『大人は「結果」を作り出したくなる』のお話からふたつのこと - 2016.12.02 Fri
ありがとうございます。本当にはげみになります。
さて、先日書いた『大人は「結果」を作り出したくなる』のお話しから、僕はさらにふたつのことを派生して考えます。
ひとつは、子供の「表現や自己発信する力を大人が間接的に弱めている」であろうこと。
もうひとつは、「できるようにしないこと」が結果的に子供を「できるようにしてくれること」です。
今日はそのひとつめについて述べてみます。
我が家の近隣は比較的子供たちが多い地域で、近所や同じマンション、子供の友達など大勢の子供を目にしますが、ほとんどどの子にも共通して感じることがあります。
それは「しゃべれない」ということです。
これはたまたまその状況や、個性、そして地域柄なんかに寄るところもあるとは思います。
だからはなはだ僕の主観的な部分も多いのだけど、屈託なく子供らしく人と関わったり大人に気さくに声を掛けてくる子供がとても少なくなっているように感じます。
3~4歳の子供だと
「おじちゃん誰のパパなの~?」とか子供らしく無邪気に人と関われていた子が、だんだん年齢が上がって小学生くらいになると、ちっともそういう屈託のない関わりをしなくなって、挨拶や敬語を使ったりすることはできるようになったとしても、関わることそのものができなくなってしまうかのようです。
もちろん、年齢が上がることによる「恥ずかしさ」とか、社会性の発達による大人に対する感覚の変化などはあるにしても、なんとなしにそれだけではないものがあるように感じてしまいます。
前回のお話とこれがどうつながるかというと、
それは家庭・学校での子供への関わり方が、もしかするとそういう傾向を生み出しているのではないかというところです。
前回見たように、一般的な大人そして、子供にとってとても大きなウエイトを占める学校の先生の子供への関わり方は、少なからず管理的支配的です。
そこまではいわずとも、指示的な言葉がどれほど多いことでしょうか。
上から頭を押さえつけるような関わりのオンパレードになってはいないでしょうか?
それは子供たちの学校の先生への関わる姿にも見て取ることができます。
管理や支配を多用する先生に、子供たちは気さくに「ね~せんせ~」などと声をかけることは少なくなっていきます。
しかし、前回お話ししたような、子供の信頼関係の上に、子供の自主性を意識して子供の自発的な姿・行動を待てる先生に対してであれば、そういった気さくな子供の姿ははるかに多く見られます。
でも、残念なことに実際子供たちが多くされるのは、指示的・管理的・支配的な関わり方です。
そういった関わりを大人から慢性的にされていれば、その他の大人に対しても、子供は自然体で関わることができなくなっていくでしょう。
「なにか言えばそれを否定的にとらえられるのではないか?」
「感情を思うがままにだせば、それがよいものであれ、押さえつけられるのではないか?」
そのような感覚を無意識に覚えてしまっても無理のないことです。
しかし、僕はそれはとてもとてももったいないことだと思うのです。
敬語なんかうまくつかえなくてもいいから、いろんなひとと自然体で関わることができるというのは、とても重要なことに思えるのです。
そういう傾向は、子供ではなくいまの若い世代の人たち、もしくは皆さんと同世代の方にも見られはしませんか?
子供にとって学校の先生は「大人代表」です。
その大人代表が、子供の頭を押さえつけることばかりをしていたら、「個性」という言葉も、「自主性」という言葉もいつまでたっても絵に描いた餅でしかないですよね。
世の多くの人は、「子供を大人にしよう」としているのだと僕は感じます。
でも、本当は大事なのは「子供をまず子供にすること」ではと思うのです。
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● COMMENT ●
考えたこと
知人のお子さんが保育園の年中さんの頃、評判の悪い先生が担任をしていた。そしてその先生の気を引くために、子供が競って先生に手紙を書いていたというのです。あの子が先生に手紙を渡していた、だから私も今日は絶対に手紙を渡す、と言って、「せんせいだいすき」と紙に書く・・・
その時、立てこもり犯の人質が、だんだん犯人に協力するようになるという話を連想しました。
ここで話題にされていることとは、方向性が違うと承知していますが。
子供は親や近しい大人をみて、周りの大人とのコミュニケーションを学習する部分も大きいと感じます。その土地において、大人同士がどれほど親しいコミュニケーションをとっているのか、というのも、この件に関与しているのではないかなぁと思いました。
つまり、大人の地域社会における接し方が、子供の「ふんわり同じコミュニティにいる大人」に対する接し方に大きな影響を与えているのではないか、ということです。大人のほうも、道行く子供に積極的に声をかける人、少なくなりましたよね。小さな子供だけで遊びに行くことも少なくなりました。親といる子供に、雑談のために積極的に声をかける人が、今の日本にどれくらいいるでしょうか。これは年代や地域性でかなり違ってくると思いますが。支配的とか管理的の前に、関わり自体が希薄になっている。地域のつながりの希薄化、それが徐々に出ていて今顕著になっていると感じます。
そして日本人は、年齢の低い者が礼儀正しく振舞うことが大好きです。努力する姿を見ることが大好きです。甲子園や箱根駅伝しかり。これらは身体的・精神的な酷使や燃え尽きが指摘されて久しい代表例です。
成長途中の者として、どのように尊重すべきか?私にはまだつかみきれていません。少しでもつかみたいと拝読していますが・・・まだまだ勉強させていただきます。
ニュージーランドの子
ニュージーランドにいたころ、友人と二人で水族館のエイの前で写真を撮ろうとしていた時。ちょうど良い場所とタイミングを探してうろうろしていると10歳くらいの男の子が私をつついてちょうど良い場所を教えてくれたことがあります。友人とは日本語で話していたので明らかに彼からすれば外国人だとわかったはずですが、それでも言葉が通じるかなど臆せずに話しかけてくれたことを嬉しく思いましたが同時に日本の子どものことを考えました。日本の子は見知らぬ外国人に堂々と日本語で話しかけることができるだろうか、いやできないだろうと。小学校でも1年生の内は授業中に手を挙げて発言するものの、3.4年生になってくると誰も手を挙げなくなるのも同じような現象ではないでしょうか。なんだか日本の子は年齢が上がるにつれて元気がなくなっていくように感じます。
小五の担任で…
私は元来引っ込み思案で、友達を作るのも苦手だったし、まして大人に気安く話しかけるなど出来ない子供でした。〝先生〟という存在も、何か得体の知れない怖さが伴い、話しかけるのが嫌でした。
それが、小学校五年で担任をしてくれた先生は、(今思えばですが)、子供をありのままに受け止めることに大変心を砕いてくれた先生でした。(そのほかにも、授業の進行や学級指導がユニークであり、当時はとても変わった先生だと思っていました。おそらく、既存の教育のあり方に、その先生なりに異議を唱えようとされていたと思うのですが、その分周囲から浮く自分の立ち位置に悩んでいらっしゃったのではないか、、そんな気がしてなりません。)
私はもう、ものすごくその先生に懐いた覚えがあります。調子に乗りすぎて、先生には随分失礼なことも言ってしまいましたが、先生は注意することはあっても、私達生徒を威圧したり、冷淡な態度をとったりすることは決してありませんでした。学校に行くのが毎日楽しかったし、先生と一緒にいるととても安心しました。
屈託無く過ごせる時間を下さった先生には、本当に感謝しております。
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わたしは学童の指導員をしていたことがあるのですが、その時に体験したことでどうしてもわからないことがありました。
それは、途中で学童をやめてスポーツ少年団に入った子と久しぶりに会った時のことです。(そのスポ少の指導はわたしから見ると厳しく思えました。)
その子とは二年間くらい学童で一緒に過ごしました。活発で明るくて、子供らしい笑顔の子です。スポ少に入ることに伴い学童をやめたようだったのですが、その子と一〜二年後くらいに小学校で会った時によそよそしくなり、敬語で話してきました。学童にいた時には友達のように接していて、敬語で喋りあったことはほとんどなかったのに。
大人に対して緊張し、失礼な態度を取らないように慎重に距離を取るような感じで接してきて、屈託のない笑顔を見せてはくれませんでした。
その時は、大きくなって落ち着いたのかなとか、久しぶりに会ったから恥ずかしさもあって接し方がわからなくなったかなとか思ったのですが、すごくショックも受けました。
正にこの記事にあるようなことが周りの大人からされていたのかと思うと悲しいです。
今は、その子を身近で見守る存在ではないですが、色んな大人がいたことを思い出して、自分らしくいてほしいと願います。