叩いて育てること - 2015.01.27 Tue
「最近のお米は、昔のようにゴシゴシ研がなくていいとわかっているのだけど、ついついゴシゴシやらずにはいられないんだよねぇ」
人は「習い性」というやつで、長いこと自分がしてきたことや、されてきたことというのは、理屈ではなしになかなかそれを変えることができないもののようです。
子育てにおいて、その最たるものといっていい程のものが、「子供を叩いて教える(しつける)こと」です。
先日、ワークショップの質問の中でも出ましたし、コメントの中でも同様のものがありました。
周囲に「子供は叩いて育てるものだ」という意見を持っている人がいる場合、これがなかなかに難しいです。
叩いて子供を育てるときの問題点のひとつは、リスクマネジメントができないことです。
「子供を叩いて育てるべきだ」という人が、よくその理由として述べることにこのようなことがあります。
「昔はそのようにして育てて、みな立派に育った」
「自分はそのようにして育てられたが問題なく育った」
これらの理由というのは、実はあまり根拠とはならないものでしかありません。
「本当にみんながそれでなんの問題もなく育ったのですか?たまたまあなたからはその問題が見えなかっただけではないですか?」
「昔はそうだったのかもしれませんが、いまは社会のあり方、家庭のあり方、社会が許容するものも変わってきていますよね?」
「あなたご自身はそうされても問題なく育ったのですね。たまたまそうされても大丈夫な個性を持っていたのかもしれませんね。あなたのお子さんもそうであると言い切れるのでしょうか?」
「あなたご自身は、ご自分のことを問題なく育ったと認識されているのかもしれませんが、周りの人はそう思っていないかもしれませんよね?」
先入観や感情論となってしまって、すでに理屈でないことを理屈によってその意見を変えさせることというのはできないことですから、その人にこのような問いを発しても対立を生むだけであまり意味がないことなのでしませんが、反論をしようと思えば上のようなことがいくつも言えてしまえます。
しかし、このようなことを言わなくても、たったひとつの問いが「叩いて育てること」の限界を教えてくれます。
それは、
「子供に人を叩くなということをどうやって教えるのですか?」
ということです。
感情論などの客観的でない意見を述べる人は、自分の都合のよい場面しか目に留めないかもしれませんが、保育士のように不特定多数の子供を見ている仕事をしていれば、普段から叩かれている子がどのように育っていくか、たくさんの実例を見ることができます。
大人から叩かれて育っている子は、他者を叩いたり、攻撃したりすることへのハードルがとても低くなります。
または、その子の個性によっては、内に閉じこもる方へと育っていったり、自己肯定感の低い子へと育っていく可能性が高まります。
叩かれて育っていても、その子自身がものにこだわらなかったり、前向きな性格だったり、明るかったり、自己否定を募らせてもそれを補ってくれる包容力のある人が周囲にいて、そう問題なく育っていけるケースもあることでしょう。
しかし、そういった影響がどう出るかは、それをする前には誰にもわからないのです。
「人を叩く」という強い関わりを、成長過程の子供にすることはその結果がどうなるかというコントロールの効かない、リスクマネジメントのできない行為なのです。
そうしても問題はないのかもしれない、でも非常に大きな問題を引き起こすかもしれないのです。
「自分は大丈夫だったから、我が子も大丈夫」というわけにはいきません。
それは、結果のコントロールの効かない「運任せ」の子育てになりかねません。
特に現代は、核家族が中心で、しかも子供と関わることが不得手、未経験、という人が少なくない時代です。
父母ともに子供を適切に受け止めることができない状態で、子供を叩いていたらその問題はあっという間に出てきます。
かつては、社会が子供に対しても寛容だったり、子供に肯定的に関わってくれる大人の絶対数、周囲の環境が子供の問題点を緩和してくれていました。
子供同士のコミュニティが、ひとりひとりの子供の問題を浄化する役割も少なからずありました。
いまはかつてとは同じ状況ではないのです。
「昔はそれでうまくいった」論を、子育てで持ち出すことは危うく感じられます。
人によっては
「叩いたとしても、親子の絆があるから大丈夫」
そう言う人もいます。
ではなぜ、そのような強い親子の絆があるならば、叩かずにそのものごとを伝えることができない、もしくは、しないのでしょう?
叩いたとしても揺らがないほどの厚い関係性があるのならば、人生経験豊富である大人が、年端もいかない子供にものごとを伝えることなど容易なはずです。
もし、その大人が叩かなければそのものごとを伝えられないというのならば、その絆・信頼関係など実際は大したものではないということです。
このように、「叩いて育てる」ということには、いくつもの矛盾点があるのです。
正味で言えば、実のところ叩くことで子供を思い通りにすることは、大人からすれば最も楽なのです。そのときは・・・。
でも長期的に見たら、本当は楽ではありません。
叩く大人に対しては「叩かれる恐怖」や「威圧」というマインドコントロールが働きますので、子供はその大人に対しては出さないかもしれませんが(この状況になればその大人は最後まで楽です、その人だけは)、周囲の人間にたくさんの問題を噴き出していくかもしれません。
そのときは出さなくても、将来成長して力関係が同等になったり逆転したときに、大人に暴力で対抗してくるかもしれません。
人に暴力を向けずとも、モノに暴力を向けるかもしれません。
叩くという手段は、「叩いてはいけない」「暴力を振るってはいけない」という子供に教えなければならないことに反するものを内包してしまっているので、子育ての手段として初めから無理があるのです。
「子供を叩くことが必要だ」という人には、なかなか理屈は通じません。
しかし、
「叩かれている子は、他の子や自分より弱い者を叩くようになりますよ。そうなってから、大人がそれまでその子を叩いていたことを取り消すことも、その子を叩いて人を叩くたたくなと教えることもできないのですよ」
そうお伝えしたいと思います。
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● COMMENT ●
叩くというテーマ、ちょうど今悩んでいるところです。
私自身はあまり叩かれずに育ててもらい、
先生に理不尽な理由で叩かれた事を覚えているので、叩くしつけは反対です。
しかし夫は男の子は叩いてしつけ、とカンガエテおり、4歳2歳の子をたまに叩いてます。
歯止めがきかなくなるからとやめるよう説得してるのですが、なかなか理解してくれません。
今回のブログを見てもらい、理解してもらえるようがんばります。
有難うございました。
叩かれて育ちました
私は幼い頃とてもやんちゃで手のかかる子のようでした。「しつけ」としてよく叩かれた覚えがあります。
母の事は大大大好きでしたがいつもいつも不安で「私の事好き?」と1日に何十回と聞いたりと、今考えるとすごく不安定だったんだなぁと思います。
おとーちゃんさんが言うように、力関係が同じくらいになってからは母に対して力でやり返すようにもなりました。
心のどこかで「大人になったら仕返ししてやる」と思っていたのも覚えています。
今でも母の事は大好きで色々助けてもらってますが、やっぱり当時の事を思い出すとととも胸が苦しくなります。力で抑えつけられる=「どうせ私の話しは聞いてもらえない」という気持ちがずっとありました。
なので我が子にば絶対に手をあげない、話をよく聞くを心掛けておとーちゃんさんのブログに助けられながら奮闘しております。
暴力のない育児があたりまえになる事を願っています。
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本も先日購入致しました。
ブログの内容をスッキリまとめてあり、次回作の出版を楽しみにしています。
先日、自分のブログで、「叩くしつけ」のリスクについて書いたばかりでしたので、タイムリーだな~と読ませていただきました。
大変分かりやすくて良かったです♪
リンクフリーとのことで、この記事を自分のブログで紹介させていただけたらと思います。
こ今後の更新も楽しみにしております。