保育における「安全と危険」 - 2016.05.30 Mon
かなり交通量のある大きな道路の信号をスマホを見ながら、けっこうなスピードで走っている人もしばしば見ます。
そんな人を見かけると僕は、ついつい「あ~この人たちは保育士はできないな~」と感じてしまいます。
たしかにその人たちは事故などには遭っていないかもしれません。
しかし、十分に予測が可能な危険をかえりみることなく過ごしてしまっています。
スマホを見ながら運転していてもその人は、電柱にぶつかったりはしないでしょう。しかし、右折してくる車の運転手が、もしうっかり見逃したりしてスピードを出したまま横断歩道に進入してくるかもしれません。
そのとき一瞬の判断ができなければ、そのままひかれてしまう可能性もあります。
自分の能力や判断だけで安全が確保できるのは全体の一部でしかありません。
しかし、自分だけや、もし子育てで考えたとして我が子1~2人というのであれば、安全確保や危険予測がおおざっぱでもどうにかなってしまうものも、大勢の子供を一度に見なければならない保育ではまったくそのようにはなりません。
「まあ、大丈夫だろう」という気持ちは、それ自体が危険を招きます。
例えばのはなしですが、散歩して毎日通る道で建設工事をしているところがあるといった場合。
自分一人であれば、そこを通ることもなんでもありません。
しかし、子供を10人、20人~30人と引率して歩かなければならない状況では、これはなにが起こるかわからないリスクがあがっている状況です。
少し遠回りになったとしてもそこを通らないといった判断が要求されることもあります。
職業的にそういった判断や心構えを持っているところから、”ながらスマホ”の人をみると、僕には自分の安全を自分から半分投げ捨てているように見えてしかたがありません。
大勢の子供の命を預かる保育士には油断や過信は禁物です。
◆”子供の経験”と保育の難しさ
しかし、保育上では「安全、安全!」とばかりでは適切に子供の成長を促してあげられないというのが大きな問題です。
例に挙げた工事現場の側を通るといったことは、これは子供の成長にはまったく関係ないことなので、させる必要はない危険。つまり「避ければいい危険」「避けなければならない危険」ですね。
でも、例えば
「ジャングルジムから落ちた子がいた」
↓
「ジャングルジムは危険だ」
↓
「ジャングルジムはやらせない」
↓
「撤去してしまえ」
これは、適切でない方向の安全確保の考え方になってしまっています。
この考え方をつきつめて保育したとしたら、最終的には子供を網かなんかに入れて梁からつるしておくか、毛布にでもぐるぐる巻きにして寝っ転がせておけばいいということになってしまいます。
そこまでは冗談としても、
「積み木は投げたら危ないわね」→積み木なし
「ボールも当たると危ない」→ボールなし
「走り回ると危ない」→ベビーサークルに閉じ込めておく
「遊べなくて噛みつく子がいる」→テレビでも見せて静かにさせておけ
そのような保育になってしまう可能性は少なからずあります。
そして実際にあります。
子供が健全に成長していく過程には、様々な経験や子供が自発的に取り組める余地といったものがたっぷりと必要なのです。
目先の安全だけを目指していてはそれを保障してあげることはできなくなってしまいます。
ここが保育の難しさです。
最近では特に過敏な保護者もおり、保育施設もその点は理解していたとしても、過剰におもんぱかって本当は必要な経験であってもあらかじめ排除してしまおうといった対応をとるようになってしまっているところも少なくありません。
以前に、僕が丸く作られた幼稚園の園舎を紹介したことがあったのを覚えていますでしょうか?
「それだけでなくもうひとつこの園の素晴らしいところがある。今度それについて書きます」と言ったままになってしまっていたのですが、それはこの↑の点をきちんと子供に保障して、しかもその必要性を親に伝えていく努力を惜しまない覚悟があるというこの部分を述べたかったのです。
現代において、これはけっこう大変な仕事です。
単に、珍しい形の園舎だから素晴らしいのではないのですね、子供の成長にそこまで踏み込んでいる姿勢・信念・覚悟が素晴らしいのですね。
さて、では例えば木登りを例に取ってみましょう。
木登りが安全か?安全ではないか?
という問いがあったとき、それに正解はありません。
しいて言うならば、「それをしても安全な子もおり、危険な子もいる。しかもそれは日々変わる可能性もある」というのが答えです。
例えば5歳児が10人いたとします。
その子たちの中には、その木に登っても安全な身体能力を持った子もいれば、そうでない子もいます。その危険と安全の間にもいくつもの段階があります。10人いれば10人分ありますね。
安全か危険かを自分で判断できる子もいれば、できない子もいます。
その日の精神状態・感情のあり方から、「今日はこの子はいつもよりリスクが高いな。目を離せないな」といったこともあります。
個々の子供だけでなく、子供集団としての力もあります。
能力の低い子をサポートしてあげられる子供同士の関係ができていれば、その集団での安全率はあがることでしょうし。逆のこともあります。
そういったことが、個々の子供、その集団ごとに違います。
保育士は、そういった子供の能力や行動を推し量ったり、もっと大きな視点から集団の力を伸ばしたりといった配慮が必要になってきます。
それを日々、気を緩めずにしなければなりません。
なんでもかんでも「あぶないからなくしちゃえ!」は、ただの手抜きです。
でも、いまの社会の流れは「危ないものはどんどんなくせ!」になっています。
公園の遊具ひとつとっても少しでも、一度でも、些細な事故があったものは撤去されてしまったりが現実に起こっています。
裁判の判例などから役所はなにかあったとき責任をとらなければならない社会になってしまっているので、自治体にとっては撤去してしまった方が後腐れないんだよね。
危険にも、物理的・器質的な危険と、ヒューマンエラーによる危険とがあります。
モノが危険といいだしたら、ティッシュ1枚だって危険なのです。
パンを食べて窒息することだってあります。
じゃあ、「パンをなくせ」というのはおかしいですよね。それとどうつきあうかが大事ですね。
公園の遊具だって同じです。
風が吹いたら倒れてしまう滑り台だったら確かに危険です。
でも、使い方が悪くてケガをした、発達段階にあわない使い方・使わせ方をしてケガや事故が起きた。これは滑り台が悪いわけではありません。
そこはヒューマンエラーによる危険と考えて、適切な使い方を考えるべきだし、また「そこに危険があるからやらせない」のではなく「その危険をどう回避するかを経験で身につける」ことをさせなければ、本当の子育てにはなりません。
よい保育をしようとしたら、安全・危険への配慮を全力でしなければならないと同時に、経験・成長のための織り込み済みの危険を許容して、しかもそれと日々付き合っていく覚悟がいるのです。
現代は、子供の実際の経験がどんどん減ってしまっています。
たくさんの子供の経験する場を奪っておいて、「このの子はテレビゲームしかしなくて困っています」はこれは問題の全体像が見えていないということですね。
しかし、このことが多くの子にとって、特に都会で住んでいる子には現実のものになってしまっています。
そんなことを考えてみると、現代において大人が家庭や保育園・幼稚園などで本当に取り組まなければならないことがなにか、というのが見えてきますね。
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● COMMENT ●
安全に怪我する方法
保育者にも、保護者にも必要なものかもしれません。
最近もやもやしていたのが、言葉で表れている感じでした。
今年入園した年少の息子、今まで外の公園(主に砂場。それ以外も)では裸足で遊び、泥まみれに。雨の日でもたまには雨の散歩をしていたのです。が、入園した園で「どうしてお外で裸足で遊んじゃダメなの?」「どうして、雨がやんだのに、外で遊んじゃダメなの?」
私自身も「手入れされた園庭でちょっとくらい怪我しても、そこから学んで、痛けりゃ靴をはくでしょう」「雨が上がったのなら庭いいのでは?(雨が降っていても遊具以外は平気そうだけど…)遊具は拭くといいのでは?」と思いつつも、
先生は1人で大ぜいを見てくださっている。一人でも命を守ることは大変なのに、、こんなにたくさん。と言う思いから、先生と意見を合わさなくては…!と何度も聞く息子に最後には「きまりだから!」と答えてしまいました。自分でも納得していないのに。
園や先生の考え方も十分理解できるし、信頼してあずけているので、お任せしたいと思うのですが・・・。
園だけではなく、いろんな所で、怪我をする前の予防、多い気がします。
が、もしかしたら小さな怪我にでも過剰な反応があったから、そうなっているのかもしれませんね。
経験・成長のための織り込み済みの危険を許容して、しかもそれと日々付き合っていく覚悟を先生方が持ってらっしゃるのを知っていますよと お伝えすることも必要なのかも。。。?
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世の中には、「使い方によっては必ずしも安全ではないけれど便利なもの」がたくさんあります。車や刃物、工具など。方向は違うけれど、インターネットもそうですね。
そういうものには大体、重大な怪我をしにくい方法というものがあるんです。禁止事項や手順、気をつけるポイントなど。
ただ、勘違いしてる人が多いのは、これらの方法は「怪我をしない方法」ではなく、「怪我を最小限に収める方法」であることが多いです。
一番大切なのは、なぜ禁止されてるのか、なぜやり方が決まってるのか、なぜそこに気をつけなければならないのか、もしそれをやらなかったらどんなことが起こるのかを考える、想像することです。
とにかく子供に怪我をさせないという事よりも、なぜともしを伴った安全に怪我する方法をしっかり教えて、小さな痛い思いを積み重ねてより危険を回避できる方法や判断を身につけていくことが大事なのだと思います。
何かあった時に「なぜそうなったと思うか?」と聞くとポカンとする人が多いです。安全も危険も何も考えていないんですね。
この考えない、考えられないことが、一番安全でないことであり、もっとも危険なことだと思います。
必ずしも安全でないものから遠ざけるよりも、安全に怪我する方法を教えていかなくてはいけないのでしょうね。