子供の尊重の実践 vol.4 子供の姿を”過渡期”としてとらえる - 2016.03.11 Fri
「子供の尊重」を実践的に行うための大人の意識として、「子供を過渡期として見る」のお話をいたします。
子供の尊重を損なってしまう大人の関わりの根底に共通してあるのは、「子供を低く見る」大人の意識です。
「言ってもわからない」
「どうせやろうとしないだろう」
「叩かなければわからない」
石原慎太郎元都知事が現職時、「子供は中学生くらいまではどうせ言ってもわからないのだから、叩いてしつけるのも当然だ」といった発言をしました。
これはかつての時代に教育を受けた人の言葉ですから、現代の主流な考えではないと思うかもしれません、しかし、30代の子育てをしている人に聞き取りをしたある調査では現在でも「子供がわからないときは叩いてしつけをする必要がある」という質問にイエスと答えた人は50%を超えました。
その残りの人にも、「叩くことはしないが、子供はわからないものだよね」と考えている人はいることでしょうから、はっきり言って大多数の人の意識の中には「子供はわからないものだ」という見方があると言えるでしょう。
「子供はわからない」という見方が根っこにあると、大人の意識は「その子を信じない」「子供の力を信じない」ということになっていきます。
そのようであると、口ではいくら「個々の子供を尊重すべきだ」「ひとりひとりを大切に」「個性の尊重」などと言っていても、実際の子供への関わりは”やさしさ風味”をまとっただけのさして子供を尊重していない関わりになりかねません。
子供には、たしかにたくさんのできないことがあります。
なにかを要求したり、教えたとしてもすぐできるとは限りません。
あるときはできたことも、別のときにはできないこともあります。
ある人の前ではできることが、他の人の前ではできなくなってしまうことも。
子供にとって、できないことはたくさんあって当たり前なのです。
しかし、子供はつねに成長に向かっています。
「できない」ことはその子の確定した状態ではなくて、できるようになる”過渡期”にいる存在なのです。
「できないこと」は、いまできないだけで、いずれできることにすぎないのです。
「子供を過渡期として見る」というのは、そういうことです。
たったそれだけかもしれませんが、大人の意識をここに持ってくると、子供のありのまま(現在)の姿を肯定的に受け止められるようになります。
すると、「現状から出発する(現状を否定しない)」という対応ができます。
また、大多数の「できる子」たちが構成している集団を基準に、「発達の遅れている子」「発達に個性のある子」「幼い子」「生育環境が安定していない子」など子供を比べずともよくなります。
これは、子供の「個性を尊重する」「個人を尊重する」ということに派生していけるでしょう。
「この子はいまはこれができない、でもそれはこの子のペースでいずれできることにすぎないのだ」と見てあげられると、日々のひとつひとつの「できなければならないと大人が思い込んでいること」が、実はそんなに躍起になってさせなくてもいいことなのだと大人自身の意識の変化を持てるでしょう。
この姿勢を子供に関わる大人が持っていると、子供は日々をくつろいで過ごすことができるようになります。
すると、そこから生まれる心の余裕が、かえってその子の自発的な成長を自然に発現させてくれるようになります。
これを保育者・教育者が実感できると、より子供を「信じられる」「尊重できる」ようになります。
(前述のように、日本の子供の見方は「子供はどうせできない・わからない」というところから出発している傾向がありますので、職業として子供に関わる人であっても、なかなかこの「大人が”できるようにと”働きかけずとも、信頼感と安心感のある環境で過ごすことができれば、子供は自然と持っている力を発現する」という経験をすることが難しくなっています。
その経験をしないまま年月を重ねてしまうと、ベテランであっても子供を”思い通りにするためのテクニック”ばかりになりかねません。保育者には、経験年数の浅い内から適切な指導と経験・学習が欠かせないことだと僕は強く思います)
子供はバカではありません。
関わる大人が、
「この子はどうせできないわよね」
「できないのだから、○○できるようにしなければ」(背中に手を当てて誘導などはこれに該当する)
という意識を持っていると、それをその大人はあからさまにしていないと思っていても、もしくは無意識だったとしても、子供はそれを察知します。
大人であっても子供であっても、誰かに「自分のことを否定的に見られている」という気持ちは心地よいものではありません。いや、それどころか誰だって嫌なものでしょう。
「できないこの子をどうにかしなければ」と関わる大人が心の中だけでも(無意識でも)思っていたら、子供は強迫的に人に関わられる実感を持ちます。
これが日常の中で積み重なっていくと、子供はそれをとても負担に感じます。
その人からの関わりが嫌になってしまいます。ひいては大人からの関わり全般が嫌になります。
日常の中でもくつろいで落ち着くことができません。
すると、落ち着かなく多動的だったり、イライラしたり、反発する姿が多くなります。
幼い子、できないと目されている子はしばしば、こういった姿が見られますが、もしかするとそれは本来のその子の姿ではなく、大人の「その子を肯定的にとらえられない」大人側の意識が作り出したり、助長してしまった姿なのかもしれません。
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● COMMENT ●
No title
No title
年長さんの聞きとりにきた学校の先生。去年の卒園児の話を聞いている時に、卒園児が学校の冷水機をこわし、他にも何件かそういう問題行動を起こしているという話。
在園中は、そういった事が見られなかったので、今度出会ったら話を聞いてみようかと園の先生が言ったところ…
どうせ言っても分からないんだから、聞いても無駄です。理解力もありませんからと。
私はそれを聞いて腹が立って腹が立って!!
なんて子供をバカにした物言い!!
日々のやりとりに先生も疲弊していたのかもしれませんが…それにしたって、そんな先生といるからこそ、問題行動が増えるのでは!?
私の日々の保育にも、過渡期として捉えられず、出来るようにしようと躍起になっている事もあります。でも、決して子供側の問題ではなく、教師側の気持ちやアプローチ一つで目の前の事は変わる事ばかりですよね。
いのうえさん
お子さんがスプーンとフォークを上手く使えない状態で、茶碗を持ち上げて食べることを求めるのは少し酷では・・・思いました。
お子さんはスプーンとフォークを使って食べることに意識がいってしまって、他に気がまわせないと思います。大人は手元なんか見ずに、どんどん口に入れられますよね?感覚でわかるというか。目を閉じてても、箸を使って口に運べますよね?そのレベルまでいって、初めて茶碗を持って食べる、とか、マナーの類が意識できる段階にいけるんじゃないかと思います。スプーンとフォークの練習が先かと。
マナーを伝えるのは大事だと思います。知らないと知ってるのでは全然違いますし。一度でもさせているのなら、絶対に記憶に残ります。お子さん、覚えてますよ。いずれやりますよ。
ちがってたらすみません
そういうこととは違うのでしょうか?
そもそもおとーちゃんの発言でなければすみません。
いのうえさんへ
それで、いのうえさんの子育てのイメージは、あるべき姿、というものが先にあって、そこを親が教えて、目指していく…ような感じなのかなと
。
でも、おとーちゃんさんがおっしゃっていいるのは、「子どもは過渡期の姿」であって、いずれはみんな、できるようになる、ということです。でも、だからといって、いのうえさんが言われたように、待っていればそのうちできるようになる、というわけではないと思います。見本がなければ、そのできることを知ることは一生ないですよね(狼に育てられた少女のように)。
親ができるのは、その見本を常に見せ続けることなのではないでしょうか?
きっとわたしはいのうえさんより、かなりのぐうたら人間です。3歳の娘がいますが、わたしがお茶碗をもって食べていると、真似をしようと必死にがんばっているときが何度かありました。ほんと、なんでも真似するなあと思いつつ、お茶碗を落としそうな危ういバランスでもっているので(うちでは小さい時から陶器のおちゃわんなので)、「がんばってるね~でもおちゃわんを落としたら壊れちゃう…もう少し手が大きくなってから、お茶碗をもとうか~」を声をかけました。いのうえさんちとは逆ですね(^^;)なので、いのうえさんのマナーに対する意識はとても高いと思い、すごいなぁ、なるほどと思いました。
でも、これを書いていて思ったのですが、その時の私の意識は、「いずれ無理なくできるときがくるし、その時にすればいい」をいうことです。
子どもの「できるようになること」は、こころとからだがそろわないといけない、とおとーちゃんさんが書いておられたと思います(違ってたらごめんなさい(^^;)。
いのうえさんのお子さんはまだ、からだがじゅうぶんではないのかもしれませんよね…あぐりさんがおっしゃられてるように。
だから、いまはこころのほうに、種をまく時期?なのかなぁと。肘をつかないとかお茶碗を持つとかの指示はとてもいいことだと思います!でも、食事中に何度も言われてたら、お食事が嫌になってしまうかも…。ここは、子どもを信じて、一度言ったらあとは待つ、という姿勢でもいいのでは?一回の食事中に一度言ったらもうおしまいにして、あとは楽しく食べる♪そのほうが自分も子どもも楽しいですよ。だって食事のマナーは、それをしないと食べられないほど困ることでもないですよね?もちろん、3歳にもなって食べ物で遊んでいる、とかその子がもうやっちゃだめと分かっていることは、毅然と言う。そして、自分の食事の作法を日々、一緒に楽しみながら、見せていく。
おとーちゃんさんのおっしゃられていることを私なりに解釈し、アレンジ?してコメントさせていただきました。
いのうえさんのいくつかのコメントを拝見すると、きちんとされた方なイメージがあり、こんなぐうたらな私が意見するのは大変恐縮ですが、子育ては、楽しんだほうが、自分も子どもも幸せになると思いますよ!
と言いつつ、わたしも子どもに怒って自己嫌悪になることはあります…(^^;)
子供は大人が思うよりも大人
むしろ、子供って大人が思うよりもずっと深く物事を理解していると感じることが多いからです。
かけた言葉はちゃんと届いているのだと思います。
語彙が少ないから、気持ちを表現できない。
経験値が少ないから、正しい判断ができない。
身体の機能が足りないから、上手く動かせない。
だけであって、理解していないわけではないのではないかと感じることがたくさんあります。
おとーちゃんの言うところの「過渡期」という考え方ってそういうことなのではありませんか?
そもそも、理解できるかどうかは子供自身決めることで、大人が先回りして決めてやることではないように思います。
とりあえず話してみて、とりあえずやらせてみて、子供の反応をよく見て必要なところだけ手を貸してあげるということと私は受け取っています。
よ〜く観察していると、子供って本当にいろんな事考えていろんな事理解してるんだなぁって分かります。大人にとっての迷惑行為も、よ〜く眺めていると子供の思考回路が分かって、それなりに考えてるんだなぁと感心しますよ。
子供の尊重を考えている方は、ぜひ、いろんな方向から子供を観察してみてください。
おとーちゃん聞いてくださいー
トイレでうんちするようになりました!
待ったーー!長かったーー!!!w
パソコンの動画見ながら立っておむつで出す、という習慣が3才くらいからついてしまってたんですよねー
でもタブレット買ってトイレで動画見ながらおむつで出すところにまず持って行って、その後は動画見ながら便座に座って…となんとか軟着陸できました。
いつものやり方がいい本人はだいぶ渋っていたし、それをこう、促して説得して言いくるめて丸め込んで…(汗)母子共に頑張りましたー。
それこそ「健康な大人でおむつでしか出せない人はいない」と考えていたので焦りはなかったものの、毎日5才児の尻を拭いてやるのにはかなりうんざりしていたので、本当に良かったです(;;)
ところでメイさんのご質問を読んで、確かに!と思いました。
言葉の上ではなんとなく矛盾した感じになっていて、混乱してしまう…。
けどこれは順序の話なのかなと私は思っています。
まず基本として、出来ると信じて関わる。
その上で子供を観察した結果まだ準備が整ってないのかなと思ったことは期待値を下げる、という事だと私は理解してるんですが…。
まあ知りませんけど…w
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大人で使えない人はいないんだから待っていればそのうちできるようになるというのはよくわかるんですが、そういう問題でもないような気がします。
たとえできなくても、食事中に肘をついてはいけない、お茶碗は持ち上げて食べるということを幼児のころに徹底しておくと、後々寝そべって食べたいなぁと思ってやってみても、なんだか心地悪いと感じて真に行儀悪くはなれない子に育ってくれるのではないかと思っています。
石原さんの仰る「子供はわからない」は、理性でわからないという意味なんでしょうね。理屈でいうのでなく「それをされるのは嫌だ」という言い方をしたほうがいいと、おとーちゃんさんも仰っていますが、「殺してしまえ」か「鳴かせてみせよう」か「鳴くまで待とう」の違いのように思います。