「いい保育」と「上手い保育」 vol.6 - 2016.10.18 Tue
子供は、管理や支配をせずとも大人の目指す方へと成長していくことができます。
そのためには「信頼関係」から子供への関わりを組み立てることです。
「信頼関係」をあつくするためには、「肯定」で子供に関わる必要があります。
しかし、これまでに述べたように、「正しい姿」を目指して、目の前にある子供の姿をその位置から見てしまうと、否定の関わり、もしくは否定の感覚・ニュアンスをもっての子供への関わりになってしまいます。(その否定のアプローチが極限までいってしまったもののひとつが「体罰」)
だからこそ、善意であっても最初から「この姿ではいけない。直さなければ」と子供を見てはならないわけです。
子供へのアプローチの最初のピースを「ああ、そうなんだ。この子はいまこの姿なのだな」とすることで、否定のニュアンス抜きの肯定の関わりにすることが大切になります。
だから、保育のプロは子育てを「しつけ」で考えては取りこぼす子を生んでしまいます。
保育園では、0~1歳児からの子供をみています。
なので、低年齢のときから「肯定」を積み重ねる保育を意識していくことができます。
このことも大変重要な点です。
これは「保育の連続性」へとつながります。これについてはまたの機会に。
では、「肯定」の関わりとはなんでしょう?
わかりやすいところでは「褒める」が思い浮かびますが、「褒める」は実は使い方・大人の姿勢しだいで「否定」にもなってしまう諸刃の剣です。
(「褒める」=「結果がよかったときに与えられる肯定」=「条件付きの肯定」 → 裏を返すと「大人の眼鏡にかなう姿(結果)でなければ肯定しませんよ」という「否定」のメッセージとして子供に伝わることもある)
本当は、そういったはっきりとした直接的アプローチよりももっと基礎的なところから肯定はあります。
まず、「見守る」ということが「肯定」です。
「見守る」といってもいろいろあります。
・「危ないことをしやしないかとハラハラ見守る」
・「他児に噛みつきや手出しをしないか見守る」
・「他児のモノを取ったりしないか見守る」
これらは、「肯定」になっているでしょうか?
これはむしろ「否定」になってしまっています。その後導き出される大人の実際の関わりを見ても「否定」の方向であることは否めません。
・「危ないことをしやしないかとハラハラ見守る」→「危ない危ない」と注意や制止、行動の牽制のアプローチ。
・「他児に噛みつきや手出しをしないか見守る」→大きな声を出して止めたり、怖い顔になっている。
・「他児のモノを取ったりしないか見守る」→注意したり、子供の関心を他に向けるようなアプローチ。
などなど、「見守る」をそのように使っている限りは、それは「肯定」になりません。
僕は「見守ることは子供へのプレゼント」であると考えています。
あたたかく子供を見守ることによって、子供に「私はあなたのことを守っていますよ、ここは安全です、あなたの居場所ですよ、私はあなたのしていることを認めていますよ」というメッセージを視線や表情によって日常の多くの場面で子供にその「肯定」を伝え続けていくわけです。
そのように「子供に○○をする」といった直接的なアプローチ以前のところから「肯定」はあるのです。
そこから肯定を積み上げていけば、その子への関わりの多くが子供を認めるニュアンスをもったアプローチになり、子供はその大人への信頼感を大きくしていきます。
子供の話を聴くこと、遊びの相手をすること、着替えや食事の介助、午睡の見守りなどの生活面の世話、これらも大人の意識しだいで「肯定」のニュアンスを持ったアプローチになり得ます。
「なり得ます」と言っているのは、「なり得ないこと」もあるからです。
それは大人の姿勢しだいなのです。
だから、「どうすべき」抜きの「ああ、そうなんだ」と子供の姿を受けることからスタートすることが非常に大切です。
最近の保護者の子供への関わり方で多く見られるのが、「子供の姿を”ちゃんと”させなければ」と真面目に一生懸命関わっている人が、年齢を重ねるほどに子供が手に余っていく状況です。
それは、上で述べたような「見守ること」が「否定」につながってしまう人に顕著です。
「”ちゃんと”させなければ」と思うあまり、結果的に子供に山ほどの「否定」を積み上げてしまいます。
それが日常における信頼関係の低下を招き、かえって子供が大人の望む姿になっていけない状況を生むケースがあります。
一緒に暮らす親子であればそうであってもカバーはできますが、本来他人であるところの保育士が「否定」をたくさん積み重ねる関わりをしてしまえば信頼関係はあつくなりません。(”その人に頼らなければ園で過ごせない”という最低限の信頼しか寄せられない。それは子供を導いていくにはほど遠いい信頼感にしかならない)
ですから、一般的な「しつけ」の感覚で子供に関わるのは保育士としては相応しくないのです。
しかし、そのような肯定的な姿勢・関わりを積み重ねた後であれば、子供を管理・支配をせずに望ましい姿を持たせていくことが可能になります。それも子供自身の自発的な姿としてです。
例えば、他児に乱暴な子がいたとします。
その子に、怒ったり叱ったりを重ね「怖い大人」になることで、その子が他児に乱暴するのを止めたり、事前に大人がそれをさせない雰囲気をかもし出すことも可能です。
しかし、それは否定の積み重ねの末に生み出された「威圧」であって、子供が自発的に乱暴しないようになっているわけではありません。
威圧でそれを押さえ込んだところで、別のところでその乱暴さを出すか、別のかたちで出させるようになるだけです。
それでは子供の成長とは言えません。
大人がその子との間に信頼関係を築く関わりを積み重ねていると、その子は例えば他児のモノを横取りしそうなになったときに、その大人に一瞬視線を送るようになります。
そのとき、「そのまま取ってしまったらその大人がどう思うだろうか?」という気持ちが、その行動をその子に思いとどまらせます。
そこで、もしその子が奪う行動を止めることができたら、すかさずそこを認めてあげます。するとその子はそうやって叩くことを思いとどまることが「よい行動なのだ」と学習し、自分から「どうすべきか、どうすべきではないか」を身につけていくことができます。
その保育士が、その子を行動でも心情でも肯定することができず、信頼関係をあつく形成していなかったら、もしくは威圧などの否定的な関わりを積み重ねていた場合は、他児のモノを取ろうとするときに一瞬その大人に視線を送る行動そのものを取りません。
子供がなぜ大人の言うことを聴こうとするかといえば、それは「大人が怖いから」ではないのです。
その大人が「好きだから」その人の言うことを聴こうとするのです。
好きだからその人の意に沿いたいと思うようになります。
これが、子供と保育士が「寄り添った関係」であるということです。
大人と子供が「支配・被支配」の関係になるのを目指すことは、保育では本来不適切なことです。
「しつけ」の子育ての考え方では、「叱ること」を積み重ねることで子供を大人に従順な状態を作り出そうとします。
それが可能なケースは、すでに人への信頼感をあつく形成している子供に限られるのです。
ごく低年齢からあずかる場合や、家庭で過ごす時間が短かったり、家庭の養育力が低下しているような保育園で直面することの多いケースでは、そのように大人が子供の上に立った状態で考えるかたちの子育てはどこかで限界がくることでしょう。
では次に、子供が大人に一瞬視線を送ったけれども、そこで止まらずに他児の遊具を奪ってしまった場合の対応についても見てみましょう。
つづく。
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