「頑張る」ということ - 2017.02.10 Fri
どうも今回のこの記事でブログ通算1,000記事目になるようです。
よく続いたなぁと自分でも思いますが、どうしてそんなに続いたのかと問われれば、「書きたいことがあったから」というのが実際の所なのだと思います。
これが「ネタを探しながら」であったらこんなに続けることはできなかったでしょう。
[『大人は「結果」を作り出したくなる』のお話からふたつのこと ]の続きも書きたいなとは思うのですが、1,000記事目ということでちょっと子育ての根っこに関わるお話をしたいと思います。
それが今回のテーマ『頑張ること』です。
誰かに「やあ、頑張っていますねぇ」というとこれはほめ言葉になっていますよね。
子育てに関係なく「頑張ることはいいことだ」という認識があるわけです。
保育園や幼稚園などに見学に行っても、「子供たち頑張っているんですよ^^」と好意的に「頑張る」という言葉が使われるところによく出くわします。
多くの人が「頑張る」ということをあまり深く考えず「いいものだ」と思っているのだと感じます。
確かに、「頑張る」ことは悪いことではないですし、それが無理ないものならば素敵なことでもあるのはそうだと思います。
しかし、僕は子供たちと子育てする大人をずっと見てきて「頑張ることを無条件、無自覚に”いいことだ!”としているのはかなり危険なこと」だなと感じています。
◆「頑張る」の二重構造
子育ての中には「頑張る」がふたつ重なっています。
・子供に対して求める「頑張る」
・大人が「子育てを頑張らなければ」と自分に言い聞かせる「頑張る」
もっというと、「子供を頑張らせるために頑張る大人」という見方もあるかもしれません。
「これではいけない」「まだ足りない」「もっと上を目指さねば」
大人が思うそういったひとつひとつは小さいことかもしれないけれども、それが合わさってくると子供は日々が辛くなりますし、大人は子育てそのものがしんどくなります。
そしてさらに、それは「自己否定」を生み出します。
・「それが達成できない自分はダメだ」
・「これを子供に獲得させられない私は頑張りが足りない」
そもそも、元から「自己否定」が強くあるために過剰に「頑張らなければならない」と思っているケースも多いです。その場合は「自己否定」のマッチポンプによる悪循環となりますね。
しかもそれが「強迫観念」をともなうものとなる場合もあります。
別にだれにせっつかれたり否定された事実があるわけでなくとも(あればなおさらですが)、
・「自分の親がどう思うか?」を無意識にいつも探っている
・周囲の人の目線が気になる
・夫もしくは妻がそれをなんと思うかを意識してしまう
・周りの子との差が強く気になる
この「自己否定」や「強迫観念」がつのった結果「頑張る子育て」になってしまうと、これはあやうい子育てとなりやすいです。
その方向性で頑張れば頑張るほど裏目に出て、子育てがうまくいかない、子供の姿が安定しないというケースを山のように僕は見てきています。
◆「頑張る」という価値観の限界
これまで「頑張ること」は美徳であると日本では考えられてきたと思いますが、ウツや過労死、過労自殺、ニートやひきこもりといった問題の背景にはこの「無自覚な”頑張る”」ということが密接に関わっている時代になっています。
「自分は頑張りすぎだな。ちょっとセーブしよう」
「もう疲れたよ、別の生き方さがしてもいいよね」
と「頑張らない選択肢」をもし持てていたら、ウツや過労死や過労自殺にいたらずに済んだ人は大勢いるのではないでしょうか。
僕自身それに近い状況になったことがあり、その自分の存在意義を自分に問う葛藤のなかでたどりついたもののひとつがこのブログそのものでもあるので、よりいっそう実感としてそう思います。
◆キーは「モチベーション」
しかし、一方でテニスの松岡修造さんのように強迫的なところなしにカラッと「頑張れ頑張れ、もっと頑張れ」と言えるのは素敵なことではあるとも思います。
最近ではウツや心が弱っている人に対して「頑張れ」とか「大丈夫?」と声をかけるのは禁句という話はだいぶ広まっていますよね。
このふたつの違いは何だと思いますか?
「頑張れ」がプラスに働くのとマイナスに働くものには、その当事者の「意欲・モチベーション」の違いがあります。
自己否定や強迫感情がつのってモチベーションそのものが枯渇している人に対して「頑張れ」をたたみかけることは、たとえそれが善意であっても(善意であればこそなおさらの場合も・・・)余計に自己否定や強迫をつのらせる「敵」になります。
一方、今現在壁に当たっていてうまくいかない状況におちいってはいるけれど、モチベーションそのものがある人に対してであれば、「あなたのことを応援していますよ。いつでも力になりますよ」という気持ちでかけられる「頑張れ」という言葉なり、関わりや思いはプラスとできることもあるでしょう。
この違いがあるのです。
これは子育てにおいても同様です。
そこに気がつけると、「頑張って達成できること」や「”頑張れ!”という関わり」そのものよりも重要なことがわかります。
それが「意欲・モチベーションをつちかってあげること」なのです。
特に子供の幼少期に親ができることとして、このことがとても大きなことなのです。
そのことについては少し前の記事『子育てをシンプルに』のシリーズで簡単にですがお伝えしました。
これについては今後も掘り下げてお伝えしていきます。
◆連鎖する子育て
子育ての理屈としては
「意欲・モチベーションをつちかってあげること」
がもっとも幼少期の大切なことであるのは間違いありません。
そのために、「かわいがること」「受容」「肯定」「ありのままを受け止めること」などを積み重ねる方向で関わっていけばいいこともわかっています。
しかし、「子育ては理屈ではない」という現実がそこに立ちはだかります。
自己否定や強迫観念の強さがあって、それで子育てに取り組んでしまう人はその人がやらないとかできないとか努力や能力が足りないといったわけではなく、その人自身そのような生育歴を送らされたために同様のことを感じずには、繰り返さずにはいられないという「子育ての連鎖」の問題があります。(これは親だけでなく、保育士としてや教師としてにも同様にあります)
さらにその親自身も同様に・・・・・・と繰り返されていることがありますので、理屈だけで「はいそうですか、じゃあそうしてみます」とできるものではなという根深いものです。
今現在、このことによる子育ての行き詰まりがとても多くなっています。
僕は育児相談などを受けていますが、その多くにこの問題が関わっています。
どうにかしてそれを解決していくことが現代の課題なのだと思いますが簡単ではないようです。
基本的には、親に対しても「肯定」と「受容」が不可欠であることを感じます。
こういうケースでは、目の前の我が子の「子育ての”問題”と見えること」はむしろ「問題」というよりも、「”親の持つ問題”の結果のひとつ」であることが多いです。
僕はもともと保育士ですので、こういった臨床心理や精神分析とは直接的に専門性を持っているわけではありませんが、ですが結局これらの問題を抜きにしては子育ても語れないのだということをひしひしと感じるこの頃です。
なぜならこういった問題はちっとも特殊なことではないからです。
特に大変さを感じているわけでもない子育てをしている人にも、子育てのことで大変悩んでいる人、どこの保育園や学校で出会う子供・家庭の問題の背景にこの「子育ての負の連鎖」をしばしば見て取ることができるでしょう。
現代はこの負の連鎖を断ち切る時代に入っているのだと僕は感じています。
これが「怒り」や「自己否定」を際限なく生み出し、「生きづらさ」を拡大していることが現代の大きな問題のようです。
これは子育てに留まらない問題だろうとは思いますが、僕は子育ての分野からそれに関わっていきます。
そのことを今後
・保育に関して →子供を肯定できる保育
・家庭での子育てに関して →ムリのない子育ての具体的なあり方
・子育てする大人そのものに対して →親自身の肯定
3つの方向からアプローチしていきたいと考えております。
明日は聖蹟桜ヶ丘での『保育士おとーちゃんと紡ぐCafé』当日です。(現在定員に達したため募集は締め切っております)
いらっしゃる方はどうぞ気楽に来て下さい。
僕自身、文章は理屈っぽいし見た目も硬く見えるので「もっと厳しいことを言われると思いました」という方も少なくないのですが、「否定したところでなにも生まない」というスタンスでおりますので、構えないでいらしていただければと思います。
今日東京は雪交じりの曇り空でした。明日は晴れてくれたらお子さんもCaféの前の野原でたくさん遊べますよ。
| 2017-02-10 | 日本の子育て文化 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「子供と過ごすことに楽しさや喜びを見いだせるかどうか?」 - 2016.09.28 Wed
できればコンスタントに更新したいのだけど、しっかりとした文章を書く頭の余裕がないので、今日はつぶやきてきに思ったことを書いておきます。
先日講演で参りました幼稚園で保護者の方にうかがった言葉です。
「この幼稚園の方には5人きょうだいもいるし、3人4人ときょうだいのいる家庭もたくさんあって、まわりは少子化という感じがあんまりしないんです」
なんとなくこの言葉がずっとあたまに残っていました。
そしてさっきふと気づいたことがあるのですが、それは
そこには、「子供と過ごすことに楽しさや喜びを見いだせる人」がたくさんいるのだろうこと。
現代ではたしかに「家の大きさや教育費などを考えると、たくさんの子供を持てない」といったことが言われています。
しかし、その根っこには、
「子供と過ごすことに楽しさや喜びを見いだせるかどうか?」
という心理的・情緒的な問題が大きくわだかまっているのではないか・・・ということ。
それを多くの人が自然に持てるような社会にしていかなければならないのだな、ということに気づきました。
そういう空気を世の中に作っていくこと。
もちろん僕一人の力ではとうていできないけれども、多くの人の力を借りてそういった社会を目指していかなければならないのでしょうね。
| 2016-09-28 | 日本の子育て文化 | Comment : 11 | トラックバック : 0 |
日本人と「自己犠牲」 - 2016.08.23 Tue
巷(ちまた)からも「どのみちいずれ消費税を上げなければこれからの日本の経済状態は立ちいかないのだ」といった声が出ているのをよく耳にします。
僕は経済についてはまったくの素人なのだけど、この考えは必ずしも否定するわけでもないけれど「本当にそうなの?」という気持ちがついてまわります。
現在、企業の持つ内部留保金は過去最大と言われ、企業自体は潤っています。
一方で、市民にとってはここ最近の明らかな物価高、公共料金の相次ぐ値上げ、安心感を持てない就労状況や、将来の年金制度に対する不安などなど、短期的にも長期的にも経済的な不安感、圧迫感は拭い去れません。
つまり、市民は豊かでなくなりつつあるのに、そこからさらに取るという話になっていて、大企業にはお金が余っているのにそこは手付かずという施策であるように感じます。
また、お金が無いと言う割には、作る前から利用者が少なく赤字になることがわかっている空港や、新幹線、高速道路、その他などなんの見直しもなくいまだにたくさん作られています。
だから、「消費税を上げなければ今後の日本は立ち行かない」という論は、僕のような素人には「う~ん、本当にそうなのかな~」と思うのです。
今回のこのお話には、日本人のある種の考え方の特質というものが見られます。
日本人は「自己犠牲」でものを考える傾向があるという点です。
これがもしフランス人だったら、おそらく「今後の経済のことを考えたら自分たちの消費税負担が増えるのもやむないよね」という声は一般の人からはあまりあがらないことでしょう。
市民の第一声は、「あんたたちの税金の使い方がおかしいんじゃないの?」という批判の声としてあがるはずです。
日本人は、人を責めることを是とせず、ものごとを内向きに解決しようとする傾向があります。
それが僕は大きな特徴であるとひしひしと感じるのです。
というのも、子育てにまつわるシーンでも、この「自己犠牲」的に思考する場面にとても多く当たるからです。
例えば、いじめの被害にあっていたり、不登校の子供に対して、
「あなたがもっと努力しなさい」
「他の子も頑張っているのだから、あなたも頑張らなければ」
「ここで逃げたら、将来もっと困るようになるから逃げてはならない」
「いじめられる方にも問題がある」
親に対して
「あなたが甘やかしたから、このように問題を乗り越えられない子になっているのだ」
また、他者に言われるだけでなく、自発的にも「自分が悪い」「自分が至らない」「努力がたりないのだ」そのように問題をとらえてしまいます。
そういった方向で、自己犠牲的に問題の解決を考えたり、自虐的に責めて考えたりしてしまいます。
しかし、この方向性での考え方は大変危険です。
ライトケースならばそれで解決してしまうこともあるかもしれません。
しかし、このように子供に対処して、それによりもっと心に深いキズを負ってしまった子や、自殺に追い込まれてしまった子が大勢おります。
話は代わりますが、子育てをしている人たちも、この「自己犠牲」的な考え方で子供に相対して、子育てを難しい方へ難しい方へとしてしまっているケースが大変多く見受けられます。
その特徴的なパターンが、「子供のために、子供のために」と頑張りすぎて進んで自己犠牲をしていくケースです。
例えば、もう身体が限界なのに子供がだっこをせがむからと無理して抱っこをしていたり。
子供が「〇〇を欲しがっているから」と、自分はそれを好まないのだけど我慢をしてそれを叶えていたり。
「子供のために」 = 「私が我慢」
という「自己犠牲」の方向性でとらえてしまっている人が大変多いのです。
子供を育てるという長い道のりの上では、親が自己犠牲をしなければならない場面というのもなかには出てくるかもしれません。でも、日常の些細な関わりのなかでも、親が我慢や無理を重ねなければ日々がおくれないということになったら、これではかえって子育てはうまくいかなくなってしまうのです。
親がよかれと頑張ってしている自己犠牲はまわり回って子供のためにもならなくなってしまうということが、子育ての中ではたくさんあります。
子供はちゃんと感じるのです。
親が無理をしていると感じると、子供もその大人の気持ちが伝わって本当の満足は得られなくなってしまいます。
例えば、子供の「いいなり」になって振り回されてしまう人が現在では少なくありません。
大人はその子供の要求を叶えてあげようと一生懸命頑張ります。
でも、その状態をその大人は快く喜んでしているわけではありませんね。
子供はそれをひしひしと感じ取ってしまうのです。
それゆえに上辺の要求をいくらかなえてもらっても、けっして十分な満足に行き着くことはありません。
だから、大人が頑張って無理をしてようようその子の要求に応えた時に、子供は反発を見せます。
それはその子の望んでいた状態ではないからです。
それゆえに、なんとかその望んでいた状態を得たいとさらなる要求を大人につきつけます。
これをいくら繰り返しても、大人も子供浮かばれません。
しかし、その子は「要求をつきつける」という親との関わり方しか理解していないので、それ以外の両者が心地のいい関わり方がわかりません。
これは、大人が「子供の要求を頑張って叶えなければ」という姿勢で子供への関わり方をスタートしてしまったので、その方向で人との関わりのモデルの道筋をつけてしまったからなのです。
「自己犠牲」では子供は育てられないのです。
どんな子供も本当のところで究極的に望んでいるのは、
「大好きなお父さんお母さんに笑顔で過ごしていてほしい。そしてその場で安心して過ごしたい」
ということなのです。
現代の人は子供に対してあまりにまじめに一生懸命になりすぎてしまって、「よかれ」と思って「自己犠牲」になっています。
その方向で子育てをすれば、おもに乳児期の子供はお父さんお母さんに朗らかに過ごしてもらうためにはどうすればいいかがわからなくなって、さまざまな困らせる行動になりかねません。
子供の年齢があがってくると、そのように自己犠牲で子育てしてきたお父さんお母さんは、イライラ、ストレス、怒りが飽和状態になってしまって、子供と関わることがとても負担に感じられるようになってしまいます。
「子供のために」というのが限界に来て、そこから「支配」や怒ってばかりなどの「否定」の子育てになってしまう人もいます。
自己犠牲は、けっきょく子供のためにもならないのです。
だから、「子供の尊重」というとき、その背後には「自分も尊重する」ということがなければ正しく理解されないのです。
「子供を尊重する」 = 「自己犠牲」
になってしまう人が少なくありません。
「子供をひとりの人格とみなす」
このことも、「私も一人の人格としてみてもらう」ということが必要です。
このあたりが心にストンと落ちてくると、子供の要求であっても「私が嫌なこと」に対しては堂々と「NO」ということが、むしろ「子供のためである」ということを理解し実践できるようになっていきます。
日本人がものごとを自己犠牲的にとらえるのは、ある面では美点といえるでしょう。
しかし、これからの時代はそればかりではうまくいかないのではないかというのを、僕はひしひしと感じるのです。
| 2016-08-23 | 日本の子育て文化 | Comment : 12 | トラックバック : 0 |
子育てを「怒り」にしないためにできること - 2016.08.17 Wed
人々を見ても、なにかのきっかけや理由を見つけて自分の「怒り」をぶちまけたいという衝動にかられている人も少なくないようです。
公共広告機構のCMにも、「どちらかがやわらかければ、気持ちよく過ごせますよ」といった趣旨のものが最近流れていますね。
さて、前回のところで述べたように、”子育てが思い通りにならないこと”は「怒り」の感情へと変換されやすい性質があります。
保育園というのは、社会構造の基礎の方にあって社会を下から支えている存在です。
そこにはしばしば世のあり方の縮図が見えてきます。
経済的に不景気になり余裕がなくなって、育休に対する風当たりの強さだとか、会社がリストラだとか給与の削減だとか、圧迫面接だとかそういったギスギスした社会状況になると、てきめんにそこに預けるお父さんお母さん、そして子供たちにその影響がかなりあからさまに現れてきます。
いわゆる”クレーマー”が増えているということはよく耳にすると思います。
なかでも、根も葉もないことでクレームをしてくるケースや、非常識な要求をしてくる「理不尽なクレーマー」があります。
これらの「理不尽なクレーマー」で、子育てが安定してうまくいっている人というのは、まずほとんどいません。
元々その人自身が抱えているなんらかの「怒り」があり、さらに子育てで受ける「思い通りにならなさ」が「怒り」に転化された結果、それがクレームとしてどこかへぶつけられることになります。
ぶつけられる先は、無意識に自分に反撃をしないところになります。
保育園は立場上そういうことはしないところですから、しばしばその矛先が向けられます。(これは学校や、レストラン・商店なども同様でしょう)
ですから、こういったクレーマーが生まれる原因は、「クレームにされてしまう問題があったから」以前に、その人自身の子育てが安定していないこと、それが生み出す怒りがあり、それのはけ口として保育園や学校などに向けられてしまうということです。
また、それの背景には会社で過剰な要求にさらされていたり、経済的な悩みや、対人関係の難しさを抱えていたり、家族間のトラブルがあったりすることもあります。
また、その人の人格的な面も関わってくるでしょう。
ここでの施設側の対応には4通りあり、どうしていくのがよいのかというポイントがあるのですが、それはプロ向けのまた別のお話なので、もとのテーマに戻ります。(この問題のポイントは、クレーマーを作り出さないアプローチの方法が施設側の意識次第でできるということです)
ケースにもよりますが、ある意味では「クレーム」は「助けてください」という親からのサインです。
しかし、「怒り」のレベルになってしまうと、助けたいと思っていても手を差し伸べることが、またそれをしたとしてもその差し伸べた手を受け取ってもらうことが、困難になってしまいます。
ですから、「子育ては怒りを生みやすい」ということを、現代では知識としてあらかじめ持っておいてもらって、そうならないように、またそれがどうにもならなくなってしまう前になんらかのアクションを取るという習慣を持ってもらいたいなと思うのです。
いわゆる育児本というのは、その多くが”きれいごと”に終始してしまいますからこういったことに触れるものはそう多くないかもしれませんが、僕はこのことは現代の子育ての必須知識ではないかとすら感じます。
じゃあどうすればいいのでしょうか?
それが今日のタイトルにした「子育てを怒りにしないためにできること」なのですが。
それは「会話」なんです。
「子育てに悩んだ時は、一人で悩まず誰かに悩みを聴いてもらいましょう」
といったことが、例えば保健所が配るような子育ての冊子には書いてあったりします。
また、「○歳児検診」などの質問紙には、「悩みを話せる家族や友人はいますか?」なんていう項目があったりします。
でも、現代は「そういうことができる相手がいない」という人が増えてきています。それがすでに誰が悪いのでもなく構造的な問題として存在しています。
(だからあの種の質問は、そういう人が持てない人にとってはどことなく腹立たしく感じられてしまいますよね)
悩みを聴いてもらうということは確かに大事なことなのだけど、僕が今回ここで述べている「会話」というのは、もっとそれ以前というかたわいもないこと、いわゆる世間ばなしのようなただの「会話」のことです。
どうやら人間には、「会話」をすること自体とても大きな意味があるようなのです。
会話をする中で、話を聴いたり、聴いてもらったり、このプロセスをすることが、さまざまな(特に対人上の)ストレスを軽減していく作用があるようです。
それは高尚な会話である必要も、必ずしも悩んでいるものごとを聴いてもらう必要もありません。
それこそいつも繰り返される決まりきったネタや、たわいもないことでいいようなのです。
(本当のことを言うと、どうやら一番効果のあるのは誰かの悪口みたいだけど、これはまあやめたほうがいいよね。グチくらいまでがいいね)
しかし、現代の人間のあり方は、
「他者と没交渉になることで、他者からの対人ストレスをできるだけ受けないようにしていく」
という方向性に進んで来てしまっています。
子供時代をおくって、学生になり、勤め人になる、そこまではある程度その生き方でもやってこれてしまいます。
周囲の人間もそういうスタイルをしているので、そうそう無理がないわけですね。
しかし、「子育て」という否応無しに対人関係由来のストレスを受ける状況になってしまうと、このライフスタイルで貫いていくのはとても困難になります。
それまでの「他者と没交渉になることで、極力、対人ストレスを溜めないようにする」という生存戦略では、かなわない状況に否応なく直面するからです。
もし、この生存戦略で子育てをしようとすると、子供の無視やネグレクトというところに落ち着きかねません。
このテーマは掘り下げるといろいろなところにつながるので、今回はここらへんで切り上げてまとめますね。
子育ての「うまくいかない」を「怒り」にしてしまわないようにするためには、子育てに関係ないことでもいいので、気軽に人とお話をする機会を持つといいのです。
でも、多くの現代の人が採用してきた生き方は、それをそう簡単にはさせてくれません。それがさらに、現代の子育てを難しくしています。
だから、それが無理なくできるような「場」の重要さが増しています。
(それについてちらっと述べた『失われた感覚 vol.2』では皆さん色々と教えてくださってありがとうございました。なにかしら僕もやっていきますね)
なかには人と関わることがどうしても不得意という人もいるでしょう。本当にだめならば無理をすることはないけれど、でも、できる範囲でいいから人との会話をしてみると、子育ての悩みの総量そのものが減っていくと思いますよ。
もし、これを読んでいるのがお父さんであったら、子育ての主体になっているお母さんのお話を聞いてあげましょう。
その話が、子育てのことであったら、そこで話される問題を解決しようとすることは(場合にもよりますが)必ずしも重要ではないので、論理的に反論したりする必要はあまりありません。
「ああ、そうなんだ~」と受け止める姿勢をもって聴いてあげれば、それだけで解決してしまうこともあります。
問題解決のプロセスが必要なケースであっても、一旦話を聴いて受け止めるという過程をその前に持ってくることで、少し冷静になって話し合いをすることが可能になります。
多くの場合、お母さんが求めているのは、まず第一に「問題解決のためのアドバイス」ではなくて、「自分の気持ちを受け止めてほしい・理解してほしい」ということです。
でも大切なのは、それ以前の段階から(つまり問題があったときではなく、普段から)「会話」の機会をきちんと持っていくことです。
「話す相手がいる」このことは、家庭内で孤立気味に子育てをすることになってしまう現代の子育てにおいては、とびっきり重要な事です。
普段からのやくたいもない会話でいいのです。
現代は、なかなかお父さんが子供に直接関われる時間は減っています。
でも、夫婦でそういう時間を持つことは、間接的にとても子供の育ちに大きな影響を与えていきますよ。
これに関連して「”世間ばなし”というスキル」というテーマについても考えています。
これについても機会があったら書いていこうかな。
ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、僕はホームページの方から、子育てのメール相談、対面相談を受け付けています。
講演や執筆などで多忙なときは、受付を閉めきってしまうこともあるのですが、ただいまのところは「○件まで」と制限せず受付中です。
秋になりますと、講演シーズンに入ってしまいますので受付を停止してしまうことがでてくるかもしれません。
以上、ご連絡までに。
| 2016-08-17 | 日本の子育て文化 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「自由研究」から考える教育のグランドデザイン - 2016.08.15 Mon
その多くが、なんともとても立派です。
大人でも「なかなかこんなに上手に作れないよ」というものまでがならんでいます。
そう!それらの内、立派なものは親が手伝っていたり、場合によっては企画から制作までやってしまっているのですね。
実際、子供たちののお父さんお母さんからも、「自由研究大変なのよね。今年はなににしようかしら」といった声を聞きます。
これは「う~ん、なんだかな~」という事態ですよね。
学校の先生たちもわかっていると思うのだけど、毎年相変わらずこの「う~ん、なんだかな~」という宿題が繰り返されてしまいます。
ここには、まさに日本の教育の弱いところが現れていると感じます。
日本の教育は、戦後、経済的な復興のために整備されてきた側面が強くあります。
言ってみれば「よき働き手」を作るための教育として発達してきました。
まあ、それは確かに教育の大きな目的であり、そのことはどこもおかしなことではないでしょう。
しかし、その一方で教育が目指すところの人間像(子供像)は硬直化していきます。
「求められる正解を適切に出せること」が教育そのものになってしまったのです。
決まりきった正解がある問題は解けるけど、そもそも正解のない問題をこなす能力はそこではあまり伸ばせません。
それは音楽や美術にまで及んだ影響を考えると明らかです。
専門の美術学校などで、そのスキルを学ばなければならないというのならばしかたのないことかもしれませんが、小中学校のような基礎的な素養として身に付ければいい段階であっても、これらの教科にも点数付けをするようになってしまいました。
点数をつけなければならないので、模範の解答(作品、演技)を設定してそこと比べる形で評価をしていきます。
そのためには、「上手にできること」を目的として、そのためのことを教えなければなりません。
本来、美術や音楽といった感性にまつわることですから、点数化できない部分がふんだんにあるはずなのですが、「正解を出せる人にする」という教育のグランドデザインがそれを求めていくようになりました。
そのように、本質的に「自由」であるものにまで、「正解」を設定してきたのがこれまでの日本の教育のあり方です。
つまり、日本の教育において「自由」というのは、まったくと言っていいほど遠い位置にあるものです。
”教育全体の目指す方向性”(教育のグランドデザイン)が、そもそも「自由」とは違う方向を向いているのです。
その落とし子として、この「自由研究」があります。
形骸化した「自由」をタイトル持ってきて、それを実行に移せる手段を教育されないまま、子供たちに「それをしてきなさい」と与えられています。
そのような中で、名目だけの「自由研究」をやってもはかばかしい成果は得られません。
それが現状の、親の作品の展示会と見まごうばかりの結果をもたらしています。
子供たちは、なにごとか自分の興味あることを見つけ「自由」に、それを調べ追求し表現する「研究」をできるようになる方向性での教育をそもそも受けてきていないと僕は思います。
だから、「自由にどうぞ好きなことを研究してね」と出されても、それができないわけです。
「自分でできない子供たちが悪い」
「手を出してしまう親がよくない」
そういう問題ではないのですね。
教育の方向性が、「自由研究」というテーマをこなせる子供を作り出せていないという、もっと根本的な問題があるのです。
「決まりきった正解が出せる能力」
ここにしか目がいかないようでは、いつまでたっても自由研究という名の親の展覧会は変わらないことでしょう。
もう随分前から、日本もクリエイティブな才能を伸ばしていかなければならないといったことは言われています。
また、かつては経済が好調だったことから、学校を出て会社員になることで人生は無難に送ることができていましたが、現在ではそうとは限らなくなってしまっています。
これまでのような、決まりきった正解が出せることや、上の学校に進学するための勉強をするだけでは、もはや教育は全うできなくなっているのではないかという時代に来ているでしょう。
自由、個性、自主性、主体性
こういったことが重要だとずい分前から言われる割には、それを伸ばすことができるようになってきているとはまったく感じられません。
それを理解していない人たちが、かたちだけ子供たちに金子みすずの詩を「みんなちがってみんないい」などと読ませても意味はないどころか滑稽なだけです。
僕は、保育や教育を考えるときにいつも思うことがあります。
それは「給食」のことです。
この数十年で学校で子供たちが食べる「給食」は大きな変化を遂げました。
保育園や学校に給食は付きものです。
「食育」という考え方が普及したのもあって、給食はとても大きな変化、進歩、発展を遂げました。
その一方で、同じ所で展開されている保育や教育はどうでしょう?
その給食の劇的な変化に比べると、あまりに旧態依然として変わらない部分が多いようです。
しかし、社会や子供たちの置かれた状況は刻々と変化してきています。
教育も保育もそれに応じてやはり変化が必要ですよね。
自由研究の展示を見た時「う~ん、なんだかな~」と感じるたびにいつも思うのです。
学校の先生ももちろんだけど、多くの人に「教育の目指す方向」についてもっと考えたり、意見を出していってほしいなと。
日本ではどうにも、「教育をどうするか?」というのを国や学校に任せきりのようなところがあるのだけど、本来、子供たちの教育はすべての人が考え意見を出し合っていっていいことです。
| 2016-08-15 | 日本の子育て文化 | Comment : 10 | トラックバック : 0 |
失われた感覚 vol.2 - 2016.07.30 Sat
「昔はよかった式」で考える人は、だから「昔のように三世代同居すればいいのだ」といいます。
こちらに詳しいですが、安倍内閣が出した『少子化対策(笑)』のひとつにまさにそんなことがありましたね。
こういった、「過去は自然と得られたものが現在は得られない」この状態がスタートラインなのですね。三世代同居が問題なくできる人で、それで解決する人ならばそれでもいいでしょう。
(でも、すでに祖父母の世代でもこの”感覚”は失われている人もすくなくありませんので、必ずしもそれがこの問題の解決策にはならないでしょう。)
しかし、そんな人は様々な理由から現代にはたいしていないはずです。だから問題になっているのですから。
水の流れは逆にはならないのです。時代を戻すようなことを考えても、それは本当に問題を見据えた施策ではありません。
「ないのだから、身につけるところから」これが現代の子育て支援のスタートラインです。
実のところ、「子供を可愛がるその仕方」、それ自体がわからない人も少なくないのです。
それが当たり前にできてしまう人にとってはなんの問題もないことだし、そういう人からはその人の問題が見えないことでしょう。
でも、現代は子育ての感覚が断絶してしまっているところから出発しているので、そんな基礎的なことの仕方がわからない、知らない、その必要性がわからない、その理解に飛躍がある、などなどいろいろな人がいます。
例えばこんな人がいました。
その人は子供が0歳の時から、子供に話しかけません。笑いかけもしません。
どうしてなのか聞くと、「赤ちゃんは言葉がわからないので、話したり笑ったりしても無駄かと思っていました」と言うのです。
その人にとってそれは本心でした。
そういうものだと思っていたのですね。
比較的多くの人は、「赤ちゃんであっても笑いかけたり話しかけたりしてあげることは大切なんだろう」ということを、自然にとか(実は自然じゃなくてそういう行動を見た経験がある)、子育ての本などでなんとなくでも身につけています。
その人もそういう文章を保健所がくれる冊子などで読んではいたのだけど、その人の感覚からはそれはスルーされていました。
この人自身、子供のことを大事にしていないわけではないので、他の人と同様に大切に思っているのですが、その人がその人の人生の中でそれまで身につけてきたものと、子育てで必要なものが噛み合っていない状態から子育てが始まっているのでした。
これは極端な例ですが、こういうことが程度の差こそあれ多くの人にある状態からいまの子育ては始まっています。
(ちなみにですが、こういった人がこのまま独力で子育てを続けていくとどうなるかというと。
ただ、赤ちゃんを可愛がったり、あやしたり、くすぐって笑顔を見ては楽しんだりする代わりに、自分の理解の及ぶことを代わりにその空いたスペースにいれていくケースがあります。
例えばその人は、子供を「可愛がる」という概念やその仕方は理解していませんが、子供には勉強が大事という知識は持っています。
その人自身、かわいがられるよりも、勉強を頑張らされる生育歴を持っていたりすればなおさらです。
すると、子育てでなにかする必要があるということは思うので、可愛がる代わりにそこに勉強を入れていきます。
それで結果的に超早期教育を始めたりします。
子育てはバランスなので、それでもさして問題なくいく場合もありますが、それだと子育てが難しくなるリスクははらんでいると言えるでしょう。)
さて、そういうわけですから、現代では家庭支援、子育て支援が重要になっています。
地域の結びつきが弱くなり、ご近所さんづきあいといったものが減っている時代でもあるので、この問題は自助努力では解決しない面があります。
つまり、なんらかの社会的サポートが必要になるわけですね。
それはいろいろな形があることでしょう。
育児支援センターなどの公的なものもあれば、NPOがそういったスペースを作ったりしているところもいまは増えていますね。
または、森のようちえんや共同保育的なところで、親も一緒に身につけるといったケースもでてきています。
そのように、各家庭内、地域のつながりではできなくなってしまっている状況なのだから、それを別の形で補っていけばいいわけですね。
また、それに本腰を入れなければ、子育ては送れなくなっている時代にすでにきていると言えるのです。
だから僕は思うのだけど、”子育てひろば”的なものが現代は重要なのです。
ふらっと行けて、そこで小うるさいこと言わずに、子供を遊ばせたり、子供同士での関わりを経験させたり、また子育ての悩みやグチを言えたり、ときには専門家のアドバイスが受けられたり……。
いま、ただ公園なんかに行っても、相手の親がどんな人かわからないから子供の行動などを過剰に配慮しなければならなかったりすることもありますよね。
そういった懸念なしに過ごせる場があったらいい、というかなければならなくなっているのだと思います。
しかし、こういうのって高い利用料をとれるものでもないし、またそうしたら意味がないし、でも、場所の確保など(とくに通年ともなれば)経費はそれなりに掛かってしまうので、公的な補助みたいなものがないと厳しいのですよね。
僕もそういう場を主催してみたいと思うのだけど、NPOでやっているところとかってどういう仕組みでなりたっているのでしょうね?
僕が知っている限りだと、人件費に関してはほぼボランティアみたいな状態のところが多いのですよね。
でもそれだと、どうしたって世の中に必要なだけの場所の確保ってできないのですよね。
今度機会があったらいろいろと調べてみようかと思います。
| 2016-07-30 | 日本の子育て文化 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
失われた感覚 - 2016.07.28 Thu
それがつかめたことが、保育士としてのステップアップにとても大きな意味を持ちました。
その感覚はその後の保育経験と、我が子の育児を通してある種の確信に発展し現在に至っています。
それがなければ、僕はこのように子育ての本を書いたりブログで発信することはなかったかもしれません。
その感覚を背景としたものは、これまでにもいろいろな方向から書いています。(ほとんどがそうといってもいいかもしれませんが)
例えば、「おおらかさ」が子育てで大切とか。
この前書いた、「目先のできること」よりも、「モチベーション」を維持していることのほうが大切であるとか。
他にも、「1のことには1の援助」の話や、「子供の感情は子供のもの」などなど。
それらの根っこには、その感覚があります。
言葉にしてみると、それは「それで子供は大丈夫。きちんと育つ」そういうものではないかと思います。
それを僕は、多くの子供を見て、その経過、その成長した後の姿。また、親、保育士などの大人の関わり、そこから導き出される子供の姿。
そういったものをたくさん見てきたことで、それを観察し考察し、整理し、ある種の因果関係のようなものを理解してきました。
そう書くと難しいことのようですが、それは僕自身がそもそも子育てが”うまい”人間ではないことが原因です。
僕は本来それが下手な部類の人間だから、意識的にそれをせざるを得ませんでした。
この感覚を、最初から持てている人もいます。保育士にもいますし、一般の親にもいます。
そういう人は、保育士としても、親としてもその人のその感覚で、もちろん子育てにまつわる大変なことはあるにしても、それなりにうまくできてしまいます。
しかし、保育士を長年したからといってその感覚を持てるようになるかというと、必ずしもそうではありません。
子供を動かす「対象」、やらせるもの、作り出すもの、と徹頭徹尾みなしてしまう人はそれは難しいようです。
「どうせできないだろう」という気持ちが先立ってしまうのですね。
すると、「やらせずにはいられなくなってしまう」
それはいくら重ねても、子供が自分で必要なことを身に着けていくという結果を見られません。
その結果を見ることができないので、「子供はやっぱりできないもの」という認識に落ち着いてしまいます。
なので、いくら年数を重ねてもその感覚をつかむまでに至りません。
(いつまでたってもその人にとって、子供は「やらせる対象」でしかありません。それは「子供を信じられない」という問題に発展します。)
しかし、実はこの感覚は特殊なものではなかったのです。
かつては!
いまの70歳よりも年齢が上の人にとっては、例えば5人以上のきょうだいがいた人は珍しくありません。
その頃の家庭のあり方をちょっと思い浮かべてみましょう。
もし、5人の子を3年ごとに1人産んだとしたら、下の子と上の子の年齢差はおよそ15歳位になりますね。2年おきだとしても10歳差です。
そうなると、上の年齢の子はそれなりに物心ついた状態で、下の子の子育てを間近で見ることになります。
さらには、当時の母親は家事労働の多さから子育てにかかりきりになれない状況がありました。
(例えば、洗濯は洗濯板、繊維製品は今と違って高級品で手縫いが基本、風呂や炊事には薪や焚き付けが必要だった時代)
なので、上の子が子守をしなければならなかったり、家事の手伝いをしなければなりません。
そのように間近で、家事育児を目の当たりにし、経験しながら育ってきます。
逆に今度は下の子にとってはどうかというと、その頃はまだ現在よりも人生のサイクルが早かった時代です。
女性ならば20歳前後で結婚し20代で子供を産むということが当たり前と考えられてしました。
ですので、下の子は上のきょうだいが家庭を持ち、子育てするところを身近でみることになります。
(当時はまた、二世帯・三世帯同居が当たり前と考えられていた)
そういった状況がありますので、子育ては多くの人にとって”ある種の感覚”として、こういうときは子供にどう関わればいいかといったようなこと、そういったことが知らず知らず身につけられていたと考えられます。
具体的な関わり方もそうですし、僕が「子供との距離感」の問題としてあげているような、子供に対するときの気持ちの持ち方のことなども、かなりの部分その自然に身についていく感覚でカバーできてしまっただろうと思われます。
それらがある種の空気感のように、社会全体に漂っていたのではないでしょうか。
そういう状況ならば、子育てはさほど難しく感じたり、今のように不安ばかりが大きくなったりということは少なくできたはずです。
そして、そういった諸々が「それで子供は大丈夫。きちんと育つ」といった実感を多くの人に感じさせていたことでしょう。
拙著『保育士おとーちゃんの「叱らなくていい子育て」』を読んでくださった、75歳の方がこういった感想を下さいました。
「そうなんだよね。昔はこういったことは当たり前に多くの人がわかっていたのだけど、いまは教えなければならなくなってしまったのだよね」
とはいえ、時代は大きく変わりました。
僕は「昔はよかった、昔のようになりなさい」と最近の政治家がよく口にしているような考えを述べているのではありません。
むしろ、そういった懐古主義はなにも解決しないと思っています。
現代は現代の問題や状況を踏まえ、それに適切な対応をしていくべきだと考えます。
さて、タイトルを「失われた感覚」としたのは、かつて当たり前であったであろう、その「それで子供は大丈夫。きちんと育つ」といった社会で多くの人が共有していたであろう感覚のことです。
いまは、そのように子育ての感覚を自然発生的に身につけている人は、非常にまれです。
家族の形、社会の形が変化する中で、その「当たり前」はいつのまにか失われてしまいました。
しかし、もしこれを伝えることができれば、子育ては無理のないもの、楽しめるもの、幸福感を感じさせてくれるものにできるのではないかと思っています。
僕自身、いまそう思えているからね。
僕はいくつかの偶然が重なってたまたま保育士になったのだけど、そうでなかったらきっと子育てに悩める側の一員であったのは確実です。
でも、僕は本来下手な人間だったことで、そこから学び、種々のことを意識的に理解することができるようになりました。
だからこそ、多くの人に無理のない子育てを伝えることが自分の使命なのだと感じています。
それは形のあるものではないから、伝えるのは簡単ではないけどね。
ママの知りたいが集まるアンテナ【ママテナ】にて監修した記事が掲載されています。
「次へ」から全部で3本です。
~”ほめる子育て”は間違いだった?~
| 2016-07-28 | 日本の子育て文化 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
「おててピン!」は”おばあちゃん保育” - 2016.07.16 Sat
Yahoo!ニュースの中のデイリー新潮からの記事で
7歳置き去り事件の発端「人や車に石投げ」……『いやいやえん』中川李枝子さんは「命にかかわることは叩いてでも教える」
というのが上がっています。
その中で、『ぐりとぐら』の作者として有名な元保育士の中川李枝子さんの最近刊行された『子どもはみんな問題児。』の中の一節を引用して記事が書かれています。
ちなみに、これは中川李枝子さんに「北海道の置き去り事件についてどう思いますか?」とインタビューして返ってきたお話ではなく、おそらくデイリー新潮の編集者の人がこの事件に本の内容を関連付けて記事にしているだけであると思われます。『子どもはみんな問題児。』も新潮社刊。
中川李枝子さんにその著書の中で、”とっておきの方法”として本当にすべきでないことに対しては「おててピン!」という対応を書いているのです。
こちらの記事からその部分を引用しますね。
「ときに説明するより叩いて教えるのが先、急を要するということがあります。
そんな時は『これっ、いけません』とにらみ、『おててピン!』『あんよピン!』。
ここで勢いに任せて叩くのはご法度。ごく軽くさわる程度に『叩く』のです。
ガス栓をいじる。お友だちを蹴っ飛ばす、ひっかく、髪の毛を引っぱる。
そのたびに悪い手、悪い足を軽く叩きます。でも声だけは『ピン!』と厳しく叱ってください。
子どもは『うえーん、いたいよー』と泣いて、それでおしまい。
そのうち叩かなくても『ピンよ!』とにらむだけで『いたいよー』と泣くようになり、その効果はてきめんすぎるほどでした。
先生に『めっ』と叱られ、『ピン』の響きでいけないことだったと後悔、泣いて反省を示す。
これが私の勤めていたみどり保育園の日常のひとコマでもありました。
年長児になると、不思議とこの決まりごとは消滅して『めっ』も『ピン』も不要、聞き分けのよい子になっていました」
ちょうど僕も先月くらいにこの本を読んでいたのですが、この件は「ああ、今の時代に昭和の保育をずいぶんどうどうと書いているんだな~」と「あちゃー」といった気分で読んでいました。
これは、幸せな時代に幸せな家庭の幸せな子を幸せな人が育てた時にだけ通用する方法でしかないと僕は思います。
もし、若い保育士さんに「職場の先輩が子供に”おててピンッ!”って叩いているんだけど、どうなんでしょう?」と聞かれたら、「ああ、それは”おばあちゃん保育”だから、あなたは真似しないようにね」と忠告しなければならないことでしょう。
もしそれをしていったら、その保育士は例えば発達障がいなど特別な個性の強い子に対して適切な対応ができなくなります。
結局のところ、「しつけのメソッド」の枠組みの中で「できる子」相手に子育てを考えているのですね。
” 年長児になると、不思議とこの決まりごとは消滅して『めっ』も『ピン』も不要、聞き分けのよい子になっていました”
この思いは、非常に主観的なものです。
ぜんぜん気にしない子もいるでしょう。
でも、一生そのようにされたことを忘れない子だって出てきます。
「しつけだからそうすることは必要」といった考えで、どれほどの保育士がどれほど不適切なことを行ってきたか……。
実際に中川さんの周りには、そのような不適切なことはなかったかもしれません。
もしくは、子供への基本的な関わり方がうまく、受容などが十分に適切に行われていたために、中川さんがそれをしてもさして問題なく子育てや保育が可能だったかもしれません。
おそらくはそうなのでしょう。
しかし、それは現代において、決して一般化できないことなのです。
それをあっけらかんと、一般の子育てしている人に言えてしまうのだから、きっと幸せなケースしかみないで、もしくは幸せなケースを念頭に置いて書かれているのでしょう。
しかし、「いけないことをしたからとっさに叩く」
これは、「動物のしつけ」「調教」と同じレベルの考え方ではないでしょうか。
まさに”しつけのメソッドによる子供観”がここにはありますね。
「子供を低いもの」「わからないもの」とみなす、子供を尊重しない見方です。
人によっては、この本を「子育ての専門家が書いているのだから」と読む人もいることでしょう。
というかほとんどの人がそう思って読むのではないかな。
その人達の中には、「おててピン」が功を奏して、それで子育てが安定化していけるケースもあることでしょう。
そういう「幸せなケース」が。
でも、「おててピン」からはじまって子供の年齢が大きくなったり、行動や自我が大きくなるに連れて、バシバシ叩きまくって、それでも子供が思い通りにならず、たくさんの暴言や怒りのなかで子育てを送らざるをえなくなってしまうようなケースだってでてくることでしょう。
結局のところ、「おててピン」は「行き過ぎないこと」を前提に「しつけのメソッド」で子育てを考えているだけなのです。
このYahoo!ニュースに転載された記事は、場合によっては子育てする人や子供を追い込むことになりかねないので、僕もここで危惧を表明しておきたいと思います。
僕に言わせれば、「おててピン」方式の子育てが行き過ぎてこじれた結果、今回の子供置き去り事件に発展しているわけです。
これでは問題視していることと、それに対する解決策が同じになっています。
そういった意味では、この記事は問題の本質をとらえていないと感じられます。
(まあ本のせんでんをしたかっ……ゲフンゲフン)
しかし、Yahoo!ニュースのコメントの流れは「”おててピン”なんかじゃ甘すぎる」という趣旨のものが多くて、「調教しろ」だとか「なめられるな」ということばが出てきています。
まだまだ子育てを心から楽しめるようになる時代が来るのは先になるだろうと感じてしまいます。
| 2016-07-16 | 日本の子育て文化 | Comment : 12 | トラックバック : 0 |
「しつけ」にまつわる本紹介 - 2016.07.13 Wed
『かわいい子には旅をさせよ』 vol.1
この↑記事タイトルが変わってしまいましたが、内容的には
『現代版 子育ての必須知識 vol.1』
こちらに続いているものと考えてください。
このことには、背景に「子供のちからを信じる」という、「子供の尊重」の概念が隠れています。
「信じて待つ」で検索しても関連の記事がでてくるでしょう。
さて、ここ一ヶ月以上、「しつけ」にまつわる話をしてきました。
保育についてもあれば、家庭の子育てについての記事も、ほとんどが「しつけの考え方」に関わる記事だったと思います。
「しつけ」はすごく難しいテーマです。
誤解や批判もあろうことはわかっています。特に感情的なそれも少なくないでしょう。
その理由のひとつは、実は大人も「しつけ」の規範のなかで生きているからです。
外国人向けの観光ガイドブックに、日本の電車に乗る時の注意点としてこんなことが書かれているものがあるのだそうです。
「日本では、車内で会話している人はいない、静かに乗車することを心がけなければならない」
まあ、会話している人がいないというのは言い過ぎだとは思いますが、そう言われると確かに静かにするといった規範を無意識に持っているようではありますね。
そんなところに端的に現れているのですが、実は大人も「しつけ」で生きているのですね。
だから子育てだけの問題ではない部分があります。
「しつけの規範」を自分自身の中でも重視している人も少なくないわけです。
(「しつけの問題点」などと言っているから、僕のことをアナーキストか何かのように感じる方もいるかもしれませんが、僕自身もその「しつけの規範を」大変強く持っています。ただ問題点を知っているので、客観視できるよう務めているだけです)
そのため人によっては、「しつけ」の問題点をあげると、まるで「自分自身が責められている」ようにとってしまう人がいるわけです。
感情的になって、書いていないことまで誤読する人もいます。
だから、世の子育て関連の人は「しつけ」の構造的な問題点などに気がついている人がいても、それに触れないほうが無難なのでしょうね。
「しつけには大きな問題点がある」というよりも、「こんなうまいしつけの方法がありますよ」って言ったほうが、本だって10倍売れるでしょうしね。
でも、僕は馬鹿正直で器用には生きられないので、子育てのために本当に必要だと思うことを述べるまでです。
最近の記事だけ読んだ人はいざしらず、このブログももう7年書いてきて、以前から読んでいる方には僕が他者をおとしめめたり、けなすために書いているのではないことはお分かりになることと思います。
僕は現実に、「厳しいしつけ」や「行き過ぎたしつけ」によって、その人格を良くない方に捻じ曲げられてしまった子や、萎縮した性格に育ってしまったり、自己肯定感を持てないで育っていく子などを見てきました。
親が「よかれ」と思ってすることによって、意地悪になってしまったり、人を信頼できなくなったりする子がいるということです。
子育ての相談を受ける中で、親自身がその生育歴から大人になった現在でも苦しんでいる人、自身の子育てに直面したことで苦しみが再開した人などが大勢いることも感じています。
そんなこんなで思うのは、「支配で人は育たない」ということです。
「支配」を強化して育てると、「支配すること」を好む人格や、「支配されること」を好む人格が出来上がりやすいです。また他者の感情に鈍感な性質を持たせることもあります。
そういった人格を獲得させられると、その人が”幸福感”を得ることはとても難しくなってしまいます。
子育て関連の人で、あまり「しつけ」を問題視する人は多くありません。
そのいい部分しか描いていないからね。
しかし、心理学者や心理カウンセラー、心にまつわる医師は、かなり以前からこのあたりのことに真剣に取り組んできていました。
僕自身で、そのことをお伝えするのは限界があるので、読み易めの二冊の本を挙げておきます。
興味のある方は手にとって見てください。
どちらとも大変お勧めできる本です。(↓アドブロックなどの設定をしていると見えないかもしれません)
| 2016-07-13 | 日本の子育て文化 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
現代版 子育ての必須知識 vol.2 - 2016.06.24 Fri
「子供の姿は、”私”が”すべて”を作り出さなくていい」
これについて、もう少し具体的に見てみましょうか。
例えば、僕の所に寄せられる相談でとても多いものに「友達関係」があります。
「2歳の息子は、すぐ私の陰に隠れてしまってお友達と遊ぼうとしません。どうしたら遊べるようになるでしょうか?」
または、
「幼稚園に行っているのですが、そこでは自分一人でいることが多く、お友達とあまり遊べていないようです。どうしたらお友達に関心をもってくれるでしょうか?」
こんな悩みをよく耳にします。
こういった悩みの背景には、「私が子供の姿を作り上げなければ」という先入観が隠れているわけですね。
おそらく「友達関係」というのは、子供が自分でなんとかするしかない最たるもののひとつです。
でも、それに対してすら「私がなんとかしなきゃ!」という気持ちを、現代の多くの人が持ってしまっています。
「私がすべてを作り出さなくていい」ということは、子育ての場面で数限りなくあるのですが、ほかにも具体的な例を見てみましょう。
例えば、”食べ物の好き嫌い”といった場面では、
極端に言ってしまえば、親が「好き嫌いを直さなければ」と頑張らなくても、それを改善していける要素は子供の成長の中にたくさんあります。
ニンジンを嫌いな子がいたとして。
そのときは子供の発達途中の味覚が、そのなかにあるえぐみやくせを鋭敏に感じ取って、身体の原始的な反応が「これは食べたらよくない」と感じさせているのかもしれません。
そうであっても、それは”時間の経過による成長”や、他のものを食べていく内に獲得される”慣れ”が、しだいにニンジンも食べさせてくれるようになるかもしれません。
また、大人がおいしそうに食べているのを見て、意識的な面から抵抗感をなくしていくかもしれませんし、園や学校などの外の世界で「残さず食べることが大事です」とか、「野菜も食べましょう」といったことを言われる中で、”社会性の獲得の一部”としてニンジンが苦手ということを克服していくかもしれません。
さらには、そこでの他の子供が普通に食べているのを見て、「自分も食べられるんだ」と無意識に感じ取っていくかもしれません。
そのように子供の姿・行動は”親だけ”が作り出すものではないのですね。
でも、「しつけ」には様々な「〇〇できなければならない」といった教条的な要求がたくさんあり、それが強迫的に親に「〇〇させなければ」という意識を持たせてしまいます。
しかし、子供の成長はなんでもかんでも「親が△△すれば〇〇になるんだ」というものではありません。
子供の成長には、親が直接手を出すことができない部分がたくさんあるということを現代の子育てする人は知らなければならないと思います。
昔の人は、感覚的にそういう部分のあることを理解していたようです。
現代では、子供に関わる経験などが少なくなっているので、知識として理解しないといけない状況にあるのだと考えられます。
最後に
「子供の姿は、”私”が”すべて”を作り出さなくていい」
このことを、別の言葉で言い換えてみると、
「子供には親の手が届かない”のびしろ”がたくさんある」
と言えると思います。
だから、強迫的に自分や子供にプレッシャーをかけながら子育てする必要はないんですね。
のんびり、おおらかに子供をみていきましょう。
| 2016-06-24 | 日本の子育て文化 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
現代版 子育ての必須知識 vol.1 - 2016.06.23 Thu
「じゃあ、どうすればいいの?」の部分ですね。
僕もそれを体系立ててまとめているわけではないのですが、今回はそれを思いつくままに書いていこうかと思います。
1.子供の姿は、”私”が”すべて”を作り出さなくていい
「しつけ」は”養育者”の責任を強調してきました。特に”母親”の。
しかし、それは子育ての方向として間違った方へ向かわせます。子育てする人にとっても、子供にとっても。
だから、
「子供の姿は、”私”が”すべて”を作り出さなくていい」
という、この知識は多くの人に知っておいて欲しいものです。
そう思えれば、子供の成長の姿を信じて待つこともしやすくなり、過保護や過干渉におちいりにくくなります。
また、子育てに過剰になりすぎるストレスやプレッシャーを軽減させることができます。
そうなれば、そこからくる「過剰になってしまう”しつけ行為”」や「虐待」「放任」なども防ぎやすくなります。
「”私”が”すべて”を作り出さなくていい」というのは、おためごかしで言っているのではありません。
実際、親が直接作り出せる子供の姿はほんの一部です。
・時間の経過(子供の心身の”時間的”成長)
・生活上の経験
・外の社会での関わり
・子供同士の関わり
そういったものが少しずつ蓄積されて子供の成長は得られていくのです。
親がすべてを作り上げなければならないとなると、「ああしなさい」「こうしなさい」「それはするな」「大人の言うことを聴け」といった関わりにいつのまにかなってしまいます。
特に”できないこと”にばかり目がいってしまう子育てになります。
そのことは、子供の自己肯定感、大人自身の自己肯定感にマイナスに作用します。
そして、子育てが辛くなります。
「子供の姿は、”私”が”すべて”を作り出さなくていい」
このことは、子育てする人にぜひ知っておいて欲しい現代の子育ての基礎知識です。
つづきはそのうち・・・・・・。
| 2016-06-23 | 日本の子育て文化 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
「良いしつけ」「悪いしつけ」? vol.3 - 2016.06.22 Wed
前回の「2.子供観の問題」と題したところ。
ひとつ目の問題点は「◆子供を支配対象と見ること」でした。
今回は、そのふたつ目の問題点
『◆子供を「できないもの」と見なすこと』
からスタートです。
◆子供を「できないもの」と見なすこと
「しつけ」は、
「あなたの子供を”あなたの責任で”、”あなたの関わりで”、”今すぐ”正しい姿にしなさい」
と親に要求しています。
次に見るのは、ここにある「あなたの関わりで!」が引き起こしている構造的な問題です。
「しつけの考え方」は、暗に「子供は自分じゃできないのだから、あなたがそれをできるようにしなさい!」と迫っています。
「しつけ」の持つ子供観のひとつが、この「子供はできないもの」という先入観です。
これが、現代で子育てを難しくしている大きなもののひとつです。
小さな子を前にして、「どうせ言ってもわからないわよね」といった言動や、そういった気持ちからのアプローチを少なからず目にします。
「どうせ言ってもわからない」と、我が子の放任になる人。
「どうせ言ってもわからない」と、子供を叩いて思い通りにする人。
”子供を放任する人”と、”子供を叩いていうことをきかせようとする人”。
この両者は一見、相反するアプローチのようですが、実は根っこは同じ所から派生しています。
どちらも、「子供はわからない存在なのだ」という子供観(子供への視点)から生まれている関わり方なのです。
この「子供はわからない存在」という見方自体が、「しつけ」のパラダイムが内包してしまっている構造上の問題です。
前回の記事では、「子供を支配対象」として見ることがしつけの構造上の問題点のひとつと述べました。
つまり、「子供は大人の支配下にあるもので」なおかつ「子供はわからないもの」なのだという見方が「しつけ」で考える子育てには内包されてしまっています。
もちろん、それの運用には個々により”程度の差”があります。
”「支配下にあり、わからない存在」であるがゆえに、子供は守られ慈しまれ、根気よく、またあたたかく、そしてときに厳しさを持って関わっていかなければならないのだ”
と、その考え方を解釈して実践できる人もいることでしょう。
すべての人がそのように考えてあげられるのならば、「しつけ」というメソッドも悪いものではないかもしれません。
しかし、構造上の問題なので、そうではない解釈のされかたに歯止めをかけることができません。
”「子供は親の支配下にあり、わからない存在」なのだから、わからせるためにどんな方法を使ってもいいのだ。身体的な罰を与えることや、他人にはできないようなことをしてもいい。自分の支配下のことなのだから、自分のやり方に異を唱えることは誰であれ許さない”
そのように考えてしまう人が出ることを避けられないのです。
この記事のテーマを『「良いしつけ」「悪いしつけ」?』としていますが、ちょうどいま挙げた”程度の差”が上の例は「良いしつけ」で、下の例が「悪いしつけ」になっているでしょう。
実際の「悪いしつけ」はそんなさらっと書けるようなものではなく、長期に渡り精神的に束縛してしまったり、親のエゴのために子供を利用したりといったことまでもが「しつけ」として行われることが起こっています。
「良いしつけ」はたしかにあります。
でも、それと同じ根拠が「悪いしつけ」をも生み出し、「しつけ」の概念を子育ての根拠としている限り、それに歯止めをかけることが難しいという構造的な問題を抱えているのです。
そして、これらの ”「しつけ」という子供観(子供の見方)” がさらに様々な実際上の子育ての問題・難しさを連鎖的に生み出していきます。
(その一部は、『「しつけ」が危険 』2016.06.05 の記事に書きました)
さて、これから述べるお話は、直接的に具体的な問題点の話ではありませんが、ここまで見た「しつけの子供観の問題」から派生し、現代の子育て・保育に影を落としていることです。
それは「子供の尊重」についてです。
・子供は支配下
・子供はわからない・できないもの
これまで「しつけ」を旨としてきた日本人は、これを先入観として持っていますので、「子供の尊重」という概念の正しい理解がとても難しくなっています。
なかなか理解できないし、それを念頭に置いていても適切な理解にならない例が大変多いです。
例えば平易な例で言えば、「(どうせわからないのだから)手伝ってあげなければ」と過保護や過干渉になるといったことです。
子供を尊重しようと思うと、その人は「よかれ」と思ってなのですが、”一個の人格としての尊重”ではなく、”力のないものとしての尊重”の理解になってしまうのです。
だから、自分がもっている先入観としての「しつけ概念」がクリアにならないと、なかなか「子供の尊重」が正しく理解できず、子供に適切に関われないことがあります。
これは、家庭の子育てであれば(あくまで比較的ですが)さほど問題にならなくとも、保育園・幼稚園・学校など、大勢の子供に関わる仕事をしている人にとっては大きな影響を与えることになってしまいます。
余談ですが、今度の保育セミナーではそういったこともお伝えしようと思っています。
| 2016-06-22 | 日本の子育て文化 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
「良いしつけ」「悪いしつけ」? vol.2 - 2016.06.10 Fri
◆6月26日(日)、7月3日(日)の保育士向けのセミナーについて
6月26日(日)はすでに定員に達しておりましたが、キャンセルが出ましたので2名募集いたします。
7月3日(日)はまだ空きがありますので募集中です。
お申し込みはこちらから。
◆6月18日(土)の講演は定員に達したため募集締め切りました。ありがとうございます。
さて、では前回の続きです。
僕は、「現在の”しつけの子育て”は乗り越えられるべき」と考えています。
”乗り越える”というのは、「その問題点をクリアにして理解しその上で適切な子供への関わり方を身につける」という意味合いで考えています。
「良いしつけ」と「悪いしつけ」があるだけならば、「それは悪いしつけですから、そうはしないでこういった良いしつけをしましょう」と伝えていけばいいのですが、前回のところで述べたようにそのようなことは、もう限界に来ていると感じています。
なぜなら、「しつけ」の問題点は「良いしつけ」と「悪いしつけ」があるだけではないからです。
「しつけ」という子育ての考え方には、”やり方”だけの問題ではない構造的な問題が含まれています。
ですから、方法を良くするだけでは改善しきれない問題があり、それゆえ「乗り越え」なければならなくなっています。
1.「しつけ」の本質が「子育ての方法」ではないこと
そもそも「しつけ」とはなんでしょう?
多くの人は、子供への「しつけ」によるアプローチを思い浮かべることでしょう。
それらの関わり方、つまり「しつけ行為」だけ見ればたしかに子育ての方法のようです。
しかし、「しつけ」という考え方、「しつけの概念」が最終的にいきつくのは、”子供への関わり方”ではなく、親に「子供を〇〇にしなさい」という”親への要求”になっています。
「しつけ」の本質は、まずもって「親への要求」なのです。
その「親への要求」を達成するために、つまりそれを「目的」として、子供へのアプローチである「しつけの行為」がいわゆる「しつけ」として作り出されています。
この作り出されたものの中に、「良いしつけ」と「悪いしつけ」ができあがっています。
そのように、そもそも「しつけ」とは子育ての方法論(具体的関わり方)ではないのです。
だから、「目的は手段を正当化する」ことが起こり、さまざまな不適切な関わり方(悪いしつけ)が生み出されてしまっています。
この「親(または大人)への要求」ということが、「しつけ」の構造の問題点の第一です。
2.子供観の問題
「しつけ」はそのように「親への要求」としてあります。
ですから、「しつけ」は親に「あなたの責任でその子を正しくしなさい!」と迫ってきます。
それがさらに、子育てを難しくする二つの大きな問題点を生み出します。
◆子供を支配対象と見ること
「しつけ」は「大人が子供に〇〇させるべきこと」を要求します。
それは結果的に、子供を大人よりも、低い位置にあるもの、従属すべきもの、言うことをきくべきものなどのように、子供を支配対象であるという先入観をともなわせます。
このことは、子育てに様々な問題を引き起こしています。
極端なところでは、「しつけ」が虐待を引き起こす大きな原因となっています。
そのようなものでなくとも、一般の多くの人が日常で感じるような「子供が言うことをきかなくて大変」といった問題を起こす最大の原因となっています。
皮肉なことに、「言うことをきく子にしなければ」という大人の意識がかえって「言うことをきかない子」を作り出すのです。
どこでも耳にする言葉に「男の子は子育てが大変」というのがあります。
これは比較的活動的な傾向が強い男の子の方が、「支配に従順に従いにくい」から「しつけのアプローチ」では、結果的に「大変」になってしまいやすいのです。
本当のところは、「男の子は子育てが大変」なのではなく、「男の子としつけの子育ては相性が悪い」ということなのです。
そのように「しつけの考え方」は、大人と子供の関係を「支配、被支配の関係」にしてしまいます。
この問題は「しつけ」で子育てを考えている内は、切っても切れないものです。つまり構造的な問題なのです。
このことは「しつけ」が「その親の責任」と強調されるようになった、”専業主婦が一般化した時代以降”(およそ40~50年前から)さらに顕著になってきました。
社会や地域の人を含めた多くの人が、ゆるやかに一人一人の子育てに関わっていた時代は緩和される要素がありましたが、子育てが各家庭とくに母親の責任と強調されるようになり、この問題は加速化してきました。
現代では、「個性の尊重」「子供の尊重」といった考え方が世の中に広まり、それが重要と考えられる時代に入ってきています。
そこと、この「しつけ」が「支配・被支配の構造」を持っていることは、相反するものがあるので、水と油がひとつの容れ物の中にあるようなちぐはぐな状態が現代の子育ての状況になっています。
このことは結果的に「個性の尊重」「子供の尊重」といったことの理解をおかしな方向にし、「子供のいいなり」になってしまったり、必要なことを自信を持って伝えられない、いわゆる「叱れない親」の問題などを引き起こしています。
このような現代的な子育ての観点を適切に理解していくためにも、「しつけの考え方」には乗り越えられるべきものがあるのだと感じています。
(まず、特に子供への関わりを仕事にしているプロフェッショナルにはね!)
つづく。
| 2016-06-10 | 日本の子育て文化 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
「良いしつけ」「悪いしつけ」? vol.1 - 2016.06.08 Wed
かなり多くの人が「しつけ」という言葉を使って子育てを語っています。
もちろん、その著者の方たちも「”行き過ぎた”しつけ」があって、それが大きな問題を引き起こしていることは認識していることでしょう。
それでも「しつけ」という言葉を使っているということは、世の中には「良いしつけ」と「悪いしつけ」があるから、「良いしつけ」の仕方を伝えるのでそれをして下さいというスタンスなのだと思います。
「良いしつけ」は確かにあります。
「しつけ」という考え方のもと子育てを行って、きちんと育てられるケースももちろんたくさんあります。
しかし、それは次の条件が備わっているときに限られるのです。
・それが可能な大人(親)であること
・それが可能な子供であること
・それが可能な状況であること
実際のところ、これらが達成されるかどうかは、ほぼ「運任せ」とも言えることです。
「できてしまう」ケースならば、いわゆる「しつけ」の子育てをしても問題なくいけてしまいます。
でも、そうでない場合、子育てにおけるリスクはどんどん上がっていきます。
日本では現状、子供が生まれたからといって適切な子供への関わり方をその人たち全員に教えてくれるプロセスはありません。(国によってはすでに取り組んでいるところはある)
子供へどう関わるかというのは、その人任せになっています。
「しつけ」という概念だけは流通していますが、「その人がそれをどのように理解しているか」は野放し状態というような状況です。
これまでの時代にも、「子育てで大事とされているメッセージ」がたくさん世にでてきています。
・「怒るのではなく叱るが大事」
・「感情的に叱るのはよくない」
・「ほめて育てましょう」
・「子供の個性を尊重しましょう」
・「子供の意思を尊重しましょう」
・「子供を叩いて育てるのはよくない」
・「”良い子”を目指さない」「我が子を”良い子”にしない」
こういった言葉をみなさんも知識としてご存知のことと思います。
これらは実のところその時代時代にあわせて、”行き過ぎ”になりがちな「しつけの子育て」を引き戻すメッセージとして生まれ機能してきました。
はっきり言って、現代の子育てする家庭の形は確実に「子育てが難しくなる方」に進化しています。
核家族化・家庭の孤立化(他者と関わりが少ない)・夫婦共働きの増加・女性の仕事の激化・ひとり親家庭の増加・親自身の人と関わる経験の減少・女性の意識の変化(家事育児をする存在とみなさない)・就労や経済状況の悪化(子育てに余裕がなくなる)・子供同士のコミュニティの減少、などなど
これまでは、「こういうやり方がありますから、行き過ぎにならないように気を付けましょうね」と、過剰になりやすい「しつけ」行為を引き戻す(リスクを下げる)それらのやり方をフレーバー的に加えることで「しつけの子育て」を許容範囲の子育てにすることができていましたが、それがもはや限界に差し掛かっていることを僕は感じています。
このブログや著書等でも繰り返し述べていますが、かつての子育て環境では子供への「受容」など意識せずとも自然となされる状態が維持されていました。
そのような状況であれば、子育ての方法論が「しつけ」や「甘やかさないこと(”甘やかさない”のは確かに大事だが、”甘えを受け止めない”ことも含んで解釈されてきた)」といった信条であっても無理なく送ることが比較的可能になっていました。
それが子育てする環境や状況が難しい方へ変わりつつあるなかで、緩和させるフレーバーを加えても「許容範囲のしつけ」にならないケースが増えてきています。または、”行き過ぎたしつけ”にはならないけれども、その方法では子供が思うようにならず子育てが迷走するようになるケースも増えています。
それは今後、さらにその方向に進むでしょう。
ここからは、少し話を具体的にして考えていきましょう。
「しつけ」の子育ては、最初にひとつの「子供があるべき姿」を設定します。
親はそれを教科書や育児書で覚えるわけではなく、先入観としてすでに獲得しています。
”先入観”だからこそ、多くの人にとってそれを客観的に見直すことはとても難しいことになっています。
例えば、
・「あいさつは大事」
・「箸を正しく持てることは大事」
確かに、「あいさつができること」は大事なことですね。
僕も、子供にはそのようになって欲しいと思います。
さまざまな子供の中には、「親があいさつすることは大事だよ。あなたもちゃんとしなさい」と伝えれば、そのままなんの抵抗もなくいろんな人にあいさつができるようになってしまう子もいます。
そういった子であれば、この「子供をあいさつできる子にする」という「しつけ」は、無理なく達成されます。
それならなにも「しつけ」は問題ありませんね。
でも、そういう子ばかりではありません。
「人見知りが激しい子」「社会性の発達が幼い子」「他者への関心が低い子」「気が弱い子」「自分に自信がない子」「言葉が遅い子」「発達障がいをもっている子」「場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)の子」「自閉的傾向のある子」
こういった子は、どうなるでしょう?
いわゆる”しつけに厳しい”人だったり、寛容でない性格だったり、きまじめな人だったり、精神的に余裕がない人だったり、自己肯定感が低い大人だったりするとこの子たちはどう扱われるでしょうか?
「あいさつは大事」
これは正論です。しかし、正論ゆえにそれでもって子供の個性を許容しなかったり、押しつぶしていくことになります。
押しつぶさなかったとしても、そのできない子への「否定」の見方になるのは確実です。
「個性が大事」「個性は尊重すべきもの」
これらのことは、これまで世の中でさんざん言われてきています。
しかし、「しつけ」の考え方を中心にしている日本の子育てのあり方では、実際の所個々の子供の本当の意味での「個性」を認め、尊重することははばまれています。
「しつけ」は”できる子基準”で考えて作られ、それを子供に一方的に押しつけていく子育て方法になっています。
ただ、その「さじ加減」がその人に任されているので、「さじ加減」が適切にできる人ならば、子育てが問題なくおくれるというわけです。
しかし、前回のところで述べたように「しつけ」で考える子育ては、強迫観念的になるという性質があります。
うまくいかないと、そのことが親を追い詰めるのです。結果的に「さじ加減」は適切な範囲を超えてしまうリスクをはらんでいます。
例えば、強い人見知りを持っている子の親が、その人自身、自分の親からしつけの厳しい子育てをされてきて、自身も「しつけは絶対」といった考え方をしていた場合。
その人見知りの強い子は、そこでたくさん否定されることになります。
場合によっては、そのことで親から感情的に叱られたり、自己を否定されたり、叩かれたりします。子供は親の感情のあり方に敏感ですから、あからさまでなくとも「自分は許容されていない」と感じ続けることになります。
”他の子供と比べることで発奮させ「正しい姿」を獲得させよう”と考える親だと、その子は”他の子と比べられることで自己否定”を積み重ねられます。その子が親から受けるメッセージは、「そんなあいさつできないお前はダメな子だ」というものになってしまいます。
この子たちは「あいさつしたくない」と思っているのではありません。「あいさつが大切なこと」も「親がそれをできるよう望んでいること」も重々理解しています。そして「その期待に応えたい」とも思っています。しかし、「できない」のです。それは「やる気がない」とかではなく、「したくてもできない」発達状況を持っているということです。
その子たちは多くの場合、「時間」が必要です。
しかし、「しつけ」は「今すぐ」を要求するので、親はそれを許容的に「待つ」ことができません。
親はとても強い「やらせなければ」という感情を持っていますので、そのように自分の思い通りにならない状況の子を前にすると、感情的にいらだち、ともするとその子のそういった態度を「親に対する反抗」ととり、より強い態度や、支配的な関わりをするようになってしまいます。
もしかすると場合によっては、そもそものその「人見知り」という状態自体が、それ以前のところで親のそういった、他の「しつけ」の関わりにより「自己否定」されることが多かった結果「自信喪失」して「人見知り」が作り出されたのかもしれません。
もしそうだとしたら、その後の人見知りへの否定的な対応は”追い打ちをかける”ようなものとなってしまいます。
これは「しつけ」のもつマッチポンプの特徴のひとつです。
(マッチポンプ = 「しつけ行為」自体がその子の「〇〇できない状態」を引き起こし、さらに「しつけ行為」がそれに否定を積み重ねていく)
「お箸」についても見てみましょう。
「箸使い」は伝統的な「しつけ」を重視する人の大きなポイントのひとつになっています。
早い人ですと、2歳以前に箸使いを教え始めています。
しかし、これは子供の発達の観点から見るとかなり異様なことです。
箸使いというのは、相当に高度な手先の動き・器用さが要求されることです。
子供の手指の身体的な発達、そしてそれを動作させるための神経の発達。
これらが、その年齢ではまだ不十分な状態である子がほとんどのはずです。
中には、できてしまう子もいます。しかし、平均的な発達から言えば、そういったこの方がむしろまれでしょう。
おそらくは、4後半~5歳くらいが発達面から見たときの箸使いのスタートラインになる年齢ではないかと思います。
しかし、日本には「箸を正しくつかえるべし」という「しつけ」による信条があります。
ですから、「しつけ」を重視する人は、それに躍起にならなければなりません。
「できるべきこと」は「早い」方がより立派なので、その要求も早期になっていきます。
また、「できなければならない」という親の感情は、そのアプローチを過激化させていきます。
結果として、箸を取り落とした1歳児2歳児の手を叩いたりすることが「しつけ」としてまかり通ってきました。
この前コメントでいただいたところによると、「縫い針でつついて箸使いを覚えさせる」といったやり方もあったのだそうです。
これらは、「目的は手段を正当化する」というものになっていると言えるでしょう。
しかし、子供の本来の成長・発達面から言えば、1~2歳の子に箸を上手に使えるように要求することは、「なんの意味もないこと」なのです。それは本当は、小学校1年生に微分積分を教え込むようなちぐはぐな行為なのです。
それよりも、その時期にはその子にあった食べ方で無理なく食べ、それをあたたかく見守られることで、食べることへの意欲をつちかうことが重要な時期です。
威圧的なやり方をともなった箸使いの指導はそれを逆にしてしまいかねません。
箸使いは、その子が無理なくできる時期に来たときに使い始めれば、さしたる苦労もなく、また変なクセをつけることもなく習得できることにすぎません。
しかし、「箸が正しく持てるべき」は「しつけの概念」の中でひとつのイデオロギーとなっているので、その先入観からいまだに早期に四苦八苦して教え込むことや、とりあえず形だけでもと補助具のついた箸を使わせることで大人が満足するといった、本来の子育ての方向とは違うものが考えられてしまっています。
そのように「しつけ」は子育てのあり方にバイアスをかけてしまっています。
つづく。
| 2016-06-08 | 日本の子育て文化 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「しつけ」が危険 - 2016.06.05 Sun
どうなるかと心配しておりましたが、本当に無事でよかったです。
この件を機に、にわかに「しつけ」についての関心が高まっておりますので、僕も必要と思うところを述べておきたいと思います。
(「自立」についての記事のつづきは、日をあらためて)
「しつけ」という言葉は、子供関連の専門家や教育学者なども現代でもさかんに使っています。
しかし、僕は「しつけ」という考え方で子育てにのぞんしまうことは危険なことだと、これまで一貫して述べています。(「しつけ」でブログ内検索していただければたくさん出てきます)
そして、「しつけ」という概念に依らなくても、「子育て」ができる方法を提示し続けてきました。
現代は、もはや多くの人が考えている「しつけ」では子育てがうまくいかない時代に入っています。にもかかわらず、「しつけ」による子育てしか知らないことで多くの弊害が生まれています。
今回のように、結果としての「虐待」までいかなくとも、「子育て」=「しつけ」と思って子育てをしてきたことで子育てそのものが大変になり、子供を可愛く思えない、許容的にみれないといった状態になってしまうことも少なくありません。
今回は、あらためて「しつけ」で考える子育てが持っている問題を明らかに示していきたいと思います。
1.現在では「しつけ」は、「用法用量を正しくお使いください。さもないと子供を死に至らしめることがあります」という”劇薬”です。
現代において、「しつけ」という考え方はとても危険なのです。
すでに、個々の家庭の子育ては、大きな家族や地域などとは切り離され孤立した状況で行われています。
その「しつけ」が不適切なものであった場合。他者との関わりのある状況であれば、だれかがセーブしてくれたり、補ってくれることで大きな問題にならないこともケースによっては考えられますが、現状それは難しいのです。
現在は、子育てが孤立化しており、他者の目にとまりにくくなっています。また、個人主義的な考え方が進んでいて、人の子育てに他者が介入することがしづらくなっています。
子育てがさして問題なくおくれる人であれば、「しつけ」という考え方によって子育てを行っても大きな問題にはなりません。
しかし、そのような人ばかりではないのです。また、子育てや子供への関わり方がわからない人は今後さらに増えていきます。
つまり、いままでは”用法用量”が自然任せでも守られていたとしても、それはたまたまでしかないのです。
”用法用量”がわからない人にとっては、「虐待」ですら「しつけ」になるのです。
2.同時に「しつけ」は「子供を殺してしまっても許される”免罪符”」になっています。
現在の日本では、いきすぎたしつけによって子供に大きなダメージを与えたり、最悪殺してしまっても「事故」で済む”理由”となっています。
「いきすぎた”しつけ”」と「正しい”しつけ”」の間の境界線は見えるでしょうか?
残念ながら、それはあいまいです。
特に、「いきすぎた”しつけ”」をする人ほど、それは見えないのです。
3.「しつけ」は、「目標だけが与えられて手段を明示していないプロパガンダ」になっています。
「しつけ」とは、「子供をあるべき正しい状態にしなさい」と”親”に対して要求していく”強迫観念”になっています。
「しつけ」は「子供はこうあるべき」という「目標」だけは強く示しますが、その一方で「無理なくその子をその正しい姿にするためにはこうすればいいですよ」という方法は何一つ説明していません。
その方法を示す代わり「しつけ」が強調して訴えかけてくるのは、その親に対して「子供の正しい姿が出ていないのは”親であるあなたのせいです”」というプレッシャーです。
そして、その親の横に無言で”劇薬”をおいていくのです。
4.「しつけ」が伝える子育てのメソッドはひとつしかない、それは「支配をつよめること」。
「しつけ」は前提として、「子供は親に従順であること」を暗に要求しています。
(この点が昔の価値観を持つ人には特に重要になっています。逆にそういう志向があるので、子供の「個性」や「人権」「尊重」といった概念がそれをおびやかすものとしてその人たちの目に映ります。そのため、そのような人たちはしばしば「個性」や「人権」「尊重」という言葉に大変攻撃的です。日本の政治家たちが『子供の権利条約』への批准を渋り続けたのもこの辺りの考え方が影響しています)
「親に従順でない状態」は「しつけ」の概念による子育てでは、”あってはならないこと”です。
ですから、それに直面すると親は子供に対しての支配の強化・しめつけをしなければならなくなります。
その方法はさまざまで、怒ったり叱ったりすること、叩くこと、疎外すること、置き去りにすること、言葉でののしること、言葉ではずかしめること、脅すこと、
子供のモノを壊すこと、子供のしたいことを否定・邪魔すること、などなど。
この考え方・先入観は子育てを不健全にしてしまいます。
さらには「虐待」も招きます。
例えば、子供の自我の発達を否定することや、子供の自主性・主体性を奪うことなど。
(このためかつての「第一次反抗期」という言葉は、”反抗するならそれは押しつぶさなければ”と考えてしまう人がいるので言葉自体を見直さなければなりませんでした)
現在の子育てが迷走した結果なりやすい「親がいいなりになること」や「ごまかし」「モノで釣ること」などのさまざまなコントロールの手段は、”支配を強めることはしたくないのだけどどうすればいいかわからない”という気持ちが生んだ、”支配の子育てメソッド”の亜種といえます。
5.「しつけ」は常に耳元でささやく
「しつけ」の考え方によって、親は「子供を正しい姿にしなければならない」という”先入観”、さらにはそれが強まった”強迫観念”のもと子供を「正しい姿」にするべく、子供へのアプローチをします。
そのとき、「しつけ」は常に次のことを親に要求していきます。
・”今すぐ”
「(しつけで考えるところの)正しい子供の姿」を「今すぐ!」作り出しなさい。
そのように考えてしまうので、親は子供の行動に寛容になれません。また、子供の心身の成長発達や、時間の経過による成長を考えてあげること、待ってあげることができなくなります。
その結果、子育ては「過干渉」になるべくしてなります。
また、「先取り」で考えてしまうようになります。(「正しい姿」が遅く出ることは好ましくないので、「早くに」それを獲得させようとするため)
それはしばしば、子供の「発達段階」を無視した理不尽な要求となって、子供の姿を難しくする原因となっています。
・”あなたの責任で”
「しつけ」の概念は、親の責任を強調します。
それは、「しつけ」がすんなりいく子相手、すんなりいく状況、それができる親であればよいですが、すんなり行かない状況では脅迫の言葉になります。
裏を返すと、「子供の姿が”正しくない”のはおまえのせいだ!」と常にその親を責めるのです。
また、世間もそのように親を見ます。
例えば電車の中で子供が騒いでいた場合、「あのお母さん、子育て大変そうだな。いっちょ私が手伝ってあげるか」とはなかなかなりません。
「しつけのなっていない子供だ、あの親はなにをやっているんだ!」そのように非難の視線を親に向けることになっています。
(電車バス内でのベビーカーにまつわる論争がありましたが、その視点はまさに↑これになっています)
このことは、さらに親に対して”強迫的”に「しつけ」を迫ることになります。
こうして、本来の子育てとは関係のない方向、「私が世間様に非難されないために・・・・・・」へと子供へのアプローチが切り替わってしまいます。
(「人見知りしない子にしなければ」「断乳しなければ」「おむつを早くに外さなければ」といった意識も少なからずここからきていますね)
結果的に、”子供の力を伸ばす方向”ではなく、”子供を大人の思い通りにするためのアプローチ”が「しつけ」=「子育て」として確立していきます。
6.「しつけ概念」による「しつけ行為」は”言うことを聞かない子”を作り出すマッチポンプ
しつけは、支配すること・圧力をかけることをその手段として、子供の姿を大人の好ましいものに無理やり改変していく子育てとなりかねません。
それは「しつけ」の概念が要求している「子供の正しい姿」という”型”の中に、子供を無理やりはめ込んでいくような子育てです。
そこでは子供へのダメ出し、非難、叱る、怒る、自我の押さえつけなどなどの、子供を「否定」する方向での関わりが山のように積み重ねられてしまいます。
「否定」というマイナスの方向でのアプローチが多くなれば、子供はその親はもちろん大人全般への「信頼関係」という、子供の健全な成長のために必要な力をつちかうことができなくなります。
すると、かえって大人の「アプローチには従わない」もしくは、「自分の意思や感情に逆らいながらしぶしぶ従う」という状態に子供の育ちを持って行ってしまいます。
結果的に、「いうことをきかせなければ」として行う「しつけ行為」は、子供を「いうことをきかない子」にしてしまいます。
「しつけ」が主張するメソッドでは、それができやすいタイプの子以外、「しつけ」の望む子供の姿はむしろできないのです。
従わせる関わり→従わなくなる子供→より強い支配→より従わない子→さらにより強い支配
という”いたちごっこ”です。
つまり、「しつけの行為」はかえって「”しつけの考え方”が望んでいない子」を作り出すマッチポンプになっているのです。
それが生み出す結果は
・「体罰」「虐待」に代表されるような、強烈な支配の関わりの強化
・子育てする人の強いストレス、イライラ、怒り
・結果(子供の行動)が思わしくないことによる、親が自分自身を責める気持ち
・結果的に思い通りにならないことからくる、あきらめ、子供の無視、放任
・思い通りにならないことからの、コントロール(管理)としての関わり
例)テレビゲームを与えて静かにさせる、菓子やモノで釣る、など
このようなことを子育てにもたらします。
北海道の置き去り事件の例で言えば、その子供が最初”人や車に石を投げていた”とされる行動そのものが、それ以前の普段からの親による否定的・支配的な関わり方が、そのような”大人の思いや要求に鈍感な子・応えない子”(いわゆる”言うことをきかない子”)つまり大人に対して「信頼関係の低下した状態」が引き起こしていた可能性があります。
そこを親はさらに矯正しようと、より強い支配(置き去りにするという脅迫・痛い目)をすることで解決しようとしています。これでは子供が望ましい姿になることはありません。なったとしてもそれは”強い支配をする人の前でだけ”です。それ以外の人の前では少なからず問題行動を示すようになります。
7.「しつけの子育て」は”自己肯定感”の低い人間を作り出す
「しつけ」は、押さえつけ・支配・ダメ出しなどの「否定」の方向での関わりが主になります。
また、それを親と子という非常に近い距離での関わりの中で、濃密にたくさん積み重ねていきます。
それは、”親の顔色をうかがう”子供にしてしまったり、否定されることを怖れて自発的な行動ができなくなる子供にしてしまったりします。
その結果、自己肯定感がとても低くなったり、ものごとへ取り組もうとするモチベーションや自信の低い子供にしてしまったり、自分を大事と思えない”自尊感情の低い”性格を作り出してしまったりします。
また、その反動として”承認”されることへの渇望、つまり承認欲求への餓えみたいなものをもった人間にしてしまいかねません。
これらは思春期・青年期、そして大人になってまでその人への人格に影響を与えていきます。
8.定型発達でない子は、「落ちこぼれ」になってしまう
「しつけ」は常に子供の「あるべき姿」「理想像」を目指している。
そうでない状態は、否定的にみられる状態になってしまいます。
それが、「できる子」ならばいいけれど、現実はそうとばかりではありません。
現実を見ず、理想を追うようになると、不適切なことがたくさん起こってしまいます。
「”しつけ”の概念」が先にあって、子供を見ていくことはその人の意識が子供を”落ちこぼれ”にしてしまいます。
「正しい子供像」のような理想を念頭に置いた熱心な教育者が、むしろ多くの子供を切り捨てていく人間になっている皮肉な現実も目にします。
とても狭い「あるべき子供像」を先に設定してしまう”子供への視点”である「しつけの子育て」は、すべての子に対して適切な子育て・教育方法ではなくなっています。現代では、もはやそのことに気づかなければならないでしょう。
今回の北海道の置き去り事件のケースが特徴的であるのは、普通の親が「しつけ」として頑張ったことが、結果的に命を脅かす「虐待」になったことです。
つまり、このことは多くの人が「しつけ」という先入観でしている子育てが、実は「虐待」と紙一重の危険性を持っていることを示唆しています。
僕は、これまでの「しつけ」というメソッドだけしか持たなかった日本の子育ての現状は、もはや乗り越えられるべきものであると考えています。
| 2016-06-05 | 日本の子育て文化 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
体罰のある学校でイジメがなくなるわけがない! - 2016.05.13 Fri
↓体罰は少しも減っていません。むしろ、社会的に学校における体罰が問題視されたり、それを苦にした自殺が起こっている現在ですらこのようにあるということは、より深刻度を増していると考えた方がいいのかもしれません。
体罰認定、学校名を異例公表 東京都教育委員会
(リンク先記事で挙げられているのはごく一部のみ。詳しくは東京都HPのこちらとPDF参照のこと)
(本当に誠実な教師の方がいらっしゃるのは重々存じています。しかし、するべき批判がなければ、良くなるものも変わらないと思うので思うところを述べさせて下さい)
学校や教員、文科省といった関係各所も、いくら口では「体罰はあってはならない。なくなるよう全力を尽くす」と言ったところで現に変わっていないのだから、本気で体罰を無くす気はないんだろうと言われても仕方がないのではないかと思います。
「これで先生がくびになったら一生許さない」と小5男児に体罰後暴言 30代教諭、大阪市立小
女子ソフト部員9人に「指導」称し暴力…大阪市立中教諭を停職3カ月
最近起こったふたつのニュースをあげましたが、下のケースの教員は「24年の市立桜宮高のバスケットボール部主将の自殺問題」を受けた体罰防止のための研修を受講していたとのことです。
それでもなおかつこれだけの常習的な体罰をしているのですから、完全な確信犯と言えます。
学校における「体罰」は「研修」では防げないのです。
研修、その他の「自助努力まかせ」では防ぐことができないのです。
本当に体罰を無くそうとするのなら、そのことを認識した上で対応策を考えなければなりません。
上のケースは、「異動」でチャラになっています。
まったく皮肉なのは、当の体罰している教員自身が、「クビになるかもしれない行為」と認識しているにもかかわらず、ばれても無処分なことですね。「クビかと思ってたけど、なんだチョロいじゃん!」って感じですね。
下のケースでは中学生に対して63回にもわたって殴る、平手打ちするといった暴行を繰り返し、さらには頭部に4針縫うケガまでさせておきながら、3ヶ月の停職処分で済ませています。
いや、ありえないでしょ。
これは立派な刑事事件ですよね。
懲戒解雇した上で告発、刑事告訴すべきではないでしょうか。
なんで、こんな処分軽いの?
もし、誰かが街に出て女子中学生をつかまえて、平手打ちしたらたった1回でも確実に逮捕されていますよね。
これでは、体罰なくなるわけがない!
それ自体、是非を問うていかなければと思うけれども、現実には日本の学校において教員は子供に対する「権力者」になってしまっています。
権力が与えられてしまっている以上、そこには抑制する因子が働かなければこれが暴走するのは起こるべくして起こることです。
本当に体罰すべきでないと、文科省はじめ、学校関係者が考えているのならば、こういった明らかな犯罪行為に対しては断固とした処分をするべきなのです。
僕は別になにも突飛なことをいっているわけではありません。
民間企業ならば、そんなことはどこでも当たり前だからです。
63回も暴行事件を起こしている人間を雇っておくまっとうな会社などありません。懲戒解雇が普通のことです。
ましてや、職業上のクライアントに対して暴行を振るったなどということになったら、さらにそのジャッジは重いことになるでしょう。
なんで、学校は「治外法権」なの?
大人が子供に暴力を振るう。
これは異常な事態なんですよ。学校の教員はそういうことが当たり前の環境に居続けたせいで、その感覚が麻痺してきてしまっているのでしょうか?
子供は、二重に守られています。
一般の大人でも、暴力行為から守るために、暴行罪・傷害罪という罪が法律で規定されていて守られています。
子供の場合は、児童保護の観点から、さらに手厚く守るべきと法律上でも考えられています。
二重に守られているはずなのに、本来はその守るべき存在となる教員が暴力を振るう。
これは決してあってはならないことです。
本当にあってはならないと考えているのならば、こんな甘い対応はでてくるはずはないのです。
異動で済むとか、犯罪行為なのに告発もされず「3ヶ月ほとぼりをさましてきてね」で済んでいる現状は、どうぞ「体罰おやりなさい」と言っているのとさして変わりません。
公務員はどんなに問題がある人でもなかなクビにすることができません、刑事事件を起こしたときすらかばうようでは、学校は恐ろしすぎる場所であり続けはしませんか。
僕らが子供の世代は、理不尽な暴力を振るう教師やセクハラ教師がわんさかいて苦しめられました。大人になっても心に傷を負っている人もいます。
もう、そういうのは僕らの世代までで終わりにしましょう。
でも、「昔、自分たちはもっとひどいことをされていた。いま起こっている程度のことは些細なものだ」ということを述べる大人が少なくありません。それは大人として情けないこととは思わないでしょうか。
一般に「体罰が指導になる」と考えている人は、少なくありません。教員の中にすらいます。
しかし、よく考えてみればすぐわかることなのですが、体罰が指導になるのであったら、なんのために学校の先生は勉強して資格をとっているの?
教育学部や、教育課程はなんのためにあるの?
体罰にいきつくのは、指導力、教育力のなさの露呈にすぎないのです。
「熱意があるから体罰になってしまった」
この論法をしばしば耳にしますが、本当の熱意があるのならば、もっと指導法を学ぶ方にその意欲を向けたはずです。
「より適切な指導法を学ぶ意欲もないから、体罰という安易な手段を用いる」というのが本当のことなのです。
体罰に行き着く「熱意」とは、自分勝手で独善的なモラハラ的「熱意」にすぎません。
「熱意があったから体罰がでてしまった」のではないのです。
人間は権力があればそれを行使したくなる誘惑に勝つのが難しい存在なのです。
「殴っていい」、「セクハラしていい」といった状況があったら、それを防ぐのはただ倫理観などだけでは無理なのです。
教員による体罰を、もっと重く捉えて対応を考えていく必要があります。
警察官が犯罪行為を犯したら、それは一般の人がするよりも重く受け止めるべきことですよね。教員が体罰を振るうのはそれと同様に深刻に考えるべきことなのです。「ほとぼりを冷まして終わり」のような形であってはなりません。
権力を振るうのは、そういったことを好む人間にとってはとても楽しいことです。
人間相手、子供相手の職業には、この傾向を持つ人が必ず潜り込んできます。しかも、少なからず・・・・・・。
厳然としてNOと言わなければ、決して学校から体罰がなくなることはないでしょう。
ある学校の先生が、イジメについてこういったことを生徒に話していました。
「自分はイジメに参加していなくても、そのイジメを見て見ぬふりをしていたら、イジメをしているのと同じことだ。自分で防げないと思うのならば、身近な大人でいいから必ず相談しなさい」
このことは、体罰問題にもそのままあてはまるでしょう。
同じ学校で、同僚の教員が常習的に体罰を振るっている。
「それはおかしいと感じていても、あからさまに否定することはしにくい」そんな状況があるのならば、匿名だっていいから警察なり行政なりに相談をする必要があるのではないでしょうか?
「荒れている生徒がいる学校では、教員が体罰を振るわなければ子供を押さえられない」そんな論調もあります。
そういうことを言う人はおそらく門外漢の一般の人なのだろうけれども、教員にもそう考えている人がいるとしたら、それこそゆゆしき問題です。
暴力で押さえつけて、見た目の平穏を作り出せばいいのだったら、それは子供のなにものも伸ばしてはいませんよね。
本当に子供のためを思う熱意があるのだったら、そのような子にほど根本的な援助の手が必要なはずです。
体罰ではなにも解決しません。
「叩かれるからしない」「叩かれるからやる」といった人間を作ることは、本来「教育」がずっと否定してきたことです。
そのような野性的な存在から、理知的な存在になるべく近代の教育は整備されてきまました。ルソー以降ですね。それが教育の原理になっています。現在でも教員になる人はみなそのことを学んできているはずです。
にもかかわらず、体罰に陥る教員が大勢いるというのは、極端な言い方をしてしまえば、「ある意味で現状の教育体制は破綻している」という事実をあからさまにしてしまっているのです。
かといって僕は教員に、子供のなんでもをうまくやってもらおうという責任を押しつければいいと言っているのではありません。
むしろ、逆に教員の職務を単純化していくことで解決につながるのではないかと思うのです。
教員に、年々高度になる勉強を上手に教えることも望み、子供の心のケアや、親のケア、さらには部活動の指導まで責任を負わせるのは実際問題無理なのです。
しかも慢性的なタダ残業で。
だったら、それぞれの必要な分野に、それぞれの人間を手当するようにするべきです。
最近では、スポーツ指導の専門家は研鑽を深めて、体罰に行き着かない科学的な指導法が当たり前のこととなってきています。
例えば、そういった人をコーチとして部活の顧問などに任じて、教員の負担を減らすべきではないでしょうか。
荒れていて問題のある生徒がいたら、その子の対応を担任教師が一人で全責任を負っていくのではなく、専門のスクールカウンセラーや心理士などと一緒に対応を考えていくべきです。
負担が多いところに、教師にひとりに様々な分野のスペシャリストであることを望むから、さらなる無理がでるのです。
そういう状況におかれれば、体罰といった安易な手段に陥るのはいつでも紙一重です。
また、外部の人間が加わることによって、自浄作用、浄化作用が機能し始めます。
「教員はなんでもできなければならない万能の存在」みたいな神話やプライドは捨てて、本当に子供のために必要なことを考える時代になってほしいと思うのです。
もし本当に「体罰をしなければ学校が運営できない状態」になっているのだとしたら、学校の先生たちは「自分たちに与えられたカードでは対応できない現実が到来している」とそう主張するべき状態なのではないでしょうか?それは決して職務の放棄ではないと思います。
本来与えられていない手段を使って平穏を保っていたというのは、むしろそれが異常な状態を続けてきたということですよね。そのために取りこぼされてきた子供たちが必ずいて、この方が職務の放棄です。
それを専門家として堂々と主張し、社会でそれを真剣に考える方向に持って行っていいのではないでしょうか?
学校の先生が、子供の家庭の問題からなにからなにまで自分の責任として背負い込むことは現実的でないし、実際無理なことですよね。
いまの状態をただつづけているだけだったら、学校の問題も、家庭の問題も、イジメの問題もなにもかわらないですよね。
教員だけでなく、社会で議論し考えていく必要のある時代にきていると思います。
そのように考え方を変えていけば、取りかかれるいとぐちは無数にあるのではないでしょうか。
| 2016-05-13 | 日本の子育て文化 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
”our side”と”other side” vol.1 - 2016.04.28 Thu
あの記事は指導する側の姿勢についてのことなので、直接的にテーマが関連しているものではないのですが、僕自身もその問題にはいろいろと考えるところがあるのでいい機会なのでまとめてみようかと思います。
実際に僕自身も、そういった若い人たちの姿に接してきました。
ちょっとした指摘でいじけてしまったり、反動でふてくされてしまったり、その関わり方には難しいものを感じます。
また、周囲の人からも、そういった若い人たちの根気や熱意のなさ、自主性・主体性のなさ、人付き合いの悪さ、一般常識に欠ける点などなど、とてもたくさん耳にします。
世間ではこれらを表して「ゆとり」「ゆとり世代」などと呼んだりもしていますね。
そこから、「”今時の若い者は”論」にしてしまっているものを多く見かけます。
この「”今時の若い者は”論」を僕は好きではありません。
「今時の若い者」を作ったのは、いつの時代も常にそれよりも前に生きている年長者であり、またその年長者たちが作り上げてきた社会であるからです。
それをおしなべて若い者に責任があるかのような結論にしてしまうのは、思考停止と同じことだと思います。
今時の若い者の問題の原因は、必ずそれ以前のところにあるはずなのです。
そこを見なければなりません。
しかし、それは多くの人にとって、自分たちの非や間違いを見つけ出しそれを認めることになるので、そのような思考をしたがらないものです。
だから、いつの時代でもこの「”今時の若い者は”論」は人気のある考え方なのでしょうね。
さて、ではここからが本題です。
今時の若者がなぜ、打たれ弱かったり、熱意が低かったり、逆ギレしたり、引きこもりやニートになったり、恋愛に関心が低かったり、友達を作ることに消極的だったり、飲み会に行きたがらなかったり、その他諸々の活力のない体質をもっているのか・・・・・・。
その理由はどこにあるのか?
これらの解は、実はたったひとつのことに集約されるのでした。
それが、タイトルに挙げてある「”our side”と”other side”」の感覚です。
(この概念は、心理学用語やどこかの本に書いてあることではなく、僕自身が考え導き出したことなので、他を当たっても出てこないだろうと思います。専門の研究者などがもっと適切な語で定義しているかもしれません、もしご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。)
ほとんどの人は、意識・無意識の内に、その対象の人が”自分の側”にいるのかそれともそうでないのかを判断して関わっています。
外であった人が、同じ県の出身だったり、同じ学校の出身だったりするとなにか親近感を感じてうれしくなったりしますよね。
それらは、意識的で明確な”our side”の認識です。
人は普段からもっと無意識の内に、この”our side”かどうかの判断をし続けています。
その人が”our side”と思えれば、その人と親しく付き合ったり、友達になろうと思えたり、その職場で頑張ろう、そこでの勉強や部活動などを頑張ろうという気持ちになることができます。
でも、もし”our side”と思えなければ・・・・・・。
その人は、「”our side”の人間ではないので、味方ではない」と無意識に思ってしまいます。
例えば、
その人は、そこでのなんらかの”些細な失敗の指摘”を、まるで自分への全面否定かのように受け取ってしまいます。
コメントで多く寄せられていた、職場に来る新人たちの打たれ弱さの正体は、ここにあるのです。
僕はこれまでにもしばしば、「同じマンションの住人に挨拶しても挨拶が返ってこない、その人たちが子供を育てるのは困難がともなう」という話をしています。
それらの人は、どういう思考・もしくは感情のプロセスを踏んでいるかというと、
マンションの廊下でそこの同じ住人とすれ違ったとします。
そのときその人の心の中で、「同じマンションの住人であるこの人は、自分の”our side”か?」という問いが瞬時に発生し、心が無意識にそれを判定しています。
そこで「知り合いではないけれど、同じマンションの住人であるその人は、”our side”である」とイエスの答えが出る人は、挨拶を返すことができます。
逆に「”our side”ではない。”other side”だ」とノーの答えが心の中で出る人は挨拶を返すことができません。
人間はそのような「”our side”か”other side”か?」の問いを、すべての他者との関わりの場面で常にし続けています。
しかし、現代において「”our side”と思える範囲」が、非常に狭くなってきてしまっているのです。
実はこの問題は、若い人たちだけの問題ではありません。
現在の祖父母世代の人たちにも少なからず見えている問題です。また、僕のような子育て世代は言うに及ばずです。
若い人たちは、それらの影響を子供時代から受けて、より濃縮されてしまっているのです。
また、職場の新人教育という視点で考えてみると。
いま就職してくる若い人たちは、「ブラック企業に入らないようにしなければ」といった実際の問題に直面してきています。また、圧迫面接といったことも現実にあるところで就職活動をしてきています。
その会社ではそういったことをしていないとしても、そのような警戒心は簡単にぬぐいがたいものとして少なからず残っている人もいるはずです。
だから、おいそれと「もう会社の一員になったのだから、この先輩や上司は”our side”なんだ」と脳天気には思えないことも不思議ではないでしょう。
「やる気がないなら来るな」という指導した先輩社員も、それは善意からしていることなのかもしれません。
しかし、その先輩と新人とは大した年齢の差はなくとも、生きてきた社会が大きく違っているので同じ見方ができないギャップがあるのでしょう。
僕が大学を出た頃は、就職氷河期と呼ばれるころでしたが、まだ小泉政権以前なので、「終身雇用」といった概念が少なからずあった時代です。
そのような頃を知っている人にとって、入った会社を”our side”と感じられることはそう難しいことではありません。
だから、そこでの厳しい指導をしてくれる先輩も「ああ自分のために一生懸命言ってくれているのだ、この人も”our side”なんだ」と思えます。
でも、いま現在の若者は、そのような人間観を持つことが困難な状況で育ってきているのです。
それは誰が悪いというものでもありません。
ただ、そういった現実を踏まえて、これからの時代の子育てや教育を見直していく必要がある時期に来ているのです。
そこに気づかず、物事の事象の是非だけを見ていくと、問題はなにも解決しないどころかますますこじれていってしまいかねないでしょう。
だから、この点について多くの人、特に子育てする人や子供を教え導く立場にいる人には気づいて考えていって欲しいと思います。
そういうわけで、もう少しこの問題について見ていきます。
ちょっと他の仕事が忙しくなってきているので、記事の続きは時間が空いてしまうかもしれません。
| 2016-04-28 | 日本の子育て文化 | Comment : 14 | トラックバック : 1 |
「やる気がないならやめろ」 vol.2 - 2016.04.27 Wed
僕は、この「やる気がないならやめろ」といった「”否定”を用いた指導」が利用できる人が、ある意味ではうらやましいと思います。
おそらく「それをするのは当然だ」「それでなければ人が伸びない」と考えられる人は、もっとギリギリの状況で人を伸ばさなければならない局面にあったことがないのだろうと感じます。
「否定」を使って指導が成り立つ状況というのは、とても”ぬるい”状況でしかないのです。
否定的な手段を使ってすら、相手がついてきてくれると期待できるのだから楽なものです。
なかなかそういったシーンに実際当たる人は少ないかもしれませんので、考えるために例を挙げてみましょう。
例えば、児童相談所の相談員の立場です。
その人が指導や改善をしなければならない相手というのは、虐待をしている親や家族です。
そういった対象に、否定や威圧的な関わりは軽々しく使うことができません。
多くの場合、それは逆効果にしかならないからです。
単に虐待をしていることを責め改善を求めたところで、「お前のせいで文句を言われた」とより子供が責められる結果となります。また人によっては、その行為を責めたたところで自分が悪いのだと自己否定をするばかりで改善には向かえません。
それがどんなに納得のいかないようなことだとしても、相手の話や立場を汲み取りながら改善に向けての働きかけをしていく必要があるのです。
そこには、自分の感情をぶつけながらの指導などする余地はありません。
「否定」が使えない極限のところで相手を指導しなければならない状況をくぐって来た人にとっては、「やる気がないならやめろ」などというアプローチは「指導」の内に入るようには見えないのです。
それゆえ「やる気がないならやめろ」と、自分の感情を前面に出して相手からついてきてくれることを期待して指導の効果を出そうとするというのは、非常に”ぬるい”シーンでしか使えないことです。
また、それは”博打”でもあります。
それで発奮してついてきてくれる結果となればいいですが、そうでない場合、もうそこで指導は継続できなくなります。
受験勉強や職業上の指導などは、相手に退路がないことを指導者側は認識しているから、そのように自分の感情込みでの高圧的な指導が行えてしまいます。
つまりは、その指導の形は相手の”足下を見て”行っています。だからこそこれは相手を尊重せず、モラハラ的な指導と言えるのです。
「体罰」も、これらと同様「”否定”を用いた指導」ですが、
教育評論家の親野智可等(おやの ちから)さんは、「体罰は甘え」と言っています。
「体罰は甘え」とだけ聴いても、一般の人はその意図するところがつかみにくいかもしれません。
しかし、それは↑で述べているように、本来ならば根気強く努力や試行錯誤をすべき指導側が、対象の「否定」によって指導の効果を上げようとしているからです。本来すべき指導側の努力を放棄し、それを対象に丸投げしているのです。
だからこそ、「体罰は(指導する側の)甘え」でしかないのです。
僕は保育士として、子供たちを保育してきました。
”大人の指示に従うだけの子供”を作り出すのでしたら、「否定」の方向での関わりを積み重ねていくことでもそれは可能です。
例えば、怒ったり、叱ったり、他者と比べてできないことを指摘したり、はたまた「疎外」を使ったり。
それをすることでも、”従う子”や”ルールを守る子”を作り上げられます。
しかし、それはときとして”一過性の姿”にしかなりません。
本当の意味でその子の”成長として獲得させる”ことにならないこともあります。
中にはそれでも十分な育ちを得られてしまう子もおります。
だが、本当に考えなければならないのはそういった”どう関わってもそれなりに育っていける子”ではなく、より適切に関わらなければうまくいかない子のはずです。
そのようなどんな対象にしても適切な指導方法・関わり方であれば、”どう関わってもそれなりに育っていける子”にしたとしてもより効果的だからです。
本当に子供を伸ばそうと思ったら、「否定の積み重ね」は役に立たないのです。
むしろ、マイナスにしかなりません。
「否定」は、「意欲」「信頼」「自信」を損なっていくからです。
「やる気がないならやめろ」的な否定のアプローチは、この「意欲」(もしくは”やらなければならない切羽詰まった状況”といった「モチベーション」)が十分にあるときにだけ使える関わり方です。
子育てにおいて、それはほとんど当てにできないことです。
だから、本当の意味で人を伸ばそうというする指導者が持っている手札には、たくさんの「肯定」と、少しの”現状の否定”といった「部分否定」のカードしかないのです。
| 2016-04-27 | 日本の子育て文化 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
女性蔑視の流れは止めないとダメ! vol.2 - 2016.04.26 Tue
保育園に通っている家庭にはさまざまなものがあります。
母子家庭になっているケースも少なくありません。
そういったケースにも、「夫のモラハラが原因」で離婚に至ったもの。
また、保育園在園中は結婚していたが子供が小学校にいってしばらくして、夫のモラハラや身勝手な行動ゆえに離婚してしまったというケースもかなりあります。
モラハラに限らずハラスメントは全体的にそうですが、している側に「悪意がない」という特徴があります。
むしろ、それはその人の価値観の中では「正しいこと」として行われています。
そこがこの問題の難しいところです。
夫婦間の問題で、そのように「離婚」という結末になってしまうということは、そのモラハラをしている人は「離婚」という最後通牒をつきつけられてすら、自分の非が見えない人が多いということを意味しています。
個人のモラハラの背景には、その個人の性格や行いというだけではなくて、その人の人格や人間性に影響してくる価値観や社会的な通念の問題があります。
だから、この問題は個人としての視点だけでなく、社会としての視点も持って考えていかなければなりません。
なればこそ、公の立場にいる人間が女性蔑視・性差別的発言を臆面もなく出している現在の状況には危機感を感じるのです。
そのような蔑視的意見が世に広まりそれが蔓延していくと、蔑視的見解を拠り所とするモラハラもまた多くなっていくからです。
僕はこれまでの経験で、そういったモラハラゆえに辛い思いをしてきた人たち、子供たちを少なからず見ています。
モラハラを生み出してきたこれまでの女性差別的な見方は、明らかに負の遺産です。これは乗り越えなければならない社会的課題でしょう。
そのためにはいろんな努力がいります。
世界的にも、それについてたくさんの意見を出し、実行し、それが必ずしもみなはかばかしい成果を上げるものばかりではありませんが、それを乗り越えるべく努力を続けているのは間違いのない事実です。
日本では現状それが逆に向かっているようです。
先般、「保育園落ちた」の話題が活発になっていた頃、政治家たちから「そんなのは便所の落書きだ」などといった発言が噴出していました。
そういった意見に政治家らしからぬ違和感がありましたが、それはなにかというと、政治家としてのオピニオン・”論”ではなく、それがその人個人の感情的なところから発露している否定の言葉だったからです。
そういった感情的な否定の言葉の背景には、それらを発言する人の精神的な背景にこの「女性蔑視的」な感情があるからこそではないでしょうか。
くだんの不倫をして隠し子を作っておきながら、一方で世間には「子供を作ったのは親の責任だ」と発言した議員の意見の根底にはリンク先の記事で筆者が述べるように、本質的には「子育ては”母親”の責任」という価値観、ひいてはその背景にある女性蔑視的な価値観が見え隠れしています。
その観点でいろんなことを見直してみると、世の政治家のおじさんたちの中には女性蔑視的(もしくは男性中心主義的)価値観でものを見ていることがわかってきます。
その保育園問題を提起した山尾議員に対して、国会で品位を欠くヤジが多発したことも話題になりました。
そういった感情的な否定の根っこには、やはり女性蔑視的価値観があることが感じられます。
また、2014年6月の東京都議会で、「女性の妊娠・出産についての東京都の支援体制」について質問していた女性議員に対しても、「自分が早く結婚しろ」「お前は産めないのか」などのヤジが飛びそのヤジに周囲の議員も笑いの声を上げることで同調を示すといったことがありました。
これは「女性の妊娠・出産」に対する支援を厚くして欲しいという趣旨の質問内容だったのですが、そこでのヤジが単に一女性議員に向けられたわけではなくて、その根本には「女が子供を産むのになんで支援をしてやる必要があるのだ」といった女性蔑視的感情がそれらのヤジにつながったと考えられます。
これも明らかに女性蔑視がそれら政治家の人たちの根底にはあることを示唆しています。
つまり、”女性議員に対する蔑視”の他に、”女性の存在が社会の中で大きくなることに対する嫌悪”という二重の構造があるのです。
報道では、女性議員個人に対する風当たりのところだけしか取り上げていなかったけれども、問題はもっと大きいのです。
さて、興味深いのはこういった女性蔑視的な見解を持っている政治家たちが、子供に対する「道徳教育」にとても熱心であることです。
「親には孝」
「年長者には尊敬」
「子には慈しみ」
そういったことを子供たちにしっかり刷り込みなさいと考えています。
でも、他者を蔑視するような人が言うところの「道徳」を僕は素直には受け取れません。
「親には孝」 (特に父親には絶対服従。同じ理屈で国家や会社にも服従ね!)
「年長者には尊敬」 (目下の者には不当な扱いをしてもよい)
「子には慈しみ」 (体罰はOK。むしろするべき。子供を支配的に育て、個性や人権意識など持たせるな!)
そして、
(女は出しゃばるな。男の言うことを聞いて、子供を自分の努力でまっとうに育てて、親の介護をしろ。それの支援にお金は回さないけど、しっかり働いて税金も納めてね)
そのような本音が見えてしまうのです。
「いじめ」の社会問題化以来、政治が教育に強く口出しできるようになってきてしまいました。
これからの社会に生きていく子供たちが、そのような本来は乗り越えるべき昔の価値観をもった大人たちに蝕まれてしまわないかについても、僕は危機感を持っています。
とりあえず、いま表面化している問題でこういった流れを悪い方へ向かわせないために取り組めるところは、「女性蔑視的意見」に明確にNOと言っていくことではないかと思うのです。
| 2016-04-26 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
女性蔑視の流れは止めないとダメ! - 2016.04.24 Sun
僕としては、”EXIT”の背景はとても見やすかったのですが、モニター輝度の設定などでもだいぶ違うのかもしれませんね。
それなりに事情や都合もあるので、いろいろ考慮してみてもし戻ってしまったらそのときはごめんなさいね。
そういわけで、当面コロコロと背景が変わってしまうかもしれません。あしからず。
ジェンダー論の専門家である勝部さんが、こんなことを述べていました。
『なぜ、「親の責任」を指摘する男たちは愛人・隠し子を作るのか?』
最近、女性蔑視の意見がものすごく元気になっていますよね。
僕が学生の頃から考えてみても、ここまで女性蔑視的意見が次から次へと出てくる時代というのは初めてではないかなと感じます。
これまでの時代は、それ以前の女性蔑視的社会観(男性中心主義的社会観)を反省して今後それを変えていこうという世界的な潮流があり、日本でももちろんそういった流れ・社会的コンセンサスのもと進んできました。
中には昔ながらの考え方でそういう見方が抜けきらない人などもいましたが、公のところではそれは許容されるものではなかったし、また心の中で思っていようともそういった蔑視的意見は少なからず自制されていたのではないでしょうか。
しかし、ここにきてまるでタガが外れたように、毎月と言わず毎週のように政治家や公的な立場にいる人から女性蔑視、性差別の言動や行動が頻発しています。
また、ジャーナリストや著名人のなかにも、ともすると戦前の価値観のような女性観・家族観を賛美する人も少なからず見かけるようになっています。
「こういうあり方は素敵だ」という賛美する価値観は、決して悪いものではありませんが、それらはあっという間に「そうでないものを否定する」という価値観へと変貌しかねません。
強い賛美は、差別を生む危険性と表裏一体です。
「女性の役割は子供を二人以上産むこと」と言った大阪の中学校長は、学校に旭日旗を掲げるなどの問題視される行動が他にもあり免職になりましたが、そのような過去の価値観に回帰する形での女性蔑視が、この現代に来て活発になりつつあるようです。。
以前、待機児童についてのところで紹介しましたが、政府が出した待機児童対策の一つが「三世代同居住宅に補助金を出す」というもの。
これも結局は、「女性が輝く」「一億総活躍社会」などと言う一方で、子供の世話・親の介護を女性にさせるだけの昔の価値観の押しつけでしかなくなってしまいます。
そして、同じ党派の政治家が「子供を産んだのは親の責任」などと言い放っています。
為政者の本音がどこにあるか、あまりにもありありと見えすぎて、もう少し隠す努力くらいすればいいのにとお節介にも思ってしまいます。
こういった女性蔑視的な潮流を放置してしまうことは、すべての人が幸せになれる社会を目指してきたこれまでの多くの努力を無にしてしまいかねません。
これは止めなければならないと僕は思うのです。
| 2016-04-24 | 日本の子育て文化 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
一般の人考える「うまい子育て」 - 2016.04.19 Tue
『本当に子どもの為になる教育とは?病院の待合室で見た、とある父娘の素敵な子育て』
ここに出てくるお父さんの病院でした関わり方「お医者さんとにらめっこをしてくるから、時間を教えて」を僕は、タイトルにあるように「素敵な」対応とは思わないのです。
決してこういった対応をしている人を責めているわけではありません。
”悪い”というのでもありません、子育てにはいろんな状況がありますから、こういった”方便”を使うことも一種の手段としてあっていいこととは思いますが、それは必ずしも”目指すべきもの”と考えてしまっては、本当の意味で子育てを安定化させていくことは難しいのです。
でも、この記事のシェアや”いいね”が多数あることが示すように、こういった対応を「素晴らしい」「素敵な」と思う人が少なくないのが日本の子育ての現実なのでしょう。
僕は、子育ての専門家として、その見方に敢えて水を差すようなことを述べようと思います。
この話の状況で、本当に理想的な状態は、そのように「ごまかし」を使って「子供だまし」をしてしまうことではなくて、「お父さんはお医者さんと大事なお話をしてきますから、その間ここで待っていてください」と伝えて、子供がその言葉を信じて戻ってくるまで安心して待っていられる状態のはずです。
それができない状況にあるのでしたら、それ以外の方法、たとえばここにあるような”方便”を使うこともあるかもしれませんが、本来目指すのはそれではなく、嘘いつわりなくストレートに事実を話して、通じる方がいいはずです。
そういった観点からすると、この文中の対応はテクニックをろうしたに過ぎないのです。
でも、この筆者もおそらくそうであるように、日本の子育てでは、テクニックを使って子供を思うとおりにすることが、”よい子育てである”と最初から考えられてしまっています。
筆者も文中で、”(子供を)うまくコントロール”という表現を何度か使っています。
多くの人が考える子育てでは、最初から「子供はコントロールすべき対象」になっているのです。
このスタンスから子育てを組み立てていくと、結果的には子育ては難しい・大変なものとなっていきかねません。
この文中で「素敵な子育て」とされているのは、「子供をコントロールする子育て」の中でのうまいバージョンにすぎないのです。
このことは、こちらの記事で述べた「支配のレール」と同じものです。
僕の”仕事” vol.2
同じ支配のレールの上でも、それのいろいろな方法があります。
上から叱ったり怒ったりすることで、子供を思い通りにするもの。
モノやお菓子で釣るもの。
いいなりや下手に出ることで、子供に言うことを聞いてもらおうとするもの。
ごまかしや脅しで、それをするもの。
携帯ゲーム機などで、コントロールするもの。
以前にも、地獄の絵本や鬼のアプリについても触れました。
これらも、それをよしとする人がたくさんいますが、それを子育ての”目指すべきもの”、”正当な手段”と考えることはとてもあやういことなのです。
そのように支配のレールの上でもやり方はいろいろです。
それらは一般の人からするとぜんぜん違ったものに見えることでしょうけれども、僕から見るとそれは同根のものに過ぎません。
結局どれもが、子供を支配したり、コントロールしようとしているからです。
文中のエピソードは、それが”うまい”というだけなのです。
繰り返しますが、それが「悪い」とは言いません。
しかし、それを「目指すべきものだ」と考えるようになってしまうと、子育ては迷走しかねないのです。
うまいひとが、そういった関わりを受け入れやすい子供にその関わりをする分にはいいでしょう。
でも、そうでないタイプの大人や子供だったら?
また、そういったことができていたケースでも、年齢が上がって「子供だまし」がすんなりいかなくなったら?
「子供だまし」はずっとは通じないのです。
小さい内は、そういった関わり方が有効であっても、ある程度の年齢になると、それまで通じていたと思っていた「子供だまし」の関わり方は全然通じなくなって、そこから子供へ関わることが重荷になっていく人。怒ってばかり、叱ってばかり、子供への関心の低下や放任になっていく人もいます。
このお父さんのようなことがうまくいけばいいですが、そうでないケースでこれを目指してしまうと、ゆくゆくは子供が思うとおりにしてくれないことに、始終、腹を立てたり、イライラを募らせたり、モノやお菓子などでコントロールせずにはいられない状況になりかねないのです。
だからこういった関わり方は「コントロールのテクニック」であって、本来「目指すべきもの」ではないのです。
この点を認識しないと、現代の子育て難しさはなかなか変えていけないだろうと感じます。
この背景には、日本人特有の「”子供”の尊重の意識」があります。
これもとても大切なことなので、いつかまとめたいと思います。
| 2016-04-19 | 日本の子育て文化 | Comment : 16 | トラックバック : 0 |
過保護的支配 vol.4 「気づき」 - 2016.04.16 Sat
「気づき」は救いになるからです。
子育てはうまくいくばかりではありません。
僕がする「受容」の話にしても、この過保護や過干渉にしても、すでに子供にしてきてしまって後悔したりという人も少なからずいるのではないかと思います。
僕にはそういう人を責める意図は一切ないのだけど、その人の心情のあり方によっては「自分のことを激しくせめられているのだ」と取ってしまう人もいるようです。
僕は「子育てを精神論にはしない」というのを持論としているので、「子育ては〇〇だから~~なのだ!」という主張にはしません。だから「~~でなければダメなのだ!」と、子育てをしている人への否定の意図はないのです。
それというのも、子育てを方法論として捉えているからです。
つまりは、「実際のしかた」の問題として考えればいいと思っています。
ですから、「これまでのやり方がうまくいかないなら、別のやり方に変えてみればいいじゃない」というわけです。
そして、子育ては「いまが終点」ではありません。
子供の素晴らしいところは、常に未来があることです。
それまでが失敗していたのならば、これから直せばいい。
間違ったことをしていたのならば、誤りを認めて変えていけばいい。
そう思うのです。
子供のことを「支配の対象」、「大人に従属するもの」などと見なす子供観のもとでは、しばしば、子供は「屈服させるべき対象」「子供の意思はへし折るもの」といった見方をされています。
この記事に先立つ「モラハラ子育て」の話では、まさにそういった子供観の元、従う子を作り上げるべく、子供を傷つけるまでになってしまう子育てについて触れてきました。
これまでの日本のスタンダードな子育ての考え方には、少なからずこういった子供への見方が存在していました。
それはまるで、子供は「敵」であるかのようなとらえ方です。
でも、僕がこれまで子供や子育てする人と関わってきて強く感じるのは、
「子供は宇宙で一番の親の味方」
であるということです。
子供はつねに「親のことを肯定したい」と強く強く思っています。
それがどれほどかというと、これはネグレクトや虐待をされている子供ですらそうなのです。
ならば、「子供のため」と思ってその人なりに一生懸命子育てしている人が、たとえ間違った関わり方をしてきたからといって、そこが子育ての「失敗としての終点」になるでしょうか?
当然、そうなりはしないのです。
間違いをおかしてしまったとしても、「ああ、これは間違っていた。もっと別のやり方を模索してみよう」と親自身が認めれば、子供はそれで救われるのです。
なぜなら、子供は常に「親を肯定したい」と思っているから。
だから、もし失敗したとしても「親の威厳」などとつまらないメンツにこだわって自己正当化などせずとも、子供は親の敵になったりはしないのですね。
さて、「気づき」の話をします。
もし、子供に対してそれまで、強い支配や、束縛してしまうような強い過保護、受容の少ない否定的な子育てなどをしてきてしまったとしましょう。
確かにその間、子供はたくさんの影響を身の内に溜め込んでいきます。
心の”こわばり”となったり、”冷えたもの”になったり、”激しい感情”となったり・・・・・・。
それらはときに、「萎縮」を生んだり、問題行動の遠因となったり、育てにくさとして現れてきたりします。
子供はそのようになっていてすら、どこかで常に「親を肯定したい」と思っています。
親に対して、怒りや憎しみを感じていてすらそうです。
どこかで「肯定したい」と思っているのです。しかし、「肯定できない」「肯定させてもらえない」ゆえに苦しみます。
例えば、子供をいつもヒステリックに怒ってしまうAさんと、Bさんがいたとします。
Aさんは、そうなってしまったあと、ときどき自己嫌悪におちいったり、「怒るような場面でもなかったのに感情的になってしまったこと」に後悔しています。
Bさんは、「私がしていることは正しいのだ」とずっと思い続けています。
こういったふたつのケースがあったとして、やっていることはどちらもまったく同じだったとしても、子供に与える影響はBさんの子供に強くでてきてしまうことでしょう。
AさんとBさんの違いは、Aさんには「気づき」があることです。
自分の行為に気づくことは、子供の心情への理解の第一歩です。
親が自分の行為に気づいていれば、子供はたとえひどい関わり方をされていたとしても、親を肯定することができます。
例えば、「お母さんも、忙しくて大変なんだ」「辛いんだ」「苦しんでいるんだ」・・・・・・と。
でも、まったく気づいていなかったり、親自身が「自己正当化」をし続けていると、子供は親のことを理解し、肯定し、許したいと思っていても、それをさせてもらえないのです。
ただただ、親のその関わりに耐え続けるしかありません。
それは場合によっては、それは心を病ませます。
親からされることがどんなに辛くても、親を肯定したいと思っているので親を責められない状態にある人は、他者を攻撃するようになってしまうこともあります。
いじめや学級崩壊の原因になっている子に、こういった育ちをおくっている子がどれほどいることでしょう。
モラハラや強い支配を受けて育っている子が、他者に「いじめ」をするのは、ある意味では「親のため」なのです。親を「否定することができない」、「肯定したい」と強く思っているからこそ、その矛先は親に向けられず他のところに向いてしまうのです。
自分に自信がなくて、ニートになってしまっている人や、引きこもってしまっている人にも、こういった生育歴をおくっている人は少なからずいることでしょう。
自己肯定感が低い人、自尊感情が低い人、他者の感情が理解できない人などを作るようになることもあります。
子供は一番の親の味方です。
つねに、親を肯定したいと努力を重ねています。
子育てに問題があったときそれの明暗を分けるのは、一見些細なことに見えるこの「気づき」ということです。
もし、「気づく」ことができたのならば、次のステップはそれを”親から子へ伝えること”です。
親子の関わりの問題を、人は場合により何十年も抱え続けています。
それを伝えるのに、何年過ぎてしまっていようとも時間はあまり問題ではないようです。
ましてや、いま子育て中の人ならばなおさらです。
例えば、
「あなたのこと一番目の子供で私はつい力が入りすぎてしまって、あの頃は厳しく関わりすぎてしまったよ。でもあなたのこと大好きだからね」
そのように言ってもらえれば、子供の心のこわばりは氷が日の光を浴びたように溶けていけます。
それは、親が「自分の心情への理解を示した」、「寄り添ってくれた」という証しです。
だから、それを頼りに子供は親を再び肯定することができるようになるのです。
場合によっては、そこから子供は我慢したり溜めていたものを親にぶつけ始めるかもしれません。
しかし、それは「問題行動」なのではなく、「心の浄化」のための行動であり、それを乗り越えたあとには子供の安定した姿、また安定した親子関係が待っていることでしょう。
子育ては”うまくなければいけない”わけでもないし、”失敗してはいけない”わけでもないのです。
なぜなら、「子供は親の一番の味方」だからです。
| 2016-04-16 | 日本の子育て文化 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
過保護的支配 vol.3 - 2016.04.15 Fri
まず、親の方に「子供を〇〇にしたい」という願望があって、それに邁進させるため一方では支配的になり、一方では過保護になります。
最近多いところでは、例えば”お受験”などです。
(全部が全部そうとは言っていませんよ、誤解しないでね)
親がまず、子供を「名門私立小学校に入れたい」といった願望があるとします。
そのために、勉強などたくさんの要求を子供には課していくことになります。
その人自身の考えは、「子供のために」「子供が大事だから」という強い意識です。
ですから、その受験勉強をさせるのと同じ感情のベクトルで、「子供が大事だから」ということで、様々な「過保護的行為」がたくさんなされてしまいます。
「過保護的行為」とは、本当はその子ができることであってもやって”あげて”しまったりという「直接的過保護」。
「うちの子はできなのだ」と決めつけて先回りして手を出したり、その物事に取り組ませなかったりといった「精神的過保護」など。
こういった傾向は、実際に多く見られるようになってきています。
お受験の勉強や、幼児教室に通わせたりして、そういった子は特にそのような早期教育をされていない子に比べて、先取りした能力を身につけています。
例えば、ハサミ使いや絵描きの上手さだとか、字が読める書けるなどなど・・・・・・。
言葉なんかも、その子の年齢にしてはボキャブラリーが多かったり。使わないような言葉を使ったり。
つまり、ある面では進んでいるわけです。
(発達が進んだり、頭がよくなったというわけではなく、訓練の結果「できる」を持たされた状態になったということですが)
しかし、そういう子たちの中には、生活面の能力がその年齢にしては伸びていないというケースがあることを感じます。
例:着替えができない。できないだけでなく、自分でしようとする意欲自体がない。
:5~6歳といった幼児なのに、指示待ち。ルーティンから外れたことが起こるとどうしたらいいかわからず、ボーッとなっている、など。
これは、早期教育がそうさせているというよりも、親の姿勢としての”過保護”が、生活力の幼さを助長してしまっているようです。
これだと、”ある面では進んでいるのに、それよりももっと基礎的な部分では幼い”という、アンバランスな成長をさせられてしまっています。
このように、片方で親の願望に子供を沿わせるための要求(過剰になれば支配・束縛)、片や「”幼い・できない”ものとされての過剰な保護」=「自分を信じてもらえない」という扱われ方。
こういうパターンが、「過保護的支配」として影響が大きくなるもののようです。
それでなにごともなくいくケースもありますが、問題を生むことも少なくありません。
実はこの形の子育ては、すでに親の世代が同じ子育てをされてきているのです。
その頃は、その対象年齢がいまのように乳幼児からと言うほど低くはなく、主に中高生もしくは小学生の頃からされていました。
親から「こうなりなさい」というレールをしかれて、子供は「親の期待に応えたい」と思うのでそのために努力し、一方で過保護をされながらなにか親によって自分の頭の上にフタをされているような閉塞感を感じながら人生を歩んできているのでした。
この同じ構造が、現代では顕著に、より低年齢にされるようになっています。
「小1プロブレム」といった問題が出ている背景には、この子育ての構造が無関係ではないのではないかと僕は感じます。
この過保護的支配の特徴は、「期待をかけられること(=願望を投影されること)」も、「過保護に扱われること」も、基本的には親からすると「子供のため」であり、子供からしても「大事さゆえに」と捉えられることです。
それはよくもあり、悪くもあります。
気が強かったり、自分をはっきりと持てている子であれば、適度に親に反発を出したりして、自分で過剰な親からの支配・束縛から距離を置くことができる子もいます。
その子は、ある程度自分でバランスをとることができるわけですね。
しかし、気持ちが優しかったり、親の気持ちに敏感だったり、強い自己を出すことが苦手な子供(ケースによっては大人になっても引きずっていますから子供に限りませんが)の場合、自分の中にその影響を蓄積・抑圧していくことになりかねません。
その影響は多岐にわたります。
精神科医や精神分析医、心理カウンセラーといった人たちは、もうずいぶん前からこのことに警鐘を鳴らしていましたが、あまり子育ての側からその実際とからめて伝えようとする人は多くありませんでした。
しかし、現実に多くの苦しんでいる人がいる時代になっています。
親の持つ「あなたのためだから」が、ときに子供を不幸にしてしまうことが起こっているのですね。
僕は乳幼児の子育てが専門なのでこういった精神分析の方面に詳しいというわけではないのですが、しばしばこの問題は現実に見ているので、多くの人にお伝えすることで子供と子育てする人が不幸になってしまうことを未然に防いでもらえればと思います。
リンク:子供に成功して欲しければ、これだけはするな スタンフォード大の元学部長が語ったこと
↓これらの本。レビューだけでも一見の価値があります。
| 2016-04-15 | 日本の子育て文化 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
過保護的支配 vol.2.5 ちょっと「過保護と排泄の自立」へ寄り道 - 2016.04.14 Thu
今日寝る前に3歳半の息子が「トイレはない」というのにオムツで寝てる間によく漏れることがあるので「ないかもしれないけどビチャビチャになったら困るからトイレ行っておいて」と言いましたらかたくなに「ない!」というのにいきなさい、いかないで小一時間揉めました。
何故行かないと行けないか説明したんですが結局、息子はいきなくない!だってないから!
で最後は「あるかないか行ってみてみよう」でトイレに行ったのですがこういうのも尊重して信じたほうがいいのでしょうか
子育てには「正解」があるわけではないから、こうだからこうと言えるわけではないのですが、
基本的には(繰り返しますが”いつでも””どんなケースにも”ではなくて、”基本的”にですよ)、僕はこの排泄のシーンでの子供の意思を受け止めることはとても重要なことだと思っています。
これはこのブログの排泄のカテゴリーにも、著作の中でもはっきりと述べられています。
読み返してもらえれば詳しく書かれているとは思いますが、排泄は「心の成長」と言いました。
子供を「幼いもの」として干渉を重ねてしまうタイプの過保護は、むしろかえって心を幼いままにしてしまったり、子供の上限を引き下げてしまうことがあります。
「ボクが何度も”デナイ”と言っているのに、なんで信じてくれないんだ」
と子供が感じれば、ここで蓄積された感情、例えば「イライラ」はどうなるでしょうか?
どこかで、それをイライラとして出したり、些細なことで泣きわめいたり、親を困らせること、わがままをぶつけることなどで解消させる”心の動き”に転化されるかもしれません。
または、今度は「本当は出そうなとき」に”デナイ”と言い張ることで解消しようとするかもしれないのです。
そうなってしまうと、排泄の自立は迷走をはじめてしまいます。
その場面において「自我を通すこと」が主になってしまい、排泄の自立が進むどころではなくなってしまいかねないわけです。
だから過保護や過干渉をする人はかえって排泄の自立を遅くさせてしまうケースがあります。
た・だ・し!
このコメントにあったシーンは、例外にあてはまるかもしれません。
もし、これが家庭で過ごしているケースで、日中室内で遊んでいる時間だったり、これから戸外に遊びに行こうかなというときに、
「これからお外に遊びにいきますけど、トイレにいっておきますか?」と大人が聞いて、子供が「デナイ!」と主張しているのだったら、「いや~、それはちょっと無理じゃないかな~」と大人が思ったとしても、「あ~、そうなんだじゃあトイレにいかなくていいね」と子供の主張を笑顔で受け止めて子供の言葉を信頼します。(このケースをAとします)
また別の場面。例えばこんなとき、
これから電車にのって出かけなければならないときだったり、これから飲食店に行くというときや、長時間トイレにいけないような場合だったとしたら、
「これから電車に乗らなければならないので、いまトイレに行っておきましょう」
などとメリハリを持ってきっぱりと伝えて、行ってもらいます。
(こういったケースをBとします)
Aのケースを、心から気持ちよく受け止めて子供の言葉を信頼することで、実は子供の心の成長に大きな寄与をすることができます。
例えば、それで失敗しておしっこを漏らしてしまうかもしれません。
それが家の中でならば、そのまま気持ちよく後始末をして「はい、きれいになったね」とまた遊びに戻してあげます。
(このときに「それ見たことか、やっぱり言わんこっちゃない」などと小言をいったりしたら、せっかく子供の言葉を信じたことも水の泡になってしまいますからね)
もし、散歩の途中や、外出した先の公園で漏らしてしまったのならば、そういった事態を見越して持ってきておいた着替えの服に替えてあげます。
こんなとき、イヤミや小言を言う必要は全くないのです。
なぜなら、子供自身が一番その「原因と結果」を理解しているからです。
比較的多くの子が、このパターンの失敗の経験を自分ですれば、次からその同じシーンで「(出そうなのに)デナイ!」の自己主張をせず、自分から行くようになります。
これはつまり、失敗により自分で学んだということです。
「出るんだから行きなさい」を大人からされて素直に従っている”だけ”の子では、この自分で本当の意味で学んで身につけるという成長になかなかたどり着かないのですが、
「自分の言葉を信じてもらった。しかし失敗をした」
というのは、全部がその子自身の学びになるわけです。それは本当の意味での成長です。
Bのケースは、いきなりこれと同じことをしてできるかというと、できないかもしれません。
でも、Aのケースを経験して、「大人は自分の言葉をきちんと信じて受け入れてくれている」という実感を積み重ねている子であれば、
Bの「必要なときなのだから行って欲しい」という大人の主張をはるかに聞き入れやすくなります。
だから、A(やそれに類似した経験の蓄積)があるからBの関わりが可能になるわけです。
子供に限らず、人間は「信頼には信頼で返す」だけなのです。
ですから、僕がここで述べたことは(まあいつもそうなのですが)、「こういうときこうすればいいですよ」という「コントロールのテクニック」ではないということを念頭に置いといてください。
「信頼してもらった人は、その人に対して信頼を持って返してくれる」という人間の関わりの基本原則を、子供に対してもそのまましたわけです。
逆を言えば、今回の過保護の話の焦点になっている「信じてもらえない」という実感を子供に抱かせることは、今度は子供から「(大人を)信じない」という行動になって返ってくるわけですね。
だから、過保護が慢性的になってしまうと、子供からの関わりが大変さを増してしまうことがよくあります。また、子供も普段からいつもイライラしているので、大人の方も子供に関わるのがしんどくなり、大人もイライラを終始募らせることになりかねません。
さて、もう一度最初の事例についてに戻ります。
この事例のシーンは、”就寝前”ということなのですよね。
これはどちらかというと、Bのケースに近いわけです。
なので、状況により、また相手(発達段階)により、A的な対応か、B的な対応か悩ましいところではありますね。
さらにここは、「生活習慣の形成」という視点も僕は加えたいと思うのです。
A的対応もB的対応も踏まえつつ(臨機応変に使い分けつつ)、生活習慣を伝えていく場面かと考えます。
実は、うちの子供にも同様のシーンがありました。
自己主張の強くなった成長期(イヤイヤ期)の一時ではあるのですが。
そのときどうしたかというと・・・。
基本はAの対応を普段においてはしていきます。これは前提です。
それなしに、Bはそうそう通じないからです。
ですが、Bをそのままするのではなく、Bの文脈で
「(いや、あなたはそういう主張をしたいのかもしれないけれど)寝る前はトイレに行くものなんですよ。お父さんもお母さんもいつもそうしていますよ。だからあなたも行きましょう」
と、「生活習慣」のルーティンとしての行動を伝えました。
うまく文章で伝えられないかもしれないけれども、
「あなたはそこで自己主張をしたいのかもしれないけれども、いやいやここは行くとか行かないとか押し問答するところじゃなくて、”寝る前にトイレはみんないくものなんですよ”」といった感じで、なんというか次元の違うところで伝えたというわけです。
”大人と子供の感情の応酬”にしてしまわないで、
「そういうものなんだから、はいはい、いってらっしゃい」
と、カラッと”いなして”しまうという感じでしょうか。
(ケースバイケースなので、「こうしなさい」「これが正解」というわけではなく、これはあくまで対応のヒントのひとつということでご理解ください)
そういうわけですが、それが通じるのもやはりAの関わり方があってこそのことです。
このAの対応は、排泄のやりとりに限りません。
多くの局面で、Aの対応を積み重ねるわけです。
例えばご飯の場面で、お腹いっぱいと言われたときに、
(この対応が”悪い”と言っているわけではありませんが、)「まだ残っているんだから、せめてあと一口食べなさい」などとスプーンを押しつけるのではなく、
「ああ、そうなんだ。じゃあもう終わりでいいね」と子供の言葉をそのまま受け入れて信じてあげるといった経験です。
そういった経験の蓄積があるから、メリハリを持って「ここは大人の要求にしたがってもらいます」というBの関わり方が通じるのです。
なので!
Aの対応というのは、子供の”いいなりになりなさい”、”要求はなんでもかなえましょう”という意味合いでつかっているわけではないのです。許容できる範囲のことならば、大人側の「こうしたい」「こうあるべき」というハードルを少し下げて対応してしまうといったことです。
人によっては混同しやすいので注意ですね。
このあたりのことは、感情の機微というか、ニュアンスというか、とても伝えるのが難しい点です。
実際にそういう対応をしているところを見せることができれば一番伝えられるのですが、なんとなくでもおわかりいただけたでしょうか。
| 2016-04-14 | 日本の子育て文化 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
過保護的支配 vol.2 - 2016.04.13 Wed
ブログなんだから、もっと肩肘張らずに気軽に書けばいいのだけど、ついきちんと伝えられるように書かなければという意識が前にでちゃうのですよね。
それでいてあまり考えずに勢いで書いたもののほうが、うまく書けたりするものだから文章は本当に難しいものです。
そんなわけで、今日は煮詰まり解消のためにあまり気張らずに書いてみようと思います。
コメントでも聞かれた、過保護的支配の具体的な姿についてです。
よくあるところでは、子育てに一生懸命な人、まじめな人で、子供の幼さやできないことに対して、「この子は幼いから手伝ってあげなければ」と大事さゆえに過保護になってしまうケースです。
これも程度の問題ですから、そういったお世話を手厚くすることが”悪い”というのではありません。行き過ぎになれば”よかれ”と思ったことも、かえって子供のためにならない場合もあるということです。
ただ、それが過剰になってしまう人の中には、大人の側になんらかの原因や傾向があるケースもあります。
例えば、
・自身が過保護・過干渉で育てられてきた人が、同じことを繰り返しているもの。
・他者の視線が気になるあまり、我が子を「正しい姿」にしなければと過剰に頑張ってしまう人。
・私は「子育てを頑張っている人なのだ」と、過保護・過干渉をすることで周囲にアピールしたくなってしまう、比較的自己肯定感が低い人に起こるケース。
・vol.1でも触れたように、お世話することが自分の生きるモチベーション、アイデンティティになってしまう場合。
・曲がったことが嫌いで、些細なミスや違いを許容できず、子供に「正しさ」の要求を積み重ねていってしまうもの。
これらも程度の問題だし、それらが複合している場合だってあるでしょう。
その出し方もさまざまで、優しく過保護になるタイプ、下手にでてしまうタイプ、上からの関わりで過保護をするタイプ、などなど。
それでも、こういうケースに比較的共通しているのが、「この子は”できないわよね”」という子供への見方です。
だから、「私が手伝ってあげなければ」「守ってあげなければ」「できるようにしなければ」
そのような思いをもって子供へ関わってしまいます。
もちろん、悪意からなどではなく”よかれ”と思ってなのですが。
僕がいろんな子育てを見てきて、また自分でもたくさん子供と関わってきて感じるのは、
「手を出すよりも、手を出さないで見守ることの方がはるかに難しい」ということです。
手を出さずに見守るというのは、自分がやってしまいたくなる気持ちにセーブをかけることだからです。
子育て初心者のお父さん、お母さんだってそうだし、新人保育士だってそうです。
慣れていない人ほど、手や口をついつい出してしまいます。待ったり、見守ったりすることの方が難しいのです。
ベテランならそれができるかというと、それがそうでもなくて、それなりに子供への関わりを意識してそういった経験を培ってきた人でなければ、手や口を出すことが止められません。
これは年配の人だとかえって顕著になったりしますよね。
おじいちゃんやおばあちゃんは、手や口を出すことを我慢するのはなかなかできない人も少なくありません。
さて、vol.1で書いた、
>強い過保護をされている子供が慢性的に持っている感情は「イライラ」です。
についてなのですが、
「この子は”できないわよね”」、「私が手伝ってあげなければ」「守ってあげなければ」「できるようにしなければ」
こういう子供の見方をする人の子供への関わりの端々には、ある気持ちがにじみ出てしまいます。
子供は、人の気持ちに敏感なのでそれを感じ取ってしまうのです。
それはなにかというと、子供からすると、
「ああ、この人はボク(わたし)のことを信じてくれていないのだな」
という気持ちになってしまいます。
過保護って、その根底には「その子の力を信じきれない」という大人の思いがあるのです。
それゆえに、過保護をされている子は、常に「自分は信じてもらえない」「なんで(お母さんは)ボクのことを信じてくれないんだ!」という気持ちが渦巻いているのです。
だからこそ、子供に向き合うときに大切な大人の姿勢のひとつが、
「子供には失敗をさせていい!」
ということになるのです。
| 2016-04-13 | 日本の子育て文化 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
「やる気がないならやめろ」 - 2016.04.08 Fri
新入社員教育や部活、塾などなどで使われるこの「やる気がないならやめろ」「来るな」という発奮を促す意味合いで使われるこの言葉。
議論の大元になったのは、新入社員を教育する立場の人が「そのように新人に言ったら本当に来なくなってしまった。今時の若い者は根性がない・・・・・・。自分の指導はおかしくないよな?」という話に対しての、さまざまな人からのリアクションだったようです。
特に若い人たちからは、「そのような言い方がよくない」とそれに対する「反対」、逆にある程度の年齢の人からは「賛同」の声が多かったようです。
僕ももちろん”ある程度の年齢の人”に含まれてしまうわけですが、この「やる気がないならやめろ」はたくさん耳にしてきました。
僕の世代では”当たり前”の言葉であることと思います。
しかし、この「やる気がないならやめろ」という言葉による指導は、指導法としては不適切なことなのです。
不適切どころか、むしろ最低ランクの指導法です。
いや、「指導」とすら言えないものです。
かつての僕自身も含めてですが、この言葉を”当たり前”なことだと受け止めている人はかなりゆがんだ価値観を持たされてしまっているといっても過言ではないかもしれません。
この言葉の問題点は、そこに「嘘」があることです。
この元の話の新人教育係の人は、そのように言ったら実際に来なくなってしまったことにショックを受けております。
つまり、この人はその人に本心から「来るな」と言ったわけではなく、発奮を期待してその言葉を発しているわけです。
ここにすでに矛盾がありますね。
「来て欲しい」のに「来るな」と言っている。
しかし、その結果を受け入れられない。
方便としての「来るな」が、相手には方便として受け取ってもらえていないわけです。
僕のような昭和世代のスポ根文化を知っている人間には、その方便が”お約束”とわかっています。
しかし、世代間に開きのある若い人たちには、頭の中では”お約束”を理解しているにしても、それを感情的に受け入れたくはないわけです。
実際の所、スポ根世代だって「やる気がないなら来るな」と言われてうれしい人などおりはしないでしょう。
若い人たちがそれを感情的に受け取るのは当然なのです。
なぜなら、この言葉には他にも問題点があるからです。
それは、「やる気がない人間だ!」と断定することにより、相手の人格を「侮辱」していることです。
また、「来るな」ということで、その人の帰属意識、居場所がないことを匂わせる「疎外」をしています。
これらはその相手の「否定」になっています。
「嘘」があり「侮辱」があり「疎外」がある。
そして問題点があることを「現状の否定」ではなく、「人格の否定」にしてしまっています。
さらに言うと、この”お約束”にはある種の「モラハラ」が含まれているのです。
この”お約束”は、指導側が”怒り”を見せ、教わる側が”謝罪・恭順”の姿勢を示すことで、”手打ち”になる伝統芸です。
「お前が下で、俺が上だ!」
という、階層、上下関係を再確認させるというプロセスになっています。
これは形は違えど、動物の調教の際にこのプロセスが重視されていますね。
(エサを目の前におきながら”ふせ”をさせて”よし”と言われるまで食べてはならない、など)
「俺を先輩として(先生として、上級者として)持ち上げ、お前がへりくだらなければ仕事(勉強)を教えてやらないぞ」
という、一種の「モラハラ」を利用した「脅し」となっているのです。
「嘘」「侮辱」「疎外」「人格の否定」「モラハラ」
これらは指導法として優れたものでしょうか?
もちろんその答えは「いいえ」です。
むしろ、すべてが”もっともしてはならないこと”なのです。
その相手に、指導して改善すべき点があるのだったら、まず嘘をなくすべきです。
その人に頑張って欲しいのであれば、「あなたには期待しているから現状を乗り越えるよう努力して欲しい」と正直に伝えればいいのです。
その人の至らない点を短絡的に、「やる気」「努力」「根性」といった”精神論”に置き換えてしまうのではなく、まずは自分はどのようなことを望んでいるのかを相手に適切に伝わる方法で伝え、それに対して「あなたはどう思うか?」と自分で考えさせ、
次に改善が必要であると自分が考える点を伝え、「そのためにあなたはどう考えるか?」と投げかけていけばいいのです。
本当に相手がやる気がなく、期待できず切り捨てたい人なのならば、そのままお断りすればいいのです。その場合ならば「やる気がないなら来るな」でも結構かもしれません。
でも、やる気があるにも関わらず侮辱をされるから、そんな人に従いたくない、つまりその指導者を信頼できないのです。
「やる気がないなら来るな」という指導の言葉は、「指導の放棄」と同義です。
その人への適切な指導の仕方がわからないから、精神論にして相手の自助努力に投げようとしている言葉なのです。
結果的に、自分がより適切な指導ができないことをその言葉によって露呈させています。
不適切な指導法をしておきながら、その相手を「今時の若者はやる気がない、根性がない」などの自己正当化をしては発展はありません。よい指導者は、「やる気」を高めることすら明確に意識してアプローチをしています。
しかし、日本にはこの考え方、蔓延していますよね。
若者が社会に出たがらないのもわかります。
僕の世代も、家庭で、学校で、部活で、たくさんこのような”指導”をされてきました。(これも「支配と管理のパラダイム」の産物なのだと思います)
なので、また下の世代に繰り返しています。
僕らの世代は、たくさんのモラハラが当たり前の中で育ってきたので、モラハラに鈍感になってしまっています。
相手をおとしめることで発奮させ伸ばそうというのは、自分たちにはうまくいった手法だとしても、むしろその自分たちが特殊な状況にあったのです。
そのことに気づいたほうが、自分自身も、周りの人も幸せになるのではないかと思います。
余談なのですが、この話題にともなってちょっと興味深いことがあったので書き添えておこうと思います。
それがこちら。
林修先生、「教え子のモチベーションを上げるためにすることは?」の答えが「ぐう正論」すぎて胸打たれる人続出
この林先生の話をもって、上のテーマでの「やる気がないならやめろ」は正しいのだという論説に解釈してしまっている人がいるのだけど、これは「論理の妙」「言葉のレトリック」というやつで、同じテーマを述べているように見えてまったく違う次元の話をしているのですね。
同じ「やる気がないならやめろ」という言葉をテーマにしているけれども、ここで林先生の語るエピソードの大学の先生が言う「やる気がないならやめろ」という言葉は、そのままの意味であるということ。
発奮を促すための「嘘」ではなくて、「やる気にならないのならば、やめればいいじゃないですか」とそのままの意味で使っているわけです。
つまり、まるでカードゲームの”UNO”のように、同じ数字(「やる気がないならやめろ」という言葉)を出し、それをポータルにすることで文字列の色を変えてしまっているのです。
色が変わったことに気がつかなければ、この二つは同じ文脈の上にあるように見えてしまうけれども、実際は全然別のことについて論じているので、この林先生の話は少しも最初の「やる気がないならやめろ」の議論の賛成する理由の援護にはならないのでした。
こういうのは言葉や論理のおもしろさだなぁと思います。
| 2016-04-08 | 日本の子育て文化 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
過保護的支配 vol.1 - 2016.04.07 Thu
しかし、支配的な子育ては、こういったある意味わかりやすい支配だけでなく別の形にもあるのです。
それは「過保護」です。
「過保護」も程度を強めれば、それは子供の支配となり、モラハラ的な子育てと同様に思春期や大人になるまで好ましくない影響を残す関わり方となる場合があります。
(子育てはなんにつけそうなのですが、)程度や個性、状況にもよりますので一概に言えるものではありませんが、強い過保護をされている子供が慢性的に持っている感情は「イライラ」です。
・自分の力を発揮させてくれないことへの
・自分の力を信じてくれないことへの
・自分の意思を受け止めようとしてくれないことへの
・自分の行動を制限されることへの
・自分の成長を認めてくれないことへの
・自分の成長を押しとどめてしまう関わりをされることへの(=幼く扱われる)
・親の意思、希望ばかりを押しつけられることへの
・親への依存を高めさせられてしまうことへの
・自分の「幼さへ依存」されることへの
など
※(「子供の幼さへの依存」とは? :親自身が”子供の世話を焼くこと”を生きるモチベーションにしてしまうこと。極端なものとしては「代理ミュンヒハウゼン症候群」などもある)
こういったことへの強いイライラを慢性的に感じている子供がいます。
これは強圧的な支配とはまた違って、子供を長きにわたって支配、もしくは束縛を生むことに発展するケースがあります。
強圧的な支配が「怒り」を生み親への反発をすることもできることに対して、このケースの特徴は「過保護的支配」は子供がなかなかそれに対して「NO」と言い切れずに、ゆるやかにその支配・束縛が持続していってしまうことにあります。
子供からすると、それらの過保護は「親の自分を大切に思う気持ちの表れ」であって、それ自体は否定するようなものではないのだけど、その関わり方は必ずしも自分も好ましいことではないので、そこに苦しさがあります。
子供は親が大好きだからです。
どんな関わりをされようとも子供は常に「親を肯定したい」と思っています。
これは虐待をされている子ですら、そうです。
「過保護的支配」は「好意」からされていることなので、なかなかつっぱねられないのです。それゆえに束縛が長期に渡って、また生活や人生の隅々にまで及んでしまいます。
僕や僕よりも上の世代は、「グレる」つまり「不良化する」ことが多く見られました。
人のバイクや自転車を盗んで乗り回したり、大人から隠れてタバコを吸ってみたり、徒党を組んでケンカをしたり、シンナーを吸ったり、暴走族化したり・・・・・・。
これには強圧的な支配をされることが背景にはあったのではないかと思います。
それが明確な「支配」だったからこそ、子供は明確な「反発」という形でだしていました。
昨今多い「過保護的支配」は、「半分は好ましく半分は好ましくない束縛」です。
だから子供は明確には「反発」しきれません。
それゆえに、「ひきこもり」や「過食・拒食」「リストカット」「他者へのいじめ」「学級崩壊」などの親への直接的でない形で抵抗を示さなければならなくなっているのだと思います。
この「強い過保護的支配」がさらに程度を高めていったものには、子供の「私物化」「ペット化」「偶像化」が見られます。
”子供を自分の望む形にすることでかわいがる”という形での関わりです。
(本来の性別と変えて可愛がったり、幼児や児童に必要のないダイエットをさせたり、性的な発達を促したり、過度に大人びた知識を習得させたり、などの行為もある)
このような傾向で子育てをしている人は、子供が思う通りになっている内はよいですが、子供の自我が強くなったり、反発を示すようになってくると、そこから攻撃的・支配的な関わりになってしまったり、ネグレクト・放任になってしまうケースも見られます。
虐待死の事例の中には、ある時点までは子供を着飾らせてはSNSなどにひんぱんに写真を投稿して子供を賛美していたといったケースが見られます。
虐待までにはならずとも、そういった「自分の思うとおりにすることでかわいがる(自分の思うとおりでなければかわいくない)」といった”自己愛的”子育てになっている、それらの相似的な子育ての形は一般の家庭にもしばしば見られるようになっています。
0歳~2歳くらいまでが極端な過保護で、2歳以降自我が強まってくると放任気味になっていくといったケースは少なくないので、僕はできるだけ0歳から2歳くらいまでの人へ適切な子供への関わり方を伝えることは特に重要だと感じています。
そこまで極端でないケースでも、過保護が強くなってしまっている子育てを見てみると・・・・・・。
過保護をされることでのイライラを、子供は親からされる過保護的関わりの中で出していきます。
よくあるところでは、「わがまま」です。
その「わがまま」が理不尽であるほうが、より反発や発散になるので、過保護的束縛が強い子ほど、「親を困らせる理不尽なわがまま」として出しています。
このときの大人の対応で多いものが、強い大人タイプの人だと、「無視」や「怒り」。弱い大人タイプの人だと「いいなり」を引き起こします。
その人は、子供への「強い過保護」をよかれと思ってしているので、その人からはなかなか自分の元の関わりが問題であるとは見えません。
なので、子供への対応は「対症療法的」になっていきます。
子供の「困った姿」をでないようにと、押さえつけたりコントロールする方向を頑張ってしまいます。
そのために例えば無視したり疎外したり、または子供の要求をなんでもかなえることで「困った姿がでないように」とするのですが、それでは問題は解決しませんね。
なので、さらに子育てが迷走してしまいかねません。
これを解決するためには、「〇〇すればいい」といった関わり方の問題ではなく、まず第一に「自分の子供への姿勢に”気づく”」ことが必要なのです。
これは一連の記事に書いてきた「支配的子育て」に対しても同様ですね。
「どう対応するか」というカードをいくら増やしたところで、その大人自身が自分の関わり方の「問題点」に気づかなければ根本的な改善には向かわないのです。
前の一連の記事へのコメントでも「どうすればいいか具体的な方法を書いてくれ」といったコメントがいくつかありましたが、これらの問題ではこの「気づき」の方が重要なのです。「どうすればいいか?」を聴いてきた人はおそらく「対症療法的な効果的な対応方法」としての解を求めていたのではないかと思いますが、それだけ知ったとしても場合によっては迷走に油を注ぐだけになってしまう可能性が考えられます。
また、具体的な対応方法であれば、本にもブログにもすでに書かれているのです。
僕は”カンフル剤”や”テクニック”的な関わり方はあまり勧められないのです。個々の事情を踏まえてならば「こういった対応をやってみては」と言えるケースもありますが、文章で書くことはどうしても一般論としてのものになってしまうので、万人に適用することができないからです。
本やブログにすでに書かれているというのは、遠回りなように見えて「受容と信頼関係」からコツコツとスタートしていくことが結局は一番の近道だと思うからです。
ただ、それらもまずは大人自身が自分の子供への姿勢に「気づき」を持つことが必須なのだと感じます。
その「気づき」が十分でないまま、対症療法を目指してしまうとかえって迷走してしまうことでしょう。
また、「気づき」のないまま「受容」の関わりをしてもそれはなかなか子供の心の奥深くまでは届きません。
そして、現実の事例を見ていくと、「気づき」が十分になされれば対応のうまい下手はさして問題ではないようなのです。(これについてはまたの機会に書きます)
また、僕も過去記事でも何度か述べておりますし、コメントでもいただきましたように自身で「受容」が困難な状況にあるのならば、”他者の助けを借りて受容を肩代わり”してもらってもいいのです。
「この子育ての問題は、子供の問題ではなく親自身のウエイトが大きい」といったケースの場合、これがアメリカだったら一も二もなく「まずはあなたがカウンセリングにかかってみるといいでしょう」といったことを伝えるのでしょうけれども、日本の保育園でそんなことを言ったらクレームになりかねないのでなかなか言えないと思います。
でも、その人自身が「気づき」に至っていれば、対応の幅は大きく広がります。
つづく
| 2016-04-07 | 日本の子育て文化 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
僕の”仕事” vol.3 - 2016.04.04 Mon
田舎や下町の人だともう少しお若い方にもいるようです。
大家族や、兄弟姉妹の多い中で育ち身近に子育てを見たり、よいことも悪いことも否応なしに他者と関わる経験が豊富にあった世代では、自然と身につけられた感覚だったのではないでしょうか。
現在それは難しくなっています。
それはいいとか悪いとかいう問題ではなく、時代の流れというものですから、それにあった形を模索していけばいいのだと思います。
しかし、それがなかなか難しい。
決して子供のためとはいいきれない不適切な子育ても内包した、すでに強い先入観になってしまっている既成の子育て方法。商業主義的目的のために流布されている新たな子育ての価値観。
この二つの子育ての考え方が圧倒的に根強くて、本当に必要なことがなかなか見えません。
現実に、子供の親になる人には子育ての基礎を教える講座みたいなものが必要な時代になっているのかもしれません。
保健所でそれらしきものはあるけれども、あれは新生児の身体的なケアが中心なので、なかなかそこまでの役割にはなっていないようです。
実際、カナダのようにそういうことに取り組んでいる国もあって、以前にも紹介しようと思っていたのだけどまだ記事にできないままでした。そのうちまとめたいと思います。
僕は保育士になってたかだか20年くらいです。
しかし、一生懸命見ていると見えてくるのは20年間の子育てだけではないのです。
なぜなら、否応なしに子供の親自身の生育歴が目に入ってくるからです。
今回一連の記事では、単なる支配的な関わりの子育てだけでなく、もっと踏み込んでモラハラにまでなる子育てについて述べました。
このことは、いま現在の子供の子育てにある問題なのですが、同時に子育てする親の世代にもある問題です。
モラハラや強い支配の子育て、親の願望や要求を強烈に投影されて育ってきた人が大人になり結婚し子供の親となって、さあ子育てだというときになって、それまで順調な人生だった人がつまづくのですね。
単に、子育てがうまくいかないということだけでなく、それまで「順調だ」と思っていた自分の人生は「実は親の要求に従ってきただけだったのだ」ということにハタと気づかされたり、自分が我が子に向ける子育ての関わり方によって、自分自身が子供時代どれだけ嫌な経験をしたのか、どれだけ我慢をしてきたのか、そういったことがフラッシュバックしてきてしまったり。
目の前の子供の問題と見えていたものの原因は、実のところ遠く数十年前からつづく親自身の生育歴にあったりします。
親がそれに気づく人もいますし、気づかずに繰り返したり、気づいてはいないのだけど苦しんだり・・・・・・と、さまざまです。
子育ての相談を受けていても、いろいろと話を聞いていると本当にいつの間にか話が親自身のことになっていくケースがあります。
それはその人自身も意識していなかったのに、子供の話をしていたら自然とそうなっているのです。
多くの人が根っこに自分の生育歴を抱えており、それがよくも悪くも我が子の子育てのときに顔を出してくるようです。
自分の親(祖父母)と互いに和解し合えて乗り越えられる人、一方的に親を許すことで乗り越えられる人、否定し続けたり憎むことで乗り越える人、否定も肯定もできないけどつかず離れずでやり過ごしていくケース、それもまたさまざまです。
これが、お金持ちから貧しい人まで、学歴の高い人から低い人まで、社会的地位の高い人から低い人まで、すべてのポジションの人にある問題になっています。
もちろん、なにごともなく円満な家もあります。
しかし中には、その円満さはものすごい努力の積み重ねや、よい人との巡り合わせによって作り上げられているというケースもあります。
現代において子育ては、ただ子供を育てるだけでなく子供を育てる人も自分の人生を考えたり、もしかすると「取り戻したり」する重要なポイントともなっているのではないかと感じます。
それを僕は「子育てによる自己肯定」と呼んでいます。
このことは、なかなかそこを直接実現させられるものではありませんがそれを目標として、まずは目の前の子育てを「いいもの」にしていくこと、そのためにはその人ができる具体的な子供への関わり方を示していくことが僕の仕事なのだと考えています。
さらには、いい関わりの方法だけではなく、問題点やそのままでは気づかないことを指摘したり、今回の記事のようにモラハラや支配してしまうこと、体罰などにはNOときっぱり言う人がいるのだと伝えることも必要なのだと感じます。
安定した子育てをすることができれば、子供がよりよい育ちを得ることができます。またそのようになれば、親自身も子育てを通して自分自身を肯定することができることでしょう。
一人の子供を安定して無理なく育てられることは、その周囲にいる何人もの人を幸せにできることでしょう。それは人によっては人生を大きく変えることができるものになるかもしれません。
なので、僕は子育てを通して社会貢献していくことを自分の仕事と決め、そのためにできることを微力ながら続けていこうと考えています。
| 2016-04-04 | 日本の子育て文化 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
僕の”仕事” vol.2 - 2016.04.01 Fri
その失敗を経験したことが、世の中の子育ての当たり前になっている「支配のレール」から別のレールへと乗り換えるきっかけになりました。
一般の人は、いきなり”我が子”の子育てになることでしょうから、もし支配のレールに乗っている人(まずほとんどの人はそうでしょう)でしたら、僕がした失敗と同じ状況になる可能性があります。
そして多くの人が、「支配のレール」に乗ってそのまま子育てが前に進んでいきます。ただ、そのやり方が強いか弱いかの差があるばかりです。
中には”モラハラ”になるほどに強い関わり方で子供を思うとおりにしようとするやり方もあれば、そういった強さはない代わりにモノで釣ったり脅したりする変則的な形で子供を思うとおりの姿にしようとするもの、優しい声がけをすることでうまく子供を動かしてしまうものまでさまざまです。
でも、結局の所それらは「支配のレール」の上で展開される子育てであることには変わりません。
僕がこのことを「レール」と表現しているのは、一度その方向でスタートを切ってしまうと、ずっとその方向でその関わりを強めながら子育てが進んでいってしまうからです。
それはまるで、ブレーキのあまり効かないトロッコに乗ってゆるやかな坂を下っていくかのようです。最初はゆっくりだとしても、いずれ加速がつきスピードは増す一方です。
乳児の頃、怒ったり叱ったり、感情をぶつけることで子供の姿を大人の望むものにしようとする関わりをしていたら、5歳の頃には怒鳴ったり、叩いたりしなければ言うことを聞かせられない子供にしてしまうかもしれません。
同じく乳児の頃から、”いいなり”やモノで釣ることで子供の姿を作ろうとしていた人は、5歳の頃には子供への関わりがお手上げになって放任になってしまうかもしれません。
さまざまな要素がありますから、必ずそのようになるわけではありませんが、なにも知らずに「支配のレール」に乗って子育てをしていて、そのように子育てが大変になるばかりだったり、自分ではどうにもならないところに行き着いてしまったりするケースは少なくありません。
ですから、「”支配のレール”に乗らなくていい子育ての仕方もあるんですよ」ということを伝えることが”仕事”なのだと思っています。
では、それ以外にどんな子育てがあるのかといえば、「受容と信頼関係」の子育てです。
この「受容と信頼関係」の部分は、かつての子育て環境では意識せずとも自然になされていたので、現代の人の目には見えない状態になっています。
しかし、いまは子育て環境が変わって意識しなければ達成されないようになったので、そこにさまざまな齟齬・難しさが生まれています。
でもやっぱり目に写らない状態です。
これを目に見えるものにして、体験してその子供の姿・子育てを実感できると、子育てはまったくと言っていいほど変わってきます。
僕は職務として子育てを経験することができたので、これがはっきり見え、それをしてみた感触をたくさん実感することができました。なので自信を持っていうことができるのだけど、一般の人にはなかなか見えない難しさがあります。
例えば、座って食事を食べない子に、座って食べさせたいと大人が思ったとき。
「大きな声を出して叱る」、「怖い顔をして怒る」
この関わり方ならば、「座って食べさせる」という目的に直結するアプローチなので、大人の目にも因果関係がはっきりと見える形で理解できます。
それ以前の「受容と信頼関係」になんら問題がなければその関わりでもよいのですが、そこになんらかのつまずきがある場合は、「支配や管理」の関わりを繰り返してもやがて効き目は薄れてきてしまいます。
効き目が薄ければ、「叩いたり」「疎外」するようなさらに強い関わりになってしまう人もいます。
お菓子やデザートで釣るといったコントロールもよく用いられるところです。
このとき、「食事になってそのとき叱ることを頑張るよりも、”公園に行って追いかけっこでもしてみて”とか、”気分のいいとき、くすぐり遊びをして親子で楽しく過ごす時間をもうけてみて”」と言っても、それは目的である「座って食べさせる」こととつながって見えないので、その関わりに意味があるようにはなかなか感じられません。
ここで出てくる課題が、「子供を信じられるか」という点です。
「受容と信頼関係」を厚くして、子供自身に自発的に大人の望む方向へ育っていかせるためには、子供の姿を直接型にはめるような支配的関わりを我慢してセーブしなければなりません。
大人からすると、支配的な関わりは子育てとしても「やった感」が得られます。
「大人の望む姿にする」という効果も、一時的なものならばすぐに出すことができます。
また、一連の記事で見たように、大人のストレスの問題、心の問題もあります。
さらに、それまで「受容と信頼関係」よりも「支配と管理」の関わりを積み重ねてきている子には、いきなり「受容と信頼関係」の関わりをしたところで、場合によりその効果が目に見えるまでより時間がかかります。むしろ、支配で関わっていた子供に、受容の関わりをし始めると、それまでの反動でしばらくの間、より大変な姿がでることもあります。
なので、「支配」や「管理」で関わる傾向が強い人にとっては、「受容と信頼関係」で子育てすることが余計に難しく感じられてしまいます。
「子供に勉強をさせたい」と考えている人は、子供をその「勉強ができる子」の型に押し込みたくなります。
子供の未来・成長は先行きの見えないものなので、大人自身がその姿にすることで結果を直接に出したくなってしまいます。
そのために例えば、「早期教育」をします。
子育ての専門家の多くが、発達段階にそぐわないことを先取りでさせるよりも、その子供の発達段階・状況に合ったことを無理なく楽しみながらたっぷりとすることが大切だと述べます。
しかし、一般の多くの人はそれをするよりも、「早期教育」を直接的に施すことの方に軍配を上げてしまいたくなります。
野山を駆けまわらせたり、自由に工作させるようなことが先行き勉強に取り組む力を作っていくということがつながって見えないので、そこに自信を持ちきれないのです。
「子供」に関する実感的な経験がないために、そのような”種まきだけして待つ”ということに自信を持てなくなっています。
これが「子供の力を信じられない」ということです。
この点、子供に関わることの非常に少ない現代の人にとっては、とても難しいことになってきています。
つづく
| 2016-04-01 | 日本の子育て文化 | Comment : 19 | トラックバック : 0 |
僕の”仕事” - 2016.03.31 Thu
の一連の記事を書いてたくさんの反響をいただきました。
これらは、子育てにおける「支配」を主軸とした記事なのですが、実はこのことを書くのは初めてではありません。
『日本の子育て文化』のカテゴリのなかにも『心の育て方』のカテゴリのなかにも、これに関連する記事はたくさんあります。
「支配」でブログ内検索をかけると、ズラズラっと出てきます。
このブログをはじめたときの一番最初の記事の内容は、「子供の二の腕をつかんで誘導すること」について触れていました。
これも実は「子供を支配しなくてもいいんですよ」ということを伝える趣旨の記事です。
「子育てとは子供の”支配”ではない」ということを世の人に伝えていくことが、たぶん僕がやっていくべき”仕事”なのだと思っています。
「子供を支配することが子育てなんだ」と考えて(もしくは先入観で無意識に)子育てをしてしまうレールに多くの人は乗っています。それでうまくいってしまう人もいますが、うまくいかない現実があるのを知っているので、できるだけ早い段階で別のレールがあることを伝える仕事です。
難しい言葉で言うと「子育てのパラダイム転換」を目指しています。
なぜそれが僕の仕事なのか?
それは、僕も「子供を支配することが子育てだ」と先入観で思っていた人間だからです。そしてまた同時に、子供時代その弊害を被った人間でもあるからです。
ただ、僕は本当に偶然が積み重なって保育士になり、そこで子供を育てることを実際にたくさん経験することができました。
しかし、その中でやはり「支配」の関わりで子供の「正しい姿」を作り出そうとしていました。
周りの先輩保育士たちも、多かれ少なかれ「支配」もしくは「管理」(おだてたりすかしたり、子供だましをしたりのテクニック的な関わり。コントロール)をすることで子供に関わっていました。
一部のもともとのその人の性格や気質、自然に体得された柔らか(受容的)な子供への関わり方を持っている人だけが、「支配」にならずとも子供と関わることができていましたが、それらはその人たち自身「論理」として確立してやっているというよりも、ほぼその人の「センス」でできてしまっていることなので、「これこれこうやればいいんですよ」と人に伝えられる形で理解している人はおりませんでした。
そういうわけで僕も保育を頑張ろうと思うと、”「支配」の強化”になっていました。
しかし、それをするとものすごいのです、”ストレス”が。
保育の仕事が楽しいものではありませんでした。
後から考えると、僕自身が「弱い人間」だったことが幸いしたようです。
自分なりに頑張るのだけど、子供の「支配」を徹底することができませんでした。
もし僕が「強い人間」で子供の「支配」がうまく、それで子供を動かすことができてしまっていたら、いまも同じように関わっていたかもしれません。実際、そのままベテランになっていく人も少なくありません。
そのため、「支配」を頑張ることに限界を感じます。
それが保育士になって4~5年目だったでしょうか。
一種のスランプにおちいっていました。
その後、僕がこちらの記事
『保育が福祉なのだと感じた瞬間』
の中でも出てくるA保育士と組ませてもらったことで悟るものがありました。
このA保育士は、子供に関わる人がよくやるような作り笑いをすることもなく、端から見ているとぶっきらぼうと呼べるような関わり方をしています。子供のご機嫌を取ろうとも、歓心を買おうともしません。
ここまでだったらただの冷たい保育士です。
そういう冷たい保育士も中にはいます。しかし、このA保育士は違うのです。
子供がきちんと信頼感を持っているのですね。
ただの冷たい保育士ならば、子供はその保育士にさしたる信頼感を持ちません。そういった保育士も見てきたので、その違いはわかります。
作り笑いも、ご機嫌取りもしないけれども、もっと深いところで受け止めているのですね。子供にはそれがわかっています。
逆に、いくら子供のご機嫌とりをしても子供を心から受け止められない人も子供はわかりますから、そういう保育士にはあまり深い信頼感は持たないものです。
このA保育士にはその信頼関係がしっかりとあるから、ご機嫌取りやテクニックで子供をコントロールしなくても、子供が自然についてくるのでした。
また、それがあるために「嘘」がいらなかったのです。
好ましくないことにはきっぱりとNOと言うことができ、作り笑いもする必要がないのですね。
ただ、この人も「理論」としてしていたわけではなく、自身の体得したものとしてできているわけだったので、それを形として人に伝えられるわけではなく場合によっては誤解されてしまうのでした。
この同時期、僕は「個々の尊重」や「子供の人権」などについて学ぶようになるのですが、まだそれがそういった保育の実際のあり方や、「受容」や「信頼関係」などの気づきとつながっていませんでした。
ただ、このときに子供を「”できる子”にしなければならない」といった気負いから肩の力が抜けたようです。
つづく
| 2016-03-31 | 日本の子育て文化 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |