現代版 子育ての必須知識 vol.2 - 2016.06.24 Fri
「子供の姿は、”私”が”すべて”を作り出さなくていい」
これについて、もう少し具体的に見てみましょうか。
例えば、僕の所に寄せられる相談でとても多いものに「友達関係」があります。
「2歳の息子は、すぐ私の陰に隠れてしまってお友達と遊ぼうとしません。どうしたら遊べるようになるでしょうか?」
または、
「幼稚園に行っているのですが、そこでは自分一人でいることが多く、お友達とあまり遊べていないようです。どうしたらお友達に関心をもってくれるでしょうか?」
こんな悩みをよく耳にします。
こういった悩みの背景には、「私が子供の姿を作り上げなければ」という先入観が隠れているわけですね。
おそらく「友達関係」というのは、子供が自分でなんとかするしかない最たるもののひとつです。
でも、それに対してすら「私がなんとかしなきゃ!」という気持ちを、現代の多くの人が持ってしまっています。
「私がすべてを作り出さなくていい」ということは、子育ての場面で数限りなくあるのですが、ほかにも具体的な例を見てみましょう。
例えば、”食べ物の好き嫌い”といった場面では、
極端に言ってしまえば、親が「好き嫌いを直さなければ」と頑張らなくても、それを改善していける要素は子供の成長の中にたくさんあります。
ニンジンを嫌いな子がいたとして。
そのときは子供の発達途中の味覚が、そのなかにあるえぐみやくせを鋭敏に感じ取って、身体の原始的な反応が「これは食べたらよくない」と感じさせているのかもしれません。
そうであっても、それは”時間の経過による成長”や、他のものを食べていく内に獲得される”慣れ”が、しだいにニンジンも食べさせてくれるようになるかもしれません。
また、大人がおいしそうに食べているのを見て、意識的な面から抵抗感をなくしていくかもしれませんし、園や学校などの外の世界で「残さず食べることが大事です」とか、「野菜も食べましょう」といったことを言われる中で、”社会性の獲得の一部”としてニンジンが苦手ということを克服していくかもしれません。
さらには、そこでの他の子供が普通に食べているのを見て、「自分も食べられるんだ」と無意識に感じ取っていくかもしれません。
そのように子供の姿・行動は”親だけ”が作り出すものではないのですね。
でも、「しつけ」には様々な「〇〇できなければならない」といった教条的な要求がたくさんあり、それが強迫的に親に「〇〇させなければ」という意識を持たせてしまいます。
しかし、子供の成長はなんでもかんでも「親が△△すれば〇〇になるんだ」というものではありません。
子供の成長には、親が直接手を出すことができない部分がたくさんあるということを現代の子育てする人は知らなければならないと思います。
昔の人は、感覚的にそういう部分のあることを理解していたようです。
現代では、子供に関わる経験などが少なくなっているので、知識として理解しないといけない状況にあるのだと考えられます。
最後に
「子供の姿は、”私”が”すべて”を作り出さなくていい」
このことを、別の言葉で言い換えてみると、
「子供には親の手が届かない”のびしろ”がたくさんある」
と言えると思います。
だから、強迫的に自分や子供にプレッシャーをかけながら子育てする必要はないんですね。
のんびり、おおらかに子供をみていきましょう。
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● COMMENT ●
自分と一体になった「父ちゃん母ちゃん」しかいなかったのに、他者なるものがいた!
ご飯をこぼしながら食べたら一緒に食べている人が不愉快になると、いくら親が説いたところで、実際に一緒に食べている人に嫌がられなければそんなことわからないんですね。
子どもが就園するまではそういうことを想像することもできませんでした。
まだ、子供は管理しなくては生活できない(支配的であれ温かく見守る方法であれ)、子供は経験がないからわからない、という意識から抜け出せていませんが、親がわからせなくてもよいというところまでは理解できました。
うちには年中の娘がいますが、子どもたちを見ていると、逆に変に大人の意図をよく読み取って器用にこなしてしまう子のほうが長い目で見ると悪い影響を受けているように感じるときがあります。
4歳くらいでも友だちより自分は多くのことができると自惚れが強く、できない友だちをバカにしたり、友だちの失敗を喜んだり‥それって、大人からの期待に敏感だからこそですよね。
そういう子は今でこそ優等生かもしれませんが、長い目で見たらかなり可哀想だなと思います。
大人の意図なんか無視して自分の本能に伸び伸び従える子どものほが幸せに思えます。
その「無理」を抱え込むのはほとんどの場合子供の方。
私は子供に何かコメントするとき、
1.気づきを与える
2.それをするとどうなるか答えを教える
3.大人の強権を発動して、やらせる
という3段階で考えています。
1番だけで終わらせようと思うのですが、2番になることも多く、たまには3番も。
1番だけで、子供がこちらの希望する行動をとってくれないときは、つい2番、3番に進んでしまうのですが、1番でとどめておく方が子供の成長にはいいのですよね。
子供と接するときには、短期的にも長期的にも「待つ」ということが大事なんだな、と思います。
そして今ほど便利な世の中ではなかったので子供に気をかける時間もさほどなく子供は子供同士または 親の仕事の後をついて歩き回り親の手伝いをし元々同じ人達と長い時間生活する環境で人との距離感もわかっていたのではないかと思います!!
無題
私には小学生の娘がいて、親抜きで友達と遊ぶ機会が増えてきて、正に「育つチャンス」に満ちています。生憎公園で、他人から叱られたりという昔ながらのチャンスは減りましたが、色々な大人や友達との関わりで成長していってます。
ただ、根底の、子供のしたことへの「責任」は親が失わないようにしないとと感じます。
しつけをしないことの弊害と言いますか、勘違いの放任が、増えています。その尻拭いは他所の親や家庭が負担することがあります。
親の心や体の負担を軽くするためだけの叱らない育児ばかり増えないように、勘違いさせない伝え方をしてほしいです。
ありがとうございます
親が△△すれば子は◯◯になるんだ は 子が◯◯でないのは親が△△しないせいだ と変化して言われたことがあります。
長男の排泄の自立が遅かったので、実家の母が「トイレの躾ができないのは親の怠慢!トイレでさせないからよ」と繰り返し言っていました。言われることで一番しわ寄せがきたのは長男でした。
私は今すぐさせなければと無理やりトイレに連れて行ったり、言葉で責めたり。
今思えば虐待でした。
こどものためでなく、自分のためにそうしてたのです。
信じて待てなかった自分。
私は頑張ってますアピールをしていた自分。
情けなく、長男に申し訳ない限りです。
先日、長男に謝罪しました。その時にポツポツ話してくれました。
彼はあの期間、じっと耐えていたのです。
やらなきゃいけないのはわかってる。でもトイレでの排泄が怖くてできなかったのです。
まだ夜のオムツが外れていませんが、最近朝までおしっこが出ない時があり、その時は嬉しそうです。出てた時は恥ずかしそうにしていて精神的な成長を感じられます。
今度こそは信じて待とうと心に決めました。
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私は人見知りがひどかったのに、我が子は誰にでも声をかけて友達にしてしまいます。その姿をみて、突然変異だね…と主人と感心してしまいます。
もうすぐ、第二子が誕生します。楽しい子育てをしたいなぁと思います。どんな性格の子供がお腹の中に来てくれたのかなぁと、楽しみに思います。
私は、お腹で赤ちゃんを育て、産む!それからは産まれてきてくれた赤ちゃんが生きる力を発揮していく!ということなのかなぁと思います。