保育には「盗んで覚えろ」は通用しない - 2016.09.17 Sat
今日は勢いで二本の記事をUPしています。代わりに明日は保育シンポジウムに参加してくるので、明日の更新はありません。あ、もう日付が変わっていました・・・・・・
↓明日東大の安田講堂で開かれるこちらのシンポジウム。
ちょうどまさにこれからの保育の質の向上を考えるシンポジウムです。もし明日いらっしゃる方がおりましたら、僕もおりますので気軽に声をかけてくださいね。(青いスーツ着てうろうろしている眼鏡のおじさんです)
『今、日本の保育の真実を探る』
生活面での子供の養育があり、身体の成長、心の成長、生活習慣の獲得、集団としての行動、表現などの個々の発達、
それらだけでなく、「どうやって子供と関わるか」山ほどの状況があり、それぞれ違う背景や個性を持った子供への適切な対応を身につけていく必要があります。
それは教科書やマニュアルに書かれたことで対応できるわけでなく、学習から、実際の経験から、周囲の人たちの子供への関わり方から、自分のものとしていかなければなりません。
そういった意味では、とても職人芸的なところがあります。
その人自身にスキルが固有化しているからです。
職人芸的なスキルは、よく「盗んで覚えろ」と言われます。
「教え込んだところでけっして身につかない」とも言われます。
保育もそういう部分は多分にあるのも事実です。
その人自身で、理解し納得し、その技術を自分のものにするためには、ただ教えたからと言って身につくものではありません。
人の関わり方を見ることで、保育でのやりかたを身につけることも確かにたくさんあります。
しかし、だからといって「盗んで覚えろ」は決定的な答えではないのです。
ここが、モノを作る職人さんとは違うところです。
何かの道具や工芸品を作る人にしても、家を建てる大工さんにしても、その人たちの仕事には目に見える形での結果が伴っています。
どれだけ口で立派なことを言おうとも、その人の成果はモノという形にはっきりと表れます。
その仕事が優れているか、見てくれだけは立派でも機能に支障があったり、細部で手を抜いていたりすれば、やがては、または見る人が見れば明らかにわかってしまいます。
ですから、モノを作るいわゆる職人さんは、誰かが仕事を教えずとも明らかな結果を出せるようにならなければ、一人前とは認めてもらえません。年齢や経験年数を重ねようとも、その結果がでなければ後から入った人にも追い抜かれていきます。
実力主義の世界ですから、仕事がともなわなければ経験年数だけで大きな顔をすることもできません。
しかし、保育では職人的に力量を磨かなければならない部分があるとしても、その人の仕事の結果が明確に形で判別できるわけではないので、適切な仕事ができていなくとも上に上がっていくことも、聞きかじった受け売りで大きなことを言うこともできてしまいます。
だから、保育技術を「盗んで覚えろ」では通用しないのです。
かつての時代よりも、多様な理由から保育は難しくなっています。
保育士が、その本来の専門性を発揮しなければならない必要性は年々高まっています。
例えば、家庭で親がどうしようもなくて多少使うくらいにはさほどのことはなくとも、僕は保育において「疎外」を用いることは大変問題のあることだと思っています。(例:「みんなと一緒にできないあなたは赤ちゃん組にいきなさい」、「言うことを聞かないのならばおいていきます」など)
かつての状況であれば、保育士がそれをつかって子供に言うことをきかせるといったことをしても、子供自身に大人への信頼感がすでに形成されていたり、保育時間がさほど長くなければまあなんとか家庭で親に甘える程度で解消できていたものが、現在の親も仕事での負担が大きかったり、子育てに周囲の援助がもらえなかったり、保育が長時間にわたっている状況では、そういった関わりは子供にもその親にも大きな負担や影響を与えかねない時代になっています。
保育技術は、もはや「その人しだい」で済む時代ではなくなっているのです。
どういった理念を背景に、どういった形で子供と関わるべきなのかなどを、はっきりと明らかな形として保育士ひとりひとりが認識して、それについて同僚と共通理解を持って保育に取り組まなければならなくなっています。
しかし、現在の保育界にはそれが十分な形ではできていません。
僕はイメージとしては、保育士が保育について、子供への関わり方について話し合うとき、囲んだ机の上に、目で見える、または手で触れるような形で、目指すべき保育が置いてあるような状況でなければならないと考えています。
それができるようになって初めて、その園として理念をもった一貫した保育が展開できるようになります。
適切な保育をしていくためには、低年齢の時から丁寧に「積み重ね」ていく必要があります。
子供の安定した育ち、姿を作り出すのは、丁寧な配慮と継続したアプローチが必要です。
作るのは時間がかかり難しいのに、壊すのは簡単にできてしまいます。
0歳クラス、1歳クラスと、適切な保育を積み重ねて安定した育ちをその子たちに得させたとしても、職員が替わり2歳クラスで疎外したり支配的・抑圧的に関わる保育をしてしまえば、その子たちの安定は一瞬で崩れます。
適切な保育が一貫した形で、その園の職員に徹底されていなかったためにそれは起こります。
理念と技術そして実際の子供の姿を一致させられるだけの専門性を持った保育ができる園や保育士がどれほどいるでしょうか?
それができる保育士で、それを明確に他者に説明したり、教えたりすることができる人はさらにどれだけいるでしょうか?
「できる保育士」「うまい保育士」はそれなりにいるでしょう。
しかし、専門性の高い保育の必要性が高まっている現代においては、もはやそれだけでは済まなくなってしまっているのです。
目に見える形、手触りのある形で、「保育とはこうだ」と認識し、それを園内で共有する力が必要な時代になっています。
これから保育を学ぶ人、よりよい保育を目指したいと思っている人はぜひそれも意識して目指してみてください。
このブログのコメントに寄せられる保育園に預けている人たちの声に耳を傾けると、どれだけ多くの人が心ない保育で苦しんでいるか痛いほど聴こえてきます。
おそらく、心ない保育をする人たちをすぐになくすことはできないでしょう。どれほど説得したところで変わるわけではない人もたくさんいるでしょう。
でも、それを今後も繰り返してはいけません。
今度の保育士セミナーでは、その保育の実践につながるだけの、目に見える、手触りのある保育を伝えられるよう僕も精一杯お伝えしたいと思います。
まだ、エントリーには空きがありますので、もしそれを少しでも身につけたいという方はどうぞご参加ください。
第二回保育士向けセミナー
テーマ 「受容と信頼関係の保育 ~支配から信頼へ~」
日時:10月2日(日) 13時15分~16時15分
「今現在保育士ではないのだけど、保育に興味があるので学びたいと思っており参加してもいいですか?」というお問い合わせがありました。保護者向けの内容ではありませんが、そういう方でも結構です。どうぞご参加ください。
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● COMMENT ●
保育園ひどいものでした・・・
出来事ですが・・・金曜日の連絡帳に「青い色にこだわる姿が見られました」とありました。私は「こだわるの意味は細かいことを気にするという悪い意味で使われます、そのように捉えたのが残念です。好きな色がある、ということは成長しているのだと前向きに捉えてあげてください」と返信しました。そして昨日「私の気持ちが通じなかったので私も残念だ、言葉は難しい」という旨が書いてありました。
これまで、こうした発言はすべてスルーしてきましたが、それで「どんどん言った方がいい」と思い込んだのか悪化してまして、今回は反応しました。
保育士の「気持ち」ってなんでしょう。
正直「そんなもんしらん」です。しかも「通じない」って「こだわる」とか発達障害」の母親にとっては心痛めるキーワードです。先々月は「虐待」なんて言ってました。
こどもの成長を本気で考えてる保育士なら「私の気持ち」なんて言わないでしょう。
気持ちで仕事してるとかありえないです。気持ちはおいておくものです。と、思います。これまでも、わかってくれない、大変だ、とか書いてありました。1歳児に「ダメなものはダメ」って言ってるのにわからない、とか書いてありました。つまりは「発達障害がある(=自分のできなさ無知識の責任をこどもに投げつけている)ということをわかれ、という意味合いにしか取れません。
本当にどう接したらいいのか全くわかりません。(直るわけないし)
単に幼稚園をこども園にした弊害のひとつだと思います。
すごく良い記事ですね
いつも素晴らしい記事をありがとうございます。
古い保育観が根強く残っているのですよね。保育に関しては、園に任されている部分が大きいので、園によって大きな差が生まれてしまうんですよね。
保育士になって、学校で学んだことと現実のギャップに驚きました。子どもをビシバシいう事聞かせられれば、専門家でなくても良いのでは?と思う事があります。
製作とか発表会を上手くやるのが専門性だと思っているように感じることも。
職員の先生方はたくさん研修にも参加しているのに根っこのところは変わらないように感じます。
先生方はその古い価値観の中で一生懸命保育していますし、子どもや親御さんのことも一生懸命考えているんですよね。その保育が正しいと信じて頑張っているように見えます。
悪気はないし、正しい部分もあるから難しいですよね。
前の方の投稿も、そんな価値観の違いからくるトラブルに感じました。お気持ちお察しします。
きっとあまり保育士の一字一句にとらわれず、ご自分の信じる育児を自信を持ってされれば良いんですよ^_−☆
「こだわりというのはどういう意味ですか?青一色で描くのは発達上あまり良くないことなのですか?」などとまず相手の意図を聞いてみると良いかもしれませんね。
心配なことがあるなら、こちらから心を開いて聞いてみれば、意外に向こうも協力してくれるかもしれませんよ。
違っているかもしれませんが、ご自身がお子さんが発達障害かもしれないと思って不安な気持ちを抱えていらっしゃるということ、また、どう我が子に接したら良いか分からなくて困っているなどということもあるのかもしれませんね。
不安な気持ちを保育士に言っても良いですし、保健師さんも聞いてくれますし、療育施設も対応してくれると思います。
仮に発達障害だったとしても小さな頃からちゃんと療育すれば大丈夫です。お子さんの力を信じましょう。
気持ちが分かるので、余計なこと書いてすいませんでした。
通用しないこともない
確かに、保育士の仕事は結果が明確な形で判別できるわけではないですけど、適切な仕事が出来ているかどうかは、
家での子どもの様子を聞き、保育園での子どもの様子を見れば、分かると思います。
分かる人がいるのであれば、その人から盗むことは可能だと思います。
まぁ、分かる人がいない可能性もありますけどね。
追記
分からない人ほど出世しているのでしょうね。
だから、保育園の体質が変わらない。
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心ある先生方がなんとかふんばって持ちこたえている…というのが昨今の保育事情なのかなという印象を受けます。
ここは地獄でしょうか…
今、うちの子が通っているのは「ナントカ教育」的なものを標榜した幼稚園で
理念がまずあって、それが教師と保護者の共通認識となっているし
少人数の縦割り保育という構造だったり、教師は大きな声を出さないという決まりだったりがあるので
先生個人に多少の問題があったとしても、一定水準以上の保育が保証されるような安心感があります。
こんなことが、こだわり幼稚園だけじゃなく、保育園や公立幼稚園でも当たり前になって欲しいです…。