これからの保育行政について考える ―保育園に対する国・行政の姿勢― - 2013.09.30 Mon
幼稚園についてどうこうではなくて、保育園と比較することで浮き彫りになったことです。
表面的な事象としては、幼稚園の方がともすると子供ひとりあたりの人員が多いということです。
かつては幼稚園年中年長ともなれば、担任の教員ひとりでほぼ全般的にみたものですが、いまはどこも補助教員・指導員といった人がついておりました。
前の記事にも少し出ましたが、発達に問題のある子・ハンディキャップを持った子一人に一人の職員がつきっきりという様子もありました。
これらに関しては息子が小学校に上がった時にも同様の印象を受けました。
幼稚園・学校の方が人員配置がなんだかんだで多くなっているのです、より幼かったり長時間だったりする保育園よりも。
別に小学校や幼稚園が人手がたくさんあってうらやましいとか、楽をしていると言いたいのではありません。
それだけ必要に応じて手をかけられるというのは大切なことです。
ある意味学校ということで守られているのでしょう。
いじめ問題や学級崩壊なども以前から問題視されていて、人々の関心も学校に対して高まっていますしね。
それに引き換え、保育園は実質的にどんどん人が削られています。
職員配置はそのままで、児童数の定員増なども多くなっていますので、実質的に人員が削減されていたりもします。
障がいをもった子供がが入園しても、なかなか役所は人員の加配を了承しません。
この前の幼稚園でみた障がい児は、その程度が軽度な子供でした。
それでも一人に対して一人つけられる人員がおりましたが、保育園では重度の障がいを持った子供が入っても、なかなか人員を増やしてくれるということになりづらくなっています。
最近では特に厳しくなっていて、職員側から要望したのではけんもほろろに今ある人員で対応しなさいという返答しか役所からは返ってきません。
かつてはそういう要望をあげれば保育課の職員なり課長・係長なりが現場を見に来て加配するかどうかという検討をしてくれたりしていました。
最近ではそういう対応も少なくなってきて、しょうがないので保護者の方から人員配置の要望・請願を出してもらってなんとかつけてもらえるといった状況になってきています。
幼稚園・学校と、この保育園の差はなんでしょう。
僕がまじまじと感じるのは、「福祉切り」の流れです。
景気が悪くなってきた頃から、公立保育園の民営化などはぼちぼちと出ていました。
でも、それらはまだ露骨な「福祉切り」の動きではなかったように感じます。
それがあからさまに加速化してきたのは、東京都では石原都政になったころからです。
ちょうど石原都政の施策のひとつをとして「認証保育所」がスタートしました。
政治や行政の側からすると、「福祉切り」をすると二つのメリットがあります。
ひとつには福祉にかける予算を減らせば、その分が当然予算が浮きます。
もうひとつは経済界に対して規制緩和をしましたという点数を上げられることと、それが税収につながるということです。
それまで金食い虫だったものが、お金を生むようになるのだからこんなおいしい話はありません。
しかし、それは市民・国民の福祉を切り下げることを許容するという前提があればです。
福祉の流れの中からいまの行政・政治をみますと、それらは国民の側を向いているのではなく、企業・経済界の側を向いて政治を行っているように感じられて仕方がありません。
「こども園」の構想が具体化に向けて進んでいた頃、国はそのために大きな予算を考えていました。
でもこの予算、そこを利用する国民・市民のために用意されているというよりも、それらに企業が参入するための準備金や、幼稚園に保育園機能を持たせたりするための設備投資費としてその多くがあるわけです。
ゆくゆくは、本来の保育園を必要なだけ設置し運営するよりも、安上がりにするための初期投資の予算なのです。
なので、たくさんの予算を保育拡充のために用意しているように見えて、それは実質的には福祉切りするための一時的な投資なのです。
そういった政治の流れがもたらした保育というのは、結果的にいまよりもさらに手薄なものとなっていくことでしょう。
東京都の認証保育から始まった本格的な企業の保育参入ですが、それは国にも飛び火して、国ももう保育を福祉の枠の中でしない方向に舵をきっています。安倍政権はそういう構想をもっています。
都ももちろんそのつもりでいます。
それらを受けて区も、これまでのように保育を維持し守っていこうという姿勢がなくなっています。
東京23区のほとんどがそういう流れになっています。
東京23区はこれまで保育水準を高めるべくかなりの意識をもっていました。
なので全国的に見ても比較的保育の質が守られていた方です。
しかしここにきてもうそうではなくなってきました。
いままで、区の予算で保育の質を高めるための研修等それなりにあったのですが、あからさまにそれらはなくされています。
むしろ当局は民間との差をなくすために、質が下がることを望んでいるかのような感じもします。
それまで区が子供一人ひとりに昼寝用の布団を用意していたところが、布団の配備・維持にかける予算を減らすために簡易寝台のようなものに切り替えたりもしています。
水分補給用に麦茶を用意していたものが、湯冷ましになったり、水道水を飲ませなさいという指導がきたり。
子供たちの給食のおかわり用に余分に用意していたものを、「規定量を出しているのだから必要ない」とおかわりなしになったり。
もう、ものすごい勢いで保育園にはあからさまな予算削減が来ています。
しかも、その風は国・都といった上部組織から吹いてくるので、大変強い勢いです。
23区のなかでもある区は、以前から質よりも表面的なサービス重視で、かなり革新的、はっきりいって無茶ぶりな保育行政をしていたところがありました。
その頃はその区単独の動きだったので、ほかの22の区はそちらに合わせることなく、22区で大体足並みを合わせてそれなりに質も維持しようという保育行政をしていました。
しかし、いまは国・都からしてそういう動きなので、多くの区が質の切り下げの方に遠慮会釈なく踏み切っているという感じがします。
強引な手腕をもった管理職が保育関係の役所の長になって、ばっさばっさとやっています。
保育士のなかから園長に取り立てられる人も、よりよい保育を構築出来る人よりも、役所の意向に素直に従うタイプの人がなる傾向が強くなっています。
一般の人はこういう動きがあるというのは気づいていないと思います。
でも、近年それがものすごい勢いになっています。
僕も正直こんな短期間にここまでのものになるとは思っていませんでした。
いまの政治の動きがこの「福祉切り」のまま安定化することになったら、10年後保育はただのサービス業になって福祉ではなくなっているとしても不思議ではないような気がします。
| 2013-09-30 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 23 | トラックバック : 0 |
モノとこころ - 2013.09.29 Sun
かつての日本の文化・子育ての教訓の中には、モノに対する戒めというのがたくさんありました。
「ご飯粒を残すと目がつぶれる」「食べ物を粗末にするとバチが当たる」「モノには魂が宿っている」「無駄にすると化けて出る」
「付喪神・九十九髪」(つくもがみ)などといった考え方もその類型といえるでしょう。
また、各地に「針供養」「箸供養」などのモノに霊的なものを認めて祀るという習慣ものこっています。
近いところでは「もったいないお化け」のお話などもありましたね。
子育ての中で家庭で、モノを大切にすることをことさら重視して子供に伝えているうちというのは、僕の経験の中ではあまり見られなくなってきています。
むしろ今の子供たちは、過剰なほどのモノを与えられつつ育っていると思います。
そういうなかで多くの子供たちを見てきて、モノと心の育ちに関連があることをしばしば感じさせられます。
ただ、このことはあくまで僕の主観でしかないので、それが確実に正しいかどうかというのはわかりません。
なぜそう感じるかと言えば、大勢の子供の中で、モノを大切にできる子と、そうでない子の比較ができるからです。
モノを大切にしない子の中にもいろいろあります。
単になんでも豊富にお菓子やおもちゃなどを与えられるだけの子もいれば、親が手をかけない代わりにモノを与えられることでごまかされてきてしまった子、過剰な早期教育などの頑張りに対してモノでバランスをとってこられた子、などなど。
そういった子供たちの姿から、モノと心の育ちになんらかの関連があることに気づかされます。
昔からのモノに対する戒めがたくさんあるように、このことはなにも僕の発見というものでなくおそらく当たり前のことなのでしょう。
でも、かつての当たり前も現在では必ずしもそうではなくなっています。
なので、僕が感じたことをこうして書いておくこともなにがしかの意味があるでしょう。
モノと心の育ちといっても、たくさんの切り口があります。
全部こと細かに書くのは大変なので、大まかなところだけ簡単な子供たちの姿とともに書いていきます。
多くの人が子供に優しい人になって欲しいと望みます。
この「優しさ」ということもモノの扱いと関わってくると僕は感じます。
モノを大事にできない子は、モノを大事にできる子に比べて、なかなか他者に優しい関わりを見せられません。
モノを大事にしない子は優しくならないということではないですが、モノを大切にできる心が育っている子の方が、よほど他者を思いやったりする心を持ちやすい、もしくは表しやすいということを感じます。
よく小さい子は、モノや虫・花・小さな生き物などに対して擬人化をしますよね。
子供のこういう姿を「幼い・子供っぽい」と捉えて、そこからの脱却を成長として求める人もいますが、僕はこういう子供らしい心の動きというのはとても大切なものだと思います。
僕はしばしば社会性としての対人関係がはじまるのが3歳くらいからで、4歳くらいからそれが本格化していくと述べていますが、もしかすると子供はそれ以前の時のモノに対する扱いをモデルとして人間関係をまなんでいるのかもしれませんね。
「喜び・感受性・満足」こういったところでもモノとの関わりを感じます。
一時預かりで男の子二人の兄弟を預かりました。
食べ物飲み物は各自で用意して持参なのですが、その家庭は食事の時の飲み物として甘い加工乳、通常の水分補給用としてジュースを数本持ってきてしました。
つまり、飲み物が全部ジュース類なのです。
ほかの一時預かりでもジュース類を持ってくる家庭はありますが、それでも通常の水分補給用には麦茶や水などを持ってくる家庭がほとんどです。
こういうところに預けられるから特別にジュースをたくさん入れてくれたのかなとも考えましたが、その子供たちに聞いてみると、普段もジュースばかり飲んでいるとのこと。
保育中も、それこそ水のようにジュースを飲むのですよね。
我が家ではジュースなどは普段からあまり飲まないので、出かけたときやイベントのときなどの楽しみになっていて、そこには喜びや満足があるのですが、この兄弟にとってはジュースは本当に水替わりなので取り立てて、うれしさも満足もありません。
ジュースだけの話で終われば、まあさしてなにほどもないかもしれませんが、最近の子供たちを見ていて感じるのは「感動」のなさです。
なにごとかがあっても「心が動かない」子が多くなっているように思います。
子供が乳児のような小さいうちはそれほど顕著でもないですが、年中年長くらいのある程度の年齢になってくると、次から次へとモノを与えられて育った子供の中には、ちょっとしたことでは関心を示さなくなってしまうという子供がしばしばいます。
例えば、花が咲いていたり、そこで虫が蜜を吸っていたりということを見ても、それをなんとも心に留め置かないのです。
「ほら、蝶がストローのばして蜜飲んでいるよ」ということを伝えても、そこに関心を示さないのです。
先日子供会のバスハイクで大洗水族館に行ってきました。
震災の津波の影響で被害を被っていたので、震災後休館して改装、リニューアルしました。
昨今の流行りの動態展示を取り入れていたり、水槽に仕掛けられたカメラを子供が操作して観察できるなどの新しい仕掛けが随所にあってとても楽しめます。
イルカがジャンプするところの水槽がガラス張りになっていて、そこが眺められたりもするんですよ。
すごい迫力です。
しかし、子供たちはイルカショーなどが終わってしまうと、魚のいる水槽はほとんど流して見るだけ、30分もしないうちに、多くの子がベンチに座って持参のゲーム機で遊び始めたり、お土産の売店やゲームコーナーに行ってしまい、最後まで魚を見ていたのはうちの兄妹だけでした。
このような「心の動き」「興味・関心」にまつわるようなことが近年とてもひっかかります。
もちろん、モノだけが原因ではないでしょうけれども、モノが影響していることは確かにあると思います。
ある5歳女児。
家庭での受容や、自己肯定感の形成があまりうまくいっていない子で、しばしば他児に意地悪な言い方をしたり、他児に命令やひねた言動をすることがあり気になっている子。
あるときこの子がビーズ差しをして遊んでいました。
突起のある盤にちくわ状のビーズをさしてかたちを作る遊びです。
離れたところから観察していると、たしかにそれに集中してよく遊んでいました。
つまんだビーズが指から落ちて、体にぶつかりながら床に落ちていきました。
その子はその落ちていく様子を目で追っていたのです。
でも、その後なんのリアクションもありませんでした。
たいていの子供は、この同じ場面でビーズを拾いに行きます。
モノを大切にする気持ちがどうかという話ではなくて、注意がそちらに強く惹きつけられてしまうからです。
この女の子は、そこでなんの心の動きもなかったような感じでした。
心が動かないという状況になってしまった子供は、とてもアプローチが難しくなります。
褒めたり認めたりといったプラスの関わりをしても、なかなか響かなくなってしまうのです。
この子はまさにそうなってしまっていました。
僕には、そういった心がこわばってしまった姿の現れとして、このビーズ遊びの場面が強く印象に残っています。
長くなってしまったので今回はここまで。
今書いているテーマが多くなってしまったので、続きはちょっと未定です。
| 2013-09-29 | 心の育て方 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
「乗り越える」 ―うまくやるだけが子育てじゃない― - 2013.09.27 Fri
でもそんな気持ちが子育てを難しいものにしているということがたくさんあることも、また感じます。
子育てにはいくらうまくやろうとしても、どうやってもうまくなどいかない瞬間というものもあるからです。
元々子育てに不安を抱えている人や、うまくやらなければと強く思っている人、几帳面な人完璧主義な人などはそこで子育てにつまづいてしまいます。
多くの人にとって子育ては未経験だったり、知識や実地の経験のとぼしいものですから、それらは無理のないことです。
なので僕は「乗り越える」ということがあってもいいということを提案したいと思います。
「乗り越える」というのは、「その場をなんとかやり過ごす」とでも言い換えてもいいでしょう。
例えば2~3歳の成長期の頃、子供によってはその対応はものすごく大変です。
ただでさえ大変なのに、そこでさまざまな「○○してはならない」や「○○すべき」という様々な制約をつけてしまったら、どうでしょう?
それらを守ろうとしたら、もともと大変な上にさらに大変な努力を子育てする大人はしなくてはなりません。
特に母親一人が子育てをするというような、今のありかたの中でこういう自体になることはものすごいストレスや身体的な負担をかけることになります。
子育てを投げ出したくもなります。
投げ出せる人ならば実はいいのかもしれません。
真面目な人はそれで気に病むあまり、育児ノイローゼになったり、自己の自信喪失になってしまったり。
そのストレスから子供や周囲の人に当たったり、家族関係や人間関係を難しくしてしまったり。
それでその後々までも子育てが破綻してしまう人も少なくありません。
ネグレクトや放任などでも、それが加速化するのはこういった子育ての大変な時期を契機としてということが多いです。
そんな風になってしまうくらいならば、子育ての本当に大変な時期や、またはもともとの気質で癇が強いとか発達上の問題があって一筋縄でいかないときなど、とりあえずある意味では子育ての手抜きをして「乗り切ってしまう」ということがあってもいいと思うのです。
人はどうしても問題にあたると、なにかをすることでその状況を打開しようとしてしまいますが、人相手の場合「なにもしない」ということがその時においては最良の対応ということだってあります。
「モノでつったり脅したり、疎外感を与えることで子供を動かすのは望ましくない」「感情的に怒ったりするのはよくない」などというようなことを僕も書いていますが、本当に大変なときにまでそれをかたくなに守るのではなく、そういうことをしてでもそういう時期を乗り越えてしまっていいと思います。
多少のことは、そういう時期を乗り越えてからまた修正できるのです。
大変な時にまで自分を苦しめて、子育てそのものを楽しくなくしてしまうより、適当に落としどころを模索して子供と関わっていけばいいと思います。
家族の健康のために毎日きちんとご飯を作らなければならないと普段から思っている人でも、自分の具合の悪い時に無理せずともその日は買ってきたもので済ませてしまったりしても、それで直ちにだれかの健康に問題がでたりということにはなりませんよね。
また具合がよくなってから、いいと思うことをすればいいのです。
子育てもそれと同じでしょう。
| 2013-09-27 | 相談 | Comment : 21 | トラックバック : 0 |
息子の成長 Vol.8 ―夏休みの宿題― - 2013.09.26 Thu
もし、それで終わらなかったら、夏休みの終わりに泣きながらでもやらせればいいと思っていたので。
結果的にはその必要もなく、最終日になる前に自分で終わらせていました。
9月に入って学校の先生からのお話によると、夏休みの宿題を提出日に全部出した子供はクラスで8名しかいなかったそうです。
とりたててものすごく宿題の量が多かったわけではないのですが、30数名のクラスですから4分の3の子はやりきれなかったということになります。
これくらいのことは今も昔もどこでもそんなものなのかもしれませんが、僕にはやりきれなかった子が多いように感じてられて驚きました。
というのも、うちのように習い事もなにもさせていない家庭のほうがむしろ少数派で、多くのうちが習い事やなんらかの塾などに通わせており、ある意味よほど教育熱心なのです。
まだ進学塾という年齢でもないので、そちらの方のが大変になっているというわけでもないと思うのですが。
もしすでに勉強嫌いになり始めてしまっているというのでしたら、今後子供たちは苦労していくことになってしまわないか心配です。
教育学者の内田樹先生は、日本の教育は子供たちにいかに最低限の努力で学業をこなすかということを身につけさせてしまっていると述べられています。
勉強して知識や学業を身につけるのが目的なのではなく、テストであるとか入試であるとかそういうものをクリアすることが目的になってしまっているので、それに合致しないものを「無駄な努力」とみなさせてしまっているのではないかというのです。
こういった宿題の期限にしても過ぎても済むものならかまわないと子供が思ってしまっているのだったら、残念な気がします。
まだこの年齢は子供らしい素直さというのも本来多分にある頃なので、それによって期限などがあればそれに間に合わせなければとまだ素直に思わせることも可能だからです。
日本の子供たちが、このような大人の設定した目的をクリアするためだけに勉強を考えてしまっているのだとしたら、それは大人が自ら子供たちの勉強をつまらないものへとしてしまっているのではないかと思います。
| 2013-09-26 | 我が家の子育て日記 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
幼稚園見学に行ってきました Vol.2 - 2013.09.26 Thu
意外でないというのは、こういうことは保育園でもよくあるからです。
まず建物や設備が豪華だったり、新しかったり、綺麗だと一般の人の評価は跳ね上がります。
なかなか内容まで詳しく見ることができなかったり、見れても比較・判断の基準がなければ、それの善し悪しはわからないので、単純に見た目の印象でそこの園としての評価が定まりやすいのは仕方がないことなのかもしれません。
ですが僕の中では建物が新しかろうと古かろうと、保育内容の善し悪しには全く関係のないことなので当然そこには左右されません。
うちの近所でもっとも評判が高いのは、お勉強熱心でオプションで習い事などもある私立幼稚園です。
設備も立派です。行事にもお金をかけています。
親の参加も普段からなにかと多いそうです。
ここに通わせている人たちからするとこの園に通うことは一種のステータスらしくて、卒園の際には豪華な謝恩会をして、慣習としてブランド物のバッグなどを先生に贈ることが当たり前になっているそうです。
そのため卒対費はひとりあたり10万円ほどにもなるそうです。
金額がどうこうというわけではありませんが、その姿勢は僕には教育機関にふさわしいとは思えません。
表向きは評判の高いそこなのですが、一部からは親としても居心地が悪かった、子供がいきたがらなかった、子供を丁寧にみている様子がなかったなどの意見もありました。
あとほかにも3つ私立幼稚園がありますが、だいたい3つともいかにも私立幼稚園といったところで、そこそこの大きめの規模の園児数、わりと派手な行事、そこそこの親の参加、送迎バスがあって、給食が週に3~4日ある、とりたてて特色が強いわけでもないけど、周りの評判は可もなく不可もなく、僕の印象も同様に可もなく不可もなくという感じでした。
僕はいくつか幼稚園に対して素朴な疑問というか、わからない点があるのだけど、なんで毎日給食ではないのでしょうね?
毎日お弁当となっているところならば、それはわかります。
給食室の設備や配膳の設備、調理員なども雇わないという前提で経費なり運営なりが設定されているわけですから。
でも、設備や人員がいるのならば、3日やるのも5日やるのも同じように思うのですけど、なんでそうではないのでしょうね。もちろん毎日給食があるところもありますが、わりとそうでないところも普通にあるので不思議です。
あと、親の参加の多さも疑問点です。
年に数度の大きな行事の手伝いというのであればまだわかるのですが、毎月一度親が企画し実行も親による出し物の時間があったりというような話をしばしば耳にします。
教育としてカリキュラムを組んでやっているのだから、一部だけとはいえなぜ親任せの時間を設定してあるのか、意図やねらいが僕にはわかりません。
例えばまるっきり親任せでは、その内容が園の教育方針とそぐわないものをされたりすることだって可能性としてはあるでしょうに、教育機関としてそれを請け負っているのだから、自分たちの責任においてすべてのカリキュラムを運営する必要があるのではないかと思ってしまいます。
あと不思議なのは会議のために早帰りの日の存在ですね。
保育時間が長いところならばわからなくもありませんが、通常が毎日9時~14時とかの保育時間であるにもかかわらず、水曜日は会議のために12時までというのは、あまり理解できません。
保育園の基準から考えたら、14時や15時で子供が全員降園してしまうのだったら、それこそ毎日でも会議できそうです。
学校組織の昔からの慣習といえばそうなのでしょうけれども・・。
話がそれてしまいましたので戻します。
通える範囲にはもうひとつ私立幼稚園があるのですが、ここははっきり言って論外でした。
そこは昔から家族経営の幼稚園で、考え方も古く、子供に対しても保護者に対しても非常に居丈高な対応をします。
なにか要望やクレームがあっても、「気に入らないならやめてもらって結構です」というようなことを平気で言ってしまうそうです。
そのわりには、問題のある子供やいじめなどにはちっとも対処しないという具合で、そこはもう地域の評判も悪かったです。
よく潰れないと思うのですが、私立の場合は園バスがあるのでわりと定員くらいまでは集めることも可能なのかもしれませんね。
公立園でもっとも周りの評判の良かったところは、僕の中ではかなり評価が落ちました。
建物は建て替えて新築したばかりで、その周辺は子供も多いので定員もいっぱいになっていましたが、かなり内容は雑でした。
自由保育というよりも、ほぼ野放し保育のような感じで、普通に大人の目の届かない空間がたくさんあり、ではそこで大人の意図のある遊びなりが展開されているかというとそういうこともなく、環境設定に配慮されているわけでもなく、絵本ルームのようなところがあるのだけど、雑然と置かれているだけで意識が低いという印象を強く受けました。
また、なかでもとくに気になったのが、障がいを持っている子供への対応でした。
僕が見たときは発達遅滞の子供が2名おり、そこ子供ひとりにつき補助職員のような人が1名ついているのですが、ただ行動を制限して囲っているだけというような対応でした。
いくら正規の職員でないとはいえ、きちんと意図をもって配慮していくのがプロとしての役割ですから、その意識があれば活動内容や声がけなども、正規の職員がそれについての指導を他の職員にしていくべきです。
それこそ、毎週会議の時間なり、保育準備の時間なりがたっぷり取れるのですから、それができないというのは、不勉強で知識がないのか、知識があっても能力がないのか、やる気がないのかと言われても仕方がなくなってしまいます。
というわけで前評判の良かったこの園ですが、僕は自分の子供を通わせたいとは思えませんでした。
同じ公立であっても、前回のところで話した「自分からできる力をもたせる」と言っていたところは、自由保育の時間でもただの野放しになっておらずきちんと遊びが展開されていました。
子供たちの雰囲気も落ち着いています。
教材や遊具の設置なども整然としています。
遊具などの環境にも背景に大人の配慮・意図が感じられました。
同じ区の公立といえども、ずいぶんとその内実が違うものです。
やはり実際の雰囲気を見に行くのはとても大切だと思います。
最近のコメントの中で、「通えるところで思った通りの園がない、どうしたらよいか」というような質問がいくつかありました。
これは幼稚園でも保育園でも同様なのですが、それについての僕の考えを近いうちに書きたいと思います。
今日は長くなってしまったのでここでおしまいにします。
| 2013-09-26 | 我が家の子育て日記 | Comment : 15 | トラックバック : 0 |
幼稚園見学に行ってきました - 2013.09.23 Mon
ちょうど入園説明会なども開かれる時期なので同様の方もすくなくないのではないでしょうか。
幼稚園というのは、そこここにより特色が様々ですので、各家庭によって幼稚園になにを望むかというのは様々だと思います。
うちの場合はわりとはっきりしていて、子供を幼稚園に行かせようという目的は「集団経験」というものです。
それだけと言ってもいいくらいです。
僕は基本的に、むーちゃんが小学校に入るまでのんびり家で過ごしていてもなんの問題もないと思っています。
ただひとつだけ足りないと思える要素が、「子供同士の集団における社会性」という部分です。
おおよそ3歳児がそれの芽生えの時期で、4歳児からがそれの適齢の時期です。
子供の興味関心もそのくらいの年齢から、そういう方面に強まっていきます。
なので年中になる歳から、適度に(たくさんはいりません)それがあればいいと思っています。
ですので、幼稚園にはお勉強も求めませんし、立派な学芸会や豪華な運動会も別に求めません。
別料金のオプションで習い事を教えてくれる必要もないですし、親がたくさんの準備をして派手な行事をすることも僕としてはいりません。
しゃかりきになって熱心に体操やお遊戯を仕込まれることも別に望んでいません。
日々行くべきところがあって、そこに家庭とは違う自分の居場所があって、これまた家庭とは違う人間関係があって、何がしかの自分の役割があって、そこで適度な時間楽しく過ごして、また次の日行きたいと思えるそんな場所であればいいと思っていました。
別に私立公立のこだわりもないのですが、うちの地域周辺では私立の幼稚園は3歳児からの入園がメインで4歳児クラスになってからの募集はどこも、あるかないか、あっても若干名というような状況でしたので可能性が高いのは必然的に公立の幼稚園になってしまうかと思います。
同じ公立の区立幼稚園でもやっぱり実際に行ってみないとその雰囲気はわからないもので、園によってはずいぶんと子供たちの様子や、職員の子供たちに対する姿勢なども違っていました。
また地域の特性からくる雰囲気の違いなどもあると思います。
同じ公立でも雑なところもあれば丁寧なところもあり、理念をもって子供に臨んでいるところもあれば、ただやり過ごしているだけというところもあったり。
一概にだからいいとか悪いとかでもないのですが、いろいろそこここの特色が感じられて興味深かったです。
これまで自分の住んでいる区の公立保育園の保育の質の低さにはほとほとあきれていたので、それに比べるとむしろ区立幼稚園の方は概してしっかりと運営されているという印象を受けたので、わりと見学してみてほっとしているというのが正直な感想です。
なかでも我が家から一番近い公立幼稚園がきちんと理念をもとに保育(幼稚園でも「保育」といいます)していてとても好印象でした。
「子供にさせてできるようにするのでなく、自分で考えて子供自身からのできるを目指しています」
短い時間でしたが副園長の方とおはなしをしたときそういったことをおっしゃっていました。
このことを指導する側が認識しているというのは、幼稚園教育においてとても重要なことです。
幼稚園は保育園に比べて、数の上でも圧倒的に「私立」が主体となって発展してきた部分があります。
私立ですので経営的な部分にも敏感で、中には園自体が教育理念よりも経営主体のあり方になってしまったところなども少なくありません。
そのなかで、「親の望む子供像を実現させる」ことが目的になってしまっているところもたくさんあります。
そこで行われるのは、どうしても子供主体の成長ではなく、「させてできる」類の成長の部分に目がいっているものが少なくありません。
だからといってそれが必ずしも悪いということではありませんが、僕個人の考えとしては個々のあり方にあったそれぞれの成長が得られればいいと思っているので、この幼児期においてはたくさんの「させてできる」はなくていいと考えています。
僕も似たようなことを過去記事で何度も書いていますが、日本の子育て・幼児教育においてとくにこの「させてできる」育ちと「自分からできる」育ちの違いというのは見失われてしまっていると思います。
なので、身近な幼稚園でそれについての話が聞けたことは、「子供そのもの」への視点をもっていることの証でありとても嬉しく感じました。
実際の保育の内容がそれに見合ったものであるかどうかというのは、まだ未知数な部分もありますが、そこでの子供たちの姿をみればそれがただの建前で終わっていないということが実感として理解できます。
こういうところはやっぱり複数のところを見比べるとより顕著にわかりますね。
公立なので毎日お弁当だし、保育時間も9時~14時です。
年中と年長の2クラスしかありません。
本来30数名の定員だそうですが、なんとどちらのクラスも定員割れしています。
3歳から預けたいという人がほとんどなので、年中からしかない区の幼稚園は概ね人気薄のようです。
でも逆に言えば、3歳まで家庭でのんびりしてきた子供ばかりということなので、幼稚園の子供たちを含めた全体の雰囲気ものんびりしています。
まだ半分くらいメルヘンの世界に住んでいてのんびり屋のむーちゃんには、そういうところがちょうどいいかと思います。
そんなわけで、我が家の幼稚園選びはそこらへんに落ち着きそうです。
| 2013-09-23 | 我が家の子育て日記 | Comment : 20 | トラックバック : 0 |
本当にモノがないことはかわいそうなことなのか Vol.2 ―コメントを受けて― - 2013.09.14 Sat
共感や応援という種類のものであればさして気にならないのですが、別々の意見という形での「横コメント」(管理者以外のコメントに対するコメント)がついてしまうと、掲示板化してしまいレスがつけにくいので、こちらの記事でこのことについて掘り下げていきたいと思います。
そういうわけですので、該当記事のコメントには一部相談等を除いて全て返信いたしません。
この記事をもって返信とさせてください。
この点、円滑なブログ運営のためになにとぞご了承ください。
かの記事の趣旨というのは、「モノを与えるべきか」「与えないべきか」ということではありませんでした。
その前の記事との文脈がありますので、そこは無理なく理解いただけるものと思います。
おそらくみなさんもそれは理解していらっしゃるのでしょうけど、自己の生育歴や思い入れなどでもともと思うところのあった意見が、趣旨とは違うことを感じつつも出さずにはいられなかったというところではないでしょうか。
この記事で述べたかったことは、コメントのなかで子持ちししゃもさんが要約してくださったとおりです。
僕はこういったモノの問題に関わらず、人に「○○すべき」「○○すべきでない」という子育ての理屈を押し付けることで子育てをよくしていこうとは思っていません。
もちろん、なかには僕自身「○○すべき」「○○すべきでない」と感じていること、思っていること、信じていることはたくさんあります。(「受容すべき」「体罰するべきでない」などなど)
でも、それを人にそう伝えることで、ものごとが良くなるのだと単純に考えることはしません。
例えば、自分の生育歴ゆえに、どんなに手を挙げたくないと思っていても手が出てしまう人だっています。「体罰すべきでない」というのはある種の正論です。それをその人に押し付けたところで苦しめるだけであって、問題はなにも解決しないのです。
子育てはさまざまな複雑な要素がからみあっています。正しいことを言ったからといって、よくなるというものではないのです。むしろ悪くなることだってたくさんあります。
現在ではその弊害の方が多いといってもいいかもしれません。
この点がデータや研究で積み重ねてきた子育て論や、感情論や精神論からくる子育て論との、現場でさまざまな子供、親、家庭、周囲の人間などと関わることで子育てを考えてきた僕の大きな違いといってもいいのかと思います。
以前から読んでくださっている方は、このあたりのことはよくご存知でしょう。
子育てでもっとも有用な資質は「おおらかさ」
子育てに必要なのは「バランス」
子供も、そして大人もひとりひとりが違う
そういうことを関連する話が出るたびに述べています。
なので、今回のことで言えば「モノを与えるべきか」「モノを与えるべきでない」ということそのものは、さして重点を持たないのです。
本当に大切なのはその向こうにあることでしょう。
モノをたくさん与えられて、満足する気持ちも、モノを大切にする気持ちも、人との関わり方も、人に優しくすることも知らずに育ってしまう子もいます。
モノをたくさん与えられはしたけど、満足する気持ちも、モノを大切にする気持ちも、人との関わり方も、人に優しくすることもきちんと覚えて育つ子もいます。
モノを与えてもらわなかったけど、別のことで十分に満足できる力を手に入れて、他者ともモノを介さないところで関わることを覚え、さらに自分らしさを発揮できるようになるという子もいるでしょう。
モノを与えられないことで、コンプレックスを持ったり、他者と関わることに気おくれをしたり、過度に苦しみながら我慢を強いられてきた子もいるでしょう。
大事なのは、モノの扱いを通してどういった自己を子供が獲得するかということです。
現実にはたいていは親がある程度のバランス感覚を持っていれば、どちらよりの考えであったとしてもおおむね問題のない範囲で育っていくということなのかもしれません。
コメントの中で焦点になっているのは、「自分は親に極度にモノ(やテレビなどの情報)を制限されて育った。それは大変つらいことであったし、これまでの人生にそのことは大きく影響した」という種のことです。
たしかにこういう育てられ方というのは大変つらいものです。
モノのない時代だったり、貧しかったり、最初から得られない状況であったのならばさしてそのようには感じないことだったとしても、そういったことを親の一方的な押し付けでもってさせられたというのであると、そこには子供だとしても納得のできないものが残ることでしょう。
こういったことは、モノの扱いということが表面上の問題とはなっているけれども、実際はその向こうに親の子供に対する見方、立ち位置というものが大元にあるのだと思います。
この親は子供の気持ちをそれを許容するか否かは別として、尊重していたであろうか。
子供の思いを汲もうという気持ちはあったのだろうか。
モノを与えないだけでなく、モノに変わるようななにかを子供に持たせようとしたのだろうか。またそれはできたのだろうか。
モノを与えないという判断は、子供のことを考えてのことであったのか、それとも一方的な押しつけであったのか。
子供のいる状況を認識し、それと親自身の考えとのすり合わせというプロセスをもっていたのだろうか。
などなど。
単にモノの扱いにとどまらない様々な焦点があったはずです。
親の育った時代や環境と、現に子供が育っている時代・環境には大きなへだたりがあります。
時代の流れがゆるやかで、親と子供との世代にほとんど差がないということもかつてはあったでしょう。
しかし今はまずそうではなくなっています。
親が自分の育ったときの価値観を押し付けようとしてもうまくいかないこともたくさんあるでしょう。
しかし、だからといって親が自分の意見や価値観を放棄して、時代の流れに流されるまま子供にさせればいいかというと、それではうまくいきません。
そう育てられてしまうと、子供は価値判断の基準というものを持つことができず混乱するようになってしまいます。
大事なのはそれらをすり合わせ、いまベストなりベターなりと思えるところを親子で模索して、そして両者がそれをある程度でも納得し合って過ごしていくことです。
子供も違い、大人も違い、環境もちがい、家庭のあり方もちがいます。
なので、結果的にはさまざまな形のものが生まれるでしょう。
でも、それが親が子のことを思い、子が親を理解しようとし、それを互いにすりあわせてその上で生まれたものであるならばそれでいいでしょう。
でも、親が自分が楽をするために子供にモノを与えることでごまかしたり、まだなにも問題のないうちから「こうなっては心配だ」とモノを与えることで安心を得てしまったり、本来ならば人が手をかけてすることをモノにさせてしまったり、
子供が親の自分への気持ちを向けたいだけなのに、モノを要求することしか知らなかったり、自分の気持ちの隙間を埋めるためにモノを求めだしてしまうなどの種々の問題は、この「モノを与える与えない」ということとはまた別個のものなのです。
そして、この問題はそういう知識や視点をもって見てみると、わんさかあります。
それは現代の子供たちを蝕んでいると僕は感じています。
いまの親世代、祖父母世代の多くの人は、この視点において盲目です。
モノはいくらでも手に入れることができ、モノで本来ならばかけがえのない行いをすべきところを代行させてしまうことすらもできてしまいます。
これはモノそのものだけでなく、さまざまな子育て産業や教育産業の中にも見出すことができます。
子供はモノを与えられることでの表面的な笑顔とはうらはらに、さまざまなところで苦しんでいたり、身につけたり学ばなければならないことを獲得できないままに子供時代を終えてしまいます。
そうすると、その人の価値観というのはそこで固まってしまいかねません。
その価値観がその子にとって良い形のものでなかった場合、一部の自分を乗り越えることのできる強い人や、そういった機会・環境、周りの人間に恵まれた人だけが、なんとかそれを自分自身ですり合わせ修正することができます。
できたとしてもそれはなかなかに辛い経験でしょう。
でも大概の人は、モノへの価値観は変えられないまま、モノやお金への強い執着やこだわり、対人関係の難しさなどを抱えたまま生きていかなくてはなりません。
もちろんそのことが必ずしも、悪いことであるとか、不幸なことというわけでもないでしょうけれども、なかには苦しんでしまう人がいるのも事実です。
オーバーなことを言ってるように聞こえるかもしれませんが、保育園でも5~6歳で価値観がモノの優劣で判断するようになってしまっている子などあまり珍しくなくなっています。
この子が将来、その価値観で苦しまなければいい、その価値観で他者を傷つけなければいいと願わずにはいられません。
正直こういった価値観は根深いものなので、親ではない保育士程度ではこの年齢になってしまってはなかなか変えていくのは容易ではありません。
考えるきっかけを与えられるくらいが精一杯のところです。
そんなこんな思いがあって、モノを子供にあたえるにおいて、モノの扱いについての視点を多くの人に考えてもらいたいと思った次第です。
これだけたくさんの反響があったのだから、そのことは無駄じゃなかったかなといまは感じています。
これを持ちまして、みなさんのご意見にたいするお返事とさせていただきたいと思います。
もし、ご希望があれば、直接子育ての中での関わり方という種の話ではありませんが、モノの扱いが子供にどういう影響を与えたなどの具体的なところを紹介します。どちらかというとあまり良くないケースの事例ということになるでしょうか。
でも、『息子の成長』なんかも途中なのでちょっと先になるかな。
わりと書いていて気が重くなる類のものなので、あんまり希望がなければやめておきます。
| 2013-09-14 | 日本の子育て文化 | Comment : 26 | トラックバック : 0 |
武道必修化について考える - 2013.09.13 Fri
今回は「学校における武道必修化」の話ををもとに、これからの教育についての僕なりの感じたところを書いていこうと思います。
いつものメインテーマにしているところの、乳幼児期の子育てについてのこととは直接関係ないので、興味の無い方はどうぞスルーしてください。
当初、武道を必修する理由として2006年改訂の『教育基本法』のなか(当時は自民公明連立政権時代)で「(日本の)伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国と郷土を愛する…態度を養う」といったことが挙げられていました。
それを受けて上記のH.20だから西暦だと2009年になるのかな、その『中学校学習指導要領』で具体的に盛り込まれます。
つまり、日本の「伝統文化」と「愛国心」を学ぶために武道を(女子も含めて)子供全員にさせましょうということです。
ここで僕が特に気になったのは「愛国心」というところです。
まあ、「日本の伝統文化」というところでもひっかかるけどね。
「日本の伝統文化」がなぜ即、武道なのかというのも実はおかしいことです。
現在行われている武道は実はさして伝統文化ではないからです。
伝統文化というならばもっと、ほかにもいろいろあるはずです。
茶道でも華道でも、俳句や短歌でも盆踊りでも南京玉すだれだっていいはずです。
それらの選択肢のなかに武道があるのならわかりますが、それもなにもなくいきなり「武道」と言ってしまうのは、その思考になんらかのバイアスがかかっていると感じてしまいます。
話を「愛国心」に戻します。
「え、武道を愛国心と関連づけて教育の中で行ってしまうのって、日本の民主主義教育が始まる時にともに否定された概念なのに、現代になってそんなこと(どうどうと)言っちゃうのか、たまげたなぁー」と驚きとともに感じました。
武道と愛国心の関連付けについては多くの人が知らないと思いますので、僕の驚きの理由がわからないことでしょう。
簡単に説明したいと思います。
第二次世界大戦の敗戦後、連合軍の進駐政策が始まりました。
そこでいくつかの大きな施策を行っています。
中学校高校の歴史の授業でならっているはずです。
そこで教えられるのが、「財閥解体」「農地解放」といったあたりです。
もうちょっと詳しく教えているところだと、そこに「高等師範学校の解体」「戦犯の公職追放」などが盛り込まれます。
ほかにもマイナーなものがいくつかあるのですが、そのなかに「大日本武徳会」の解散というものがあります。
ここまでになると詳しい教科書でも書かれていないので、知らない人も多いかと思います。
「大日本武徳会」というは、簡単に言うと軍国主義政策のなかで当時の政府が各武道を掌握することで、軍国主義に武道を結びつけようとした政府の外郭団体といったものです。
創設は明治時代ですが、そのナショナリスティックな活動は昭和に入ってさらに加速化されました。
このあたりが、軍国主義政策に積極的に加担したことで、戦後日本が民主化するために阻害要因になるとして、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって解散された理由です。
占領後の一時期日本のさまざまな武道は禁じられて(映画や小説などでも時代劇などはできなかった)、さらに後にそのような軍国主義思想や愛国思想と切り離したところでようやく再建されることになります。
その際に、そういった思想的な面は減らされスポーツ化した形での復活となります。
特に柔道・剣道は競技性を強く持たされたために、よりスポーツ化したといえるでしょう。
このスポーツ化した武道というものが、本来の武道から考えていかがなものかということはもちろんあるのですが、でも、戦前戦中の武徳会主導の武道が本来の武道であったかというと、これももちろん本来あった武道とは大きく形をねじまげられたものであることは否定できない事実なのです。
もともとの武士がいた時代の武道というものを考えればそれは一目瞭然で、その当時の武道の概念の中に「愛国心」だなどと武徳会が重要視した考えなどそもそも入ってはいないのです。
これは明治初期に急激に近代化・西欧化するなかで、いちど断絶した武道が軍国主義的・富国強兵的な当時の潮流に飲みこまれる形で再構成されたゆえのものであるわけです。
しかし、現在でも「武道」というと、そのナショナリズムと結合された状態での「武道」として懐古する人、連想する人などは少なくないようです。
と、いうわけでここで僕の驚きというところに戻りますが、
つまりは、武道の必修化という問題を、そのナショナリズムとくっつけたところの「武道」として名指しで盛り込んできたからです。
せめてもうちょっとオブラートに包んで入れてくるならば驚かなかったかもしれないけれども、政治家がどうどうと、あからさまに軍国主義時代の施策のひとつを盛り込んできていることに驚きを隠せないのです。
政治家はその辺の事情というのは、知らないか何も考えずにおのれの主義主張によって教育基本法を変えたのかもしれないけど、すくなくとも文科省の役人たちはわかってやっているはずです。
全柔連や日本剣道連盟などは文科省の管轄下にある団体ですから。
文科省の学習指導要領を説明しているところでは、かなりオブラートにつつんで控えめな表現で武道の必修化について述べられています。
ついでにいうと、文科省のHPには柔道に関する安全措置についても随分といろいろ書かれているのだけど、どこから引っ張り出したのか学校柔道における死亡者0名などという不思議なデータをのっけています。
これはどう考えても偽りで、文科省の外郭団体である日本スポーツ振興センターが毎年発行する『学校管理下の死亡・障害事例と事故防止の留意点』のデータをもとに名古屋大学の内田良准教授が分析した柔道での死亡事故、ここ28年間で114人、重い障がいを負う事故275名という研究結果を無視して、意図的に安全であると国民に思わせるようなことをしています。
文科省の役人は国民を騙してまで政治家のお先棒を担ぎたかったのだろうかと僕は思わざるを得ません。
もちろん、年間たかだか13時間ほどしかできない程度の武道の授業で軍国主義だなんだと大げさなことになるわけもないことはわかりますが、それが一部の政治家の意図によって引き起こされているとなると、問題が小さいうちからきちんと認識していないとあとでとんでもないことになるというのは歴史が証明しています。
実際、現総理大臣は戦争をできる国にしようと躍起になっていますよね。
政権をとったらさっそく、憲法解釈という搦手から、現行法でも他国の戦争に介入できる法整備に着手しています。
これも本当にあからさまで驚かされました。追い風が吹いていると普通ならば、もっと時間をかける必要があるものもやりやすいようですね。
はなしがそれてしまうので戻しますと、こういった政治的意図の直接的な教育介入というのは、民主主義国においては大いに問題にすべきことであって、いじめについて述べたところでもちらっと出ましたが、教育権の独立、本来は教育は市民の手によって構成されるべきものという大原則がゆらいでしまいます。
いま、政府も文科省も大変な勢いに乗って、この教育権の独立を中央主導に変えようとしています。
日本は教育委員会がほとんど行政の持ち物になっているので、実際には教育の独立などというものは実感的には存在していなかったわけですが、例外的にがんばっていたのは大学です。
大学自治の基本的理念によって、大学は教育を一貫して自分たちの手で行ってきたのですが、助成金などを盾にとって、もうすでに相当の切り崩しが進んでいます。
義務教育分野などにおいても、そういう傾向は強まっているようです。
教育を受ける子供たちのことを考えたり、現場の意見を見向きもしないような形での中央主導の、施策が続々と打ち出されています。
武道やダンス必修化にしろ、いま議論になっている英語教育のさらなる低年齢化など、検証もほとんどせず、文科省の方針一つで推し進めるようなことがあからさまに多くなっています。
先のゆとり教育であれほどの大失態を露呈して、文科省はすこしおとなしくなるのかと思ったら、まるでゆとり教育の失敗などなかったかのように、思いつきのようなことを次から次へと出してしまう文科省。
識者会議みたいなのを開いても、役所側のいいようにお膳立てしてあるなどさまざまな問題も指摘されています。
日本の教育の将来はこのままで大丈夫なのかとても心配です。
| 2013-09-13 | その他 | Comment : 11 | トラックバック : 0 |
柔道界の不祥事からいろいろ考える - 2013.09.12 Thu
今年に入ってからでも同様の問題がどれだけ明るみにでただろうか。
去年から見たらものすごい数である。
いくら格闘技に類するスポーツの世界の話だといっても、これは尋常ではないだろう。
僕はどこかスポーツのチームを贔屓にしてそこを応援して楽しむとかの気持ちのあんまりない人間なのだけど、柔道だけは好きでよく見ていました。
強化選手・代表選手たちにおける、暴行・体罰・セクハラ・パワハラ。
各学校の柔道部・授業における、上記のものに加えて、事故それもたんなる事故ではなく重過失によるものや、指導者や上級生からの「しごき」などから引き起こされる人為的とも呼べる事故が、近年のみならず過去からなんら改善されることなく多発しています。
よくいいわけや弁護として「スポーツだから事故が起こるのは仕方がない」というような意見がでるけれども、これらはそこでいう意味の「事故」の範疇から外れているでしょう。
だって指導法からして事故が起きることを内包しているのだもの。
他のスポーツと比べても柔道界のそれははっきりいって異常です。
根本的な問題として、あまりにそういった暴行やしごきが当たり前のものと柔道界では横行してしまっているので、柔道を指導する側やそれを学ぶ人間に、そういうことを問題視する意識がなくなってしまっていることが挙げられると思う。
その最も端的な例が、今年の1月に起こった「女子柔道強化選手による暴力告発問題」でしょう。
あれだけの大きな問題に対して、日本柔道連盟は当初なんの処分もせず監督留任という裁定を下しました。
ちょっと常識では考えられない対応だと思います。
それ以前からも暴行やハラスメントがあったことが明るみに出たにもかかわらず結果的には監督辞任という形でうやむやになりましたが、ようやく周りからの責任追及の圧力によってそれでもしぶしぶ関係者数名に戒告処分(ようするに注意だけ)という軽い裁定しかでませんでした。
しかし、このことをきっかけに柔道連盟関係者のハラスメントやわいせつ行為、助成金の不正受給などがわんさか出てきました。
やはり中央の柔道連盟がこれでは、学校における柔道指導などもなかなか是正されないでしょう。
指導する側が自浄作用を持たなければ、今後日本の柔道は衰退していく一方になってしまうのではないでしょうか。
いまのこういった状況で、とりたてて柔道に思い入れのある人でなかったら、子供に柔道を習いにいかせようなどと考える人は多くないはずです。
以前、教育関係に携わっているある人がこんなことを言っていました。
「子供に柔道習わせると態度悪くなったり性格悪くなったりするから、習わせるならば空手やボクシングの方がいいよ、よっぽど礼儀とかきちんと学んでくるから。」
そのときは、さほど実例を知っているわけでもないので、「ふーん、そんなもんかー」となにげなく聞いていました。
でも、よくよく考えるとなかにはそんな人もいたのを覚えています。
中学時代の同級生で都の代表になっていた人も、その人とは別人ですが高校の同級生でやはり都の代表選手になっていた人も、まあおんなじようなタイプで性格悪かった。
人を見下したり、力や威圧で我を通しでばかりだったり。
もちろん、そうではない人やむしろ立派な人格の柔道をしている知り合いや先生などもいたけれど。
僕はむしろ柔道好きな人間ですが、この一連の柔道界の不祥事を見ていると、いまの柔道界は自浄作用がないままオリや膿がたまったままよからぬ方へ来てしまっているのを感じざるを得ません。
さてそんな柔道が、文科省の方針で中学校における武道の義務化ということで、学校教育のなかで大きく取り扱われることになりました。
当時ずいぶんと反対の意見も上がりましたが、政治家の後押しもあってほぼそのまま決まっています。
きちんとした実績があるならばまだしも、こんな悪い実例ばかりで学校での柔道大丈夫だろうか?
子を持つ親としては気になります。
日本の柔道界は外国の柔道を「パワー柔道」といって否定しているのだけど、そのパワー柔道をしている国々の方が、圧倒的に事故が少ないのです。
学校によっては柔道をとりいれているところもあるフランスでは日本で起こるような、練習中の死亡事故などありません。
柔道の練習における事故率は日本がダントツに高いのです。
なぜそうなってしまうのか考えれば素人でも、指導者や指導法に問題があるということをだれしも思いつくでしょう。
しかし、当の柔道を指導する人たちはそれに気づいていないかのようです。
もちろん、十分に配慮している人たちもたくさんいることでしょうけれども、そうでない人たちが多すぎて世間からはとても努力している・是正に努めているとは認められない状況です。
この一連の事件のあとに、柔道関係の著名人の多くの人に「柔道指導における体罰について」の質問がたくさん寄せられたのだけど、みなさん歯切れが悪い。
大部分の人が、一応の体罰否定の意見を述べるのだけど、「ある部分では仕方がない」だとか「勝つためには強い指導も必要である」というような、「部分否定のあとの部分肯定」といった感じです。
こういう意見を聞くと、普通は「ああこの人たちも、体罰やそれに類することをやったりやられたり、自分がせずとも、周囲にあることを黙認してきたのだろうな」と感じることでしょう。
勝つために何をしてもよくて、指導者が暴言を吐いたりするような力に見合っただけの精神修養もしてこないのであったら、本来の武道の精神などそこにはかけらもないのだから、柔「道」などと名乗らなくてもいいのですよ。
最初から興行収入目当てのスポーツとしてでもやればいい。「J-1」とかでも作って。
僕は柔道ではないけれども武道をしている人間としてはそう思ってしまいます。
体質の中にもう染み付いてしまっているのでしょうか。
よほど本気にならなければ、日本の柔道はこの先衰えていってしまうのではないかと心配です。
当の柔道をやっている、本来ならば柔道が好きな人達によって、自滅の道を歩んでいってしまいかねません。
きっと心無い柔道指導よって一生の障がいを負わされてしまった人や、子供を事故死させられた人たちからすれば、自業自得だと映ることでしょう。
柔道連盟には運営側に独自の問題があって、ある学閥が権力を掌握してしまっているので権力側はやりたい放題で、本来ならば良心になるような人たちがあまり活躍できていないようです。
学校で子供たちにも教えるものなのだから上にはもっとしっかりしてもらいたいと思います。
しかし、日本のスポーツ関係の団体、○○連盟だとか、○○振興財団などには、天下りやなんやかやと不透明な部分や黒い部分があってなんだかなぁと思わざるを得ません。
柔道の話がでたので、以前から考えていた「学校における武道の義務化」についての問題を次回か次回以降に書きたいと思います。
この記事を書いてから読んだのだけど、今日付けの読売新聞によると天理大柔道部の暴行事件は4年生がやっただけでなく、さらに4年生が2年生に指示して1年生に暴行を振るっていたとのこと。
こういうのはまさに暴力の連鎖だね。
全員を共犯に巻き込むことによって、行っていることを正当化するというしばしば犯罪などで使われる手口と限りなく近いと言えるでしょう。いじめなどでも同様の手口というのは常套手段ですね。
こういうことをしているということは、「たまたま」ではなくかなり確信犯的であると普通に考えればわかることです。
柔道連盟は
「試合が近いから選手を集めて気合を入れようと、最初は口頭でやる予定が、熱くなりすぎて連鎖的に(暴力行為に)なったそうだ」「隠蔽はなかったと思う。常習的に行われたというのは天理大には酷だろう」 ― 近石康宏専務理事(64)
と、またなあなあ処分で望む気のようです。
蹴りや暴行の使嗾までしておいて、「ちょっと熱くなっちゃっただけだから、多めに見とこう」って、どんだけ甘いんでしょう。
本当に大丈夫なのかね柔道。
この一連の事件や不祥事で、僕自身もうあんまり気持ちよく柔道応援できなくなってしまったなぁ。
ほんと残念。
| 2013-09-12 | その他 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
本当にモノがないことはかわいそうなことなのか - 2013.09.10 Tue
おそらく、多くの人もモノで心を満たしたりするようなことをいいことだとは考えていません。
しかし、ほかの感情や考え方などから結果的にはそういうような行動を大人が子供にしてしまっていることはとても多いです。
しばしば聞くのが、「周りの子は○○しているのに、我が子が○○していないのはかわいそう」というものです。
例えば、
その大人自身が炭酸飲料などを好ましいと思っていないにも関わらず、「周りの子が飲んでいるのにうちの子だけ飲ませてもらえないのはかわいそうなので飲ませている」
同様にテレビゲームなどでも、好ましいと思っていないにも関わらず、「周りの子はみんな持っているのにうちの子だけ持っていないのはかわいそう」
以前コメントでこんなことを教えてくださった方もいました。
「既製のお菓子などあまりすきではないので、我が家ではいつも手作りおやつを作っています。しかし、知人からスナック菓子など食べさせてもらえないのはかわいそうということを言われました」
わざわざ手間をかけ、子供の健康や育ち、食を考えて毎日手作りでおやつを作ってもらえるというのは、なかなか得難いことです。
それなのに、むしろそれがかわいそうなどとどこをどう考えたらそうなるのか、僕には不思議ですが、でも現実にこのような考え方をする人は少なくないようです。
おそらくは大人の価値観のなかでも、もはや「モノはあって当たり前」になってしまっているのでしょうね。
すでにそういう社会のあり方になってしまっていますので、親がきちんとそのあたりを考え子供に関わっていかないと、モノでなくとも心を満たしたり、モノの大切さを学ぶなどということはなかなか子供に持たせられなくなっているような気がします。
先ほどのこういうケースも「周りの子は○○しているのに、我が子が○○していないのはかわいそう」
それを親がやらせたいと思ってさせているのならば、それはそれでいいと思います。
しかし、親はさせたくないと思っているにもかかわらず、「周りと比してないことがかわいそう」というのは、大人自身に必要な強さが足りないと僕は思います。
まぁいかにも日本人的な考え方だなあと理解はできますが。
むしろ、僕は親が良かれと思うことを子供に伝えきれないということ、そのことの方がその子供にとってかわいそうなことなのではないかと考えます。
| 2013-09-10 | 日本の子育て文化 | Comment : 28 | トラックバック : 0 |
息子の成長 Vol.7 「うちはなんでも半分こ」 - 2013.09.09 Mon
「うちはなんでも半分こ」
という言葉を我が家ではときどきつかいます。
まあ、そのまんまなのですが、お菓子とかおもちゃとかなんでも「分け合って使おう」というようなことです。
「うちはなんでも半分で分けるんだから、我慢しなさい」みたいなニュアンスで使っているわけではないです。
うまく説明できないけど、分け合うことを楽しむというか、関わりとしているというかそんな感じで使ってます。
だから子供たちはむしろ分け合うのが大好きです。
「これおいしいよ、たべてみて」
と、むーちゃんのお皿にも載っているものなのだけど、わざわざ息子は自分のおかずをむーちゃんに食べさせてあげたり、むーちゃんがおとーちゃんやおかーちゃんにくれたりもします。
お菓子をわけあったり、そういう姿も微笑ましいのだけど、僕や妻の思いの根っこにあるのは、「モノで心を満たす人にはなってほしくない」ということだと思います。
モノが豊かにあるというのは、たしかにある部分では心を満たしてくれます。
でも、子供が小さいうちからモノで心を満たすということをしていると、やがてモノがあるのが当たり前の状態になって、さらに新しいもの、豪華なもの、人の持っていないもの、というように結局のところ次から次へとモノを求める気持になってしまい、「満たされる」というのとはちょっと違うところへ行ってしまうことがあるようです。
僕も妻も多くの子供を見ていて、経験的にそういうことを知っています。
下手をすると「モノの豊かさは心の豊かさと反比例する」なんてことすら起こりうるようです。
これは子供とは関係ないですが、こんなこともありました。
車でスーパー銭湯に行ったときのこと、そこは入口のすぐ横に身障者用の駐車スペースが6台分あります。
通常の駐車場はちょっとだけ歩く場所にあります。
かなりすいているときだったのだけど、その身障者用の駐車スペースには全てに車が止まっています。
その車のどれもが、金のエンブレムのついているような高級車だったり大排気量のエンジンのものだったり、通常障がいを持った人が乗っているような車でないものばかり。
体の不自由な人に発行される駐停車禁止区域免除のライセンスカードが置いてあるわけでなし、銭湯の中にも車椅子の人やそれらしいひとがいるわけでもなし。
そんなに車にお金をかけられるような豊かな人たちが、ずいぶん心無いことするのだなぁとやるせない気持ちになったことがありました。
保育園の子供でも、親には気持ちを向けてもらえずに、モノを買い与えることで代用されてきた子供達というのをたくさん見てきました。
友達と話すことの大半が自慢話だったり、ほかの子がもってないことをあげつらってばかにしたりすることが性格として板についてしまったような子供などもいます。
小さいうちから、なんでも食べ物やモノでごまかされてしまうので、親の暖かい関わり方の求め方を知らずに、モノを求めることをゴネることでしか親との関わり方がわからなくなってしまっている子なども珍しくありません。
成長期などの一時ならばたいしたことではありませんが、その子の性格の中にまでそういう形でのモノへの関わり方が入り込んでしまった子というのは、大きくなってもなかなかそれは変わりません。
こういったものへの姿勢というのは、親の影響がとても大きいことです。
正直に言ってその子供にとって、それはとてもかわいそうなことです。
本当に求めているものが得られずに、モノで満たすように育てられてしまった子供というのは、いろいろなところで苦しみます。
そしてそれは本人ではどうしようもありません。
だから子供には「モノで心を満たす」ようにはなってほしくないと思っています。
その代わり受容や信頼という関わりで満たします。
そのことはとてもうまくいっていて、おじいちゃんやおばあちゃんがやたらとおもちゃを買ってあげようとしても、「ううん、そういうのもうもってるからいいの」と笑顔でいう子になっています。
ちなみに、たいやきを半分こするときは、頭の方はむーちゃんで、しっぽの方は息子ということにいつもきまっています。
| 2013-09-09 | 我が家の子育て日記 | Comment : 11 | トラックバック : 0 |
息子の成長 Vol.6 ―交通安全― - 2013.09.08 Sun
うちの近所は大きな幹線道路が交差するところなので、幹線道路から中に入ったあたりでも、ほとんどの通りがその二本の道をつなぐ「抜け道」と化していて、あまり安全とはいえない環境です。
抜け道になっているところって、本来大きな車や多い交通量を想定されていない道なので、歩行者・自転車はけっこうヒヤッとすること多いですよね。
また、抜け道を意図して使うくらいだから、急いでいる車や、荒っぽい運転のトラックなども多めです。
そんな地域に住んでいますので、子供の保育園時代から安全に道を歩けるような積み重ねというのをずいぶん意識していました。
もともと保育士の癖でたぶん人一倍というか、まぁ軽く三倍くらいは普通の人たちよりずいぶん多い安全確認をしながら僕は道を利用しているとは思います。
なので、ことさら教えることをせずとも、普段の積み重ねの中で安全に歩くすべを子供は学んできたと思います。
それを子供が戸外を自分の足で歩くようになって以来しているので、それなりにはわきまえていることは信頼しています。
でも、子供はやはり注意力が散漫だったり、視野が狭かったり、前の子が行ったからなどと思い込みで行動してしまったり、衝動的に動いてしまったりということはあるものです。
例えば、子連れでも横断歩道を赤信号で渡ってしまう大人もいます。
たしかに、目視して車が来ないことを確認して大人は渡っているでしょうから、そのときは危険はないのかもしれません。
でも、子供は大人の、特に親のしていることは真似するものです。
いくら言葉で「赤信号は渡らない」と教わったとしても、実際の行為のほうが何倍も子供に影響を与えます。
大人は簡単にできる安全確認が子供には、できなかったりうっかりしてしまうということは十分にありえます。
なので、子連れの時はたとえ安全であっても「赤信号では渡らない」という習慣の積み重ねというものが必要になってくるのだと僕は思います。
最近でこそずいぶん慣れましたが、一年生の頃は「ただいまー」と帰ってくると、「無事に帰って来れてよかった」とずいぶんとほっとしたものでした。
こっからは蛇足なのですが―
しかし困ったことに青信号の方が渡りにくい横断歩道というのが近所にあります。
近所というか、その道がまさに小学校への通学路になっています。
どうして青の方が危険かというと、その道は一方通行の細い道なのだけど、その幹線道路から左折してまた別の幹線道路へと斜めにショートカットできる道になっています。
ですので、横断歩道が青信号の時、それに並行している幹線道路も青になりますので、青信号の横断歩道上をたくさんの車が左折で横切ってくるということになります。
横断歩道が赤の時、幹線道路も赤信号で車は止まっていますので、下手すると赤の方が安全に渡れてしまうというわけのわからない信号になっています。その通学路の幹線道路を挟んだ対面側は住宅街で交通量が少ない道なので、直進でくる車がほとんどいないのです。
学校側は、その横断歩道は渡らないで、ちょっと遠回りでも別のところから渡るように指導しているようです。
| 2013-09-08 | 我が家の子育て日記 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
息子の成長 Vol.5 - 2013.09.05 Thu
「うどんとかおそばにはどうぶつの名前がついたのたくさんあるよねー。
きつねうどんとかたぬきそばとかー
あと、わんこそばっ!」
本当に素でそうおもっていたらしい(笑)
そういわれると「ニャンコそば」とかもあったらかわいいねっ!
| 2013-09-05 | 我が家の子育て日記 | Comment : 11 | トラックバック : 0 |
息子の成長 Vol.4 ―つながってる― - 2013.09.03 Tue
うちでは普段あまりチョコレートとか食べないのだけど、その日はおみやげにもらったチョコクランチをおやつに出しました。
出したあと僕はブログの記事を書いていたのだけど、ふと気づくと息子がむーちゃんの歯をみがいてあげていました。
普段は別におやつのあとハミガキしたりしないのだけど、むーちゃんの歯にチョコレートがついていたからみがいてあげていたとのこと。
驚きました。でも同時にうれしくもありました。
この子の中にはたくさん積み重ねたものが積もってくれているのだなと。
それよりだいぶ前に、なんかの話の流れで歯のことについて会話したことがありました。
ふたりともこれまでに虫歯一つないのだけど、「健康な歯はおとーちゃんとおかーちゃんからのあなた達への贈り物なんだよ」というような話をしました。
いつもの歯磨きの時間も親子の関わりの時間として、仕上げのみがきなどをしています。
最近でこそ大きくなったので息子は最後まで自分でさせることもあるけれども、やはりときどきは大人がみがいてあげないと不十分なのでしています。
そんな積み重ねのひとつひとつが、素直に生きたまま子供たちの中に育ってくれているのを感じます。
こういうのがまさに心がつながっていると子育てをしていて思う瞬間です。
大人の立場や力の差で子供に「○○させる」というのは簡単です。
でも僕は子供そのものの力を伸ばしてあげたいと思っています。
「やらされてできる」のと「自分からする」というのは、やっていることは同じでもその実際はずいぶんと違うでしょう。
小さいうちから心のパイプを作っておけば、そのことはけして難しいことではないと思います。
どうやったらそれが為せるかといえば、僕は大人と子供のあいだにきちんとした「信頼関係」が構築されていることだと思う。
信頼関係についてはこのあたりの過去記事にあります。関連した記事もほかに多数ありますので検索してみてください。
| 2013-09-03 | 我が家の子育て日記 | Comment : 18 | トラックバック : 0 |
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