日本人と「自己犠牲」 - 2016.08.23 Tue
巷(ちまた)からも「どのみちいずれ消費税を上げなければこれからの日本の経済状態は立ちいかないのだ」といった声が出ているのをよく耳にします。
僕は経済についてはまったくの素人なのだけど、この考えは必ずしも否定するわけでもないけれど「本当にそうなの?」という気持ちがついてまわります。
現在、企業の持つ内部留保金は過去最大と言われ、企業自体は潤っています。
一方で、市民にとってはここ最近の明らかな物価高、公共料金の相次ぐ値上げ、安心感を持てない就労状況や、将来の年金制度に対する不安などなど、短期的にも長期的にも経済的な不安感、圧迫感は拭い去れません。
つまり、市民は豊かでなくなりつつあるのに、そこからさらに取るという話になっていて、大企業にはお金が余っているのにそこは手付かずという施策であるように感じます。
また、お金が無いと言う割には、作る前から利用者が少なく赤字になることがわかっている空港や、新幹線、高速道路、その他などなんの見直しもなくいまだにたくさん作られています。
だから、「消費税を上げなければ今後の日本は立ち行かない」という論は、僕のような素人には「う~ん、本当にそうなのかな~」と思うのです。
今回のこのお話には、日本人のある種の考え方の特質というものが見られます。
日本人は「自己犠牲」でものを考える傾向があるという点です。
これがもしフランス人だったら、おそらく「今後の経済のことを考えたら自分たちの消費税負担が増えるのもやむないよね」という声は一般の人からはあまりあがらないことでしょう。
市民の第一声は、「あんたたちの税金の使い方がおかしいんじゃないの?」という批判の声としてあがるはずです。
日本人は、人を責めることを是とせず、ものごとを内向きに解決しようとする傾向があります。
それが僕は大きな特徴であるとひしひしと感じるのです。
というのも、子育てにまつわるシーンでも、この「自己犠牲」的に思考する場面にとても多く当たるからです。
例えば、いじめの被害にあっていたり、不登校の子供に対して、
「あなたがもっと努力しなさい」
「他の子も頑張っているのだから、あなたも頑張らなければ」
「ここで逃げたら、将来もっと困るようになるから逃げてはならない」
「いじめられる方にも問題がある」
親に対して
「あなたが甘やかしたから、このように問題を乗り越えられない子になっているのだ」
また、他者に言われるだけでなく、自発的にも「自分が悪い」「自分が至らない」「努力がたりないのだ」そのように問題をとらえてしまいます。
そういった方向で、自己犠牲的に問題の解決を考えたり、自虐的に責めて考えたりしてしまいます。
しかし、この方向性での考え方は大変危険です。
ライトケースならばそれで解決してしまうこともあるかもしれません。
しかし、このように子供に対処して、それによりもっと心に深いキズを負ってしまった子や、自殺に追い込まれてしまった子が大勢おります。
話は代わりますが、子育てをしている人たちも、この「自己犠牲」的な考え方で子供に相対して、子育てを難しい方へ難しい方へとしてしまっているケースが大変多く見受けられます。
その特徴的なパターンが、「子供のために、子供のために」と頑張りすぎて進んで自己犠牲をしていくケースです。
例えば、もう身体が限界なのに子供がだっこをせがむからと無理して抱っこをしていたり。
子供が「〇〇を欲しがっているから」と、自分はそれを好まないのだけど我慢をしてそれを叶えていたり。
「子供のために」 = 「私が我慢」
という「自己犠牲」の方向性でとらえてしまっている人が大変多いのです。
子供を育てるという長い道のりの上では、親が自己犠牲をしなければならない場面というのもなかには出てくるかもしれません。でも、日常の些細な関わりのなかでも、親が我慢や無理を重ねなければ日々がおくれないということになったら、これではかえって子育てはうまくいかなくなってしまうのです。
親がよかれと頑張ってしている自己犠牲はまわり回って子供のためにもならなくなってしまうということが、子育ての中ではたくさんあります。
子供はちゃんと感じるのです。
親が無理をしていると感じると、子供もその大人の気持ちが伝わって本当の満足は得られなくなってしまいます。
例えば、子供の「いいなり」になって振り回されてしまう人が現在では少なくありません。
大人はその子供の要求を叶えてあげようと一生懸命頑張ります。
でも、その状態をその大人は快く喜んでしているわけではありませんね。
子供はそれをひしひしと感じ取ってしまうのです。
それゆえに上辺の要求をいくらかなえてもらっても、けっして十分な満足に行き着くことはありません。
だから、大人が頑張って無理をしてようようその子の要求に応えた時に、子供は反発を見せます。
それはその子の望んでいた状態ではないからです。
それゆえに、なんとかその望んでいた状態を得たいとさらなる要求を大人につきつけます。
これをいくら繰り返しても、大人も子供浮かばれません。
しかし、その子は「要求をつきつける」という親との関わり方しか理解していないので、それ以外の両者が心地のいい関わり方がわかりません。
これは、大人が「子供の要求を頑張って叶えなければ」という姿勢で子供への関わり方をスタートしてしまったので、その方向で人との関わりのモデルの道筋をつけてしまったからなのです。
「自己犠牲」では子供は育てられないのです。
どんな子供も本当のところで究極的に望んでいるのは、
「大好きなお父さんお母さんに笑顔で過ごしていてほしい。そしてその場で安心して過ごしたい」
ということなのです。
現代の人は子供に対してあまりにまじめに一生懸命になりすぎてしまって、「よかれ」と思って「自己犠牲」になっています。
その方向で子育てをすれば、おもに乳児期の子供はお父さんお母さんに朗らかに過ごしてもらうためにはどうすればいいかがわからなくなって、さまざまな困らせる行動になりかねません。
子供の年齢があがってくると、そのように自己犠牲で子育てしてきたお父さんお母さんは、イライラ、ストレス、怒りが飽和状態になってしまって、子供と関わることがとても負担に感じられるようになってしまいます。
「子供のために」というのが限界に来て、そこから「支配」や怒ってばかりなどの「否定」の子育てになってしまう人もいます。
自己犠牲は、けっきょく子供のためにもならないのです。
だから、「子供の尊重」というとき、その背後には「自分も尊重する」ということがなければ正しく理解されないのです。
「子供を尊重する」 = 「自己犠牲」
になってしまう人が少なくありません。
「子供をひとりの人格とみなす」
このことも、「私も一人の人格としてみてもらう」ということが必要です。
このあたりが心にストンと落ちてくると、子供の要求であっても「私が嫌なこと」に対しては堂々と「NO」ということが、むしろ「子供のためである」ということを理解し実践できるようになっていきます。
日本人がものごとを自己犠牲的にとらえるのは、ある面では美点といえるでしょう。
しかし、これからの時代はそればかりではうまくいかないのではないかというのを、僕はひしひしと感じるのです。
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● COMMENT ●
ありがとうございます。
以前は、
「受容はしてるつもりで、娘もそんなに問題はないようだけど、
何か違う気がする。。
器が大きいとか、そいうことじゃない気がする。。」
と思いながら、おとーちゃんのブログを読んで出来てない部分を試したり、し過ぎてる部分はやめたり、と色々していたのですが、ある時ふと気が付きました。
私は子供が一人遊びしてる間に家事を済ませて、後でいっぱい遊ぼうスキンシップを取るという過ごし方をしていました。
私はご飯をつくるだけでも結構時間がかかってしまうので、さて遊ぼうか!と気持を切り替えた時には娘はすっかり拗ねてしまっていたのです。
私は何で拗ねるのかわかってなかったので、娘に話しかけて「ママいらない」って返事をされると私もショックで、話しかけない方がいいのかな・・・という感じになってました。
「もしや私の家事が長すぎて、子供に関わるまでの時間が空きすぎているのか!?」
と気が付いて、家事の途中にちょこっとずつ話しかけたり(おもしろいね~って感じで共感する)、冗談言って笑ったり、一緒に歌ったり、と家事の時間を分散させながら子供と関わる時間も分散させてバランスを取ってみるように工夫してみたら、一気に手ごたえ!
娘がイキイキしだし、私に素直になり、イヤイヤ期か?という態度も無くなりました。
打てば響く、といった感じで、私が受容するたびに娘の器がどんどん満たされていく様子が見え、不思議なくらいいい感じです!
おとーちゃん、本当にありがとうございます。
おとーちゃんのアドバイス通りにしてみると子供が変わるという事を実感すると、
よその子の育児と子供の育ちが気になってしまうという副作用が伴いますが(笑)
そこはしっかり目をつぶって自分の家庭や未来に目を向けていきたいと思います。
自己犠牲っていうか、結局、自分が周りに感謝してるかしてないかで、
自分のストレスの度合いが違うんだよなぁと思いました。
私は、「自分の事は自分でしなさい当然です!」という感じの親に育てられ、あんまり親に甘えられずに大人にならざるを得なかったのですが、
結婚したら、主人の母が「私にできることはなんでもしますよ、あなたもお仕事頑張って」という人なんですね。
そうすると、一人で子育てしてた時はストレスたまっちゃって子どもの相手も面倒臭かったんですけど、主人の実家の隣に家建てて子育てを協力してもらうようになってからは、まるで違うというか。
今になって受容してもらう子ども時代をもう一回やり直させていただいてる感じです。
そうすると、何が変わるかっていうと、
子どもがわがままを多少言っても、甘えてきても、「うん、いいよ。そのくらい。私がお義母さんにしていただいてることに比べたらお安い御用さ」って思えてしまう。
この心の変化が、育児を楽にしているように思います。
上の子が4才くらいの時なんかは、甘えられると、「そのくらい自分でやりなさい。お母さんだって大変なのよ」って思ってました。思ってるくせに「でも私が頑張らないといけないのかな」とも思うから、余計にストレスでした。
だからこそ、自分が受容されてる感が大事なのかなぁと思って読みました
まさにです。
親が自己犠牲、、我慢しすぎて怒りが爆発、、、まさに私でした。
私は両親がとても強く、厳しく、良い子にしなさい、我慢しなさいとよく言われました。それがずっと嫌で、子どもに我慢させたくないと思って育てていました。
私は専業主婦で、
子どもは今、幼稚園の年少さんですが、基本子ども優先です。外食に行っても子どもの食べたいものを食べに行ったり、遊ぶ所も出産するまで行っていたショッピングモールじゃ子どもが楽しめないからと行かず、公園ばかり。
旦那にも子どもにも悪いからと、2月に一度はいっていた、美容院に行く回数も減らし、お風呂にゆっくりつかることもこの4年くらいせず、好きな読書やテレビを見る時間も減らし、、、、
リフレッシュしたくても、両親は遠方で預けられず、1歳の時、1度、近隣の預ける保育に1日入れたら泣き叫んでいたので、子どもが可哀想でそれ以来預けることもできず、、、、何となくくたびれると、
部屋が散らかったとか、そんな程度でブチ切れ子どもに怒鳴りまくる、旦那にも怒鳴るという日々がずっと続いていました。
幼稚園に入れて少しは楽ができるかと思っていたら、幼稚園を嫌がる子どもに7月頃まで手をやき、行ってなかった方が楽だった気もしていて、いらいら。どうしてこうなるの?と。
何がいけないかよくわからなかったのですが、ああ、私自体のやりたい事が出来てないから私はこんなにやってあげてるのに、、、と、思い通りにならない子どもに腹が立ったりイライラするんだとわかりました。
ずっと疲れてたなぁって思いがあり、
なかなか確保できなかった自分の為の時間を子どもがいる時も、少しは確保できるようにしたいと思いました。
けれど、本当に疲れていて、そんな事考える余裕もなく、この日々が続いている人もいるんだろうなって思います。
毎日仕事してる時より子育ては本当に大変で、すごい事をやってるんだと、やってみて分かったので、社会はもっとそこを分かってほしいと思います。
ぜひ、0歳から4歳位の子育てしてる側、母親や幼稚園、保育園の地位向上を願いたいです!
自己犠牲の反動で
私の母が自己犠牲的で、「お母さんはあなた達を育てる為に色々我慢しているんだから」と言われて育ちました。母は頑張りを認めて欲しかった、そして色々我慢していても子供達を可愛いと思っていたのだと、今なら分かります。でも、上記発言から「母は私のことを嫌いなのではないか」、という思いを子供の頃からは勿論大人になってからも暫く持ち続けていました。(母の名誉の為に追記すれば、普段はとても優しく子供思いの母で、今は昔の子育て方針を押し付けることのない素敵なおばあちゃんです)特に自分の思春期以降は「母には母の顔だけではなく、個人の人間として幸せでいて欲しい」とも、強く思いました。
そんな経緯もあり、自分が母になった時に、「自分の幸せと子供の幸せ、家族の幸せを相反させない、我慢しすぎないでお互いが幸せになれるようにしよう」という思いを強く持ちました。子供のことを優先する毎日の中でも、遊びに行く時に子供が喜ぶところだけでなく自分達が行きたい所へも行くし(ただし子供にストレスが溜まらないよう配慮している)、子供に媚びないことを大切にし、長い子育て期間で疲弊しないように、子供の要求でも無理な時は「ママ疲れているから今は出来ない」という、そんな自分は自分勝手なのかな、と考えることもありましたが、おとーちゃんさんのブログを見て、母に個人としての幸せを求めた過去の自分と、自己犠牲的な母にはなりたくないという今の自分を肯定してくれたように感じ、本当に嬉しく思います。
ではどうすればいいのでしょう…
自分が全く受容されず、否定され続け、心と体に跡が残るような傷も受け、育ってきたからこそ
わが子は受容を大事に育てようと頑張ってきました。
さらに、受容したことを恩着せがましく押し付けないことも
小さい子供だからこそ常に意識してやってきました。
わが子が我が家に来て4年たった今、非常に疲れています。
家庭に笑顔がまったくないです。
子供は私の顔色を見つつ、私が苦手なこと(外遊びなど育児を上手にやっていらっしゃる方には何でもない事)をあえてせがんできます。
夫はゲーム依存症です。
育児に疲弊した私の暗さ、生真面目さが彼をゲームに追いやったのだそうです。
受容されずに育った人間(=親)が
自分自身の人格を大事にしつつ、子供を受容して育てるのは不可能ではないかとさえ
思います。
赤ちゃんごっこ、出産ごっこ、くすぐり…うまくいきません。
「母親自身も一人の人格としてみてもらう」ことが大事なのはよくわかります。
でもみてもらえません。
子供を尊重→自己犠牲→育児がさらに負担→でも子供は大切だから尊重→
自己犠牲…
の無限ループから脱出する、きっかけをどうか教えてください。
みつうらさんへ
子どもを受容するとは、どういうことでしょうか?
みつうらさんへ
私のコメントが的外れで、気分を悪くされたらごめんなさい。
受容したことを恩着せがましくしないというのは、つまりお子さんに対して「受容してやったのに」という気持ちがあるということですよね。
私にはない感覚なのですが、おそらくその気持ちがあるとストレスもたまり「自分を犠牲にしている」ことに色々と辛くなってしまうだろうと思います。
みつうらさんのクッキーの缶はかなり少なくなっているのに、でも自分は辛いことを強いる母親になりたくないという気持ちがあって、クッキーを渡そうと考えている。でも缶にはあまりないから、クッキーを渡すことが自己犠牲であり、クッキー渡してあげたのにすぐに私にもクッキーをくれない、この子は私を尊重してくれていない、と感じるのでしょう。
でもいやいやクッキーを渡されても、相手も気持ちよく受け取れません。せっかくクッキーを渡したのに、その価値が下がってしまっては、悲しいですよね。無力感や、辛いお気持ちの中で、日々を過ごされているのだと思います。
本当は、専門家にお任せするのが一番なのでしょう。つまり、みつうらさん自身が受診するということです。
でももし、それが叶わない状態であるならば、そのみつうらさんの言う無限ループから脱出するきっかけは、どのようなものがあるか。専門家でも経験豊富でも何でもありませんが、考えていました。
そして、思いました。
相手を尊重するというのは、相手の意に沿う結果にすることではありません。相手を尊重するということは、「相手は自分とは違うのだ」と理解することです。そしてその私とは違う相手を、「違っていいのだ」と思い、伝えることです。
そして場面に応じて、「違うからそうしましょう」とか、「違うのね。私はこうしたいな」とか「違うけどこうします!」とか、どう伝えるかはその時の状況によって違うわけですよね。
まずその理解が必要と考えました。相手は私ではありません。違うのが当たり前であり、きちんと言動で表さないと、伝わりません。
そしてあかちゃんごっこも出産ごっこもくすぐりも、相手がさして乗ってこないのであれば無理にする必要はありません。これは「私と相手が笑顔で過ごす」「私が相手の全存在を認めていることを伝える」ことが目的なのです。その目的を達成するため、多くの人に適応可能で分かりやすいものを紹介して下さっているのです。
私は笑顔で楽しんでやっているのに、何度やっても相手は楽しんでくれない・・・それが現状みつうらさんとお子さんに合わなかったのであれば、それをそのままやり続けるのはただの苦行でしかありません。
外遊びが好きなら、外でお子さんを追いかけて、追いかけっこはどうでしょうか。みつうらさんは外遊びが苦手とのことですが、外遊びの何が嫌いなのでしょうか・・・。
4歳であればある程度言葉も理解しているでしょうから、朝起こしたときに抱きしめて「だいすき」と伝えることも大切と思います。夜寝るときも。
そして、相手の話を聞いてみてはいかがでしょうか。お子さんはなぜ外で遊びたいのか。もしかしたら、みつうらさんをわざと困らせたいとは思っていないかもしれません。相手の話を聞かなければ、私と違うか同じか分かりません。そして相手の話を聞かずに決め付けることが、尊重を損なうと考えます。
そして、みつうらさんの話をお子さんにすることも大切だと思います。過去家族関係で辛いことがあって、不安があること。お子さんへの対応に迷いがあること。それでも大切に思っていることを。それこそ、押し付けではなく。
よいモデルがなかったのなら、これからみつうらさん家族の、新しいモデルをみんなで作っていけばよいのだと思います。
長々と、的外れでしたらすみません。
お子さんのこともあまり書かれていないし、みつうらさんのお気持ちの部分が大きいのかなぁと感じました。辛いときは何もかもが辛くて、やる気が出なくて、どうしていいか分からない気持ちになりますから。そんな中でも、よくしようと情報は集めようとしていて、頑張ってらっしゃるんだなと感じました。
みつうらさんの行動できっかけがつかめ、ご家族みんなのお気持ちが少しでも軽くなりますように。
色々と腑に落ちました
「自己犠牲」のお話、何だか色々腑に落ちました。
例えば子どものものの貸し借りでも
「それは、Aちゃんが使いたがってるから、貸してあげなさい」
「それは、Bちゃんが今使ってるから、あなたは我慢しなさい」
と矛盾した関わりというのは、過去の記事でもよく例としてあげられていましたが、
これなど「人間関係は基本的に自分が我慢する(自己犠牲)」というのが
習い性になってしまっているということなのかなぁと思いました。
>親が無理をしていると感じると、子供もその大人の気持ちが伝わって本当の満足は得られなくなってしまいます。
これは本当にそう思います。
難しい顔をしてがまんしていても「お母ちゃん、怒ってる?」とあっという間に見ぬかれてしまいます。
シンプルに「お母ちゃん、ご飯の支度したいからもう帰りたいよー」とか「そんなワーワー言われたら嫌な気持ちになるからやめて」と「一人の人格として」気持ちを伝えたほうが子供が不安にならずに、気持ちを切り替えやすいように思います。
ありがとう
もなさん、見ず知らずの遠い我が家のために心と時間を割いてくださってありがとう。
「受容とは何か」「自己犠牲とは何か」
考えていました。
もなさんが問いかけてくださった外遊びを例に挙げさせてください。
わが子はとにかく活発です。ずーっと走り回っています。
4歳には危険な遊具もガンガン挑戦します。(全く目が離せない)
公園に限らずとにかく外が好き、となりのトトロのメイちゃんが
自宅の庭で遊びまわっているシーンがありますが、あんな感じです。
対して私…とにかく運動ができません。
走るとすぐ疲れ、立ちっぱなしは無理、しゃがめません。
トイレに頻繁に行きたくなります。(←↑病気・障害ではないとの診断)
外遊び自体がもう苦行なのです。
私自身が、「滑り台はすべるな(服が汚れる)」などと親に育てられ、
それも極端に運動のできない体と自己否定的な心に育った一因ではないか、と思うからこそ
外遊び好きなわが子に付き合ってきました。
わが子の幼稚園は遊べ遊べ幼稚園です。
だからか、「自分自身も楽しいから、つい外遊びしてしまう」みたいなママが多いです。
同じ外遊びでも、そのママにとっては楽しみであり、私にとっては自己犠牲。
外遊びはわが子自身が大好きだし、
自宅で市販のおもちゃで遊ばせるほうが私にとって楽で得意だけど
子供にとっては外で体と心を作るのは大事、と思うからこれまで頑張ってきました。
何を自己犠牲とするか。どこから自己犠牲とするか。
受容されずに育った親は、ほかの親御さんが何でもなくできることも「自己犠牲」と思う。
でも、わが子はかわいいから、頑張る。
この頑張りを今回のおとーちゃんの記事で否定されたように感じ、先のコメントをいたしました。
でも、私の頑張りを否定なんてなさってないんですよね。
うちに笑顔がなくなってしまった原因が、私の気持ちの部分に原因がある、ということが
もなさんのコメントを拝見し、あらためておとーちゃんの記事本文・皆様のコメントを読み返して
ストンと素直に心に入ってきました。
うまく表現できませんが、自虐的というか被害妄想的な気持ちがすっと消えた感覚です。
明日、娘とおかあさんのおかあさん(私の母)の話をしてみます。
子どもの尊重と受容について
僕は、子どもの「気持ち」を尊重することだと思っています。
子どもの気持ちを尊重することは、子どもの気持ちを価値あるものと認めたということです。
良い悪いは別にして、子どもの気持ちをあるがまま認めるということは、子どもを受容するに繋がると思っています。
その事を気持ちを込めて伝えることで、子ども自身も受容されていると感じると思います。
まぁ、ここまでが受容ですね。
僕は、このやり取りをせずに、子どもの言ったことやったことに、反応してしまうことに問題があると思っています。
みつうらさんへ
しかし、みつうらさんの優しいコメントで救われました。
ありがとうございました。
病名がつかなくても、身体的に辛いのは自分ではどうしようもありませんね。でも、お子さんが体を動かすことが好きで、それを伸ばしてあげたいと思うのも親心です。
危険がありずっと立って見守っているのがしんどいなら、お子さん自身にある程度の危機管理をお願いするというのも、ありかなと思います。
うちのもうすぐ3歳の息子は慎重派なので、危険なことはしないのですが、その分積極性がありません。できそうなのに怖がって拒否、公園では滑り台しかしませんし、それも滑っている人や階段を上る人がいれば、その人たちがいなくなってからでないと遊べません。待つだけ待って、飽きて「帰る!」と宣言、何もせず帰ったことも・・・
ないものねだりですが、お嬢さんの積極性を羨ましく感じます。
くすぐりはまだ笑ってくれますが、キスは「やだ、やめて」と言うようになってきました。最近成長期だからか、冷たいですねー。それは仕方がないことですね。相手がいやと言ったらすっぱりやめつつ、隙を見てめげずにキス攻撃しています。「好きだからキスしたいんだ~」「ぎゅっぎゅしたいんだ~」とか言いながら。
みつうらさんのお子さんは女の子ですし、ちょっと自立というか、出産ごっことかが恥ずかしい年頃なのかもしれませんね。折り紙でリボンとか作って、テープで服に貼り付けて「似合ってるね、可愛い!」と言うのも楽しいかもしれませんね。同じように自分にも付けて「一緒だね!」とか。
あと、うちも夫がゲーム好きでして。ゲームされるといらいらするよね~!と勝手に共感してました。しかも格闘ゲームが好きなんですよね・・・。話をして、子供の前ではしないでいてくれてます。スマホゲームはしてますが。
何かを夫に伝えにくいときは、手紙が有効でした。でも長文だと読んでもらえないので、感謝を伝えつつ短く仕上げました。押し付けず、さらっと。
おとーちゃんの「自然体」の記事も、とても参考になりました。
子供がそれぞれ違うように、親もそれぞれ違います。
でも、私が夫と一緒になり、そこにこのような子が来てくれたことには、やっぱり意味があるのかなと感じます。私にとっての意味、この子にとっての意味、夫にとっての意味も。
試行錯誤しながら、息抜き手抜きをしながら、いつか「そんな時もあったね」と、笑って話せたらいいですね。
私も頑張ります。ありがとうございました。
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夜中に「お茶~」と言ったら眠くてもお茶を注いでやります。美術館は素通りして動物園に行きます。腰が痛くても「抱っこ~」とすり寄ってきたら抱っこしてやります。すき焼に生卵をつけたくても子供が真似したがるといけないので我慢します。
がんばってはいないし、さほど無理もしてないんですが、自己犠牲の連続ですねぇ。
でも、自己と他者を同一視しているとか、与えることを美徳と思っているとか、そういう不健全な自己犠牲ではないような気がします。
「私も一人の人格としてみてもら」いたくて、ときどき「母ちゃんだって自分のご本読みたいから一人で遊んで」と言ってみるんですがね。しゅんとした顔をみたら、もう言わんとこうと思ってしまいます。
フランス人といえば、実の両親、親の再婚相手や恋人、本当の兄弟に異母異父兄弟と、いろんな人が流動的に家族を構成しますが、子供はどうやって育ってるんでしょうねぇ。日本のお父さんお母さんがこれだけ子育てに四苦八苦しているのに彼らはロールモデルなしにどうやってるんだろう。
ラテン気質で何事も悲劇にしないのかな?