ある保育学の権威が、保育士向けに信頼関係を説明する中で「まず愛情を持って子供に接することが大切」と述べていた。
僕はこれを真っ向から否定したい。
信頼関係をそのような「心の問題」にしてしまうことが、現状の信頼関係とはなにかわからず、それを適切に用いることなくただ漫然と子供に接するだけの専門性の低い保育を生み出してしまっている。
信頼関係は、感情論、精神論など気持ちや心の問題ではなく、明確にスキルとして確立することができる。そしてそれをしなければ現場の保育者は不適切な子供への関わりにおちいることを避けられない。
そこで、ここでは
1,気持ちのあり方にすることの問題点
2,保育における本当の信頼関係とはなにかについて述べたい。
1,気持ちのあり方にすることの問題点まず専門職が気持ちの問題で職務をすべきでないことの例として、医療についてのケースで考えてみよう。
もし仮に、医師の過失による重大な医療ミスがあったとき、その医師がいくら口で「私は患者のことを大切に考えている」「私は自分のことを犠牲にしてまで最大限努力している」と言い、また実際にそうであったとしても、その医療ミスは免責されるだろうか?
情状酌量はあったとしても、免責されることは決してないだろう。それが職務にともなう責任というものなので、それは当然のことである。
つまり、職務における現実は「お気持ち」によってその責任を免れられるわけではないということである。
では、保育において考えてみる。
僕はこれまでにも子供の手首を引っ張って誘導することを、(安全確保の場面以外では)保育として不適切なことだと指摘してきた。
なぜそれが不適切なのかというと、その行為は子供を信頼していない関わりだからである。
まずそれを保育としてする場合、子供の能力への低い決めつけがそこにはある。
「あなたはどうせ口で言ってもわからないよね。引っ張らないと来ないよね」
これは保育者が子供を信じていないということである。(大人から子供への信頼の欠如)
無意識にではあろうがそういうスタンスに保育者がおり、そこから無自覚に手首を引っ張って子供を動かすという実践が生まれている。
ゆえに、この行為は「信頼関係」でない関わりと言える。
さて、もしそれを行っている保育者に「あなたは子供と信頼関係に基づいて関われていません」と指摘したとして、その人が感情論で保育を考えてきた人であれば「そんなことはありません。私は子供を信頼しています。頑張って仕事をしています」という気持ちになることだろう。
ここに見られるように、信頼関係という保育のもっとも基礎の所を感情論、精神論で理解していては、かえって信頼関係の理解、実践は遠のいてしまう。
信頼関係とは「お気持ちの問題」ではないのだ。
・子供観の理解
・子供の人権の理解
・子供の尊重の理解
これらの理念的理解を前提として、
・子供への実践上の関わりにおける適切な行為
・子供への実践上の関わりにおける不適切な行為
を知識、経験として身につけ
・信頼関係の関わりがもたらす子供の本当の姿
を実地に見て理解する。
このように徹頭徹尾スキルとしてある。
「愛情」とか、「子供を大事に思う気持ち」などの感情論、精神論とはまったく別個のファクターに存在している。
むしろ、スキルが先にあってこそ、これら「職務に必要とされる保育者の内面のあり方の整備」が可能になる。
というのも、多くの不適切保育が実際の問題として、スキルの欠如がもたらしていることを見ればそれがわかる。
例えば、大人に信頼感を持たずネガティブな行動ばかりをする子がいたとする。
この子供に、何が問題であり、どのように関わればその子を安定化させられるかを実践としてわかっていれば、暴言や体罰や閉じ込め、疎外などの不適切な関わりをする必要はなくなる。
しかし、それが持てていない保育者はそれらの実践上のスキルがないばかりに、不適切保育へとおちいる。
不適切保育にまでいかずとも、保育者が我慢したり怒りをこらえることで、その子に対応するしかなければ、子供も安定することはないし、保育者は日々疲弊していってしまう。
「子供を大切に思う気持ち」などは、スキルがあって初めて心に余裕が生まれそこで大きくすることが可能になる。
先にスキルとして身につけなければ、専門性のある保育として成立しないのだ。
だから、「信頼関係は愛情から」といった言葉は大きなあやまりであると指摘したい。
2,保育における本当の信頼関係とはなにか信頼関係について保育の教科書や解説書を読めば、「ああそうだよね」ともっともらしく思うようなことが書かれている。しかし、それだけでは少しも実践における適切な子供との信頼関係の構築を担保できない。
僕はもっとはっきりと言ってしまいたいと思う。
それは、
「信頼関係とは支配関係でないこと」この定義と、そこから日々生まれる問いを保育者は自分に向けて日々の保育を送ってもらいたいと思う。
・信頼関係は支配関係を排他する逆も言える。
・支配関係は信頼関係を排他する信頼関係による子供と保育者の関わりのあり方と、支配関係による子供と保育者の関わりのあり方はまったく違うものとなる。
「子供に支配の関わりをしているが、子供と保育者に信頼関係が構築されている」ということはありえないのだ。
それは
・保育者 →(支配)→ 子供
・保育者 ←(依存)← 子供の関係でしかない。これを「信頼関係」と錯覚することが、いまの保育界では簡単にできてしまう。
本来、信頼関係とは
・保育者 ⇆(信頼)⇆ 子供である。
ただし、ここに「お気持ち」のファクターを入れてしまうと、
「私は子供を信頼しています」というお気持ちのもと、子供への支配が成立し。
また、
「私は子供に信頼されています」という一方的な希望的観測のお気持ちのもと、支配の関わりが正当化されてしまう。
また、この「お気持ち」を専門性として錯覚してしまうことで、保育上のスキルについての話が自分の持っているお気持ちへの批判、つまり人間性への攻撃と感じられてしまうので、その保育者は自己防衛的になってしまい、実際上の保育の適正化を受け付けられなくなってしまう。
だから、信頼関係に限らず、専門職としての保育の職務は「お気持ちの問題」ではなく、スキルの積み重ねとして考えていく必要がある。
◆信頼は1日にしてならず子供に関わるとき、支配の関わりはたった1日で成立させることができる。
支配をするのは簡単だ。
子供を押し、引っぱり、抱え上げて動かし、柵やカギで囲って管理し。(物理的な支配)おだて、作為的な褒め、おどし、ごまかし、釣り、疎外。怒る、叱る、威圧する。(精神的な支配)これは、その子と関わったその日から達成できてしまえる。
一方で、信頼関係を子供との間に構築し、その上で支配でない保育を成立させることは大きな配慮と時間が必要になる。
まず、一人ではできない。
保育は通常、大勢の保育者で行われる。
その中で支配の関わりをする人が、一部なりともいれば子供はそこからの支配、抑圧により大きな負荷がかかり、保育者への信頼感を構築することが著しく困難になる。
その子供に関わる複数の大人が、子供への関わりにおける信頼関係というものを理解し、それを長期にわたって続けていくことが欠かせない。
こうしてようやく人を信じるという土台を子供が内面に形成し、その上でさらにそれを傷つけずに実際の関わりを継続していくことで、ようやく信頼関係の保育がスタートする。
◆信頼関係を阻害する要素上記のことが理解されたとしても次のことを理解しそれを乗り越えていくスタンスを持てなければ、信頼関係の保育はたちまちに崩れ、支配の保育へと必然的に変化する。
a,発達段階への理解子供への関わりを行う中で、発達段階を適切に理解し、さらに個々の個性や状況を理解していない場合、どれほど子供を思う「お気持ち」があろうとも、実際は支配の保育になってしまう。
例えばよくあるケースでは、全体での朝の会を好む園がある。
0歳から5歳までも集めて集会を開く。
ここで行われることが全年齢で楽しめるものであればいいが、発達段階の差からそれは容易なことではない。現実にはほぼないと言い切れるだろう。
必然的に発達段階に合わない子は、そこでの保育に取り組めない。
それでも、「どうぞご自由に」というスタンスを保育者が持てているのであればまだよいが、そもそもそんなスタンスが持てているのであれば全体集会でなどやっていないだろう。
結果的に、「座りなさい」「聴きなさい」「参加しなさい」といったアプローチが展開されることになる。
このアプローチが、一般的に支配と考えるような強いものではない場合もある。
例えば、飽きてしまった低月齢時を膝の上に抱えて座らせるといった行為。
これは、怒鳴って威圧したり、注意を繰り返したりしているわけではないので一見わかりにくいが、結局は優しく囲い込んでいるだけなので、支配であることは変わりない。
このように、保育者が適切な発達段階への理解を持っていて、それを現実の個々の子供に照らし合わせて考えられるスタンスがない場合、信頼関係の保育ではなく支配の保育へと陥ってしまう。
この点、日本の既成の子育て概念は、「早くにできること」「早くに取り組むこと」を良いものと一般に考える傾向があるので、この点に流されてしまうわないように特に注意が必要になる。
b,規範意識への理解規範意識に基づいての保育も、簡単に支配の保育へと導いてしまう。
例えば、「ご飯を残してはならない」、こうした規範意識を重んじてしまうと、その規範に沿わせるべく子供を動かさずにはいられなくなる。
結果として
・(強い支配) 過干渉に注意する、ダメ出し、怒る叱る、脅す、冷たい疎外
・(優しい支配) おだてる、作為的にほめる、釣る、優しい疎外※疎外のケース
・冷たい疎外 「残したら果物あげません」 「残す子はお外に遊びに行けません」
・優しい疎外 「食べたら果物あげるね」「食べてもらえなかったらお野菜かわいそうだなぁ」「残したら作ってくれたお給食さん悲しいだろうなぁ」「Aちゃん食べられてえらいな。Bちゃんも頑張ろうね」
これは食事に限らず、全てのことに言える。
片付け、オムツ外し、友達との関わり、話を聴くといった習慣・・・・・・。行動面、生活面、情緒面。
ゆえに、保育者は規範意識を持っていることが悪いわけではないが、それを直接にだしてしまうのではなく、できない状態の子供への理解を持つ必要がある。
そのためには、
成長への理解、多様性の理解がいる。(字数の関係でそこの解説は省く)
とりあえず、自身の持つ規範意識から目前の子供をジャッジするスタンスは、子供のためだけでなく保育者自身のためにも意識的に避けることをお勧めする。
以上、保育者が本当の意味で信頼関係の保育をおくるために必要なことを述べた。
少しでも参考にして、日々の保育に反映していただければ幸いである。
次回は12月21日(土)に、受容と信頼関係の保育に続く、「自主性・主体性の保育」の講座がある。1名の方がご都合によりキャンセルされたので1枠だけ空きがあります。よろしければどうぞ。
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