日本人の思考の謎現象 - 2015.05.25 Mon
6月初旬に新たに増刷されますので、もう少々お待ち下さい。
ご迷惑おかけします。
子供はちょっとしたことでも体調を崩します。
人間は、体温がたった0.5度変化するだけでも、正常ではなくなってしまうか弱い生き物なので、子供ならばなおさらです。
ちょっとした疲れや、興奮、頭を使った、親に受け止めてもらえていないといったストレスですら、身体に変調を来すことがあります。
今日のテーマは、子供のことではないのですが。
子供が体調を崩してお休みしなければならない。
そんなとき、会社にそれを伝えるところでよく聞くのが・・・・・・。
周囲の同僚から、「わかるのだけど、それでしわ寄せを受けるのは自分たちだ」と、そのことで暗黙の内に非難の目線になってしまうもの。
また、これを男性社員から「男性は損だ、女性はそんな理由で休みがとれていいな」と、性差の方向での意見になってしまうこともあります。
ここで興味深いなと感じるのは、日本人の思考は、自分がある容れ物の中に入っていると、その容れ物を変えようとは考えないことです。
容れ物というか、大枠というか、この話の場合は会社組織ということになるでしょうか。
(これは会社だけではなく学校その他でも同様のことが見受けられます。
また、一方的に不利益を被っている当事者が、不利益を与えている組織の側を進んで弁護する謎現象という類似した例も多くあるようです)
成人を雇って仕事を行う以上、家庭の事情や、子供の体調などでなんらかの支障が起こることはこれはもう、どのようなところでも避けられようのないことであって、組織はそれらも織り込み済みの上で、雇用体制を考えるべきことです。
(産休や育休、慶弔休暇や介護休暇、生理休暇、本来はもちろん有給休暇もそうなはずですが、「有給をとったら周りに迷惑がかかるので」とってはならないというような無言の圧力があったり・・・・・・)
つまりそこでは、そのようなときの責任者は、あくまで会社のはずなのですが、日本人は枠組みに対しては意見をいわないという謎の寛容さを持っているので、不満や怒りを責任者である組織に対してではなく、当事者に振り向けてしまいます。
自分がその当事者になる可能性も大いにあるにも関わらず。
その怒りを振り向けられた当事者である親は、ひたすらに「自分が悪い」と平身低頭する人もあれば、子供に対して「なんで具合わるくなるんだ!」と怒ったり、保育施設に対して「どうして病児保育をしないのだ!」「熱ぐらいで呼び出すんじゃない」などと、怒りの連鎖になってしまうこともあります。
現実には、厳しい労働環境で働いている人も多く、そんな理想的なことを言ってばかりはいられないのはわかるのだけど、少子化対策を国の施策としてもうずいぶん前から叫ばれているわりには、社会での子育てや子育てする家庭に対する考え方は、まだまだ過渡期にありますよね。
(ただ、景気のいいときですら同様のことはあったので、「いまは労働環境が厳しいからしょうがない」というのも、やはり謎の寛容さゆえのような気もします)
なんか最近は、ベビーカーの議論しかり、多くの人がいろんな怒りを溜め込んだまま、そのはけ口を探しながら過ごしているようなところがあって、なんとも心配な気がします。
社会が怒りを抱え込むと、それが向けられるのは決まって弱い存在へなのですね。
このことは歴史が証明しています。
僕の守備範囲は、「子育て」に関してくらいなので、せめて子育てをたくさん楽しいものにできるような仕事を残していきたいと思っています。
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● COMMENT ●
No title
多数の幸福が幸せに繋がるのか
例えばベビーカー議論しかりですが、彼らの考える公共性というのは多数の人が少しでも便利に幸せになることです。健康な青年壮年が弱者に一切迷惑や不快感をかけられないことを最も大切にしているのです。
ですから、バスで車椅子の方が乗降に多少時間をかけていたり、電車で赤ん坊が泣き出すと舌打ちや陰口(時間帯を考えろっ!など)酷いときには罵声が飛び交います。
私が遭遇した最も酷いケースでは、バスで1歳児を連れて(ベビーカーは持ち込んでいません)妊娠中に優先席が空くのを並んで待っていたら、後から来た若い男性が私を突き飛ばして先に優先席を確保して大股を広げてスマホゲームを始めました。
これは極端に酷いケースですが、多かれ少なかれこういう人はいます。電車の優先席などは時間帯によってはスマホゲーム優先席と化していて松葉杖の怪我人が前に立っていても一人も譲りません。
私の考える公共性とは、広く健康な人だけでなく乳幼児やお年寄り、障害を持った方などもみんながなるべく快適に便利に過ごせることだと思うのですが…。
こうなった一因は教育にあると思います。
日本の学校では何かを決めるときに多数決第一主義、多数決絶対主義が多く行われてきました(最近は知らないので変わってきているかもしれません)。
私の考えでは多数決が正しいことなんて全体の50~60%程度しかないと思います。少数派を押しのけたり極端な例では迫害して多数派だけが幸せになるというのは民主主義ではなく全体主義です。
全体主義は翻って多数派をも幸せにはしないと思うのですが…。現に彼らは小さなことで怒ってばかりいて幸福そうにはとても見えません。
ただ、日本人もそんな人ばかりではありません。
妊娠中や子供を連れているときに配慮してもらったり親切にしていただいたり、声をかけていただくことの方がずっと多かったのです。
「怒りの表明」というのは相手を動かしやすいものなので、怒られた経験は強く心に残ります。
また、弱者に怒りが向くのは当然です。怒りで都合よくすぐに動いてくれるのは弱者であることが多いから手っ取り早いのです。
個人にできることは怒りのしわ寄せを弱い立場の人に向けないこと、
理不尽な怒りのしわ寄せをしてくる人には毅然と対応することではないでしょうか。
「一介の庶民なのに統治者目線」
個人が、社会の構造について文句を言ったりしてると「でもあちら(大きくて強い方)の側からするとそれは必然」「でもそれが現実」とかなんとか言って、ただ個人を黙らせようとする人は本当に多い。その怒りを共有できる立場にいる人でさえ。
自分は諦めて受け入れてる、だからお前もガタガタ言うな(^^)って感じでしょうか。
容れ物をいじるのはすごく大変、でもだからこそせめてガタガタ文句くらいは言って、少しでも変えていこうよと私なんかは思うのですが、「そんな事言っていても仕方ない」どころか、権力を持った側に肩入れして「会社という組織にしてみれば…」などという忖度からの受容に落ちつく人が多すぎて…ほんと謎です。
まあ謎って言うか、多分、ただ楽なんだろうなとは感じますけど。
自責や弱い者への八つ当たりの方が、簡単ですから。
ただ、楽してる自分という自覚も出来ない人に「怒っても何も始まらない」とか知った風な事言われがちなので、とても腹を立てています^^;
弱者が弱者として言ったのでは効かないと皆思っている?
No title
自分一人でなんでもこなすことを自立と思っている節があります。
私個人は、助けてほしいとき助け合える関係が本当の自立
だと思いますが…。
助けてほしいときに助けてと素直に言えない言わない、
察することが大事で、察してもらえることが当たり前、
という文化はもう限界にきていると思います。
自分の事情と相手の事情の落としどころをコミュニケーションによってみつけていく、という丁寧な作業を
自分は心がけたいです。難しいですが。
関係ないんですが
もう3週間経ちましたがまだ終わらないようで、もしかしたら夏休みまで続くかも!という。。。すごいですね。共働きの親はとても困っていますが、でも幼稚園に文句を言う人はそんなにいないみたいで、ある母親は子供を連れて役所に行って ”ストが終わらないのはあなたたちが交渉に応じない責任、だからここで子供を預かれ”と乗り込んでいったようですよ。
記事に関係ないんですが、、、つい書きたくなりました。
記事をリンクさせていただきました。
報告が後になって申し訳ありませんが、
こちらの記事をリンクさせていただきました。
どうぞよろしくお願いします。
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private:女性、子供、家庭など
の棲み分け かつ
優先度が public>privateだなあと常々感じます。
子供をpublicなものとする風潮または
privateの優先度を大きくする風潮があればもう少し気楽に子育てもできそうですが。。。
しかし将来的には希望の芽があるかと思います。