「いい保育」と「上手い保育」 vol.8 『包括的受容』 - 2016.10.29 Sat
多くの人は、「子供になにかをすること」が「立派な子育て」なのだという無意識の先入観を持っています。
ですから、子育てや保育を「頑張る人」ほど、かえって大変な子供の姿に直面しかねません。
なぜなら「過干渉」になってしまうからです。
「そのとき大人が介入して子供が正しい行動をとることができた」というのは、逆に考えると「大人が介入しなければ正しい姿を出すことができない子供に大人がしている」ということになりかねません。
ケースは多種多様ですから、必ずそうなるとは限りません。しかし、無自覚でやっていればそうなる可能性を高めてしまうことになるでしょう。
実を言うと、この「介入しない」というアプローチは、介入することよりもはるかにする側にとっては難しいことです。
なぜ難しいかというと、大人は心理的に「正しい結果」を作り出してしまうと「安心」できるからです。
しかし、いま即座に「正しい結果」を出さずに、長い目で子供自身でその地点へ成長してくることを待つというのは、心情的な「もやもや」をずっと感じさせてしまいます。
その「もやもや」を乗り越えるためには、「子供の成長、発達への十分な理解」「経験に裏打ちされた保育への自信」「子供の個性や尊重などへの理念的理解」「保育者自身の精神的余裕」などなどが必要だからです。
子供の成長は「いまがゴール」ではありません。それは皆さん言葉としては理解することは難しくないですよね。
しかし、実際にはひとつひとつのことに対して「いますぐ」結果を出さなければとアプローチしてしまいます。心情的にも納得のいく結果を目の前に作り出して、「すっきり」したくなってしまうのが人情です。
そこに無自覚であると、それはやがて過干渉となり、管理や支配としての関わりになっていってしまいます。
保育士は、保育の専門家としてそこを明確に踏まえた上で子供に関わる必要があります。
さもないと、子供を思い通りに動かすスキルばかりが身につき「上手い保育」を目指すことになりかねません。これまでの時代の保育はそれで済んだ部分もありますが、確実にこれからはそれでは不十分になります。
子供自身を適切に成長させられることが要求されています。
僕はこのことをまとめて「保育士は子供の成長の果実を食べなくていい」とお伝えしています。
成長の果実を食べなければならないのは、当然その子供自身なのです。
「保育士である私」が自己満足するために子供を思い通りにしていかないよう、自分を省みる視点が専門性の高い保育には必要だと言えるでしょう。
さて、それではvol.7で予告した「包括的受容」のお話です。
おそらくこの「包括的受容」という言葉は、保育書や育児書には載っていないのではないかと思います。僕が子供への関わりについて研鑽する中で作り出した、考え方であり言葉です。
子供が注意されるようなネガティブな行動をとるとき、特に慢性的にそれを行うケースでは、その多くはなんらかの「理由」と「背景における原因」(根っこ)があるものです。
それに対して大人はその子供の行為しか見ず、大人の持つ「規律」や「規範意識」「善悪の判断」「正義感」で対してしまえば、「否定のアプローチ」をすることになってしまいます。
例えば、その子が単に気が強く他児のモノを取ってしまったり、手が出てしまうというだけのケースであれば、それでも問題ないかもしれません。
しかし、現代の家庭、就労状況、長時間保育などの背景があるなかでは、そんな風に単純に考えられるようなケースは少なくなっています。
子供がネガティブな行動を取るのは、「その子が悪い」からではなく、「なんらかの理由」があって子供はやむを得ずそのような行動がでてしまうのです。
それに対して、ひとつ覚えに「否定」のアプローチをし続ければ、その子供の大人に対する信頼感は低下し、自分に対する肯定感やものごとに前向きに取り組もうとする意欲などは減らす一方になります。
そこでそういったケースに対するアプローチとして、「包括的受容」ということを僕は広めています。
その言葉の意味は「包み込んで受け止める」ということですね。
ではなにを「包み込む」のでしょうか?
それは第一にはその子供のネガティブな行為です。
本来ならば注意や叱られるようなことであっても、その子の背景にあるものを踏まえて肯定を積み重ねなければならないケースであると判断されるならば、あえて注意や叱るといった「否定」のアプローチをせず、むしろ受け止めてしまうのです。
そして第二には、それらがひいては子供の存在そのもの「ありのまま」を包み込んで受容するということになっていきます。
具体的に例をとって見ていきましょう。
1歳10ヶ月の子供で、たびたび机の上に登ることを遊びとしてしまうというケースがあったとします。
この子が単に上に登ることが楽しくなってそれを遊びにしてしまっているだけであれば、「そこは登るところではありませんよ」ときっぱりと伝える対応をし、一方で外遊びなどでその登りたいという欲求を満たす遊びを提供していきそれを楽しみながらさせるといったメリハリのある対応をすることで改善が可能です。
そのケースならば、「机に登ったそのときの対応」は、注意や否定のアプローチでいいわけです。
でも、その子が机に登ることが保育士の気を惹くためであって、その背景には家庭での受容不足や情緒的な安定の欠如があったという場合は、それを注意するだけではなにも改善しない可能性が高いです。
そういうケースだと、中には保育士に「注意されること」すら自分に関心を向けてもらえる実感が得られることから、心地よくなってしまうということもあります。
そうなってしまえば、その机に登ることだけでなく、その子はさまざまなネガティブな行動をすることが増えていきかねません。それは保育士の対応が裏目に出たばかりではなく、保育士もその子への対応に振り回され、やがてはその子を許容する精神的余裕すらなくなっていきます。
(こういう状況でしばしば耳にするのが、「無視する」という対応です。無視することにより、その子供の行為を無意味化させる意図のアプローチなのでしょうけれども、それが好ましい対応でないことは考えればわかることと思います)
そこで「包括的受容」の出番です。
本来ならば注意することも、ひっくるめてさらに大きな見地から受容へと転化してしまいます。
子供が机に登ったとき。
「そんなことしなくても、私はあなたのことを見ていますから大丈夫ですよ。はい、こっちへいらっしゃい」と保育士のところへ来させ抱きしめてあげます。
いいも悪いもひっくるめて受容してしまうのです。
その基礎には当然ながら普段からの信頼関係の構築が前提としてあります。
「この人は受け止めてくれる人なんだ」と思っているところに、「こうすれば気持ちよく受け止めてくれるのだ」という道筋を実感として子供に持たせていきます。
「素直な甘え」ですね。
また、子供にとっては同時に「甘えていいという自信」でもあります。
「こうすればネガティブな行為をしなくても受けてもらえる」と子供がわかれば、わざわざ目を惹くようなことをしなくても良くなります。
素直に甘えるほうがよほどその子にとっても心地よいからです。
しかし、大人に受けてもらう経験の少なかった子は、受け止めてもらう自信がないので、素直に自分を出せず、ネガティブな行動に駆り立てられてしまいます。
「包括的受容」をすることで、その子供に「甘え方」と「甘えを出せる自信」を与えていくのです。
それによって、その子の問題の根っこから解決し、長い目で見てネガティブな行動をなくし、その子の生育を良いものへ転換していくきっかけとなります。
普段から安定しておらず、他児にちょっかいを出したりちょっとしたことで手が出る子に対して、その場面に対して注意の声をあげるのではなく、「どうしたんですか?」と問いかけて受け止める姿勢を持って関わります。
そこでは大人が善悪の判断をつけることや、子供に善悪の判断の意識を刷り込むことが重要なのではないのです。その子供がなんらかの問題の根っこを抱えている場合は、そこに手をさしのべなければなりません。
「どうしたんですか?」と問いかければ、そこでその子供がなんらかのリアクションをとることでしょう。
それを「ああ、そうだったんだね」。”ウンウン”とうなづくような気持ちで一拍二拍おいて、「うん、わかったよ。でもそんな風にしなくても私はちゃんとあなたのことを見ていますよ」と受け止めてあげます。年齢が小さい子であれば抱きしめてあげます。
それにより、その子の何らかの根っこが、もし氷のようなものだとしたらそこをあたためて溶かしてあげるアプローチとしていくのです。
または、普段から抑圧が多い関わりをされている子供も、大人の行動に反することをせずにはいられなくなってしまいます。
その子たちも、ネガティブ行動に対して「否定」の関わりをされることは、「抑圧に抑圧を重ねること」になるので、保育士は問題を解決しているつもりで火に油を注ぐことになってしまいます。
ですので、こういったケースも注意(否定)では解決しないものです。
このケースにおいても、そのアプローチのスタート地点として「包括的受容」の考え方は応用して生かせることでしょう。
この「包括的受容」の対応は年齢が小さい子ほどやりやすいです。
年齢が上がっても基本的な同様のこと(細かな関わり方は年齢に合わせて変化するが)はできますが、諸条件から0~3歳の子供に対してがやりやすく、またそういった低年齢のときこそ、基礎的な肯定感を持たせるアプローチを大人がすることで、精神的・情緒的な成長の援助を専門性をもった保育士としてするべきことでもあります。
別の見方をすれば、幼児になる前の段階で意図的に子供の基礎的な心の成長の問題をクリアしていくことが大切であるということでもあります。
そのように保育は、「目の前の子供の姿」だけを見てアプローチしていくのではなく、長期的な子供の成長・発達を考えていく視点が大切です。
これを僕は「保育の連続性」と呼んでいます。
この視点をもたないと、”担任になったときの自分のクラスだけしか意図しない保育”や”施設としての理念のかけた保育”になりやすいです。
考えていた以上に長くなってしまいましたが、今回でこのシリーズは区切りとしたいと思います。
保育実践に少しでも役立てていただければ幸いです。
保育士の本分は目先の何かを「できるようにすること」ではなく、「幸せな人生を歩める人間を世に送り出すこと」だと僕は思います。
そしてそれこそが本当の「保育の力」なのではないでしょうか。
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● COMMENT ●
まさに我が子の話
身につまされます
今回の内容は、おとーちゃんの過去の記事にも一般向けに書かれていて、そうだな、と思っていたのに最近はすっかり忘れて声を荒げてしまったり相手にしないようにしたりと対応してしまっていました。(大反省!)
子ども本人の年齢的な事(成長期)も要因としてありますが、今回の記事のような内容も心に留めながら明日からまた向き合っていきたいと思いました。
こちらのブログは、子どもが0歳の頃から現在2歳になるまで約2年間、過去記事や過去コメントを漁っては、なるほど と勉強させて頂いています。
自分は、ふつうの母親で、子育てや子どもの発達心理学的な発育など素人なので、おとーちゃんの記事やコメントをエッセンスに、自分でストレスにならず出来る範囲に落とし込みながら実践しています。
スキンシップの取り方などは、特に気軽にできるので、意識的に取り入れているのですが、触れ合っている時の子どもの至福の顔を見ると、本当にこちらのブログに出会って良かったとしみじみ感じます。
いつも気づきをありがとうございます。
これからも陰ながら応援しています。
秋深まる
そうなんです、安心したいんですよね。
誰が?、自分が(笑)
長女四才、毎日をめいいっぱい謳歌しているのを感じる今日この頃です。
成長の果実=保育士の評価
そして躾が出来ない・なめられてると言われて、ダメ出しされる。
※その背景には、結果至上主義の親がいたりする・・・
スポ少なんかも勝てば官軍負ければ賊軍で、パワハラも許されてしまう。
保育園でも幼児クラスになれば、集団保育に変わっていきます。
なかなか個別対応は難しく、一人だけ甘やかしと示しが付かなくなる。
※そのような園だと、その保育士にだけワガママが出たりする。
それで学級崩壊となれば、管理職・モンペから吊し上げをくらう。
それで退職したり、中には精神疾患を患う保育士もいる・・・
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