女性蔑視の流れは止めないとダメ! vol.2 - 2016.04.26 Tue
保育園に通っている家庭にはさまざまなものがあります。
母子家庭になっているケースも少なくありません。
そういったケースにも、「夫のモラハラが原因」で離婚に至ったもの。
また、保育園在園中は結婚していたが子供が小学校にいってしばらくして、夫のモラハラや身勝手な行動ゆえに離婚してしまったというケースもかなりあります。
モラハラに限らずハラスメントは全体的にそうですが、している側に「悪意がない」という特徴があります。
むしろ、それはその人の価値観の中では「正しいこと」として行われています。
そこがこの問題の難しいところです。
夫婦間の問題で、そのように「離婚」という結末になってしまうということは、そのモラハラをしている人は「離婚」という最後通牒をつきつけられてすら、自分の非が見えない人が多いということを意味しています。
個人のモラハラの背景には、その個人の性格や行いというだけではなくて、その人の人格や人間性に影響してくる価値観や社会的な通念の問題があります。
だから、この問題は個人としての視点だけでなく、社会としての視点も持って考えていかなければなりません。
なればこそ、公の立場にいる人間が女性蔑視・性差別的発言を臆面もなく出している現在の状況には危機感を感じるのです。
そのような蔑視的意見が世に広まりそれが蔓延していくと、蔑視的見解を拠り所とするモラハラもまた多くなっていくからです。
僕はこれまでの経験で、そういったモラハラゆえに辛い思いをしてきた人たち、子供たちを少なからず見ています。
モラハラを生み出してきたこれまでの女性差別的な見方は、明らかに負の遺産です。これは乗り越えなければならない社会的課題でしょう。
そのためにはいろんな努力がいります。
世界的にも、それについてたくさんの意見を出し、実行し、それが必ずしもみなはかばかしい成果を上げるものばかりではありませんが、それを乗り越えるべく努力を続けているのは間違いのない事実です。
日本では現状それが逆に向かっているようです。
先般、「保育園落ちた」の話題が活発になっていた頃、政治家たちから「そんなのは便所の落書きだ」などといった発言が噴出していました。
そういった意見に政治家らしからぬ違和感がありましたが、それはなにかというと、政治家としてのオピニオン・”論”ではなく、それがその人個人の感情的なところから発露している否定の言葉だったからです。
そういった感情的な否定の言葉の背景には、それらを発言する人の精神的な背景にこの「女性蔑視的」な感情があるからこそではないでしょうか。
くだんの不倫をして隠し子を作っておきながら、一方で世間には「子供を作ったのは親の責任だ」と発言した議員の意見の根底にはリンク先の記事で筆者が述べるように、本質的には「子育ては”母親”の責任」という価値観、ひいてはその背景にある女性蔑視的な価値観が見え隠れしています。
その観点でいろんなことを見直してみると、世の政治家のおじさんたちの中には女性蔑視的(もしくは男性中心主義的)価値観でものを見ていることがわかってきます。
その保育園問題を提起した山尾議員に対して、国会で品位を欠くヤジが多発したことも話題になりました。
そういった感情的な否定の根っこには、やはり女性蔑視的価値観があることが感じられます。
また、2014年6月の東京都議会で、「女性の妊娠・出産についての東京都の支援体制」について質問していた女性議員に対しても、「自分が早く結婚しろ」「お前は産めないのか」などのヤジが飛びそのヤジに周囲の議員も笑いの声を上げることで同調を示すといったことがありました。
これは「女性の妊娠・出産」に対する支援を厚くして欲しいという趣旨の質問内容だったのですが、そこでのヤジが単に一女性議員に向けられたわけではなくて、その根本には「女が子供を産むのになんで支援をしてやる必要があるのだ」といった女性蔑視的感情がそれらのヤジにつながったと考えられます。
これも明らかに女性蔑視がそれら政治家の人たちの根底にはあることを示唆しています。
つまり、”女性議員に対する蔑視”の他に、”女性の存在が社会の中で大きくなることに対する嫌悪”という二重の構造があるのです。
報道では、女性議員個人に対する風当たりのところだけしか取り上げていなかったけれども、問題はもっと大きいのです。
さて、興味深いのはこういった女性蔑視的な見解を持っている政治家たちが、子供に対する「道徳教育」にとても熱心であることです。
「親には孝」
「年長者には尊敬」
「子には慈しみ」
そういったことを子供たちにしっかり刷り込みなさいと考えています。
でも、他者を蔑視するような人が言うところの「道徳」を僕は素直には受け取れません。
「親には孝」 (特に父親には絶対服従。同じ理屈で国家や会社にも服従ね!)
「年長者には尊敬」 (目下の者には不当な扱いをしてもよい)
「子には慈しみ」 (体罰はOK。むしろするべき。子供を支配的に育て、個性や人権意識など持たせるな!)
そして、
(女は出しゃばるな。男の言うことを聞いて、子供を自分の努力でまっとうに育てて、親の介護をしろ。それの支援にお金は回さないけど、しっかり働いて税金も納めてね)
そのような本音が見えてしまうのです。
「いじめ」の社会問題化以来、政治が教育に強く口出しできるようになってきてしまいました。
これからの社会に生きていく子供たちが、そのような本来は乗り越えるべき昔の価値観をもった大人たちに蝕まれてしまわないかについても、僕は危機感を持っています。
とりあえず、いま表面化している問題でこういった流れを悪い方へ向かわせないために取り組めるところは、「女性蔑視的意見」に明確にNOと言っていくことではないかと思うのです。
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● COMMENT ●
モラハラのこと
しかしながら、それがモラハラかといえばわからないと思うんです。
私は、いくつか説はあるようですが、元々の、マインドコントロールを伴う人格障害によるものだというのを支持しています。これは実際に被害に遭ってないとわからないかもしれないです。やる人は、ある日突然なるわけではなく、もう治らないです(可能性はゼロでなくても、本人はそれが最も楽だからやめるわけがない。心の奥底では悪い事をしているのは知っているけれど、それを認めると生きていられないから認めるわけにはいかない。単純な八つ当たりやいじめとは構造が違っていて非常に複雑でわかりにくいです)
被害者に自分のもつべき責任を全てぶつけます。そのために自責の念、罪悪感をもたせます。誰にでもあるものだからかかりやすい。しかし被害者になる人も「私は嫌だから嫌だ!」っていう「自己を第一に守る」というのが欠けていたりするんです。だから、加害者に治れというのは無理だから、被害者がそこを変えていくのがいい道になるんですが・・・。(夫婦間だと「私が悪いから頑張る」って構造で、被害に遭っている人はそういう発言してます。でも悪化すると本当に自死しかねない><)
2歳頃に認められなかった事や、自己主張をしっかり持てなかったことは非常に影響が強いと思います。
こちらのお話を読んでいて、本当に保育の現場での子供への対応も重要だと一層感じました。
”モラハラ”になるかどうかはわかりませんが、被害者気質になりやすい土壌を作るように思います。(あるいはモラハラにならないでなんとかできるかもしれない「ゆとり」を無くしているかもしれない)「自分がどうか」ってよりも周囲に合わせなさい、が優先されると、実際の世の中ではその「周囲」が画一的なものではないのでどうやっても合わせることは出来ません。なのに「私は右に行けばいいのか左に行けばいいのかわかりません」って他人に委ねることが増えている。マインドコントロールは簡単です。
他者基準で考えるべきだ、という圧力?には、日本人的な面もあると思います。
また、保育士にしろ親にしろ、「古い考え」というだけではなく、根本には、「それを否定すると自分が失われる(かもしれない)」という恐怖や、自分が育った時と比べて裕福だからムカつくという嫉妬などの個人的な未熟な精神も関係しているかもしれないと思います。要するに悪循環です。
数十年先の日本のためにも、そういう個人的な側面も捉え、行政など「立場が上」であるものが、カタチで締めていくしかない面もあるかもしれないですね?!
短くできませんでした、ごめんなさい。以後控えるよう努力したいと思います。
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仕事上、モラハラで離婚危機、にはよく接しますが、公職の方々の蔑視発言、社会で蔑視を容認する雰囲気の広がり、モラハラ個人の自己正当化を強化、
の悪循環を既に感じます。
社会でも、どなかたのコメントにもあったように家庭の中でも、容認しない努力をしていく必要もあるのでしょうね。