「なめられるな」は保育ではない! vol.2 - 2016.07.09 Sat
まずはおしらせからです。
メール相談を若干名再開いたしました。
一件づつ丁寧にお答えしていきたいので、少数ずつお受けしております。
そのため、お待ちの方にはご迷惑をお掛けしてしまいますが、どうぞご理解ください。
来月8月は講演等が少ない時期ですので、これからはそれなりの件数をお受けできるかと思います。
(今月はめちゃくちゃ忙しかったのです~)
では今回は、保育において「信頼関係」を基にしたアプローチとはどういうことなのかについて見ていきます。
(ちなみに、保育セミナーの2期ではこのテーマをより深くお伝えしていく予定です)
前回あげた、「部屋から子供が出ていこうとすること」から見ていきますね。
・ドアを閉めなければならない、施錠しなければならない、柵を高くしなければならない
それらのことがでてきましたね。
それと、参加者の方から寄せられた園の状況で、柵に登る子に落とす(ふりをする)ことでそうしないよう教えこむといったこともありました。
子供のことを「支配のアプローチ」で考える人、「子供はできないものだ」といった先入観を持っている人などが、子供が部屋から出ていこうとする姿を見ると、それをさせまいとする「ダメ出し」の関わりやそれの強化をまずは考えます。
その過程で、その人の力量・対人コミュニケーションのあり方に応じた様々な手段ができます。
(注意の多発・叱る・怒る・脅す・疎外・他者と比べることでその姿をなくそうとする・ごまかす・子供だまし・釣るなど)
それらは、どんなに優しく言おうとも、ほとんどがその子への「否定」のアプローチになっています。
また、これらはそれでも子供の姿が大人の思い通りにならないと、「冷淡さ」に向かっていくリスクを秘めています。
それをしたところで、子供のその姿が止まないと、その大人は「あきらめ」や「その子への不信」という感情を心に持ってしまいます。
「この子は何度言ってもわからない。どうせできない子なのだ」
そのようになってしまうので、そこでの問題、
「保育室から勝手に出ていこうとする」
これを解決する手段は、物理的対応に行き着きます。
施錠や柵などの物的環境。他にも大人の人手を増やすこともそうです。
結局は子供の行動を抑えつける・制限するために、物的環境や大人の人数を使ってしまうのです。
そのような物理的な条件を整えなければならないといったことも、さまざまな状況・子供といったことがありますから、なかには必要なこともあるでしょう。
しかし、「それが当然」となってしまったら、その保育に発展はないでしょう。
なぜなら、その方向性の対応をしているうちは、いくらしたところで問題の解決をしてはいないからです。
それは子供を支配・管理しているだけです。
保育士は子供に点数をつける仕事ではありません。
現状の結果だけみて、「いいわね」「悪いわね」では済まないのです。
その子の問題点を汲み取る視点を持っている必要があります。
「その子はなんで”そういう姿”が(問題が)出ているのだろう?」
子供の問題にあたった時、大人が「こうすべき!」だけで見ていたら、子供の否定や力づくで抑えつける方向性の関わりしかでてきません。
「この子のために、いま何が必要か?」という見方をしていかなければならないのです。
これを僕は「援助の視点」と呼んでいます。
「しつけのメソッド」だけでは保育はできないのです。
「しつけのメソッド」で済むのは、「それが通用する子」に限られます。
”もともとできる子”や、注意や否定といった「しつけ」の関わりで”できるようになる子”しか対応できないのです。
だから、この「しつけのメソッド」だけしか持たない保育士は、それ以外の子に対して冷淡になっていったり、優しい人で冷淡にはならない人であっても、”お手上げ”や”無関心”になりかねません。
そしてその見方は、子供を「落ちこぼれ」にしてしまいます。
僕はそういう保育士もたくさん見てきました。
これでは保育の仕事は面白くはなりません。
「可愛い子」「できる子」ばかりを見ていればいいのであれば、まあ楽しいかもしれませんが。
子供が大人の意に反して保育室から出ていこうとする状態は、「不安」や「不信」の表れです。
その環境に不安があるケースもあるでしょう、障がいや発達上の特徴のある子にそういうことはしばしばありますし、新入園児などにもよくあることです。
しかし、その保育士に対して「不安・不信」を持っているがゆえに、その部屋が居心地がよく感じられず、その部屋から出ていこうとすることは、その保育士・保育に対するとても大きな問題です。
なぜなら、それは保育に必須なことが欠けているから。
それに気づかず、物理的に、または人手の多さで抑えつけることをしていけば、ずっとその子やそのクラスは安定しないままになっていきます。
「子供はわからないもの」「子供は言うことを聞かせるもの」「子供は大人に従うべきもの」
そのような見方でしか子供を捉えられないと、子供と大人の心はつながりません。
それでは、表面的な信頼関係以上のものは構築されないでしょう。
そのような保育士に対しても子供はある程度の信頼感は持ちます。
しかし、それは「そこで過ごすにはその大人に頼るしかないから……」というレベルでの信頼感にとどまります。
子供によっては、それはすぐに必要なだけの信頼感を下回ってしまいます。
下回った子は、その保育士のことには当然ながらあまり従いません。
「仕方がないから従う」程度のものです。
そういう子の中には、部屋から出ていこうとする子も出てきてしまいます。
それは「その部屋よりも室外に行ったほうが居心地がいい」と子供に感じさせているからです。
それを、物理で抑えることで対応していたら、その子もクラスも安定に向かうことはありません。
”物理的対応が必要なことはある、しかしそれは通過点として”
であるべきなのです。
保育士がその子と適切な信頼関係を築けていれば、そうそう子供はそこから出ていこうとはしません。
だって、その人がいる場所の方が安心だもの。
だから、前回述べたように
「”安全・安心”をプレゼントすること」
が保育の第一の目的なのです。
どの子も家庭が一番です。それでも保育園に来るからには、そこの大人がそれに変わる場としての安心感を示してあげなければなりませんね。
だから、保育士が第一に目指すべきなのは、「この室内にいなければならない。出ていこうとするのなら出て行かないようにしなければ」ではなく、「その子がこの環境になんらかの不安・不信を感じているのならば、そこをサポートしてあげなければ」という見方なのです。
しかし、これまでの日本の子育ての中には、意図的に信頼関係を構築するというプロセスがなかったように、やはり保育の中でも見過ごされがちになっています。
かつては、他者への信頼関係を持ったうえで家庭外に出てくる子の比率が多かったです。
いまは、さまざまな時代・環境の変化からそれが難しくなっています。
保育士が「しつけ」で保育を考えたら、そのメソッドに信頼関係を築くアプローチは含まれていないでしょう。
だから、「〇〇できること」を保育の最初においてはならないのです。
信頼関係を築くことが第一に必要です。
では、信頼関係を築くためには?
それは、「受容」であり「肯定」です。
この二つは、さまざまな方法で子供に伝えていくことができます。
しかし、それが難しいのは、大人の心持ちひとつでその性質が簡単に変わってしまうことです。
例えば、「子供を見守る」ということだって、
あたたかく微笑みながら見ているのならば「肯定」になるけれど、
「なにかしやしないか」「噛みつきがではしないか」、「言ってもどうせ聞かないわよね」、「うんざりだわ」そういった気持で見ていれば、子供の敏感な心はその目線を「否定」と感じます。
そのようなあからさまな否定的な見方でなくとも、「どうしたらいいのかしら……困ったわね……」といったおどおどした態度だったりしても、やはり子供からは「否定」に近いものとして感じられてしまいます。
『医は仁術』なんていう言葉があります。
「仁」というのは、”おもいやり”という意味でもあり、”人”という意味でもあり、”心”という意味でもありますね。
保育も、まったくそうだと思うのです。
そしてその部分は、形がないので見えません。
でも、大人には見えなくても、そこにいる子供はしっかりと感じています。
自分に対して「否定」の見方になっている人だったら、上辺はどう取り繕うとも子供は信頼感を厚くしません。
だから保育の一番最初に来るのは、「子供を〇〇できる子にすること」ではなく、
「”安全・安心”を”プレゼント”すること」なのです。
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● COMMENT ●
子供が怯えた顔で挨拶しているのを何度か見ました。
親として園から帰って来た時には子供の心を補ってあげねばと日々模索していますが私自身、幼少期親に虐待されて育っている為うまく伝えれているか、支えれているか葛藤しています。
このブログを参考にしつつこれからも子供の心を育めるように考えていきたいです。
そうですよね
入った初日から感じた違和感、いろんな人に話してもいまいち分かってもらえずモヤモヤしてましたが、正に感じた通りのことが書いてあって「私がおかしかったんじゃなかった」と感じました。
スケジュールに沿った決まった生活。少しでも従わないと怒られけなされ。まるで刑務所みたいだって思ったんです。愛が感じられないと。見守ってるんじゃなくて監視してるんです。
でも、この感覚、見てない人には多分分からないんですよね。
私が自分の子にしてるような保育をしてると、「そんなこといいからさっさと動かして」の視線を強く感じるし、実際言われます。ずっとここにいたら自分もおかしくなりそうだなと感じます。
もう何十年も前ですけど、私が行ってた保育園の先生は本当に優しくて怒られたことがなかったんです。聞き分けのない子だったのに。保育士はそのイメージで勤め始めたので本当に衝撃で。
でも、多分他の先生方もきっとそうなんじゃないかなって。今は怒らない子育てが主流なのに…でもそんなこと言ってられないし…怒られるし…みたいな感じなんじゃないかと。
私はパートなんでまだ気楽ですけど、担任の先生とかだとやはり園の方針に従わざるをえないんだろうなと思うと、本当にかわいそうだなと思います。
見ているこっちが涙が浮かぶほどの叱られ方をしている1、2歳児。将来どうなるのかが心配で、でもその前に自分がおかしくなりそうで、今辞めるかどうするか悩んでいるところですが、この記事を読んでもう少しだけ頑張ってみようかなと感じました。
ありがとうございます。
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素晴らしい講義をありがとうございました。参加された皆様とも有意義な時間が過ごせて嬉しかったです。
「いい話だったな」と思って帰路につき、翌日からまたいつも通りの保育に戻りました。
でも自分の中で「これはおかしいんじゃないか」と思っていたことが、やっぱりおかしいんだと自信を持って思えるようになりました。
やっぱうちの園やばいわ~、ないわ~、です笑
威圧したり疎外したりしてる先生も、ごく普通の人たちなんですよね。それこそ家に帰れば普通のお母さんたちです。
なのに、子供も保護者も敵みたいな、真正面から対峙しているような感じが漂っています。おとーちゃん様がおっしゃっていた通り、結果を求められる責任、圧力のようなものが、そんなスタイルを産み出してしまうのかな、と感じます。
保育士は、もっと子供の目の前の姿を楽しんでもいいんじゃないかなー、と思うんですよね。一斉の活動や行事なんてなくても、子供は今いる環境で楽しむ力を持っています。
それがわからないうちの園はやっぱり変だな、何十年もやってきてるのになぁ…とガッカリします。
おとーちゃん様の園ならぜひぜひ働かせてください!遠くても通います~!