例えば、怒ったり叱ったりするとき。
これは互いに嫌なものです。
怒られる子供だって嫌な気持ちになるでしょうけれども、怒る大人だって嫌なものです。
ときどき、大人でも「怒ったりするのが苦手なのでできない」とか「嫌な気分になるからしたくない」という人がいます。
でも、それで当然なのです。
嫌なものだけど、子供のためにしなければならないと思うから、それをするのです。
だから、嫌な気持ちになるのは当然だし、嫌なものでなくてはならないとすらいえるでしょう。
なんでこんなことを言うかというと、こういった怒る・叱るという場面でも、「お互い」にならないことも少なくないからです。
以前にも書いていますが、大人との関わりや満たされることの慢性的に不足している子供は、怒られることですら大人の気持ちが自分に向けられることを心地よく感じるので、あえて怒られることばかりするようになってしまう子供もいます。
これは、
子供(心地よい)>>>大人(嫌なもの)
という状態で互いに釣り合いの取れた関わりではなくなってしまっています。
逆に、性格や感情ゆえに、怒ること叱ることを無意識に好んでいたり、ストレス解消にしたり、面白がってしまうという大人もいます。
大勢の子供と関わる大人を見てくると、意外なことにこういう大人も少なくないのです。
子供(嫌なもの)<<<大人(心地よい)
となり、これも健全な関わりとはいえないでしょう。
このような「怒るために怒っている」というような大人のあり方は、子供も気がついています。
子供である自分のために怒ったり、叱ったりしてくれているというのが伝わってこないので、それがいくら正論であったとしても、こういう人の言葉はプラスにならず怒りや反発ばかりを生むようです。
怒ったり叱ったりというような関わりも、
子供(嫌なもの)=大人(嫌なもの)
という相互のあり方があってはじめて健全といえるでしょう。
だから、大人からすれば怒ったり叱ったりするのは、嫌なものだし、嫌なものでなくてはならないというわけです。
『受け止めない甘え』のシリーズは今回で終わりです。
子育てしている人の中には、「なにを受け止めてなにを受け止めないくていいか?」というのがわからないという人がいます。
そういうひとは自信のなさから、基準を周りの人の視線や意見、一般的なことの理非ということで考えて、迷走してしまうのだけど、大事なのは「自分の気持ちの中」にあることと照らし合わせるということなのです。
それに気づいてほしくてこれらの記事を書きました。
言ってみれば、大人も自分の気持ちに素直になるということです。
自分が嫌なことならば、周りがどう思っていようがそれは嫌でいいのです。
自分がいいと思ってそれを子供にしたいと思うならば、それでいいのです。
それが大人の誠実さ・真心からでているものならば、子供はそれをきちんと理解するようになるでしょう。