失われた感覚 - 2016.07.28 Thu
それがつかめたことが、保育士としてのステップアップにとても大きな意味を持ちました。
その感覚はその後の保育経験と、我が子の育児を通してある種の確信に発展し現在に至っています。
それがなければ、僕はこのように子育ての本を書いたりブログで発信することはなかったかもしれません。
その感覚を背景としたものは、これまでにもいろいろな方向から書いています。(ほとんどがそうといってもいいかもしれませんが)
例えば、「おおらかさ」が子育てで大切とか。
この前書いた、「目先のできること」よりも、「モチベーション」を維持していることのほうが大切であるとか。
他にも、「1のことには1の援助」の話や、「子供の感情は子供のもの」などなど。
それらの根っこには、その感覚があります。
言葉にしてみると、それは「それで子供は大丈夫。きちんと育つ」そういうものではないかと思います。
それを僕は、多くの子供を見て、その経過、その成長した後の姿。また、親、保育士などの大人の関わり、そこから導き出される子供の姿。
そういったものをたくさん見てきたことで、それを観察し考察し、整理し、ある種の因果関係のようなものを理解してきました。
そう書くと難しいことのようですが、それは僕自身がそもそも子育てが”うまい”人間ではないことが原因です。
僕は本来それが下手な部類の人間だから、意識的にそれをせざるを得ませんでした。
この感覚を、最初から持てている人もいます。保育士にもいますし、一般の親にもいます。
そういう人は、保育士としても、親としてもその人のその感覚で、もちろん子育てにまつわる大変なことはあるにしても、それなりにうまくできてしまいます。
しかし、保育士を長年したからといってその感覚を持てるようになるかというと、必ずしもそうではありません。
子供を動かす「対象」、やらせるもの、作り出すもの、と徹頭徹尾みなしてしまう人はそれは難しいようです。
「どうせできないだろう」という気持ちが先立ってしまうのですね。
すると、「やらせずにはいられなくなってしまう」
それはいくら重ねても、子供が自分で必要なことを身に着けていくという結果を見られません。
その結果を見ることができないので、「子供はやっぱりできないもの」という認識に落ち着いてしまいます。
なので、いくら年数を重ねてもその感覚をつかむまでに至りません。
(いつまでたってもその人にとって、子供は「やらせる対象」でしかありません。それは「子供を信じられない」という問題に発展します。)
しかし、実はこの感覚は特殊なものではなかったのです。
かつては!
いまの70歳よりも年齢が上の人にとっては、例えば5人以上のきょうだいがいた人は珍しくありません。
その頃の家庭のあり方をちょっと思い浮かべてみましょう。
もし、5人の子を3年ごとに1人産んだとしたら、下の子と上の子の年齢差はおよそ15歳位になりますね。2年おきだとしても10歳差です。
そうなると、上の年齢の子はそれなりに物心ついた状態で、下の子の子育てを間近で見ることになります。
さらには、当時の母親は家事労働の多さから子育てにかかりきりになれない状況がありました。
(例えば、洗濯は洗濯板、繊維製品は今と違って高級品で手縫いが基本、風呂や炊事には薪や焚き付けが必要だった時代)
なので、上の子が子守をしなければならなかったり、家事の手伝いをしなければなりません。
そのように間近で、家事育児を目の当たりにし、経験しながら育ってきます。
逆に今度は下の子にとってはどうかというと、その頃はまだ現在よりも人生のサイクルが早かった時代です。
女性ならば20歳前後で結婚し20代で子供を産むということが当たり前と考えられてしました。
ですので、下の子は上のきょうだいが家庭を持ち、子育てするところを身近でみることになります。
(当時はまた、二世帯・三世帯同居が当たり前と考えられていた)
そういった状況がありますので、子育ては多くの人にとって”ある種の感覚”として、こういうときは子供にどう関わればいいかといったようなこと、そういったことが知らず知らず身につけられていたと考えられます。
具体的な関わり方もそうですし、僕が「子供との距離感」の問題としてあげているような、子供に対するときの気持ちの持ち方のことなども、かなりの部分その自然に身についていく感覚でカバーできてしまっただろうと思われます。
それらがある種の空気感のように、社会全体に漂っていたのではないでしょうか。
そういう状況ならば、子育てはさほど難しく感じたり、今のように不安ばかりが大きくなったりということは少なくできたはずです。
そして、そういった諸々が「それで子供は大丈夫。きちんと育つ」といった実感を多くの人に感じさせていたことでしょう。
拙著『保育士おとーちゃんの「叱らなくていい子育て」』を読んでくださった、75歳の方がこういった感想を下さいました。
「そうなんだよね。昔はこういったことは当たり前に多くの人がわかっていたのだけど、いまは教えなければならなくなってしまったのだよね」
とはいえ、時代は大きく変わりました。
僕は「昔はよかった、昔のようになりなさい」と最近の政治家がよく口にしているような考えを述べているのではありません。
むしろ、そういった懐古主義はなにも解決しないと思っています。
現代は現代の問題や状況を踏まえ、それに適切な対応をしていくべきだと考えます。
さて、タイトルを「失われた感覚」としたのは、かつて当たり前であったであろう、その「それで子供は大丈夫。きちんと育つ」といった社会で多くの人が共有していたであろう感覚のことです。
いまは、そのように子育ての感覚を自然発生的に身につけている人は、非常にまれです。
家族の形、社会の形が変化する中で、その「当たり前」はいつのまにか失われてしまいました。
しかし、もしこれを伝えることができれば、子育ては無理のないもの、楽しめるもの、幸福感を感じさせてくれるものにできるのではないかと思っています。
僕自身、いまそう思えているからね。
僕はいくつかの偶然が重なってたまたま保育士になったのだけど、そうでなかったらきっと子育てに悩める側の一員であったのは確実です。
でも、僕は本来下手な人間だったことで、そこから学び、種々のことを意識的に理解することができるようになりました。
だからこそ、多くの人に無理のない子育てを伝えることが自分の使命なのだと感じています。
それは形のあるものではないから、伝えるのは簡単ではないけどね。
ママの知りたいが集まるアンテナ【ママテナ】にて監修した記事が掲載されています。
「次へ」から全部で3本です。
~”ほめる子育て”は間違いだった?~
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● COMMENT ●
感覚をつかみにくくなった背景
2歳か3歳の頃、気づきました
「それで子供は大丈夫。きちんと育つ」という感覚、上の子が2歳か3歳の頃にふと気づきました。
どうして気づけたのか、少し長くなりますが書いてみます。
はじめのきっかけは、妊娠中に感じた「いいお母さん、完璧なお母さんにならなければ」というプレッシャーだったと思います。
でも、私はやや性格に難ありの普通の人なので、いろいろ考えた末に「完璧なお母さんになるのは無理」という結論に至りました。
普通の人なのに、子供が生まれた途端、完璧なお母さんという人格が生まれるわけないんですよね。
がんばればできるかもしれないけれど、その無理がどこかで破綻して子どもにしわ寄せがいくと思いました。
そこで私は、ありのままの、等身大のお母さんでいよう、と決めました。
次に、生まれてくる子にどんな子になってほしいか、考えました。
成績のいい子?でも、勉強はダメだけど芸術に目覚めたら?
学歴の高い子?でも、専門学校に行きたいと言ったら?
健康な子?でも、先天的な障害を持って産まれたら?生まれた後に不慮の事故で障害を負ってしまったら?
いろいろ思いつきましたが、もしそれができなかった時、できなくなった時の子供の気持ちを考えると、子どもに期待をかけること自体、よくないのかもしれないと感じました。
そこで、私の子育ての目標は、「毎日子どもが笑顔で過ごすこと」になりました。
これなら私にもできそうだし、子どもにも負担にならないのではないかと思いました。
そうやって過ごしてきて、子どもが2歳か3歳になった頃、思いました。
とってもいい子に育ってくれてる。イヤイヤ期もたいしたことなかったし、毎日笑顔で過ごせてる。
私は何もしていないのに、話せるようになったし、走れるようになったし、ほかにもいろいろなことができるようになった。
そして、気づきました。
子どもは、何もしなくても成長してくれるんだなぁ。
子どもが育つためには大人の助けが必要だと思っていたけど、違うのかもしれない。
必要なのは、助けではなく、その逆の「子どもの成長を邪魔しないこと」なのかもしれない。
大人は、子どもが安心して自分で成長していけるように、後ろからそっと見守り、時々そっと手を添えてあげるだけでいいのかもしれない。
そう気づいてから、息子に接するときの立ち位置が少し変わったような気がします。
息子を自分の思う通りに動かそうとしてしまうことが最近増えてきたのですが、時々この気持ちを思い出してリセットするように気をつけています。
そして今気づきましたが、私の場合、「子どもに期待をかけない=子どものありのままを認める」になっていたんですね。
なんか、すごくうれしいです。
息子を自分の思う通りに動かそうとしないように気をつけながら、子育てがんばります!
感謝です。
ある感覚
御出版された2冊の著書、Ⅰ章ごとにていねいに読ませていただきました。とてもすばらしい内容でした。
(none)
「子供の感情は子供のもの」、全くその通りだと思います。
今回の記事、自分の母(7人兄弟の末っ子、長兄の子ら(甥・姪)と同居)のことを思い出しました。
長女が小さい頃は、
「Aくん(私のいとこ)はいろんなことがゆっくりで、皆心配したものだけど
3歳過ぎたら急になんでもできるようになった」
といったことを思い出話としてよく聞かされていたのですが、こういった実地経験が
>「それで子供は大丈夫。きちんと育つ」
という感覚につながっていたのでしょうね。
そういった感覚を持った人から見ると、私たちのような「現代の親」は
「どうにかなることを心配しすぎている頭でっかち」に見えるのかもしれないですね。
「お勉強のし過ぎじゃないかしら」くらいのことは思われていそう(笑)
続きの記事で子育て広場・サロン的な場所の重要性に触れておられましたが、
そういった場所で話を聞いてくれる「子育ての先輩」たちには
>「それで子供は大丈夫。きちんと育つ」
この感覚を持ちにくくて、不安でいっぱいになっている親も多いのだという
前提でお話聞いてもらえたらなと思います。
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今回の投稿で
今まで漠然と思っていたことがクリアになった感覚があります。
自分の育った背景と関連して述べさせてください。
私(35歳)は、田舎のさびれた寒村で育ちました。
両親とも、父6人兄弟、母7人兄弟の末っ子、生まれた時からすでに甥姪がいる状態。
田舎の子だくさん、当然貧乏です。学歴も義務教育のみです…
老いた今、田舎でつつましやかに素朴に日々過ごしています。
そして夫(35歳)両親。
舅2人兄弟、姑2人兄弟、「お金がなくて苦労したわー」と謙遜しますが、
すべての兄弟が大卒、一流企業に勤務後(女性はすべて専業主婦)、天下り先で顧問をしながら悠々自適の日々です。
政界に進まれた知り合いもいるとか。
前置きが長くなりました。
私の両親、たまにしか合わない(飛行機の距離)こともありますが、孫4歳(女の子)に対してきわめておおらかです。
生きていればそれでよし。
よその子だって子供はかわいい。
近所の保育園の運動会(付近の老人は招待される)を観戦するのが楽しみ。
対して夫両親。
0歳のころからお教室探し。
4歳の今、ともに公園に行っては、過干渉(スカートのすそが汚れる、鉄棒は危ない、階段は手をつなげなどなど)で大騒ぎ。
わが孫はかわいいが、よその子の声はうるさい、と毅然とのたまいます。
悪気はありません。
政治家になられる方、日本を動かすエリートといった方は、
舅姑のような方が多いのではないでしょうか。
そしてその方々が作った環境が、今の子育てしにくい環境なのでは、と思いました。
わかりにくいうえ長々すみません。
これだー!!!と目からうろこが落ちた感じがして思わずコメントさせていただきました。