「親の受容」 - 2017.01.11 Wed
実を言うとときどき「アレ?」と思うことがありました。昨年くらいからとくにそれが強くなってきていました。
なにを「アレ?」と感じていたかというと、「僕が親を受容してくれている」と言われる、またはそういう雰囲気を持っていると言われることに対してです。
確かに子育ての改善をするために、子育てする人つまり親そのものを否定せず受け止めることが大切だとは思っています。
僕に子育て相談をされた方や、直接あって悩みを聴いた方なんかにはそれは伝わっているかもしれません。
しかし、文章の中でその意図を持って直接的に書いたつもりは、自分では一度もないのです。
間接的にそういう意味合いになっていることはあるかもしれないのですが、「親を受容することが大切と考えています」というようなことを直接言ったことはないはずなのです。
でも、「そういうメッセージをもらいました」と言ってくれる人が明らかに増えてきたことを僕自身不思議に感じていたのです。
もし、それが本当にそうならば、僕のまことにつたない文章の行間にあるものを感じ取って下さる方がいるということになるのでは・・・・・・半信半疑ながらそんな感覚を持っていました。
今度のプラユキ師との講演の企画をいただいたときにそれがはっきりとしました。
この講演の副題が「うけとめちゃえばいいんだよ」となっています。
プラユキ師はお坊さんですから、それは必ずしも子供に対してに限定されていません。
むしろ、プラユキ師が指し示すところの「受容」は大人に対して向けられています。
僕は、さんざん「受容」という言葉を使っていますが、主に明言されているのは子供に対しての関わりにおいてです。
僕の最初の著書である『保育士おとーちゃんの「叱らなくていい子育て」』で述べているところの「受容」はほぼ徹頭徹尾、子供への関わり上での「受容」です。
二冊目の『保育士おとーちゃんの「心がラクになる子育て」』では、後半部分「親自身の肯定」に比重を置いていますから、「子供の受容。親の受容」という内容にとれなくはありません。しかし、直接的に親に対して「受容」とは述べていなかったはずです。
「プラユキ師のお話に共通する部分がある」とこの企画があったときに言われたことで、まったく変な話ですがあらためて自分が伝えていることを認識させられたのでした。
(ご著書の『苦しまなくて、いいんだよ。』の「受容」についてのくだりでは、僕もびっくりするほど同じ文脈が書かれておりました)
実は僕は子育てで子供に関わってしまう大人の行動の背景にあるものの存在について関心を持っています。
例えば少なくない人が人が子供に怒らずにはいられない、イライラせずにはいられない、叩くことを我慢するのがしんどい、といった気持ちを感じています。
それらには理由があるのです。
しかも、自分の責任ではない理由です。
もし、自分がそうであってもその理由に気づくことで、それを改善できたり、前向きに対処したりできるようになるかもしれない、そんな思いを持っています。
今回の講演でそこまでまだつまびらかにお伝えはできませんが、子育てする大人の気持ちになにかプラスになるものをお話したいと考えております。
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● COMMENT ●
受容
意外でした。もうところかしこに親自身の自己肯定、また受容が大切なんだ、と書いてあるように思っていました。
もちろん、その先には子どもの受容、肯定があるわけですが。
私が私を認めていれば、例え子どもの姿が変わらずとも、子育ては楽しいものになるものなんだ、と最近よく思います。
いのうえさんの夫がいるときに、、ってなんだか分かります。
うちは長女が相変わらず、疲れてくると些細なことで癇癪を起こすのですが、もう彼女は泣きたいだけなんです。しばらく泣けば、ケロリとスッキリ笑ってるんです。
なのに夫は泣かなくてもいいでしょ、とかなんとか優しくしたりしてます。
見ていていらっとします。夫に❗(笑)
まあでも夫と二人でやってきた育児だからな、と自分に言い聞かせ、自分の好きなことをする時間をつくって他に目を向ける日々です。
ことば
実は、表層的には大して重要でないのかもしれません。個々人の概念が必ずしも一致していないから(人格や感性、好みの違い、知識や教養量の違いなどがあるし)。
かつ反対に、経験的に、言葉(文字)はその人の本質を表すと感じます。
本屋さんで、保育のあり方の本がたくさんあったから少し見てみましたら、「こういう時はこうする」と具体例のものが多かったです。おとーちゃんさんのお話は「エッセンス」です。無数の具体例を重ねていくことで、エッセンスを得ることは出来るでしょうがそれはとても遠い道のりで、人間関係という流動的な場面では1回ごとにどうするか聞かねばならないですね(行動することが考えを変えていく面もあるのでまずは行動することも大事だとは思います)。
物事の捉え方や対応の仕方、どういう姿勢で生きているかということが、言葉のシンになっているのですね。言葉も、人間も、宇宙と同じように無数の細かい欠片が組み合わさって、唯一無二になっていて、みんな同じであって違うんだよなぁ、とつくづく思います(^O^)
おとーちゃんからは、でも、「なんでもかんでも受け入れてしまう」という感じは全く受けないです。自分軸がしっかりとあるのがわかります。
なんでもかんでも他人軸で受け入れると大変なことになります・・・私は他者との境界が曖昧だったので改善中です(苦笑)見習いたいと思っています。
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↑このへん、わかってきました。
私の場合、予定通りに事が運ばなかった時怒りの気持ちが湧いてきます。すごく些細な事、例えばいつもより食事の準備が遅れていて、猛スピードで料理しているときにガラガッシャンとおもちゃ箱がひっくり返り、ビー玉が四方に散らばった時など・・・
ああ、今イライラしていると気が付いた時は「大したことじゃない」と自分に言って気を収められるのですが、積もり積もったら自分を制御できなくなってしまいます。
不思議なことに、それはたいがいダンナがいるときなんですよねぇ。