのです。
まずもって、大人の方が子供を、できる子できない子で「一級市民・二級市民」というような見方・扱いをしていてはならないわけです。
そこにいる大人自身が、その子が当然いるべき存在というようにとらえていなければ、集団の子供がそのような意識を持てるはずもないのです。
そういった、集団全体における影響までも視野において、要支援児への援助を考えられる人はどれほどいるでしょうか。この点現場の人たちの意識はまだまだです。
これら援助する側の大人の意識の問題というのは、方法論だけを「こういうときはこれこれこういう対応をしなさい」といったものを研修で身につけても、それだけでは少しも進歩しません。
方法論は、意識や目的論次第でどのようにも変質したりねじ曲がってしまいます。
この点、最初の方の小論文で、指導から援助への視点を持たなければならないと述べたことと密接な関係があります。
大人の意図する目的が、「〇〇すべき」「〇〇させる」ということなっていたら、その同じ方法論で生かすものも殺してしまえるからです。
要支援児への対応では、単なる方法論だけ準備すればいいのではなくて、そこでの大人の意識自体もつねに高めていかなければその実践はおぼつきません。
要支援の子供に対して、「個別対応」の名を借りた「隔離対応」になってしまっているところは実に多いです。
必要に応じて大人が手をかけてあげることはとても大事です。
でも、それだけでは不十分です。
要支援児が集団のなかに入るということは、個々に合わせてその集団としての意義を模索しなければならないことです。
実際現場の人が個別対応をしていると「私はこの子にいっぱい手をかけている」「私は一生懸命やっている」という意識に簡単になってしまいます。
保育者・養育者がその意識でいると、しばしば本当の「その子のための援助」というものが見えなくなってしまいます。
要支援児への対応において、現状上記のようになってしまっているところは実に多いことでしょう。
そしてその多くは、それがまだ不十分な状態であることや、不適切なことをしていること自体に気づかないまま、その対応を長年にわたって複数の子供に対して行ってきてしまっています。
対応がうまくはないとしても、「うーん、これではいかんかな?」と思いながらやっているところの方がまだいいのです。
子供への対応は、「長年これでやってきてうまくいっているのだから、私たちは間違っていない」という意識でいるところが一番怖いです。
ですから、子供に関わる仕事をしている人はアンテナを高くしている必要があります。
つづく。
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● COMMENT ●
なるほど〜
感想
*返信不要です。
いつも興味深く拝見させて頂いています。
今回の記事も考えさせられました。
障がいを持ったお子さんに限った話ではなく、
学校や保育園という組織は、
このようなことに陥りがちだと思いました。
行事の内容を決めるにしても、
上層部の鶴の一声で決まる施設と、
その学年の子どもの特性や興味に基づいて、
先生方の意見を考慮して、
毎年内容を変える園とがありますよね。
上層部の意思が尊重される園では、
行事のレベルが高すぎると現場の先生方が思っても、
外部へのアピール手段として
上層部がその内容でやると決めれば、
やるのが、『組織』というものでしょうか。
現場の先生方は、
子どもにとってデメリットが大きいとと思っても、
自己保身のために、それを黙認されているのが普通なのしょうか。
普通の民間企業であれば、
現場の声を無視し続ける組織は、
長い目で見れば、崩壊していくでしょう。
しかし、
特に都市部の保育園は、
待機児童で溢れていますから、
『園の方針が気に入らなければどうぞお辞め下さい。
代わりはいくらでもいますから』という状態です。
放置して、保育園自体が変わっていくことは、
まずありませんよね。
保育園や学校で実際に生活するのは保護者でなく、子どもです。
例え変わらなかったとしても、
誰かが何か言わなければ永遠に変わりません。
子どもたちを中心に考えたら、どう考えてもおかしいと思うことは
学校や園に出来る限り伝えていこうと再確認できました。
ありがとうございました。
大事なことを書き忘れました
大事なことを書き忘れました。
子どものことを真剣に考えている先生方ほど、
職場の命令と自分の思いとの狭間で悩み、
退職されていくのだと思います。
でも、保護者の何割かは、
大事なことをしっかり見ていると思います。
そういう意識の人が減っているかもしれませんが、
子どもにとって一番大切なことを気付いていないだけの
保護者も相当数いると思います。
親向けサービスを要求する人ばかりが
目立つかもしれませんが。
ということを、
悩んでいる先生方に是非、お伝えしたいです。
私自身は、保育園の先生方に感謝で一杯です。
ノーマリゼーション
二つ論文、とても興味深く拝読しました。
そして、前回の記事でおとーちゃんの無念さ、徒労感がひしひしと伝わってきました。ブログでは顔も知らない多くのお母さん・子供達を救っているのに(私も救われている1人です)、娘さんと同じ幼稚園に通っている目の前の、見知った子供たちを救えないというのは無念さでいっぱいになることとお察しします。
うちの職場でも肩書きのある人、声大きい人の意見はすぐに聞き入れられます。そうでない人は「これが決まり(規則)なので」とあしらわれます。
娘が通っている保育園は保護者から園に意見が出れば、皆で考えていきましょうというスタンスで、意見はもちろん聞いていただけるし、改善が必要なら即改善されるし、だめでもこういう理由でだめですというのをきちんと説明してくれます。ようは、トップの柔軟な姿勢があるかないかでしょうか。
最低でも意見に対して拒絶反応を起こさず、聞く耳でも持ってほしいところです。
幼稚園側は、うちは偉いカウンセラーの先生に指導・研修してもらってるから大丈夫なんだ!何を言うか!という感じでしょうね。おとーちゃんの意見に対しての意見がないということは、事なかれ主義でいきたいのか、要支援児の対応についてトップがよくわかっていないのか・・・・。
おとーちゃんお1人ではなく、周りの保護者の方を巻き込めたら、総意としてまた幼稚園に要望できるのかもしれませんが、こればかりは難しい問題ですね。
私は、恥ずかしながら「ノーマリゼーション」は聞いたことがあるなぁぐらいで、どのような理念で広まったのか、実際にどういうものなのかよく知りませんでした。一連の記事でノーマリゼーションについて知りたい、知らなければならないと思いました。一般市民として私自身が障がいのある人、子供とどう接していいかわからないからです。
参考文献に挙がっていた論文はなかなか手に入らないので(国立国会図書館に文献複写依頼を出してみようかと思っています)、図書の方を借りてみようと思います。
他にも「ノーマリゼーション」を知るために参考になる図書、論文があれば教えていただきたいです。(一応自分でも調べていますが、これを読めばいいよというのがあればで結構です。)
今回の記事の題名「ノーマリゼーション -気づこうとしなければずっと気づかないこと‐」とありますが、保育者・養育者ではない人、私のようなものにもそれはあると思います。おとーちゃんが書かれている保育者・養育者の意識のこととは違いますが、障がい者について、自分に直接関係がないと「気づこうとしなければずっと気づかない」ままになってしまうと思います。これを機会に私自身学びたいです。
続きの記事も楽しみにしています。
いつも気づきをありがとうございます。
問題は意識しなければ気付きもしない、できないんですよね。そして問題を発見できなければ、進歩もない。苦しんでいる人に気付きもしないでこのままのうのうと(今の私含む)生きていくことは出来るけど...それではダメだと問題提起してくださるおとーちゃんさんには本当に感謝です。
私自身このことを知ったことでどこまで活かせるのか(それこそ言葉や考えだけ知ってて行動は出来てないになるかも)わかりませんが、やっぱり知ってるか知らないかだけでも大きな差になるのではと思います。
はじめまして
小論文、すべて興味深く読ませていただきました。
息子は普通の私立幼稚園に通っており
現在、年中で加配の先生がついています。
息子のことを簡単にご説明すると、発語は多いが会話になりにくい、運動面も含め不器用、話している人に注目することが難しく、一斉指示が通りません。
加配、担任の先生とも、無理なく集団に溶け込めるように配慮していただいており、おかげさまで、楽しく通園しています。
一方、私は運動会などの行事を見るたびに、少し物足りなさ(もう少し強引に指導してくれれば、もっとできるかもしれないのに、などの感情)を感じておりましたが、
それが大きな間違いであることに気がつきました。
家でも◯◯するべき、など、息子に対して高圧的な態度を取ることも多くあり、今日、息子が幼稚園から帰ってきたら、心から謝りたいです。
ひとつ、思い出しました。
休園日に、同じクラスのお友だちと水族館に行ったときのことです。
近隣の幼稚園児と思われる子ども達が遠足に来ていました。
その中に、息子と同じように発達障がいの男の子がいました。(私は発達障がい児の親なので、見てすぐにわかりました)
その男の子は非常に落ち着きがなく、列になって歩いていても真っ直ぐに歩けずに、すぐに脱線してしまうのですが
それを先生が、その子の背中のリュックを強引に引っ張り、男の子の足はほとんど宙に浮いた状態で歩かせていました。
それを見て、なんとも悲しい気持ちになりました。
この光景を、この子のお母さんが見たら、どう思うのだろうと。
そのあと、イルカショーをみるときも、その園児たちと一緒でした。
ショーの最初にペンギンがスタッフの方と、よちよち歩きで登場しましたが、ペンギンは小さいので、幼稚園児の背丈では座っていては見られません。
そのとき、ペンギンを見ようと立ち上がったのは、息子を含めた、同じクラスのお友だちだけでした。
近隣の幼稚園児たちは、誰ひとりとして立ち上がりませんでした。
立ち上がる子は、お行儀が悪いといえばそれまでです。
もちろん、立ち上がると後ろの人の邪魔になるので、すぐに座るようにとは言い聞かせます。
でも、ペンギンが来ているのに見えないから立ち上がるというのは、幼児としてはごく自然な行為だと思うのです。
近隣の幼稚園児たちは、ショーの間は絶対に席を立たないでと厳しく言い聞かされていることが、容易に想像できました。
そして、立ったらどうなるのかも。
とても考えさせられる出来事でした。
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よく、育ち合う、という言葉が聞かれましたね。
このシリーズ大変興味深いです。
次の記事も楽しみにしております!