ノーマリゼーション -気づこうとしなければずっと気づかないこと-vol.2 - 2014.10.27 Mon
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前回の続きです。
要支援児への援助をする際は大人の方の意識というものがまず大切ということを前回はお話しました。
この点について、『小論文 保育・教育現場における”ノーマリゼーション”の目的と意義』で述べたような、ノーマルシーとノーマリゼーションの混同、誤解というものがあると容易にその援助すべき子への対応はおかしなものとなってしまいます。
リハビリや発達支援施設のような、要支援児個人に対して”訓練”を目的とした施設であれば、ノーマルシーを第一に考えてもよいのでしょう。
しかし、保育園・学校というのは要支援児への訓練を第一に目的とされているところではありませんね。
まず、その子の日常・生活の一部としての社会であり集団があるわけです。
たしかに、子供の成長・発達を願うことが悪いわけではありません。
ですが、それは「こころよく過ごせる日常・生活としての場」という保育園・学校が機能してから、その結果として得られる余得としてでいいのです。
最初にするべきことを設定した「指導」という視点だけでは、子供そのものが見えなくなってしまうということがあるというのは、
『小論文 「指導」の視点と「援助」の視点 -教育現場における障がい児援助の課題-』
こちらで述べたとおりです。
「できない」「やりたくない」そういった通常「指導」の中では許容されないこともおおらかに受け止める度量がなければ、障がいやハンデを持った要支援児に対しての関わりは、「それではいけない」というたくさんの否定の見方で埋め尽くされてしまいます。
そのために必要なのは、理解と尊重です。
僕の知人でこのような人がいました。
その人はちょっと珍しい食物アレルギーを持っていて、それを食べると呼吸困難になってしまいます。
小学生の頃は、担任が代わるたびに無理やり食べさせられてそのたびに、そのアレルギー発作で倒れていたということです。
つまり、指導する側である教師は「食べられるべき」ということを、その子その子のことへの理解と尊重の前に置いて、その指導者側の観点を押しつけることをしてしまっています。
個々の理解と尊重よりも、大人個人の論理を優先させてしまっているがゆえに不適切なことが行われてしまっているわけです。
アレルギーに関しては昨今たいへん厳しい見方になり、死亡事故なども複数あった結果いまではこういうことはなくなっていると思われますが、そういった事故にならないまでも、要支援児への対応のなかでは指導する側の論理で個性の尊重を損なうということが日常茶飯事におこってしまっています。
たとえば、自閉的傾向を持つ子供では、普通からは考えつかないような理由からそのものごとができなくなったりします。
その理由を伝えられてすら、そんなのはおかしいと大人から尊重してもらえないことが多々あります。
合奏の練習をするときに、「トライアングルの持ち手のひもの色がいつもと違った」、「いつもとなりの立ち位置のはずの〇〇君がお休みでいなかった」そんな通常では些細なと思われるような理由でも、その子にとっては大問題であったりするわけです。
こういったことに対して、その援助者である大人が理解を示せずに否定的な見方をしてしまったら、その子はそこで疎外感や自己否定感を高められてしまいます。
大人は自分の論理を押しつけるのではなく、どんなに納得がいかないようなことであってすら、その子のあるがままの姿を客観視してそのうえで個々に合わせた対応を模索する必要があります。
この大人側の「理解と尊重」の視点が要支援児への援助の中では、第一に必要です。
大人がこの理解と尊重をしていなければ、周りの子供にも多様な個性の子供に対して「理解を示しなさい」というようなアプローチができるわけもないのです。
その合奏の場面で、その子にそれでも強要して練習に参加させることはできるかもしれません。けれども、自分を否定されたという強烈な疎外感や自己否定感を子供の心に形成してまで、その合奏ができたところでその子の育ちにはなにほどのプラスもないのです。あるのは指導者側の「やるべきことをやらせた」という自己満足ばかりです。
子供によっては、そこでパニックを起こしてその場から逃げ出したり、持っていた楽器を投げつけたりするかもしれません。
それでは周囲の子供にもその子に対する垣根を作らせてしまいます。
理解し、尊重し、その子ができることやできないこともあるというのを大人がありのままに受け入れながら、それでもこの属する集団の一員であるという姿勢を示すことが集団の子供にもその子への理解を生み出します。
ノーマリゼーションのひとつの到達点に達していたと僕が見たクラスの事例です。
自閉的傾向を持っていた男の子、発語はほとんどない。やや他動的傾向があった。仮にA君とします。
3歳児クラスのとき、担任の保育士たちは熱心ではあったが「するべきことをさせる」というノーマルシーとしての関わりで考えてしまっていた。
その結果、できないこと、しようとしないことを繰り返し迫ってやらせようとしたり、自ままに動くことを制限することで、するべきこと(集団で今していることなど)をさせようとするアプローチが大変多くなってしまっていた。
そのときのクラス担任たちは、A君は他動だから手がかかって大変であるということを期の反省などではしきりに述べていた。またそれゆえ人手が必要なことも強調していた。
午前中のみ障がい児支援の補助職員(Cさん)が1名ついていたが、担任の意を受けて、クラスから出て行ってしまうA君を連れ戻したり、集団での行動から逸脱してしまうA君を押さえるような対応をさせていた。
4歳児クラスになり、新たにB保育士がそのクラスの担任になりさらにクラスリーダーとなった。
このB保育士は、A君になんらかの「できる」を獲得させることではなく、A君が自分らしく居心地のよい環境であることを第一にアプローチをしていった。
まず、さまざまな強要をやめ、できる範囲でA君が自分から好んでできることをさせてあげられるような環境や時間配分を整えていった。
集団での活動なども「〇〇ができること」を目標にするのではなく、「A君なりに活動に参加できること」を目標として、A君なりの関わり方でできればよいという視点で受け入れていった。
補助職員のCさんは前年からそのままA君に、限られた時間だが補助としてつけることになった。
B保育士はこのCさんをA君の自ままな行動を押さえつけるために用いることは、せっかくの個別対応として無駄であると考え、そのような個別の対応のできる人員がいるのだから、それを適切に活用してA君が好んでしたいことにつきあっていく方向でCさんには動いてもらうこととした。また、CさんとA君の信頼関係が厚くなるように配慮をした。
(その配慮とは、例えば注意や制止をしなければならない場面ではB保育士がそれを行い、CさんはA君に対して許容・受容を旨として関わってもらうといったようなこと)
また、B保育士は周りの子供にもA君がどういう状況にあるのかということを、理解できるかたちで伝えていくことを重視した。
一例としては、「子供の中にはなにか大事なものを赤ちゃんのときにお母さんの中に置いてきてしまう子もいるんだよ。A君は友達と言葉でお話しする力を置いてきてしまったから、いま少しずつそれを身につけているんだよ」というように伝えていた。B保育士自身はこのような伝え方が正しいかどうかはわからないけれども、いろいろな伝え方を模索していて今のところこのように伝えることが幼児には理解しやすいと感じていると話していた。
そういった大人の側のA君への理解、受容、あるがままを認めるという行為が、だんだんと子供にも伝わっていき、それまであまりA君に積極的に関わっていなかったクラスの子供たちも、A君を手伝ってあげたり、A君をままごとに入れて一緒に遊んだりする姿が多くなっていった。
しばらくするとA君の行動というのは大きく変わっていった。
まず、3歳児クラスのときは「他動で勝手に部屋から出て行ってしまうことが多く大変だ」と言われていた行動が、4歳児クラスではほとんどなくなる。
このことは年齢が進んでの成長ということも考えられなくはないが、1年たったというわけでなくクラスが変わって2ヶ月ほどでの変化であるので、やはりアプローチによる違いと考えたほうが妥当だと思われる。
実は3歳児クラスのときの「他動だから」と言われていた行動は、大人が行動を押さえつけたり、否定的な関わり方をしていたり、クラスの中がA君にとって心地よく過ごせる場、そこにいる大人が信頼してついていくべき存在と思われていなかったために、むしろ大人が作り出してしまっていた姿に過ぎなかったのではないかと考えられる。
4歳児クラスになってA君がしたい行動などをむしろ許容した姿勢をとったにもかかわらず、A君の自ままと思われていた行動は減り、集団での行動の際もむしろ参加しようという意欲を見せるようになっていた。
この4歳児クラスがA君の居場所であり、属する集団であるという意識がA君の中で無理なく芽生えたために、やらされてやるのではなくA君の自分の力として参加することができるようになった。
また、それができるようになったことには、大人の方の意識、大人との信頼関係、大人に受け入れられているという関わりによる部分も大きいだろうと思われる。
CさんもA君の目に見える成長(それまでなかった力が育ってきたわけではないので、本当は”変化”にすぎない)に驚いていたし、日々の関わりがそれまでは大変さばかりであったものが、A君と関わることが楽しくなったと話していた。
こういったことがあって、ことさら「〇〇できる」をA君に課しているわけではないのだが、A君の自主的な意欲やその環境からつくられる安定した生活・情緒が結果的にはA君に大きな成長をもたらした。
発語はなくても、他児と遊んだりするなかで子供同士意識を通じさせたり、周りの子供が気にかけてくれる、A君の意図を汲み取ろうとしてくれることから、A君もクラスの子供たちには抵抗なく関わる姿が見られるようになった。
3歳クラスのときは外遊びでも、個別にA君に大人がついていても規制などをするばかりで単に隔離的な対応になってしまっていた。
4歳児クラスになってからは散歩や戸外遊びでもことさら大人がA君を追いかけ回して、危険な行為をさせまいと規制をする必要もなく、A君自身遊べていたし、周囲の子供たちもいつでもA君のことを気遣ってくれるようになっていた。
すべては書ききれきませんが、以上がノーマリゼーションがうまく実現していた保育の一例です。
長くなったので次回につづきます。
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● COMMENT ●
No title
先生が、その子の無理のないペースで色んなことをさせており、受容して、一緒のクラスにいた年長までの3年間に、その子なりのペースで着実に成長していて、最初は全く参加できていなかった集団行事にも、徐々にその子なりに参加できるようになっていて、卒園式の時はほんと感動で涙が出ました。
息子も突然押されたりするので最初は嫌がっていましたが、クラスの先生が折に触れ説明したり、集団に巻き込んでいかれていて、一年も経つ頃には、○ちゃんはあれが苦手だから僕らが助けてあげないと!とか、○ちゃんは大好きな電車の話をするととても嬉しそうだから僕も嬉しくなるとか、そういう事を言うようになり、温かい空気が出来てきて、うちの息子もたくさん成長させてもらった気がします。
先生方の、支援を受ける子供と周囲の子供の両方がたくわえた力を慎重に見極めながら尽力されている姿には、本当に頭が下がる思いでした。
こういう保育園や幼稚園が、たくさん増えて、先生方もちゃんと正当に評価されていくといいなと思います。
難しい
大人になったA君に会ってみたい、と思わせる事例ですね。
保育園や学校も通過点であるわけですから、どんな大人になってもらいたいか、と考えたら自ずと保育者の取るべき行動も見えてくるのかなあと思いますが…難しいですね。
最初は障がいの理解がない故に変テコな保育になっちゃってるのかな、と思いましたがそうでもないみたいですし。
要支援児の対応は、力量のある保育士さんだけに委ねられるものではないんだとも思います。
その点色々考えてみたのですが、上手くまとまらないので次回の記事を楽しみにしております(笑)
あ、理解と尊重という視点は障がいがあってもなくても同じですよね。
前の記事にありましたが、本当にノーマライゼーションはそう難しいことではないのかもしれないな、と思いました。
ノーマリゼーションとノーマルシー
ノーマルシーとノーマリゼーションという対比を説明されていますが、言葉としてとてもわかりにくく、英語と日本語のウィキペディア、英語辞書を見てみました(それ以外は見ていないので、薄い知識なのですが)が、どうもここで論じられているような、2つの用語を対比する使い方は違うのではないかと感じております。
ノーマルシーは、辞書的には、「正常な状態」、ノーマリゼーションは「正常化」です。ノーマルシーの英語のニュアンスは、個人がノーマルシーな訓練をされる、というものはないように思います。保育環境がノーマルシーである、というような言い方ならありなように思います。非常にわかりにくい話ですみません。
また、日本ではノーマリゼーションは、福祉用語と即判断して良いようですが、英語では、統計、科学、技術等さまざまに定義のある使われ方をしているので、福祉のときはノーマリゼーション原則、などとしているようです。日本語ウィキに、ノーマリゼーションはわかりにくいので、等生化 としたらという提案がある、と書かれてますが、その方がましだなあと個人的には思います。
英語ウィキには、Normalization (people with disabilities)という項目立てで説明がされています。その中でノーマリゼーションの誤った概念として
a) Normalization means making people “normal” – forcing them to conform to societal norms.社会の規範に強制的に順応させ、人を正常化させること。
b) Normalization supports “dumping” people into the community or into schools without support.人を社会や学校に支援なしで放出することをノーマリゼーションは擁護する
の2つが上げられています。これらはノーマルシーとして述べられたことと同じようなことなので、やはりノーマルシーという言葉でこういったことが説明できないということなのではないでしょうか。
あるコンセプトをきっかりと説明する用語は、なかなかないように思います。毎回定義を示したり、注釈をつけたりして、その概念を広げていくしかないように思います。
日本の保育、福祉研究では、ノーマリゼーション、ノーマルシーが論文などで使われているのでしょうか。
広く一般人にも概念を広めて行くには、こなれた日本語が必要と思います。大事な概念なので、これらがジャパニーズイングリッシュだとしたら、広めるのが難しいと思います。
理屈っぽくわかりにくいコメントで申し訳ありません。しかし私はおとうちゃんさんの説明ではじめて知ったことが多く、ありがたかったので、言葉の使い方で誤解されたり、普及に支障があるのは、残念に思うので、申し上げました。
この世界のことを知らないので、不適切な意見でもあったかもしれません。その場合はまたお教えいただければありがたいです。ご一読ありがとうございました。
No title
いま日本の福祉職の国家試験対策しようと思ったら、ノーマリゼーションとミケルセンは絶対避けて通れない最重要ワードです。当然論文にも使われていますよ。最近、以前ほどは「流行語」的につかわれなくなりましたけど。
教えてください
先日、年少の息子の運動会があり、そこで始めて、3歳児といっても成長が様々なんだなぁ、いろんな子がいるんだなぁと思ったところです。普通にリレーが出来る子もいればバトンをもって進むのもやっとの子がいたり、雰囲気にのまれて走るどころじゃなかったり足が悪い子がいたり。。。そんな訳で年少さんのリレーは差を付けても、次の子の発達次第でまた差が縮まったり・・・と私としては面白いものでした(隣の老夫婦は「ああいう子がいるとせっかく抜かしたのに意味がなくなる」と怒ってましたが(笑)年代だな、とそれはそれで面白かったです)。子供達はもちろんそんなこと気にせず応援していました。
が、その話しを友人にしたところ、それは幼稚園生だからいい話で、小学生くらいになると、クラスに一人障害とかある子がいると(リレーとかで)そのクラスは絶対に勝てないので、もはや最初から戦意喪失状態とのこと。ただ、このご時世、じゃあその子を外すとかそういうことももちろん出来ないし、言うことも憚れるのでやる気のでないままということもあるんだとか。
また、別のところの話ですが日光に当たれないという病気の子がいるということで運動会も体育館(しかも全窓に黒フィルムを貼る)というところがあるそうです(学童でのイベントの話しだったかも・・・すいません)。もし同学年にその子がいた場合、6年間ずっとイベントは屋内、ということになります。自分の子供がその学年だったらどう思うのか?と考えてみましたが・・・クレームをつけるとかそういう行動にはでないけど、なんとなく何かが引っかかってもやもやした気持ち(それが差別から出る気持ちなのかどうなのかも分からないです)になるだろうと思います。じゃあ、その子抜きでやればいいのか?そうとも言えない(言いたくないのかも)気もします。
上記二点について、おとーちゃんさんはどう思いますか?答えはないとは思いますが、ただ、おとーちゃんさんの意見が聞いてみたくて書き込みました。お時間できた時でいいですので是非お願いします。
No title
ノーマリゼーションの価値観でいうと、そんな「運動会」の存在、もはや無理があり過ぎるのだと思います。ほかにも全学年参加の「修学旅行」、「マラソン大会」、「お泊り会」、「野外活動」、「発表会」何でもいいんですけど、なにか不都合を抱える個人が苦痛を抱えながらも無理して参加することでその形態をどうにか維持している行事、教育現場に多すぎますよね。
今後、ノーマリゼーションの観点を持ち、それでも「運動会」開催にこだわるのならば、全員参加を強制しない、普段の練習はミニマムで観客席を設けず平日短時間だけの開催にする、あるいは競走色を排除、観客参加型で当日参加したいゲームにだけエントリーする「フィールド・フェア」のような緩~くて気楽なものにするとか、「運動会」という硬直化した教育イヴェントのスタイルを柔軟に変えていく覚悟がいると思います。
しかし、なんで今の時代になっても日本では「運動会」にこだわるんでしょうね? 私は、すくなくとも保護者は休日が炎天下にさらされて一日潰れてしまうような「運動会」、特には求めてないような気がしているのですが...。
ブログ主さんよりも先の書き込み、どうかお許しください。
日本型「運動会」に積年の嫌悪を抱える、和太鼓&ピストル音恐怖症/いち・おばさんの個人的意見でした。
ノーマリーさま
運動会の是非は、まぁ私は運動会自体はあっていいと思っているし、高校生にもなれば自由参加もありだけど、少なくとも義務教育レベルでは全員参加(ピストルの音が...とか個別の事情は不参加でいいとは思いますが)でいいと思ってるので・・・。その上で、こういった問題ってどう考えたらいいだろう?と思った訳です。「ノーマリゼーション」の名の下、参加者の気持ちが置いてかれてるのかなーとかオリンピックとパラリンピックを一緒にやるような違和感?とか色々考えたけどわからなかった訳です。
自由参加にすると、特に未就学児なんかは、「子供が」参加したいか、ではなく「親が」参加したいか、で決まってしまうので反対かなぁ。ママ友がいないとかそんな理由で子供が参加したくても参加しなかったりしそう(笑)ノーマリーさんも「親が」炎天下のなか一日「潰れて」とおっしゃてるので「子供が」晴天の下思い出に残る運動会の視点でもないのかなと思ったり。そもそも子供なんて、参加したら「楽しかった」「楽しくなかった」という生き物だと思ってるので。
あと、それこそ足が悪いとか集団行動が難しい子なんかは、参加意思があってもまず周りに悪いと思って参加しなくなりそうだなと思ってます。
親の気持ちで言えば・・・場所取りの行列とか考えると親の方が運動会を求めている気がしてならないのは私だけでしょうか(笑)
あと、運動会や修学旅行のない海外在住の日本人に言わせるとそういった日本的な行事がないのも寂しいというか子供に経験させたいと思えるようです。でも、イヤだと感じる人もいるのは確かだと思うので、その場合個別不参加は選択肢の一つとして必要だと思うし、その選択でその個人が不利益を被ることが無い方がいいと思っています。
あと、その運動会精神論、私は聞いたことないしそう感じたこともないのでなんとも・・・(ちなみに私は運動音痴なので緩い参加でした)。ごめんなさい。
ノーマリゼーションの続き、またお願いしますT^T
なんか…近頃隣のクラスの衝動性が強い女の子が、輪を掛けて、周りの子供達をこまらせるような事をするようになりましたT^T
この前なんてうちの部屋に駆け込んできて、みんながやっていたカルタを隠し、取り返しに来た子供達に「みんな大嫌い!」と言っていました。
取り返しに来た子供達が、興奮した様子だったので、一旦子供達を部屋に戻しました。その途端、勝ったとばかりに「へへーん!」と笑っていました。
なんだかその様子に私もカチンと来て「そんなことしたら友達に嫌われます!」と伝えて、隠したカルタを、他の子供達に返して来ました。
本人はしょげているように見えましたが…
担任は、したらダメなことばかりをするから、それを逐一注意していては、怒りどおしになる!一体どうしたらいいのかと悩んでいました。
そのちょっと前には、同じクラスの子供達が、どうして彼女ばかりわがままが許されるのか⁉︎と担任に訴えたそうです。
家では、周りと同じように出来る事ばかり求められてきている印象。
一体どうしたことやら…
ちびたさん
このことについてはそのうち記事にしたいと思います。
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今目の前にあることよりもその子供自身が受け入れられているという安心感って本当に大事ですね。色々な先生達に、たとえ障害があったとしても普通と同じことが出来るように諦めない事が、保育だ!と言われていて…
むしろ厳しくした方がその場では、大人が望むような姿を見せて、ほら!甘えてただけでしょ⁈なんて事が多くて…
やりたくないという気持ちを受け入れるやり方が間違っていたのかなぁなんて思っていました。
でもその場限りではない視点が大切ですね。なかなか周りの先生達には伝わらないけれど…
それこそそういう出来る主義とは戦っていかないとですね!