過保護的支配 vol.1 - 2016.04.07 Thu
しかし、支配的な子育ては、こういったある意味わかりやすい支配だけでなく別の形にもあるのです。
それは「過保護」です。
「過保護」も程度を強めれば、それは子供の支配となり、モラハラ的な子育てと同様に思春期や大人になるまで好ましくない影響を残す関わり方となる場合があります。
(子育てはなんにつけそうなのですが、)程度や個性、状況にもよりますので一概に言えるものではありませんが、強い過保護をされている子供が慢性的に持っている感情は「イライラ」です。
・自分の力を発揮させてくれないことへの
・自分の力を信じてくれないことへの
・自分の意思を受け止めようとしてくれないことへの
・自分の行動を制限されることへの
・自分の成長を認めてくれないことへの
・自分の成長を押しとどめてしまう関わりをされることへの(=幼く扱われる)
・親の意思、希望ばかりを押しつけられることへの
・親への依存を高めさせられてしまうことへの
・自分の「幼さへ依存」されることへの
など
※(「子供の幼さへの依存」とは? :親自身が”子供の世話を焼くこと”を生きるモチベーションにしてしまうこと。極端なものとしては「代理ミュンヒハウゼン症候群」などもある)
こういったことへの強いイライラを慢性的に感じている子供がいます。
これは強圧的な支配とはまた違って、子供を長きにわたって支配、もしくは束縛を生むことに発展するケースがあります。
強圧的な支配が「怒り」を生み親への反発をすることもできることに対して、このケースの特徴は「過保護的支配」は子供がなかなかそれに対して「NO」と言い切れずに、ゆるやかにその支配・束縛が持続していってしまうことにあります。
子供からすると、それらの過保護は「親の自分を大切に思う気持ちの表れ」であって、それ自体は否定するようなものではないのだけど、その関わり方は必ずしも自分も好ましいことではないので、そこに苦しさがあります。
子供は親が大好きだからです。
どんな関わりをされようとも子供は常に「親を肯定したい」と思っています。
これは虐待をされている子ですら、そうです。
「過保護的支配」は「好意」からされていることなので、なかなかつっぱねられないのです。それゆえに束縛が長期に渡って、また生活や人生の隅々にまで及んでしまいます。
僕や僕よりも上の世代は、「グレる」つまり「不良化する」ことが多く見られました。
人のバイクや自転車を盗んで乗り回したり、大人から隠れてタバコを吸ってみたり、徒党を組んでケンカをしたり、シンナーを吸ったり、暴走族化したり・・・・・・。
これには強圧的な支配をされることが背景にはあったのではないかと思います。
それが明確な「支配」だったからこそ、子供は明確な「反発」という形でだしていました。
昨今多い「過保護的支配」は、「半分は好ましく半分は好ましくない束縛」です。
だから子供は明確には「反発」しきれません。
それゆえに、「ひきこもり」や「過食・拒食」「リストカット」「他者へのいじめ」「学級崩壊」などの親への直接的でない形で抵抗を示さなければならなくなっているのだと思います。
この「強い過保護的支配」がさらに程度を高めていったものには、子供の「私物化」「ペット化」「偶像化」が見られます。
”子供を自分の望む形にすることでかわいがる”という形での関わりです。
(本来の性別と変えて可愛がったり、幼児や児童に必要のないダイエットをさせたり、性的な発達を促したり、過度に大人びた知識を習得させたり、などの行為もある)
このような傾向で子育てをしている人は、子供が思う通りになっている内はよいですが、子供の自我が強くなったり、反発を示すようになってくると、そこから攻撃的・支配的な関わりになってしまったり、ネグレクト・放任になってしまうケースも見られます。
虐待死の事例の中には、ある時点までは子供を着飾らせてはSNSなどにひんぱんに写真を投稿して子供を賛美していたといったケースが見られます。
虐待までにはならずとも、そういった「自分の思うとおりにすることでかわいがる(自分の思うとおりでなければかわいくない)」といった”自己愛的”子育てになっている、それらの相似的な子育ての形は一般の家庭にもしばしば見られるようになっています。
0歳~2歳くらいまでが極端な過保護で、2歳以降自我が強まってくると放任気味になっていくといったケースは少なくないので、僕はできるだけ0歳から2歳くらいまでの人へ適切な子供への関わり方を伝えることは特に重要だと感じています。
そこまで極端でないケースでも、過保護が強くなってしまっている子育てを見てみると・・・・・・。
過保護をされることでのイライラを、子供は親からされる過保護的関わりの中で出していきます。
よくあるところでは、「わがまま」です。
その「わがまま」が理不尽であるほうが、より反発や発散になるので、過保護的束縛が強い子ほど、「親を困らせる理不尽なわがまま」として出しています。
このときの大人の対応で多いものが、強い大人タイプの人だと、「無視」や「怒り」。弱い大人タイプの人だと「いいなり」を引き起こします。
その人は、子供への「強い過保護」をよかれと思ってしているので、その人からはなかなか自分の元の関わりが問題であるとは見えません。
なので、子供への対応は「対症療法的」になっていきます。
子供の「困った姿」をでないようにと、押さえつけたりコントロールする方向を頑張ってしまいます。
そのために例えば無視したり疎外したり、または子供の要求をなんでもかなえることで「困った姿がでないように」とするのですが、それでは問題は解決しませんね。
なので、さらに子育てが迷走してしまいかねません。
これを解決するためには、「〇〇すればいい」といった関わり方の問題ではなく、まず第一に「自分の子供への姿勢に”気づく”」ことが必要なのです。
これは一連の記事に書いてきた「支配的子育て」に対しても同様ですね。
「どう対応するか」というカードをいくら増やしたところで、その大人自身が自分の関わり方の「問題点」に気づかなければ根本的な改善には向かわないのです。
前の一連の記事へのコメントでも「どうすればいいか具体的な方法を書いてくれ」といったコメントがいくつかありましたが、これらの問題ではこの「気づき」の方が重要なのです。「どうすればいいか?」を聴いてきた人はおそらく「対症療法的な効果的な対応方法」としての解を求めていたのではないかと思いますが、それだけ知ったとしても場合によっては迷走に油を注ぐだけになってしまう可能性が考えられます。
また、具体的な対応方法であれば、本にもブログにもすでに書かれているのです。
僕は”カンフル剤”や”テクニック”的な関わり方はあまり勧められないのです。個々の事情を踏まえてならば「こういった対応をやってみては」と言えるケースもありますが、文章で書くことはどうしても一般論としてのものになってしまうので、万人に適用することができないからです。
本やブログにすでに書かれているというのは、遠回りなように見えて「受容と信頼関係」からコツコツとスタートしていくことが結局は一番の近道だと思うからです。
ただ、それらもまずは大人自身が自分の子供への姿勢に「気づき」を持つことが必須なのだと感じます。
その「気づき」が十分でないまま、対症療法を目指してしまうとかえって迷走してしまうことでしょう。
また、「気づき」のないまま「受容」の関わりをしてもそれはなかなか子供の心の奥深くまでは届きません。
そして、現実の事例を見ていくと、「気づき」が十分になされれば対応のうまい下手はさして問題ではないようなのです。(これについてはまたの機会に書きます)
また、僕も過去記事でも何度か述べておりますし、コメントでもいただきましたように自身で「受容」が困難な状況にあるのならば、”他者の助けを借りて受容を肩代わり”してもらってもいいのです。
「この子育ての問題は、子供の問題ではなく親自身のウエイトが大きい」といったケースの場合、これがアメリカだったら一も二もなく「まずはあなたがカウンセリングにかかってみるといいでしょう」といったことを伝えるのでしょうけれども、日本の保育園でそんなことを言ったらクレームになりかねないのでなかなか言えないと思います。
でも、その人自身が「気づき」に至っていれば、対応の幅は大きく広がります。
つづく
- 関連記事
-
- 過保護的支配 vol.4 「気づき」 (2016/04/16)
- 過保護的支配 vol.3 (2016/04/15)
- 過保護的支配 vol.2.5 ちょっと「過保護と排泄の自立」へ寄り道 (2016/04/14)
- 過保護的支配 vol.2 (2016/04/13)
- 「やる気がないならやめろ」 (2016/04/08)
- 過保護的支配 vol.1 (2016/04/07)
- 僕の”仕事” vol.3 (2016/04/04)
- 僕の”仕事” vol.2 (2016/04/01)
- 僕の”仕事” (2016/03/31)
- それは「しつけ」ではなく「モラハラ」と言います vol.4 (2016/03/26)
- それは「しつけ」ではなく「モラハラ」と言います vol.3 (2016/03/21)
● COMMENT ●
明日は日曜日
強い過保護が、いかに子供にとって苦しいものかわかるような気がします。
私自身、子供を育てていますが、実の父親から私に対しても子供に対しても過保護に接してくることに猛烈な怒りが沸いてしまい葛藤して疲れます。
父親は良かれと思ってしてくれているので、その好意を迷惑に感じる私はヒドイ娘なのだろう、でもイライラしてどうしようもない、子供と一緒にいる時にこんなイライラしていたくない、という葛藤です。
娘は3歳ですが、周りをよく見ていますし、人の気持ちもわかります。大好きなおじいちゃんとママがギスギスしてるのを見せるのは本当に辛いことです。
結局はしばらく会わないという方法で何とか解決しました。といっても週一回ペースで会おうとしてきますが。。
過保護や強い過保護の具体例を挙げてもらえると助かります。
どこまでが必要な事でどの辺りからが過保護になるのか、もう少し詳しく書いてもらえませんでしょうか。
私自身が子供に過保護にならないよう気をつけていきたいと思います。
過干渉に過保護。
公園でもおもちゃの取り合いを子供達にさせたいです。
兄弟とは違う世界があることを知ってほしいけど、相手のお母さんがすぐ割って入ってきたり
それを見てるのに自分が何もしない訳にはいかず。。
そこで私がうまく立ち回ったりフォローできたりすればいいんだろうけど、難しいですね。
自分がそこに気付いてるってだけでも良しとしていいんでしょうかねぇ。
実践しないと子供には伝わってない気がするし。
将来どういう子になるかは自分にかかってる気がして自信ないです。。
気づいていても…
「受容」を一番のテーマに子育てをしてきましたが、
上手くいきません。
子供はどんどんわがままでひねくれて、
子供らしい遊びも下手だし、
意地悪になっていきます。
一つはじんママさんの仰るとおり、他のママや先生方の目です。
その時点で「できない」と他人に迷惑をかけ、
白い目で見られたり、
極端な場合はその場から排除されます。
現代では0歳でも泣かない、騒いだりもぞもぞ動かない、
1歳でも他人におもちゃを貸してあげるなどのかなりの「無理ゲー」を強いられます。
もう一つは夫の存在です。
夫は支配的子育てが信条で、
「子供は犬猫と同じだから怒鳴りつけるか叩くしかいうことは聞かない」
がモットーです。
私の「受容」は綺麗ごとだと鼻で笑います。
ところが、子供は夫だと子供らしい表現やお行儀のよさを見せるのですが、
私だと夜中にわざとギャーギャー騒いだり、一般の方の邪魔をしたりひどいのです。
しかも、子供は「犬猫と同じ」という夫によく懐いていて、いつも「パパ、パパ。」
遊びに行くにもパパを選び、
寝るときもパパ。
保育園の卒園で記念に作ってくれた花束もパパへ。
夫のモットーも
「愛しているからこそ厳しく接する。
どうでもいいと思っているから子供任せにする。
俺が尊敬していた大人たちは厳しかった。」
なので、受容より犬猫扱いの方が子供受けがいいということなのでしょうか…。
もしくは受容は家族全員でやらないと意味がないのでしょうか・・・。
2歳半くらいから静かに諭したり、お願いしても意味がないので私も大声で怒鳴ったり、
罵声を飛ばすことが多くなりました。
過保護と依存
甘えさせる事と甘やかしとか、子供として扱うことと子供扱いすることとか、保護と過保護とか、別だけど一見似てるものが多くて混乱します。
快と不快で分けようとしても、自分と子供でまた違い…こうして考える事で、子供のままの自分も一緒に育ててるのかも知れないですね。
おとーちゃんさんと、我が子に感謝です。
自分の子供時代の謎が解けました
私は母から「生まれてからずっと反抗期だった」と言われるくらい、ずっとイライラした子供時代を過ごしてきました。
どうしてそんなにイライラしていたのかずっと不思議でしたが、過保護的な支配が原因の可能性もあるんですね。
私は大学生になって一人暮らしをして親元を離れた頃から、親が過保護すぎるんじゃないかと認識し始め、4歳、1歳の息子たちを育てている今では、自分はほぼ確実に過保護的な支配を受けて育ってきたのだと思っています。
今思えば、若い頃はかなり問題ありな性格でした(今でも多少・・・)。
でも大学生の頃に夫と巡り会い、長い時間と夫の苦労おかげで、私の心の傷もかなり癒やされてきました。
そのおかげで、子育てでは「笑っていてくれればそれでいい」ということを信条にして、穏やかに過ごすことができています。
子供が生まれてから、性格がすっかり変わって穏やかになったので不思議に思っていたのですが、性格が変わったのではなくて、今の穏やかな状態が本来の性格なのかもしれないと、今回の記事を読んで思いました。
でも過保護的支配による影響なのか、子供が3歳を過ぎて自我が強くなり、自分の思うとおりに子供が行動しないようになると、イライラすることが増えてきました。
今の目標は、イライラを子供にぶつけないようにすることです。
今のところ、一番の解決策は時間に余裕を持つこと。
大事な息子たちのために、がんばります。
トラックバック
http://hoikushipapa.jp/tb.php/881-fe6514ed
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
藤子先生が、このような社会問題が実現することを予見されたのか、或いは過保護な家庭をただ大げさに風刺したつもりが冗談では済まなかったのかは分かりませんが、ずいぶん昔から過保護による子どもたちへの弊害は萌芽していたのだと考えさせられます。
私の祖母と叔父(いま60代なので、この漫画の主人公とほぼ同世代くらいです)も、いま思えばそんな感じだったなぁと思うのですが、でも私にとってはその過保護的な祖母の甘さに救われてきた記憶があるので一概にはいいとも悪いとも言えない複雑な気持ちです…。