”弱さ”の尊重 - 2015.06.27 Sat
明日の発表では、時間の関係であまりここを掘り下げてお話しできないので、ここにわかりやすく書いておこうと思います。
この「”弱さ”の尊重」というキーワードは、人間を考える上での21世紀のもっとも大きなテーマのひとつではないかと思います。
それは例えば直近では、医療・福祉・介護・生命倫理・保育・教育などの分野に直接の影響を与えていますが、ひいては社会全体に関わってくることでしょう。
僕の小学校の記憶で鮮明に残っているものがあります。
クラスの中に、とても身体が小さくていつも給食の食べきれない子がいました。
その子は、掃除の時間にまでそのまま座らせて食事をたべさせられていました。
ときには、なにかの邪魔になると判断されたのか廊下に机をもってこられてそこで食べさせられていることもありました。
目に涙を浮かべて頑張って食べていることも少なくありません。
現代的な観点からこれを見たら、あきらかに精神的な虐待であると考えられます。
でも、当時はこういったことは日本中であたりまえだったようです。
多くの方にこれと似たような経験があるのではないでしょうか。
(似たような事例としては、アレルギーがあるのに教師に無理やり食べさせられて、発作を起こしたなどというものもありますね)
なぜ当時は、これが是とされていたのか?
それは、「食べきれるのはよいこと、食べきれないのは悪いこと」という考えがはじめに揺るぎなくあったからです。
「食べられない子」ならば、「食べられる子」に、”してやろう”。”する必要がある”。
と、大人はそれを絶対的な価値観としてもっていたので、それを子供に求めたわけです。
でも、この子はただでさえ、身体が小さく、自信の出せない子です。しゃべる声も小さい、運動をしても人に後れをとることばかり。
そこにさらに、教師は食事でその子に”疎外”を与えることをしています。
これが果たしてその子のプラスになったでしょうか?
こういったことをされた少なからぬ人が、その経験を一生忘れない嫌な思い出として覚えています。
大人が「正しい」と思って子供に押しつけたことが、どれほどの実を結んだと言えるでしょうか。
よしんばそれで食事がとれるようになったところで、自己肯定感や、自尊心を傷つけられてまですることなのでしょうか。
こういうことって、実は方法論の話のレベルではないのですね。
人の思考の根底に、20世紀的な観点では、「強いことがよりよいこと、弱いことは悪いこと」という意識がありました。
上の例では、「食事が食べきれないことは悪いこと」、「悪いことなのだから直さなければならない」という思考プロセスがあったというわけです。
別の例で見てみましょう。
病気の人がいたとします。
「強さを是として、弱さを否定する」観点から見ると、
「その病気は悪いこと、だから治さなければならない」
となります。
それが障がいならば、
「その障がいは悪いこと、だから克服しなければならない」
となります。
以前と、現在の違いをがんの治療を例に見てみます。
かつて、その人ががんであった場合、とことんまで治療を続け、患者がどんなにその苦痛をともなう治療や、回復の見込みのないただの延命治療であったとしても、それを拒否することは最初から選択肢にありませんでした。
「病気はよくない、ならばそれを治す努力をおこたってはならない」
と見ていたわけです。
現在は、それとはずいぶんかわりましたね。
延命治療などはその人の意思で拒否することもできます。
たとえ、一縷の回復の見込みがあったとしても、苦痛をともなう治療などを拒否したり、ホスピスや家庭で自分らしい生をまっとうするといった選択肢も持てるようになっています。
これは、その人の疾病という”弱さ”を、否定すべきもの、克服すべきものととらえるのをやめ、”弱さ”すらもその人の一部であると認められるようになってきたからこそのことです。
給食の例に戻ってその観点で考えてみましょう。
その子が給食を食べきれないのは悪意があってのことでしょうか?
そうではありませんね。
そもそもの体格自体、給食をもりもり食べる子よりもずっと小さいです。
その子が小さいのは悪意があってのことでしょうか?
もちろんそうではありませんね。
悪意もない子に、なぜそんな罰を与えるような行為を「教育」の名の下にできてしまえるでしょう。いいえ、できるはずがありません。
その子は、身体が小さかったり、食事がたくさんは食べきれないといった「個性」をもっているのです。
「食べられなければならない」というところからそれを見てしまえば、「それはよくない」「それは”弱さ”だ」ということになります。
じゃあ、それを「直してやろう」と、大人は善意や正義感や教育熱心さ・・・から思うわけですが、
それは”弱さ”をその子の個性の一部として許容できないがために、その子の個性そのものを否定するということになってしまっています。
ひとは”弱さ”をもっています。しかし、その”弱さ”とはその人から簡単には切り離せないなにものかです。
その”弱さ”を許容したり、尊重することができないと、ひいてはその人を許容しない、尊重しないということになります。
先日ニュースで、看護師がねたきりのお年寄りを、普段から叩いたり頭を踏んだりして虐待死させたことが裁判になっているという報道がありました。
人は、相手の”弱さ”を許容できないと、「できないあなたは悪い」という見方、気持ちになってしまいます。
「こんなに介護の手間をかけさせるおまえは悪い、だから暴力を振るわれて当然だ」といった気持ちが芽生えてしまったのではないでしょうか。
本来、看護師という職業は、人の疾病という”弱さ”につねに寄り添うべき存在です。おそらく伝統的にも、人の”弱さ”をもっとも理解していた職業の人たちではないでしょうか。
しかし、残念なことにそれが必ずしもすべての人に浸透しているわけではなかったようです。
人の上に立つ立場の人は、常に”強者”になります。
子供に対しての保育士しかり、教師しかり、患者に対しての医師しかり・・・。
ですから、その人に”弱さ”への理解がなければ、相手への関わりが”強者の弁”になる危険性をつねにはらんでいます。
ときに、強者は強者であるがゆえに弱者のことが理解、許容できなくなります。
「できないおまえは悪い。ならば直してやろう」
これはもはや過去の考え方です。
(現実レベルでは、ここから派生してさらにひどいことが行われてしまいかねません。
「できないおまえは悪い、だから不当に扱われて当然だ」
「できないおまえは悪い、だから叱られて当然だ」
「できないおまえは悪い、そうしているおまえの家庭も悪い、だからイヤミをいってやろう。嫌がらせをされても当然だ」
などなど・・・)
その人の「”できる部分”と”できない部分”」、「”強さ”と”弱さ”」、「”よい部分”と”悪い部分”」は、切り離して考えられるものではなく、つねに不可分な存在としてあるのです。
明日の発表では「全一性」(integrity)という言葉を使いますが、それはこういう意味です。
その人の強い部分と弱い部分を”合わせて”(統合、integrate)、はじめてその人であると言えるのです。
「できないあなたもあなた。ではそこからなにができるかを考えてみましょう」
と、寄り添っていく見方がこれからの21世紀には必要なものとなっていくことでしょう。
現実の世の中は、強者が強者のために動かしています。
でも、人はみな、子供という”弱さ”をふんだんにもった状態で生まれてきて、老人という”弱さ”をふんだんにもった状態として死にいたります。
誰しもが、”弱さ”として生まれ、”弱さ”として死ぬのです。
”弱さ”を尊重することが、ひいては多くの人々の幸福につながることなのではないか?
ということが、この21世紀の世界的なテーマともなっているのです。
それが、
『ユネスコ 生命倫理と人権に関する世界宣言』
〇第8条- 人間の脆弱性及び個人のインテグリティ (integrity)の尊重
・文部科学省HP 生命倫理と人権に関する世界宣言
として、かたちになりいま多くのところで、これを実際レベルでとりいれ始めています。
保育も、教育も、まだまだ変えていかなければならないところがたくさんあることでしょう。
現場の人たちには、それが必要として迫られている時代にきています。
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● COMMENT ●
思い出しました
なるほど!
怒られはしませんでしたが、辛かったです。
でも、今の自分は専業主婦していて、心のどこかで子育てを苦痛に感じる親や、仕事を大事にする親にたいして、それを個性として見ていませんでした。
得て不得手、育児にも家事にもありますよね。私はただ単に一度に複数の事を出来るスキルがないという個性と、子供をそばで見ていたいという欲求で主婦なんですね(笑)
余裕をもって、周りの個性を見つめたいと思いました!
No title
10年も前にこういう事が言われているのに、未だに「弱いのは甘え、すなわち悪」みたいな風潮がはびこっているのかー。
インテグリティという単語を私も初めて知りましたし、シモジモの者に広まるには時間がかかるのですね…。
この記事をふまえて発表を見に伺いましたが
まさかの満員御礼で教室に入れず、お話全く聞けませんでした(T∀T)
でもお昼からは「おとーちゃんを囲む会」(もしくは「よそんちのお子さんと遊ぶ会」。歩き廻る子供達が可愛かった!)な風情で、気楽に楽しめました。
最後の「園」のお話が印象的でした。私も植物を育てるように子育てをしたいと思っているからです。
育ちの邪魔をせず、種子のポテンシャルを出来るだけ引き出せるよう、ただ手助けをしたい。
ところで私はおとーちゃんの仰る「弱い大人」で、いかんなーと思っておるのですが
昨日おとーちゃんがふと涙ぐまれた場面で、経験も時間も共有していない私が一緒になって泣いてしまい、
そうだった私はよその子が叱られていると無関係なのに泣くタイプの子供だった、つまり共感しやすいから、子供の感情に引っ張られやすいのも当たり前だと気付きました。
子供を観察して気質体質に合った対応をとるのは当然だと考えていたのに
意外と自分に関してはそれをせずにただ力ずくで行動をコントロールしていたなあ、だから失敗していたのだと理解した次第です。
この度は近い距離でよき薫陶を受ける事ができました。ありがとうございました。
昨日はありがとうございました
昼休憩中に一気に書くので駄文失礼します。
ノーマルシーとノーマリゼーションの違い、勉強になりました。
保育士の方にももっと認知されたいことですが、質問者さんのご意見のようにやはり保護者も同じ視点を持っていることが大切だと感じました。もっと世の中に広まるといいな。
ただ普通クラスに入園できた引け目や遠慮もあり先生に言えない親の立場という解答にも頷きまくりでした。知識だけでは済まず複雑な心理が混じりますね。
質問させていただいた、手をつないでもらいたいときの具体例、ありがとうございました。まずは自分自身に決意をしてから子どもの目を見て真剣に話しつつ本当に危ないことはなにがなんでも止め、成長発達を待ちます。
他にも、普段からの笑顔、粘土と種の話、過干渉、メリハリ、忙しい時は時間を決めて思いっきりあそんで、無理な時は無理とハッキリと伝えるなど、心がけて育児を楽しいものにしていきたいです。
最後に。
おとーちゃんさんは、とてもバランスのとれた方だなぁと感じました。知性だけでなく感受性の豊かさや、伝える力、堂々とした発表や質問力、さすがだなぁと感じました。
ありがとうございました
6/28のランチミーティング+囲む会に、子供と一緒に参加させていただきました。
拝聴する機会をいただき、ありがとうございました。
生のおとーちゃんさんにお会いし、お話を聴けただけで満足でした!
底抜けの優しさと、話し方・内容ともに歯切れの良さが心地よく、印象的でした。
お話のとおり、優しさと毅然とした態度は両立するのを、実践されているのを感じました。
おとーちゃんさんが涙されたときは、直感的に本記事のことではと思いました。
「弱さや、できない部分にも寄り添う」、私も忘れず大切にしたいです。
このような接し方は、子供が自分の弱さやできない部分を受け入れることを助け、
またおそらく親自身も、自分の弱さやできない部分を受け入れる方向に繋がると思います。
また機会があれば、ぜひ参加させていただきたいです。
私は「弱い大人」のタイプで、メリハリや毅然とした態度、依存が今後の課題です。
今後も、おとーちゃんさんに学ばせてください。
僕は、あるがままの姿を受け入れるようにしています。
弱いと思ってみれば、そのように見えてきます。
その後の対処も、最初に感じた感情によって、変わってくると思います。
それは、子どもの気持ちとマッチしていることもあれば、そうでないときもあるでしょう。
No title
「インテグリティ・全一性」と聞いて、
去年の人権週間の時の社内研修で「多様性(ダイバーシティ)」という言葉を習ったことを思い出しました。
一人ひとりの個性を尊重しましょう、
そしてその個性というのは「"強さ"と"弱さ"」から成り立っていることを認識しましょう、
なかなか難しいですが・・・親として、せめて自分の子供に対してだけでもこの気持ちを忘れずに行きたいと思います。
突然失礼します。
おとーちゃんさんのファンで、いつもブログを拝見させていただいております。
母としても、保育士としてもすごく勉強になります。
そんなおとーちゃんさんの意見をお伺いしたくて、初めてコメントさせていただきました。今回のブログと関係の無い質問である事をお許し下さい。
私は最近まで知らなかった言葉なのですが、5歳〜小学校低学年くらいの子どもに「中間反抗期」というものがある様ですね。
これは、以前は無かった言葉らしいのですが、最近の研究で新たに分かった事なのでしょうか。それとも、日本独特の?現代の育児が生み出したものなのでしょうか。
勉強不足で、知らないだけなのかもしれませんが、私は本来の子どもの育ちには無かったものの様な気がします。
もし差し支え無ければおとーちゃんさんの息子さんや周りのお子さんのエピソードや、おとーちゃんさんのご意見を教えていただけたら…とても嬉しいです。
ご多忙である事は承知しております。くれぐれもご無理なさらず、お身体を大切にして下さいね。
お疲れ様でした!
行きましたよ〜。
時間がなくて、お父ちゃんさんと次の方の発表のみでしたが…
ノーマリゼーションとノーマルシー、やっぱり難しいなあと思いました。
自分は何を難しいと感じているのかなあ、と考えているうちに時間切れ!
機会あれば、またゆっくり事例を交えてお聞きしたいです。
次の方の発表の後に質問されていた学生さん、素敵でしたね。
ハード面もまだまだな現在、それをカバーするのは、『人』。
コミュニケーション大切ですね!
私も関わることを怖がらない人でありたいと思いました。
そして今回改めて、「知ること、知ろうとすること」の大切さを感じました。
要支援児の大人になってからの生活が、少しでもいいものに、自分が送りたい生活が送れる事を選択出来ることが当たり前になるように、今後もお父ちゃんさんのご活躍応援しています!
ありがとうございました。
みんなの未来
参考になる記事ばかりで、
3歳の娘の育児の励みになります。
ありがとうございます。
29日の日経新聞一面の資生堂の記事はご覧になりましたでしょうか。
(ウェブで少しだけ閲覧できますが途中からは会員限定のようです。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGH21H0B_R20C15A6MM8000/)
もちろん記事の文字では分からない諸事情があるとは思いますが、
私は悲しく感じました。
諸外国では、
子供は地域や社会(会社を含めて)で育てる
という意識を感じますが、
日本はまだまだなのだなと。
子供は親の所有物ではなく、みんなの未来なのに。
No title
人って、矛盾だらけの存在ですよね。
強いことがベストで弱いことがダメ、ではなく、
強い部分、よい部分、弱い部分、悪い部分、すべてオーケー。
私も、良い母親でなければならない、と思いがちですが
私にもできることがあり、できないことがあります。
私は、しんどいときは「ママしんどいから寝るね、ごめんね」
といって寝ています。世間的にみれば子どもをほったらかして
ひどい親かもしれませんが、無理してイライラして子どもに
当たってしまうより良いと割り切っています。
子どもも理解してくれているように思います。
ぐっすり寝て、ごはんやお風呂さえできれば、オーケーです。
ごはんができなければ出来合いで、お風呂も1日くらい入らなくたって大丈夫です。
学校は減点法なので、どうしてもできないことに目が
いくのだと思います。
親だけでも、子どもを加点法でみてあげたいです。
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最近は精力的に活動されているようで、ファンとしてはとても嬉しいです。なにとぞご無理されないよう。
さて、記事のお話ですが、まさしく私もされていました。すごく屈辱的なんですよね…特に最後の一人になると。
廊下に出されたこともあります。
たくさん食べることは推奨されていて、ごはんを三回もおかわりして、他のクラスまでもらいに行く肥満の子を先生は止めないどころか、「同じ○年生なのにどうしてできないの」と私たち食べられない一群を批判するネタとして使っていましたね。
偏見かもしれませんが、女の先生に多かったように思います。
当時は個性なんて言葉は全くなく、甘えと断罪されました(家庭訪問で親が言われていたのでハッキリと覚えています)。
「悪い子はひどいことをされても仕方ない」という考えは私も大嫌いです。それこそ、弱いものをいじめたくなる精神の未熟性を肯定する、一種の甘えだと思います。
いじめられる方にも落ち度がある、痴漢に遭うのは露出度が高いからだ、ハラスメントを受ける側にも原因がある…みんな同じ根っこの単なる言い訳です。
それは事実かもしれないが、いじめ、痴漢、ハラスメントという行為の悪質性が薄まるわけではありません。当然、される側の原因解決にもなっていません。
しかし、社会的にはまだまだこうした考えが多いのが現実で、テレビの「有識者」でも堂々とそのように主張される方がいらっしゃいますね。
レイプされるような悪い女は殺されても仕方ないという、イスラムの一派のねじ曲がった主張と根は一緒だと気付いていただきたいものです。