「なめられるな」は保育ではない! - 2016.07.05 Tue
具体的にはこんな事例も寄せられました。
・遊具の取り合いで相手を叩いてしまった1,2歳児に「先生も○○ちゃんのこと叩いていい?」と脅す
・ドアの柵に上って部屋の外に出ようとする子に対して、わざとその上った柵から落とすことで恐怖感を味合わせ、それをさせないようにする
・食べこぼしのある1歳児に対して、冷たいニュアンスでダメ出しを繰り返していく
・「あなたが甘いから子供が言うことを聞かなくなるのだ」と、厳しさ冷淡さを出すことを先輩保育士から要求される
・言うことを聞かない子に対して、まるで罰を与えるように集団から隔離して疎外感を味合わせることで大人の指示を聞かせようとしむける
などなど。
こういった保育が、日本中でまだまだ行われていると思うと大変残念に感じます。
不当に扱われる子供の気持ちを考えるとはっきり言って怒りすら覚えますが、同時に「かわいそうだな」とも強く感じます。
「かわいそう」というのは、その保育士に対してです。
そのような形でしか保育を身につけさせてもらえなかったということが、嫌味ではなく本当にかわいそうだと思います。
たぶん、そのような保育をしていてもあんまり楽しくはないのではないでしょうか。
そのような支配型の保育をしている人にもいろいろいます。
なかにはもともとのその人の性格が他者に対して支配的だったり、高圧的な傾向を持っていて保育でもそれがでているケースもあれば、子供のことを大事に思えていて善意やあたたかみも持っていながらも、「そういうことが保育なのだ」と理解してしまっていて子供にそのような保育をしてしまっている人も少なくありません。
僕は思うのだけど、保育の専門性と保育の実践との間には大きな乖離(かいり)があります。
本来それは一致していなければならないのに、まるで別個のようになってしまっています。
「子供になめられるな」といった子供への見方や、それに類するようなことは、保育の大学や養成校で教えられたことなどまったくないはずです。
しかし、現実にはそのような保育が横行してしまっています。
本当はそこで習っていることは「子供になめられるな」といった考え方とはまったく逆の子供の見方・関わり方です。
これでは、学校で習ったこと、もしくは資格を取得するために学んだことまったく無駄になっているということです。
つまり保育士は、国家資格とは名ばかりでその専門性は認められない状態と言われても仕方ありません。
セミナーに参加された方の中には、学生の時に実習にいった先の保育園がしていることがあまりにおかしく感じたので、保育園に就職するのをやめてしまったという方もいらっしゃいました。
立派な保育をしているところももちろんあります。
しかし、とても専門性があるとは言えないレベルの施設も少なくないのが現実です。
これからの時代、保育のもつポテンシャルはさらに重要になっていきます。
保育は現代に適応する形で変わらなければなりません。
はっきり言ってしまうと、「子供になめられるな」と保育士が言っているようではあまりに勉強不足。それは40年前の保育です。
40年前ですらそれはいい保育ではないけれども、家庭の養育力などがあって園でそのように不当に扱われても何とか子供はバランスがとることが可能でした。
でも、現代ではそれは無理です。
保育をきちんとしようと思ったら、「なめられるな」という言葉はけっして出てこないのです。
「そんなわけはない、保育において子供になめられないことは何より重要だ」と思われる保育士の方がもしいましたら、学生の時につかった教科書を見返してみて下さい。
それが40年前のものであろうと、今のものであろうと、「なめられるな」に類するようなこと「保育者は威厳が大切」そういったことも含めて一切書いていないはずです。
「子供になめられるな」という保育は、「しつけのメソッド」を背景とした”支配型の関わり”が導き出してしまっている保育観です。
これで保育をしていくと、多くの場合行きつくのは”冷淡さ”です。
「子供を○○にしなければならない」
それを第一の目的としてしまえば、浮き上がって見えてくるのが「その子のできないところ」になるのは時間の問題です。
そこでは、あたたかみのある人でも「できないわね」「困ったわね」「どうすればいいのかしら…」という、子供からすると受け入れられていないと感じるものがかもしだされます。
あたたかみがない人がそれをしたら、「できない姿のこの子は受け入れるのには値しない」といった冷淡な見方に簡単になってしまいます。
そういう人は「できる子」しかかわいがれなくなります。「できない子」はおちこぼれにしてしまいます。
それでは専門職としてのプロではありません。
保育において、第一の目的は「○○できる子にすること」ではないのです。
このことがすでに保育者の大きな誤解となっています。
保育の第一の目的は、「”安全・安心”をプレゼントすること」なのです。
”安全・安心”というのは、物理的な安全確保のことではありません。(物理的な安全面への配慮はすでにして大前提ですので言うまでもないことです)
ここでいう”安全・安心”は、そこにいる大人つまり保育者が、「あなたはここにいていいんだよ。ここはあなたの居場所だよ。私がそれを支えるから、私を頼りにしていいんだよ」と態度・表情・言葉がけ・関わりの姿勢・心持ちなどで体現しそれを感情レベルでかもし出し伝えることです。
だから、保育者からの「プレゼント」なのです。
極端なことを言えば、これが保育のすべてと言っても過言ではありません。
ここさえきちんとできれば、「子供の○○を伸ばさなければ」といったことは大人が作り出す必要などそもそもないのです。
子供は、おのおのが必要なことを自分で身につけ実践し獲得していく力を持っているからです。
しかし、保育や子育てを”支配”で組み立てていくと、子供のその”自分で伸びるという力”は発現されなくなってしまいます。
大人がやらせたり、与えなければ「それができない」「やろうとしない」性質を持たせてしまうからです。
その結果「子供は自分ではどうせできないわよね」「子供はわからないもの」といった感覚を持っている保育士も少なくありません。
これは「子供の力を見くびった見方」です。
それは大変残念なことです。
でも、一般の人が子育てで考えている「しつけ」のレベルで保育をしていたら、その構造にとらわれてしまうのを避けるのは難しいです。
子供が遊具の取り合いをしていたとします。
「取り合いはよくないのだ。仲良く遊べることがよいことなのだ」といった「○○すべき」という見方で子供の姿をとらえていたら、
大人はそこに介入せずにはいられなくなります。
「人のものとっちゃダメでしょ」
「それは○○ちゃんが使っていた」
「あなたが悪いからあやまりなさい」
「人のものは取らないとお約束してね」
「約束したのになんで守らないの」
しかし、それをしていたら子供の本当の成長は得られません。
常に「大人が介入する」ことでようやく「正の状態」が作り出されるだけにしかならないのです。
0歳からそれをやっていけば、5歳の年長になってすらそれは変わらないのです。
しかし、「しつけのメソッド」で保育を考えていたら、大人はその介入することを要求されます。
でも、それをいくらやっても子供の姿は思い通りにならないので、保育士は子供を思い通りにするスキルを発明して、それを身につけていってしまいます。
疎外や脅し、ごまかし、子供だまし
はたまたこんな手段もあります。
「子供は遊具をたくさん出すと取り合いになってしまうから、遊具は一度に一種類しか出さない」
これは、物理的に問題がでない環境を作り出しているにすぎません。
そういった姿勢から遊びの時間になると、子供の手の届かない棚の上に置いてある遊具の入ったかごから床にどばっ~と一種類の遊具をぶちまけて遊ばせているような園もあります。
そういった園の子供は「せんせ~、○○してもいい?」と「してもいい?」ばかりを覚えて帰ってきます。
保育者が子供の管理者・支配者となって、子供はそこで常に管理された状態に置かれてしまっているわけです。
そんな園でも保育理念や目標・うたい文句に「子供の自主性を尊重します」「子供一人一人の個性を大事にします」「主体性を重んじた保育をしています」などと書いてあったりします。
これも、理念と実践の乖離(かいり)ですね。
しかし、そこの保育者は自分たちの保育がその理念と矛盾していることに気づいてすらいないといった現実があります。
そのように支配型の保育は物理的解決に行きつきます。
「子供がすぐ部屋から出ていってしまうので、保育室には毎回子供の手の届かないカギをかけなければならない」
「子供が柵を乗り越えようとするので、それまで腰高だった柵を天井までの柵に変えた」
そんな保育になっているところも少なくありません。
保育室や園の廊下に天井までの柵があると、すごい異様です。
まるで刑務所みたい。
でも、その保育士たちはそれを異様とは感じなくなってしまいます。
目的がそれ(物理的解決)を要求しているから。
背景には、子供を支配対象としてみて「大人の思い通りにすること」が保育になっているからです。
同様に、「この子達は大変だから人手が足りない」と言うようになります。
支配型の保育を旨とする人は、保育が不適切なために”子供を大変な状態”に追い込んでいることに気づけなくなってしまうのです。
さらには、子供の姿が「(その人の目から見て)正しくなくなっていること」を、その子供のせいや家庭・親のせいにしてしまいます。
「あの子はわからない子だ」
「あのうちは甘やかすから言うことを聞かないのだ」
「愛情が足りないからだ」
「しつけがなっていないから」
「ひとり親だから」
また、「発達障がいがあるのでは」とレッテルばりをしてしまったりも見受けられます。
「子供を大人の思い通りにすること」を目的としていけば、保育はどんどんあさっての方にむかって進んでいきます。
子供はそもそも「支配」する必要などないのです。
しかし、これは実践を目の当たりにさせないとなかなか理解できないことです。
それが実践できる保育者がいない施設では、「子供はどうせわからないものよね」といった見方から脱却することがなかなかできません。
保育を伝えることがとても難しく感じる点です。
では、「支配」でなければどうすればいいのだ?
その答えは「信頼関係」です。
次回は、今回の話に出たケースをモデルに「信頼関係」を基にしたアプローチを見ていきたいと思います。
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● COMMENT ●
とにかくなんでも投げる癖のある子がいます。先生が何をやっても、ふれあい遊びをしても叱っても、癖はなくなりません。遊びは1種類ずつしか出さないので、その子に合った遊びをさせてあげられません。
私が仕事ができて、上司と信頼関係ができてうまいこと言えたら、保育がもっと良くなるとは思います。
なめられるな、ではないのですが
先生方も人数が少ない中、怪我なく安全に保育しなければならないので、叱って言うことをきかせないといけないようです。そういう園もあるのかなと疑問に思いました。
1年ほど前、転園してきたお子さんがちょっと乱暴ですぐにお友達を押してしまったりするような子で心配していたですが、幼稚園で過ごすうち、今は喜々としてお友達や年下のこどものお世話をするようなとてもやさしいお子さんに変わりました。
幼稚園では、「こどもが大切にされ、愛されているということを実感する保育」を大切にしており、叱るということは必要なときにはきちんとしつつ、ここまでするかというほど、子どもを受け入れ、子どもの心を大切にしてくれます。
しつけるのではない、受け入れる、大切にする、愛するという保育の効果というものを目の当たりにし、このようなおとーちゃんのおっしゃる保育というものがすべての園でなされるといいなと思います。
子供たちが病欠して職員が余る日があると思えば
保育士の子供が熱出したとか保育士自体が感染症にかかりお休み、
ペーペー職員当時資格なしの私が生後半年前後の0歳児4人見なきゃいけない日もあり…
さらにそこで主任が飛んできて手伝ってくれるのかと思いきや
「○○先生見落としがあります!」と注意して、そして行ってしまう…
滅茶苦茶でした。看護士?そんなんいませんよ…愚痴になってしまいました
それは別の話として信頼関係の構築は本当に大事ですよね
朝から晩まで、気に入らないと泣き始め、そのまま30分以上泣き続け…
私の対応が悪いことは、何となく分かっています。
本人が嫌がることでも、力任せにやらせたり
ちゃんと言葉で言い聞かせないで、無言で、無理やり抱っこして連れ去ったり
泣き始めると、ほぼ毎回「疎外」を使ってます。
放置したり、批判したり、責めたり。
毎日が悪循環です。
上の子4歳にも、最近は「支配」「疎外」で、言うことを聞かせてばかりな気がします。
(そして上の子が通う保育園も、子どもに言うことを聞かせるために、「支配」「疎外」を使っています)
外的な要因としては、この春から、保育園生活が始まり、私も仕事を始めて、決められたスケジュールをこなすために、子どもに言うことを聞かす場面が増えたこと。
内的な要因としては、私にちゃんと「言葉を使う技術」が身についていないこと。
私が仕事で受けたストレスを、立場の弱い子どもを「支配」することで、間接的に解消しているような気さえします。
時々我にかえって、自己嫌悪でいてもたってもいられなくなります。
長女を、泣くことでしか自分を表現できなくさせてしまったのは、他でもない私です。
さらに先週から、泣くときに、床に頭を打ち付けるようになりました。
誰かに助けてほしいのに、どこで誰に何を言ったら、助けてもらえるのか分かりません。
0歳児娘の父です。
自主性の尊重と管理のバランスは、難しいですね。
バランスは後者に偏ってしまっている一方で、経験や判断材料の少ない子供にとっては、
大人にとっての正しさをある一定量伝えてあげることも、また必要なのだと思いました。
決して支配ではなく、それらを材料に自分で考えられるように導いてあげることが必要なのだと思います。
葵さんへ
イライラしますよね~、だってお母さんも感情のある人間ですから(笑)
今日は子供達のためにご飯を用意しましたか?出来合いものでもいいですよ。それが出来てればとりあえずOKです!肩の力を抜いて、それからゆっくりおとーちゃんのブログを読んでゆっくり実践していきましょ。先はまだまだ長いですからね。
こんな詩を見つけました。お母さん達はみんな共感出来るはずです。(おとーちゃんさん。また、勝手なリンクを貼ってすみません。不適切であれば削除ください。)
http://spotlight-media.jp/article/142880717217105611
葵さんへ
私は子供は一人なので、葵さんはそれ以上の大変さがあるかと思います。
私は子供が1歳位の時におとーちゃんさんのブログにであったので、ありがたいことにとっても可愛い子供に育っています。何だか、人の気持ちを凄く理解できて、とっても優しい子です。しかし、幼稚園入園と同時に私が働き始め(延長保育を利用し6時間ほど)それまで出来てきた、気を付けてきた子供への対応がなかなかできなくなり、今では疎外感を与えてしまうこともあります…
元々自己肯定感が低く、育児に向いてないと思っていた私なので、ひたすら自己嫌悪です…。
まだ子供は5歳なのですが、今私がやっているのは、やはり母のリフレッシュ、あと疲れていても無理に笑顔をつくる、それから子供に『今日ママ仕事が忙しくてイライラしちゃってるんだー』と子供に言ってみる。
解決にならずすみません…
お互い頑張りましょう
このように、同じ環境のママが近くにいたらよいと思います…
葵さんへ
私も同じだと感じるからです。
うちも子供は息子ひとりですので、葵さんのほうがはるかに大変な気遣いをして日々過ごされていることでしょう。
それでも、息子ひとりでも、やはり私には大変に思えることもあります。
息子は慎重で穏やかな性格ですが、普段そうだからこそ、やらなければいけない時にすぐに行動に移してくれないといらいらします。
着替え、ごはん、おふろ、はみがき、ねる時間・・・
こちらは相手の健康を考え、ただでさえ遅い夕食の時間を早くできるように、睡眠時間がとれるよう早く早く、とスケジュールを脳内で組み立てるのに、はしゃいでふざけて思うようにいかない。2歳半の成長期、自分の希望が通らないといやいや、ぐずぐず。
それに対していらいらして、怒って、冷たく言い放ったり、疎外したり。
それで子供が泣き叫び、さらにいらいら・・・手はあげないまでも、精神的虐待であると自覚はしています。しかし自分の感情・言動をコントロールできない。
子供に謝らせよう、すがらせようとして、それで自分の思い通りにしたり、自分が優位にたとうとしたり・・・冷静になってから自己嫌悪に陥ります。
でも、そういう子供の態度(やらなければいけないときにはしゃぐ、のってこない)は、コミュニケーションが足りないサインなのだと、冷静になると気がつけます。
自分に余裕があるときは、おとーちゃんのいう先回した関わりをするようにします。子供が不機嫌でないときに、くすぐりや笑顔でスキンシップをとるというものですね。
そうすると、やはり変わります。時間はとられるので、寝る時間はどんどん遅くなります。22時過ぎます。でもそうすると、結局すっと寝てくれるのです。
いまは寝る時間は遅くなってもいいや、と割り切ることができるかどうか。朝も早く起きて準備しなければならないけれど、でもそこはなんとかなりました。
一時期ちょっと寝るのが遅くなったからといって、死にませんから大丈夫。でも、ずっと子供が泣いてる生活では、お母さんのこころが死にそうになります。
あと、子供が最近いらいらしてきたなーというとき、私の言葉が早くなっていることに気が付きます。ゆっくり話さないと、聞き取りにくくて、理解がうまくできずいらいらするのでしょうね。そして理解してもらえないから、こちらもいらいらする。
言葉をゆっくり話してみること、すでに実践されてるかもしれませんが、おすすめです。
また、私は「あかちゃんだっこ」をするようにしました。不機嫌でないときに、「かわい~あかちゃんだっこする~」と言って、子供をお姫様抱っこします。赤ちゃんのときに、おっぱいをあげるときみたいな。大きくなったので、ただのお姫様抱っこですが。
これをやり始めてから、子供も「あかちゃんだっこして~」と言ってくるようになりました。保育園に行く前とか。これで甘えることで、ぐずらずにいてくれてるのでしょう。
本当は、子育ての負担を他の誰かと分けられるのが一番いいですよね。
でも、それがすぐにできない状況であるならば、くすぐりや、ゆっくり話したり、甘えてもいい時間を作ったり。何か1つ、自分でやってみることが、現状打破の近道です。
すでに実践されていることでしたら、すみません。
葵さんとお子さんたちの気持ちが、安らげる時間が増えますように。
自分は、もうすぐ5歳の子供の父親です。
近くにいたら何でも出来る事をしたいし、アドバイスもできたら良いのですが、そういった知識も未熟なので、経験談を書きます。
自分は母子家庭で貧乏な家で育ちました。母親は仕事で夜遅くまで帰って来ないので、その間はお婆ちゃんの家で預かってもらう事になっていました。
お婆ちゃんの家には4歳と6歳年上の従兄弟がいて、4歳年上の従兄弟から毎日のようにイジメを受けていました。友達と遊ばせて貰えない、無理やりプロレス技をかけられる、これをやれアレをやれなどの脅し、正直幼稚園、小学校から帰るのが苦痛でした。
「こんな人生はいつまで続くのか」と小学校2、3年の頃には思いはじめていたと思います。また、遅くまで帰って来ない母親を憎んでいたと思います。
ただ、学校にいる時は楽しかったんです。自由だったから。あとは、友達もいつも遊びに誘ってくれてたんです。それが嬉しかった。
それで、何とか小学校高学年まで耐えた辺りで従兄弟とは疎遠になっていきました。
そういう事もあってか、中学高校辺りはヤサグレた少年だったし、親にはとにかく反抗してましたね。(夜遅くまで帰らないとか、どこに行くか伝えないとか、そんな程度ですが。
自分が変わったキッカケは、高校を卒業して入った会社です。とにかく自分を認めて貰えたんです。お前はそれで良いんだ、お前なら出来る、失敗しても良いよ、と。
そこから、人を信じられるようになっていきました。20歳位からようやくですかね。
今は、母親に感謝しています。(親になってわかるというアレですね
当時も母親は忙しく自分と関わる時間も少なかったし、過干渉で勉強しろばかりでしたし、何か悪い事でもしてるんじゃないかといつも言われて全く信じられていませんでしたが、それが彼女の愛情の出し方だったんだろうと今は思えます。
結果、自分の考え方を変えてくれたのは当時の会社の方達でした。
ですが、母親の「子供を何としてでも育てていく」という意思は子供の頃から感じていたので、その辺も力になったのかもしれません。
何が言いたいかわからなくなってきましたが、葵さんの悩んでいる気持ちをお子さん達は、わかってくれているような気がします。
むしろ、葵さんが気持ちを楽にする方法が何かあれば良いんですけどね・・
後はお子さん達が自分と同じように、良い友、人に出会う事を祈っています。
今は最高に幸せです。
葵さんへ
保育園に行きだして、子供が泣いて、ほんとに心が潰れそうになりますよね。
でも、コメントを読んでひとつ思ったことは、葵さんは十分頑張っておられるから、ご自分を責めないでほしいなということ。
色々とご自分で原因を書いておられますが、それより、子供も親もまだ状況の変化(保育園に通いだした)に慣れていないというのが一番大きな原因だと思えます。
四月からの復帰だと、保育園行かせて、働いて、家事して、どんどんしんどさが増してきて…。
私もその辺りは大変しんどかったです。義務と予定にがんじがらめで。
夏休みが取れる職場なら、夏休み何も考えずに、子供さんとゆっくり休んでください。
あと、子供の機嫌の良い時にいっぱいスキンシップしてあげて。
言葉で伝えるのが苦手なら、お歌をいっぱい歌ったり、本を読んだり、スキンシップしたり、自分でもできることを取り組んでいたら、きっとそれは子供の心の中にたまっていくと思います。
2歳時に伝わるように話すなんて、かなりの高スキルですよ。私も全然自信無いです。
あと、子供とのスケジュール(保育園に行くときも含めて)については、この時間があれば3つくらいのことができると思っても2つに絞ってひとつ諦めたり、自分が思ってるスケジュールに余力を30分は持たせるように心がけるとか、そうやって、多少生活レベルを落としても、時間にゆとりを強制的に作るといいことも。
なかなかそうできないんですが、案外30分でもあそび時間を作ると、自分がいかにぎちぎちにスケジュール組んでたかが自覚できるようになります。
ちなみに我が子は10歳。保育園行きはじめはほんとしんどくて家に帰りたくないと思うこともありましたが、懐かしい思いでです。
子供が大きくなるのはすぐですよ。
子供が泣いてるのはつらいですが、おとーちゃんさんの言っておられる、機嫌の良い時からのスキンシップだけを心がけて、ご自分を責めずにゆったり乗りきってください。
十分頑張ってらっしゃいますから、大丈夫ですよ。
ありがとうございました
相談を書き込んだあと、おとーちゃんの書籍を読み直し、ブログを読み直し、気持ちを新たに育児に励みました。
くすぐり遊び、肯定の言葉がけ、丁寧な言葉がけをして、無理矢理何かをさせるのを控えました。
すると、1歳9ヶ月の娘の様子がみるみる変わりました。たった1日で、床に頭を打ち付けるのを止め、3日後には素直に甘えてくるようになりました。私の言葉に、以前より耳を傾けてくれるようになり、娘と気持ちが通じていると感じられます。
本当に安心しました。
上の子への対応は、なかなか変えるのが難しく、四苦八苦しています。
毎朝、保育園から職場に向かう車の中で、ひとりで反省会です。諦めずに、もっと良い対応ができるようになりたいと思っています。
コメントをくださった方にも、心から御礼を申し上げます。誰かが、私を応援してくれていると思うだけで、投げ出さずに、自分と向き合えるのです。ありがとうございました。
ブログを見させてもらって自分の心の中にあるモヤモヤを言葉にしてくださったように感じました。
こんな保育でいいのか?と日々感じていて
自分が大切にしたい保育感を再確認させていただきました。ぜひ今度セミナーなどで話も聞けたらと思います!
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私は、結局は数かな、と思います。多すぎれば悲惨ですが、1人か2人なら意外に重宝されたり、必要悪というと大げさですが、ある程度そういう人がいてもいいストレッサーだという気もします。 もちろん子どもを傷つけてしまうような場合は別ですけど。
あと、私は(その人が精神的に健康体の場合ですが)保育士である人にある種の信頼があって、なめられるな という言葉は、おとーちゃんさんの言葉を借りれば、「この場では弱い大人であるよりは強い大人であれ」、だと思うのです。
それを言う人の心の底では、子どものかわいらしさに負けて、指導力を手放さないようにする戒めのような言葉として発せられているのではないかと思います。保育士が弱い大人になって子どもの接待をしてしまうと、クラスが成り立たなくなるからです。
その本質は、その人こそ、弱い大人であるという自覚があるということです。だから、強いふりをしているのですね。
一番問題なのは、園長がそういう人の場合でしょうか。保護者からの苦情回避のために、保育士に人間以上であれというような努力を要請すると、そこに適応していこうとして保育士は子どもに犠牲を強いるだろうと思います。
学校もそうですけど、管理者の手腕で組織はずいぶん違うものですよね。