リンク 『子ども番組のいま』 - 2014.09.30 Tue
その中で、
「子どもの想像力を育てたい」アンジェイ・マレシュカ(ポーランドのテレビ・映画監督)
の一連の寄稿文があります。
この中でマレシュカさんが言うように、それらのメディアがいいか悪いかという答えを出すのは簡単ではありません。
しかし、無頓着でいるべきでないのは間違いないでしょう。
日本は子供に与える文化というものに、これまでそうとう無頓着できていました。
日本ではあまり知られてはおりませんが、このポーランドはじめ東欧諸国というのは子供文化に対する長く厚い歴史と伝統をもっている地域です。
チェコのカレル・チャペックなどはご存じの方も多いのではないでしょうか。
多くの人が、子供の文化に対して理解と関心を示し良質なものを手に取ろうとするということはとても大きな意味を持ちます。
残念なことに、日本ではそういう文化よりもむしろメディアやコマーシャリズムのなかで華々しく宣伝される物をそのまま子供に与えるということが大半です。
すべてではありませんが、保育園や幼稚園などですらそういった傾向があります。
子供によりよいものを与えたいという目線よりも、メディアにより前情報が与えられている子供が喜ぶ物を与えるということが一般化しています。
そういった子供関連の施設ですら、目立つところにキャラクターものの飾りや遊具などが無頓着に置かれています。
専門家と目される人たちですらその地点に立っているのですから、一般の人が企業が作っているお金の回収装置のような商品にしか関心がいかないのも仕方のないことです。
そのようにもともと地盤の脆弱な日本の子供の文化の領域に、さらにネットツールの高機能化という次の時代の課題が押し寄せてきてしまいました。
マレシュカさんの文中からも感じられますが、僕は最近の子供が「子供でいられる時間」が短くなっていると思います。
大量の流行すたりのサイクルの早い情報にさらされ、本来ならば大人が使うようなツールを与えられ、コマーシャリズムのなかでファッションや恋愛要素をからめて魅力的に見える物を売りつけられ、子供が無邪気で子供らしい子供でいられる期間というのが確実に短くなりつつあります。
むしろそのように子供が大人びてしまうことを、「子供の成長」であるかのようにとらえ歓迎している大人もいるようです。
僕は、それら世の大人たちが無頓着に、子供をそうさせてしまっている現実には危険性を感じます。
都会っ子の僕ですら、虫やカエルを捕まえたり、花の蜜を吸ってその甘さを感じたり、ホウセンカの種を集めたり、「お手玉にするからとっておいで」といわれてほうき草(?)の実を採りに行ったり、そんな子供時代にしたことを今の子はほとんどすることができません。
そしてそれの代わりに、ゲーム機やお金で購った玩具で遊ぶことがそこにはあります。もしくは早期教育や習い事などの大人の世界の価値観からの評価の対象になることが、主要な物として子供に与えられています。
そのうえにさらに、ネットツールなどが無造作に触れられる環境というのを大人が作り出してしまっています。
これまでにも子供の文化に関心の高い人はもちろんいました。
でも、文化というのは一部だけはあまり意味を持ち得ないのです。
これは子供の物だけに限りません。広く人々に知られ触れられ関心を持たれてこそ、その文化のもつ力は大きくなっていきます。
裾野の広い山は高いものなのですね。
ぜひ多くの方に「子供に与える文化」というものへの関心を持って欲しいと思います。
| 2014-09-30 | 日本の子育て文化 | Comment : 11 | トラックバック : 0 |
子育てワークショップ - 2014.09.29 Mon
僕の主催ではないのですが、全6回の予定で6回とも僕が講師を務めさせていただきます。
乳児から幼児への成長期において、どういう方向性でまたどういうところに気をつけていけばいいかなど、できるだけ具体的なかたちで人数や時間に余裕をもって取り組んでいく予定です。
隔週で行うので、11月から2月までわりと長期にわたってということになります。
全6回ですし、受講料もかかりますので、それに先だって体験会というのを開くことになりました。
体験会は「叱らなくていい子育て」について、どういう方向性で子育てをとらえていくのか、また今後のワークショップではどういうことを行っていくのかについて触れていきます。
体験会の方は15組募集ということになっています。
ワークショップへの参加の希望者が多い場合どうするかというのは現在検討中ということですが、「叱らなくていい子育て」についてだけでも、子育てのヒントになることがたくさん伝えられるかとは思います。
開催地は千葉県習志野市 京成津田沼駅近辺です。日時は10月7日(火) 午前10:00より
本日うかがったところ、あと3組だけ空きがあるそうです。(ブログ告知直後に数件の申し込みがあり、即定員オーバーに。現在は締め切りとなってしまいました)
募集しても少ししか空きがないのでこのブログでの告知はしなくてもいいかと思いましたが、今後開催後に活動報告などしていこうかと思いますので、一応おしらせしておきます。
詳しくはこちらからどうぞ。
| 2014-09-29 | その他 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
もやしとむーちゃん - 2014.09.26 Fri
僕が機嫌良くテンション高くしていたから、むーちゃんも楽しくなってくれたというのもあるのかもしれないけれど、もやし炒めでそんなに喜んでくれるとはなんと安あが・・・、天使なのだろう!
ただ、むーちゃんにとっては「もやし」は実は「いいもの」になっています。
前にもお話ししましたが、むーちゃんは「思い出」や「イメージ」をとても大切にとっておいてくれるタイプの子供です。
もうすぐ3歳になるというころのことだったかな。
僕と二人でお昼ご飯を食べていたとき、そのおかずのなかにもやしがあって、それでなにを思ったか、口の両端にくわえて「きばもちいのししーー」とするのを見せられて僕は大受けしてしまいました。
そのころ大好きだった絵本が「てぶくろ」でそのなかに「きばもちいのしし」というのが出てくるのですね。「てぶくろ」は有名なものなのでご存じの方も多いかと思います。猟師のおじいさんが手袋を落とすウクライナ民話のほうですね。
そのときからもやしは、むーちゃんにとっての「いいもの」となってくれています。本当に味が好きでもやしを好んでいるかどうかはわかりません。まあ、おとーちゃんのもやし炒めもおいしいんですけどね。
いまでももやしの入ったお料理は喜んで食べてくれます。そういうわけで好きな食べ物のひとつになってはいるのですが、味半分、思いで半分で好きになってくれているような気がします。
もし僕が子供だったときに「もやし炒めだよ」と言われてこんなに無邪気に喜ぶことはなかっただろうと思います。
でも、むーちゃんは僕とのつながりから導き出された思い出からそれを「いいもの」と感じてくれています。
本当に生活のなかの些細なことなのだけど、そんな風に娘と心がつながっていることを実感できることが僕にとってはこの上ない幸せに感じられます。
特別付録
おとーちゃん特製もやし炒めの作り方
よく熱したフライパンにごま油をひいて、強火でもやしを投入。塩少々。醤油適量。手早く炒め、仕上げにお酢を適量。酢を入れてザッザッと炒めたら、酢の飛ばないうちに火を止める。
できたら、テフロンのフライパンでなく中華鍋や鉄のフライパンをよく熱して作るとしゃきしゃき感が抜群でおいしいです。最後のお酢が決め手です。
さらにおまけ
砂肝ともやしのおつまみ
砂肝って焼き鳥屋さんでしかお目にかかれないと思っている人も多いかと思いますが、お肉屋さんでもあるところにはあります。鶏肉専門店などだとなおさらです。しかもお安い。
まずは下ごしらえ。
砂肝は処理がきちんとしているものでしたら、洗ったりせずにそのまま使えます。その場合はキッチンペーパーなどで水気をよく拭き取っておきます。そして塩を振って置いておきます。
その間にもやしを水洗い。
うちは大きめの鍋にお湯をはって、鍋のふちにひっかかるサイズの金属のザルをかけて簡易蒸し器にしています。
そのザルの一番下に砂肝を置き、そのうえにどばっともやしをのせフタをして10分ほど蒸します。もやしのかたさの好みやお鍋などにもよるので時間はそれにあわせてで。
砂肝はきちんと火が通るまでを見計らって。男の料理&B型なので、時間とかは経験と勘です。すみません。
まあ、切ってみれば火が通っているかどうかはわかるので、大丈夫です。
火の通った砂肝を包丁で斜めにそぎ切りでスライスして、もやしの上にのっけてできあがり。
ポン酢をかけてもいいし、エスニックなのがお好きならば、ナンプラーとラー油などでもいけますね。手をかけてもいいのならば、熱したごま油にネギニンニク鷹の爪、塩、醤油で特製だれを手作りしてもいいでしょう。お好みで。
料理自体は手間もかからず、砂肝を入手するという第一段階さえクリアできれば簡単につくれます。ビールや焼酎などが飲みたくなりますね。もやし二袋でもぺろっと食べちゃえます。
もやしは安くて栄養があっておいしくて素晴らしいですね。
| 2014-09-26 | 我が家の子育て日記 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
相談 「自分がされたように子供にイライラをぶつけてしまう」 - 2014.09.21 Sun
コメントを拝見して感じたことや、あの事例とは違いますがこのテーマの続きというのもあるのですが、このところ少々多忙につき記事の更新、コメントの返信など滞ってしまっています。
また、余裕ができましたらぼちぼち更新していきますね。
9月12日 わた9さんの相談コメントへの返信
昨日こちらのブログを知り、過去のログを読み返している最中です。
おっしゃっていること、本当にその通りと思います。
ですが、なぜか思うようにできない、苦しい、できない、そんな気持ちです。
5歳の息子がいます。私はいつも怒ってばかりいます。
アドラー心理学を基とした育親セミナーを受け、親と子の境界が曖昧になっている点に気付き、
子供と好ましい関係を築く為には、怒る事はマイナスである事も理解しているのに、なぜ・・・?
怒っている最中も、「こんなことしてちゃダメだ」
と思っているにも関わらず、子供を追い詰めてしまうのです。
現在お姑さんと同居しており、お姑さんがとても優しいので、
息子は救われているとは思います。
息子もお姑さんが大好きで、いつも一緒に居たがります。
毎日長い時間、お姑さんと遊んでいます。
私の居場所がないような気持ちにもなり、その事で、息子に八つ当たりをしてしまった事もあります。
そして、こちらの記事を読み、私自身がとても手のかからない子で、
所謂「いい子」であった事を思い出しました。
そして、母の「怒り」をただのストレス発散と幼いながらもちゃんと認識していた事も。
私は息子に甘えているのに他なりません。
この接し方を続けると、息子は私のようになってしまうのでしょうか。
良くないことは分かっていても、上手く接することができません。
本当に苦しいです。
自分の生育歴を乗り越えて子供に関わっていくことはとても大変なことです。
でも、そこから自分を責めてたり、ネガティブに考えても子育てのプラスにはなりません。
その自分のあるところを否定するのではなく、それを含めて認めたところからこれからの子育てを組み立てていけばそれでいいと思います。
「イライラを減らす」「怒ることを減らす」と考えてそれをしようとするのは、実際難しいです。
そこから始めるてうまくいかないと、さらに自分を責めることになります。
イライラや怒ることはそのままでもいいので、プラスの部分を関わりのなかで作ることから始めていった方が、子育ての安定化はしやすいです。
プラスの部分というその内容は、「受容」や「先回りした関わり」などの過去記事を読むと感じがつかめるかと思います。
>現在お姑さんと同居しており、お姑さんがとても優しいので、息子は救われているとは思います。
この場合のおばあちゃんの存在は、まさに保険として機能しているでしょう。
その部分でも補いがあるのですから、そこはメリットです。それをみて自分を責めるように取ってしまうは、これからわた9さんが乗り越えていくべき課題でしょう。
子供にとって母親の存在とは本当に特別なものです。子供はそのことをよくわかっています。
ちょっとやそっとのことでその存在がかすむことはありませんから、もっと自分に自信をもっていいと思いますよ。
| 2014-09-21 | 相談 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
「幸せ」ってなんなんだろう - 2014.09.18 Thu
まずは『はじめにお読みください』をご覧になってからコメント欄にお願いします。
「幸せ」ってなんなんだろうなとときどき考え込みます。
保育士の仕事をしていても、生きることや家族について考えさせられることがたくさんあります。
このまえAの事例を紹介しました。
あれもけっしてなにか子供に明確な成果が表れたわけではありませんが、子供から目を背けそうになってしまっている母親を子供に向き合えるようにしたという点ではものすごく前進のあったこととも言えます。
子供の姿が大変な事例ではあったけれども、それでも将来に明るさのみえる話の部類です。
でも、実はもっと出口のないケースもたくさん見てきています。
そういうのって書いていてもつらいし読んでいても重いのであんまり書けません。
それはどういうものかというと、親が子供の方を向こうとしないケースです。
「子育てや子供の世話が大変なゆえに子供に向き合いたくなくなってしまった」というのならば、まだいいのです。結果として目を背けてしまっているにしても、そこにはまだ悩んだり、試行錯誤したけどうまくいかなかったという足跡はあるからです。
仕事でどうしても子供にまで十分手が回らない。
体調が思わしくなくて子供に関われない。
経済的、人間的問題を抱えていて子供に関わる余裕が持てない。
こういったことも、上と同様理解のできることです。大なり小なり子供自身もそれはいずれ理解ができることでしょう。
でも、最初から確信犯的に「子供に向き合うつもりがない」というケースには、出口になるものも、その子がよりどころとできる何ものか、しがみつける何ものかがありません。
こういうケースには保育士が最大限アプローチしたとしても、「保育園の先生は私のことを認めてくれていた」というとっかかりを残せるか残せないかぎりぎりのところくらいです。
こんな事例がありました。
父母ともに大きな会社の管理職クラスです。
子供は兄と弟。
兄の方は0歳から保育園に入園。
そのときから暖かく子供と関わるという情景を父母ともに見たことがありませんでした。
子供に笑いかけるというようなこともなく、無表情と不機嫌な顔が基本の表情です。
子供がなにか親の手をわずわせるようなことになると、チッと舌打ちをせんばかりの苦虫をかみつぶしたような態度で応じます。
わずらわせるといっても、なにかネガティブな行動や困らせるようなことをしたとかではなくて、おむつ替えとかそういうごくごく普通のことでもです。
比喩的な意味ではなくて、本当に子供に顔を向けるということすらあまりしません。
いつも子供を肩越しに見すかして、「さっさとついてこい、従わないならおいていくぞ」という態度を終始とっています。
子供は親においていかれること・疎外されることをとても恐れますので、その子は必死についていくようになってしまっています。普段からそのようですから、情緒が安定しません。
0歳クラスのときから、泣き、わめく、奇声、かみつき、極度の指しゃぶりなどの情緒不安定さの特徴のオンパレードです。
しかし、親の前では疎外されることを恐れてそれどころではありません。
ただもちろん、完全に「いい子」でいられるわけではなくて、親にも難しい姿というのは出してはいました。ただ出したとしてもそれらは無視や疎外感を与えることで押さえ込まれるのがつねのことになっています。
ですから、情緒不安定さを大爆発させるのは親のいないところです。
保育園から子供への接し方について話をしようとしても、一切聞く気がありません。一応お断りしておくと、継母などではなくて実子です。
でも、子育てが苦手とか子育てに疲れているとかいうような様子ではなくて、むしろ他人の子供をイヤイヤ預かっているというような様子に近いです。
たまたまそういうときがあるというのではなくて、つねに父も母もそのような感じです。
この子が4歳くらいの頃には、「心の動かない子」になっていました。
保育士でなくともこの子を一目見て、「アレ」と思うようなちょっと普通子供ではありえないような様子なのです。
顔にまったく表情というものがありません。
しばしば無表情を指して「能面のような」という形容をしますが、能面ですらよほど豊かな表情と思えるほどの印象を受けます。
その無表情のまま大人の見ていないところで、他児に意地悪な行為をします。ものを隠したり、気の弱い子を支配するような関わり方をしたり、人の疎外感を刺激して子供が嫌がるような言動をしたり。(例えば、〇〇をしたら~~をあげないとか、〇〇しないと~~させない など)
幼児ですから、まだ深く考えずにこの子と関わる子もいますが、これが小学校に上がったらば人が離れていってしまうというのは避けられないことでしょう。
この段階になっても、親は子供に気持ちを向けようとはしません。
クラスの個人面談の期間にも多忙を理由に断られてしまいます。では都合のいい日にあわせますのでいつでもおっしゃってくださいと伝えても、それに応じることはありません。
時系列がいろいろと前後してしまっていますが、1~2歳クラスのときも朝の登園時子供を保育室に入れようともせずに、気づいたら廊下に子供だけ置き去りにしていってしまっていたり、お迎えのときも誰とも(我が子にすら)挨拶も目を合わせることもなくただ来て子供を連れて行くだけだったり、携帯電話で話しながらやってきてただ子供についてこさせるだけだったり。(園にくる前から携帯電話で話しをしながら、園をでてもずっと電話に向かって話し続けている。子供に目を向けることもなく、子供は後ろからトボトボとついていっている。)
この兄が年中のときに第二子を妊娠しました。
「これほど子供を見たくない人なのにもうひとり生むのか」というのがそのときに感じた正直な気持ちです。
母親が産休で休んでいても、兄は一日も欠かさず保育園に連れてこられました。
38度の熱があっても、台風の中もです。
この兄は、年長の頃には親に対する期待というものをもうすっかりあきらめていたような感じでした。
弟も産休明けで0歳から保育園に預けられ、あとは兄とほぼ同じ状況で育ってきていました。
兄よりは感情を爆発させるタイプの子ではありましたが、親の反応というのはやはり徹底的に無視、疎外なので、やはり兄と同様親に出すことは恐ろしくなって2歳くらいで親には出さなくなりました。
その分保育園でだすのですが、兄と違うのは陰湿な出し方ではなくて開けっぴろげなネガティブ行動として出していました。
その分だけ兄よりは人に対する信頼がちょっぴりあったと言えるかもしれません。
兄は小学校に入ってもずいぶん問題を起こしていたようです。
弟も卒園してもしばしば噂が聞こえてきました。こちらは公園などで遊んでいると誰彼かまわずからんでくるというふうで、面識のない乳幼児やその親になにかと関わってくるのですが、その関わり方に子供も大人も不安を感じさせるようなところがあるので、園の保護者の間であの子はいったいなんなのだろうねといった話がしばしばでていました。
この子たちは、他者に意地悪をしたり、悪意を向けたりする理由をたくさん抱えたまま大きくなっています。
そしてそれはこの子たち自身のせいではありません。
そうせざるを得ない理由を親によって持たされてしまったのです。
「いじめ」が問題になっていたときに、まあいまでもですが、しばしば「道徳教育をしっかりさせるように」といった話がよく出ていましたが、この子たちの問題は道徳教育などよりもはるか前にあることでしょう。
学校でするような道徳教育のなにものも心に届くことはあり得ないと思います。
いじめ問題に対して、「道徳教育がなっていないからだ」「叩いてしつけないからだ」といった話を聞くたびに、それを言う人たちはいま起こっている現実の問題を知らないのだろうと僕は感じざるを得ません。
この子たちによしんば「体罰」を与えて正しいことを教え込もうとしても、それは人への信頼を決定的に損ねて、人を恨むことの火に油を注ぐようなものでしょう。
僕はこういった本当に子供に関心を持てない親のケースという問題には出口を見いだせません。
子育ての大変さから目を背けたくて、「子供が見たくない」になってしまう場合であれば、それ以前の段階から適切な子育てについてのアプローチをすることや、難しくなった子育てをたてなおせる方法を伝えることで少しでも子育てを安定化できる方へと導くことはできるのではないかと思っています。僕がいましているようなことです。
しかし、この上のようなケースは昔のお医者さんが「病膏肓に入る」と表現したような、手の施すいとぐちがつかめないというものに思えてしまいます。
僕は「人の幸せとはなんだろう」と想うとき、いつもこの家族のことがあたまをよぎります。
父か母どちらかだけの収入で、普通の共働きの家庭の収入を上回るほどの稼ぎがあります。
金銭的な面でいったら必要十分に豊かでしょう。
幸せの尺度というものが、ひとそれぞれなのはもちろんですから、僕の主観で他者の幸せをうんぬんすることができないということは十分理解しています。
しかし、それでもこの父母の求める幸せというものが一体どこにあったのだろうと、いつも答えの見つからない問いを繰り返してしまいます。
| 2014-09-18 | 心の育て方 | Comment : 31 | トラックバック : 0 |
積み木論理学 - 2014.09.16 Tue
それらはまるで物理学や数学・論理学のようなものに似ています。
まったく思いつきですが、勝手にそれを積み木論理学と名付けてどんなことがあるか気がついたものをあげてみました。
今回書くことは子育てのお話としては、あんまり意味はありません。
思考のお遊びみたいなものです。
1 小さいものから積み上げていくと崩れやすい。大きいものから積んでいくと崩れにくい
このことは大人からすると当たり前ですが、子供はなかなかすぐにそうとはわかりません。それなりに発達して2~3歳くらいでないとはっきりとは認識していないようです。
2 積み木の上に積み木を積むとき、半分以上ずらすと落ちる
大人は「重心」ということで理解していますが、子供は「重心」ということをしらないまま経験的にそれを理解します。
3 △の上には積めない
当たり前なようですが、2歳くらいまでの子はそれをなんどか試した結果理解します。
4 基尺2:1:1の直方体と、基尺1:1:1の立方体は、その立方体2個をくっつけると、直方体と同じ形になる。
これも大人からすると最初から頭で理解できているので当たり前なのですが、子供は実際にやってみるなかで驚きとともに発見しています。
2~3歳の子と積み木遊びをしていて、その発見に立ち会っていると子供が喜びや驚きとともにそれを教えてくれます。
大人からすると同じことのようですが、これとは別個に高さが同じになるということにも同様の発見と驚きを子供は感じています。↑は平面で遊んでいて発見するし、こちらは高く積んでいて発見します。
5 たくさん積むと崩れやすい
「当たり前ですが」はもう省略することにして、これを何度も経験するからだんだんと年齢が大きくなるにつれて、「丁寧に積む」ということを子供は理解し実践するようになります。
5歳くらいになってそれまでにそれを身につけてきた子は、天井まで届くような積み木の塔が作れます。
これはいくら「こうやって積むと崩れないよ」と大人が言葉で教えたとしても、あまり意味がありません。
実際に子供は何度も経験して失敗して、その結果獲得できることなのです。
最近の能動的な遊びに遊び込めなくなっている子には、この「失敗を積み重ねる」という過程の部分に耐えられない子も多くなっています。
6 誰かがぶつかると崩れる
このへんからもうちっとも論理学ではなくなっていますが・・。
これも実は経験のなかで重要なことです。
ある程度の年齢になると、意地悪する子、遊びを壊す子というのは困るのだということを理解し、その結果それらはよくないという前提に立ち子供社会のルールやマナーができあがってきます。
意地悪をする子・壊す子を排除するという動きになることもあれば、子供同士でこうするんだよと教えてあげたり、そういう子だから仕方がないと大目に見たりという様々な経験が生まれます。
邪魔する方の子はそれはそれで、そのなかでいろんな葛藤が生まれてそれが人間関係上の経験となっていきます。
ただの遊びに過ぎないものが、実は子供のなかではルールなどの人間関係の大きな必然性を生み出しています。
7 ●は転がる、平らは座る
8 支柱だけではぐらぐらする。平面を載せることで安定する
9 支柱1本はすぐ倒れる(〒)、2本は倒れにくい、3本は立てるのが大変 (円)
10 平らなところで遊ばないとすぐ倒れる
11 ぐらぐらしているときに載せると崩れやすい
12 高くなってきたらそっと積む
13 散らかしっぱなしだとお母さんに怒られる
| 2014-09-16 | あそび | Comment : 10 | トラックバック : 0 |
子供の遊びの本質 - 2014.09.15 Mon
いろんな理由があるでしょう。
身体を動かせる、活発に遊べる、大きな声を出せる、発散できるなどなどさまざま思い浮かぶと思います。
今回は「外遊び」について述べようと思っているのではありません。
しかし通常ですと室内での遊びよりも、今回述べようと思っている遊びの本質の部分が外遊びにたくさんありますので、端的にわかりやすいかと引き合いにだしました。
それはなにかというと、「自由さ」です。
よほど遊びの設定を配慮していない限りどうしても室内の遊びには制約がついて回ってしまいます。そうしていてすら物理的な制約はあるでしょう。
戸外の遊びにもそういう制約はないわけではありませんが、子供からするとおおむねゆるやかになります。
そして戸外の遊びは開放感があり活動の余地がたくさんあります。室内でも遊具以外のものをおもちゃにして遊んでいることがよくありますが、戸外ではそのようなものも無数に見つかります。
子供は遊びにおける「自由さ」というものを本質的に好んでいるのではないかと思います。
積み木を紹介したときに、色のついた積み木やさまざまな形の準備された積み木よりもただの四角い白木の積み木が基礎になるということをお話ししました。
アムステルダム積み木(積み木が家や屋根になっていて町並みが作れる)のような形があってそれを使って遊べるものもいいものなのですが、最初に触れていくものはそういうものよりも、むしろなにものにも縛られない「自由さ」がふんだんにあるシンプルなものがよいのだと思います。
僕は「知育玩具」と一般に言われているものが好きではないのですが、これは大人があらかじめ「これをさせることでこの能力を伸ばしてやろう」というひとつの枠のなかに遊びを閉じ込めてしまっています。
結局子供は自由な発想力でそういったものがあってもそれらを乗り越えて遊んでしまう子も多いですが、大人目線で遊びを囲い込んで子供を「どうにかしてやろう」という遊びの提供の仕方はその本質である「自由さ」というものとの矛盾があって、返って遊びの与える大事なものをスポイルしてしまっているようです。
遊びにおける「自由さ」というのは、子供の想像力の働く余地をたくさん作ってくれます。
だからこそ「自由な遊びの世界」には「発展性」があります。
一方でテレビゲームなどは、すべてが大人が考え出した枠のなかに収まったものです。自由さがあるとしてもプログラムのなかでの想定された自由さということになるでしょう。
それらは子供の側に与える無限大の自由さというものとバーターに「即時的なおもしろさ」を大きくしています。
ただ、最近は機器の発達などによって、他者とやりとりをしたり競い合ったり、協力してゲームプレイができるようにするなどの要素によって、それらプログラム内のものだけでなく、外部的なものをくわえることによってある種の発展性を持たせているのが興味深い点ですね。
しかし、子供の育ちというのは段階を踏んでいくものですから、小さいときこそ「自由さ」のある遊びを楽しめるようにしてあげることが大切ではないかと感じます。
外遊びを子供が好むことには、いつもならば止められてしまうような行動、大きな声を出したり、走り回ったりはねたり飛んだり、なにかを投げたり、新しいものを見つけたり、いろんなものを拾ったりと、このような普段の生活よりも「自由さ」がふんだんに確保されていることも大きな要素となっているのでしょう。
そんな視点を持って改めて子供の遊んでいる姿を見てみると、また新しい発見やアプローチが見つかると思います。
| 2014-09-15 | あそび | Comment : 13 | トラックバック : 0 |
相談 寝転がるばかりで一人で遊べない(2歳) ー遊びの原動力ー - 2014.09.14 Sun
いつも更新楽しみにしています。
二歳女児の母です。
遊びの相談なのですが, 今更なのですが, 何をして遊んであげたらいいのかわからないのです。
二歳になり、近所の児童館的なところでは狭くなり、同じくらいの子もいないのであまり行かなくなりました。最近では友達の家くらいしか行きませんが、そう毎日お邪魔するわけにもいかず。そろそろ外遊びも丁度いい季節なのですが, 外でちょっと歩くとすぐ抱っこを求めてくるので何しに来たかわかりません。
というわけで家で二人でゴロゴロしている状態です。なんせ私は子供の遊びというのが苦手で、積み木を積むだけとか、ひたすらままごとでフライパン煽ってるとか、食べる真似してるとか…
自分でもレパートリーが少な過ぎてあきれます。 同じことを好む子供でさえ飽きてるようにみえます(´・_・`) 絵本はちょこちょこ読みます。テレビは私がどうしても手が離せない時しか時みせていません。手遊び、お絵かきも短いです。
それで、私が家事をしている時、こどもが自分で遊ぶということをしないのです。別に常に全力で遊べ!と思っているわけではないのですが、指チュッチュしてゴロゴロ寝ています。ママかまってくれないかなーオーラ全開です。 おもちゃ出して遊んでいいよ、というのですが、自力で遊ぶ力がないようにみえます。
児童館の先生は、遊び方を知らないから、一緒にやって教えてあげたらいいと言っていましたが、先に述べたように遊びベタの母のため教えられず、先に進まないというか手詰まりな感じです。
子供にとって指チュッチュしてゴロゴロしている時間がながいように感じます。 ぐうたらしているようにみえるのがちょっといやです。 こんなんだったら幼児教室に通う方がお互い成長するのかなとおもいます。 テレビ(いないいないばあ)を見せると, 踊ったり歌ったりたのしそうです。
おとーちゃんはむーちゃんが二歳ごろ一緒に家にいて、毎日何していましたか?
ワンワンに負けている母にアドバイスいただけませんでしょうか。
毎日親子で退屈です´д` ;
子供を遊べるようにするというのは、簡単でもあるし難しくもあることです。
アプローチの方法だってたくさんあります。
僕はこのコメントを読んで、とっさに浮かんだのはまったく正反対の対応のふたつでした。
ひとつは、
子供との遊びについての情報というのはたくさんあります。ネットでも本でもその気になって探せばいくらでも見つかりますので、ちょっと手を伸ばしてそれらの知識を仕入れてがんばって遊びの提供をしてみてはどうかという考え方。
もうひとつは、指をちゅっちゅしてごろごろしていても子供は育つものなんだという考え方。
たしかにこの先ちょっと幼かったり経験不足だったりというある種の後遺症はでるでしょう。でも、大元のところで家庭に居場所がありそこで安心してすごせる、また基礎的な大人への信頼感などが持てているのであれば、そういった幼さというものもあとから(基本的にはですが)どうにでもなる部分ではあるということ。
もちろん、それらの基礎的な部分にプラスして遊びがそれなりにできるということは大切ではありますが、でも家庭における安心感というものがあるのはそれなりのひとつの合格ラインではあるという考え方です。
言ってみれば、いろいろもがいてやってみればいいじゃないということと、まあそのままでもいけなくはないからおおらかに認めちゃってもいいじゃないというまったく反対のふたつの考え方が浮かんできました。
どちらがいいというものでも、こうしなさいというものでもありません。そういう考え方・とらえ方ができるというお話です。
ほかにも、その状態では依存が強まってしまうだろう、とか依存傾向がそういう姿を作り出してしまっているから、「依存」を生まないように過保護過干渉などには気をつけて、自信がつくような関わりをしてみるといいかもしれないというような具体的な話も思い浮かびはします。
ただ、そのあたりは過去記事や過去の相談で述べられていることなのでここで繰り返さなくてもいいでしょう。
どういう状況におかれているのか、どういう対応をとるのか、どうすれば子供によいのかを最終的に判断して決めるのは相談者さんご自身です。
なので僕からは「こうしなさい」ということには触れないで、ちょっと別の観点から子供の遊びについて述べたいと思います。
>指チュッチュしてゴロゴロ寝ています
保育園でもこういった子供がときどきいます。
遊びを知らない、遊び方を知らないということもあるのは確かにそうだと思いますが。これらの子供にはその前にもっと足りないものがあるように感じるのです。
それは本当に心から「楽しかった」と思える経験の蓄積だと思います。
子供は、大人とはちょっと違って同じことを何度も繰り返して遊びます。
なんども同じ本を読んでと持ってきたり、毎日毎日好きな同じ遊びばかりをしたり。こういうことは多くの人も実際に子供の姿のなかで見ていると思います。
なぜでしょう?
おそらくこういう子は、現在の目の前にある遊びそのものだけから楽しさを引き出しているのではなくて、自分のなかにすでにがっちりとできあがっている「楽しかった」という経験を同じことをすることによって再現していることにより大きな楽しみ・おもしろみを感じているのだと思います。
例えば、
「お母さんがすごく穏やかで優しいときにこの本をなんの邪魔もされずに一緒に最後まで読んでくれた経験がすごく楽しかった」
ということが過去にあって、子供はその経験をはっきりと鮮明に記憶しています。あったことだけでなくそのとき自分が感じた気持ちの部分、楽しかった、おもしろかった、安心していられた、向き合ってもらえてうれしかった、そんなことまでがインプットされた記憶を子供はもっています。
後日またその本を読んでもらうという経験を通して、子供はその過去の事実と気持ちの部分も含めて再生上映することができます。
ちょうど小さい頃の子供の姿を取ったホームビデオを大人が見るとそのとき感じていた気持ちまで思い起こすようなことに似ているでしょう。
だから子供は、遊びの再現性・繰り返すということをとても好みます。
何の変哲もないちょっとした遊びに、その子が過去に経験した楽しさおもしろさといった感情までが付随しているからです。
子供はこういったことを大人が忘れたあとでも鮮明に記憶しています。
それはある意味当然なのです。大人は「今の目の前の遊び」しか見ていなくても子供は常にその今の遊びを通して過去の経験を繰り返しているので、反復記憶になっているからです。
子供をよく観察していると、このような今の遊びを通して過去の経験を思い返す言動をしたりということは多くの子にひんぱんに見られます。
僕がこれまでにみたような、遊びの時間でも遊べずに指をチュッチュしているような子は、過去の経験・遊びが本当に楽しかったという原体験をあまり持っていなかったように感じます。
最近の子は想像力などを使って遊ぶよりも、刺激によって遊ばせられるというのに慣れてしまっているので、遊びがうまくない、刺激にばかり振り回されてしまうという子はそういったチュッチュの子でなくとも多くなっています。
こういったチュッチュの子も、やはり即時的な大きな刺激でならば遊ばせられます。
逆に言うと、そういった刺激でもないと、遊びに取り組むモチベーションがわかないということなのでしょう。
子供の「遊びの原動力」というのは、「本当に楽しかった」という幼少期の原体験によって支えられています。
遊びというのは自由さ・自発さというのが大切だとは思いますが、それらの根底にはやはり大人が向き合ってくれて安心した環境で心から楽しかったと感じられることがあってのちに生まれるのだと思います。
ただ、兄弟が多かったりすると大人がいちいちそれをしなくても、子供コミュニティでそれがなされてしまうケースもありますが、一人っ子が普通という現代ではそれはあまりあてにできないことでしょう。
遊びというのは、ひとつ好きなものがあればそこから派生してあとは子供自身がその遊びの世界を広げていくことは可能です。
そらさんが本当に苦手なものまで無理してやることはないと思います。
かく言う僕もさして遊びの相手がオールマイティーにうまいわけではありません。
「遊びのできるは求めない」という過去記事があったと思いますが、いちいち「積み木で遊べるようにしなければ」とか「ごっこ遊びができるようにしなければ」とか、「絵が描けなければ」、「友達とルールのある遊びがうまくできるように」などと「できること」は求めなくてもいいのです。
なにか一個でもそういった「あれは楽しかったまたしたい」と思えるような原体験を与えられればそれでいいです。
だからなんでもいいわけです。
子供と一緒に料理をして出汁の昆布を鍋に入れさせたり、味見をさせたり、一緒に床のぞうきんがけをしたり、掃除機を押す係にしたりなどと日常のなかでのことを一緒にすることで関わったり、
ベランダにゴザをひいてそこでお茶とぬか漬けを食べながら「やっぱり夏はいいねー」と子供とごろごろしたり、自分が楽しいと思うことを一緒にしてきました。
大人が子供とともに楽しめるのであれば、子供も大人と楽しんでいるでしょう。(大人だけが楽しんでいることにつきあわせるのは、たんに子供を振り回すだけだけどね)
「〇〇をしなければ」ということにこだわらず、一緒にたのしめることに巻き込んでしまえばそれでも子供は成長の足場を作っていけると思いますよ。
ただ、どうしてもそういうことも苦手な人もいますから、そういう場合はなんかの習い事に入れたりして外部でそういう世界を持たせるというのもひとつの手ではあるでしょう。
| 2014-09-14 | 相談 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
子供の心にぽっかり穴を開けてしまう Vol.5ー「叱る」で対応できないー - 2014.09.13 Sat
なにしろちょっと関わりたいだけで人を殴ったり蹴ったりすることが習い性になってしまっています。
集団での行動にもゴネを出して足並みをそろえることはできません。
友達関係も、なにかトラブルの種を探して歩いているようなところがあります。ゲームで負けた、ちょっと身体がぶつかった、そんなようなことをきっかけにしては人に当たったり、不平不満を爆発させます。
「子供の不適応な行動には叱る」という考え方一辺倒の人から見たら、この子の行動は「叱る必要のあること」ばかりです。
それこそ、このAを憎たらしく思うほどにそう感じてしまうでしょう。実際このAが転園してくる前の幼稚園の先生はそのようになっていました。この保育園の保育士のなかにも多少ともそう感じてしまっている人はいました。
僕が「叱らなくていい子育て」ということを述べたり、書いたりしているとやはり「それでもやっぱり叱ることは必要でしょ」とか、「そんな甘いことをいうからいまの子はダメになるのだ」というような意見も聞かれます。
たしかに世の中には「叱る」ことだけで、うまく成長を遂げさせてあげられる事例もたくさんあることでしょう。
しかし僕には、そのように「叱ることだけで子供がまっとうに育てるのだ」と考えていられる人がうらやましくて仕方がありません。
僕がこれまでたくさん直面してきたケースの多くは、叱っても臭いものに蓋をするだけで子供の成長にはなんの寄与もしないというものがたくさんありました。
「叱ることもとてもエネルギーがいることで、そのように向き合うことができるのは愛情があればこそだ、だから叱ることは愛情なのだ」というような情緒的な意見があります。
なるほどたしかにそれはそうでしょう。その子供に真剣に向き合う気持ちがなければ、本気で叱ることはなかなかできません。
(でも、「子供のために叱っている」と思っているだけで「自分のイライラをぶつけている」にすぎなくなってしまうことも現実にはたくさんありますが)
しかし、世の中には「叱るだけ」で改善するケースもあれば、叱ることが長期的にはプラスにならないというケースもあります。
そういうケースにおいて、大人が「叱ること」「イライラをはき出すこと」をセーブし、その子供のおかれた状況を斟酌してそれに理解を示し、その上で普通の人が憎たらしくすら感じてしまうような行動の子供を肯定的に受容するというのは、その「叱ることはとてもエネルギーがいる」という「叱る」よりも比較にならないほどに努力や忍耐というエネルギーの必要なことです。
「叱ることは怒ることと違って冷静で、理性的な対応なのだ」とよくいわれますが、この子供のネガティブな姿を否定ではなく包括的に受け止めるという行為に比べたら、その「叱る」というのだって全然感情的にできてしまうことにすぎません。
なんでも「叱る」や「体罰」で子供の姿をまっすぐに育てていくことができると思っていられるのは、よほどの楽観論を持っているか、性善説を信じているのでもなければそうそうにできないと僕には感じられます。
僕も「叱る」や「体罰」を使えば子供を適切に育てられると思うことができたらどれほど楽だろうと思います。
しかし現実はそうではありません。
叱ればいい、叩けばいいという意識で、このAに対応する人はこのAを徹底的につぶしていってしまうでしょう。
単純にたまたまそのとき子供が適応的な行動を逸脱したというだけならば、叱ってその行動が良くないことを知らしめればいいですが、このAのような適応的な行動ができなくなってしまう理由をたくさん抱えた子にそれをすると、大人は「その行為の否定」と考えてしていても、そのような子供にとっては「自分そのものの否定」ととってしまいます。
自己肯定感の低い子への否定的な対応は、さらにその自己肯定感を下げ、そのことが叱らなくてはならない行動をする理由を作ってしまいます。
そして人間というのは感情に支配されやすいものですから「叱る」ありきでアプローチしていると、当初「その行為の否定」と考えて対応していた大人も、だんだんと「その子供そのものの否定」という気持ちが出てきてしまうこともよくあることです。
実際に関わっていくと、このAのようなケースにおいて「できるだけ叱ることで埋め尽くさないように関わっていこう」と十分に意識していても、本当に危険な行為や人としてすべきでない行為など「はっきりNOといわなければならない事態」というのは少なくありません。
これに対してはどうしても「NO」をいわなければなりません。その中で「叱る」をせざるを得ない状況も多いです。これをうやむやにしてしまってはそれも子供のためになりません。
ですから、普段からこの「叱る」という「否定の行為」が、子供に「自分自身の否定」と取られないようにしてあげられるバランスをとれるだけの「肯定の行為」をたくさんしておいてあげることが必要なのです。
受容や信頼関係をつくる関わりです。
その子にイライラを感じていたり、その子の行為を憎らしく感じていたら、この普段の肯定的な行為をすることはできません。また行動のいちいちを叱ったり制止したりで関わっていてもできません。
「子供の不適応な行為は叱る」とはなから考えていたらそれはできなくなってしまいます。
このAのようなケース、
本人に悪意があるわけでなく、生育上の理由からネガティブな行動を出さざるを得ないというようなことは、「叱ることだけ」でどうにかなるような問題ではありません。
この幼児の段階で、そのネガティブ行動をたくさん「叱って」改善しようとしてしまったら、大人全般に対する信頼感というものを大きく喪失させて、のちのちにずっと大きな問題として出すか、A自身が苦労して長いこと自身の心の穴として抱えていかなくてはならなくなってしまうでしょう。
心の成長に穴があいている場合は「叱るだけ」でそれを埋め戻すことはできないのです。
「叱るだけ」で子供の姿が安定化していけるケースは、情緒の安定や他者への信頼感、心の余裕、自己肯定感などの子供の育ちの基礎的な部分がそれなりにでも備わっているものであるという前提条件が整っているものです。
いまの子育ての現状では、これらが十分に持ちきれていない子供というのが増えています。とても増えています。
そのなかで昔ながらの「子供の不適応な行動には叱る」「叱ってわからないなら叩く」というような大人の姿勢で関わっていくことは、心の穴にたくさんの怒りをためた人間をつくっていくことになりかねないと僕は強く感じています。
| 2014-09-13 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
子供の心にぽっかり穴を開けてしまう Vol.4 - 2014.09.11 Thu
しかし、このケースの救いというのが、母親に「子供のために」という気持ちは明確にあることです。
はっきり言って、この母親は子育てに向いたタイプの人ではありません。ここまで向いてない人もそうそういないというレベルでした。ですが、「向いていない」というのと「子供に感心がない」ということはまったく別の問題です。
この母親はこの人なりに、子供のことを一生懸命考えているし、それで悩みもするし、自分なりの努力もしています。
それがはかばかしい成果を生んでいなかったとしても、でもそこには「子供に自分なりに精一杯向きあった」という事実は残ります。
子供の姿としては同じだったとしても、「子供に向き合ってきた」のと「子供に向き合ってこなかった」ということの間には大きな違いがあるはずです。
子育てにおいてはあとあとこのことが大きな境目となると感じます。
子育ての結果というのは、いますぐは出ないものも多いです。
いいことも悪いこともどちらもそうです。
ある女の子の事例です。(以降、Eと表記)
この母親は女の子が4歳くらいの頃から、キッチンドランカーからかなりアルコール依存症に近い状態になり、年中・年長の頃は近所に住んでいる祖母にほとんど育児家事を丸投げの状態になっていました。
下に2歳ほど年下の妹がおり、妹はその当時にそうとうの情緒不安定やネガティブ行動をたくさん出していました。母親にも容赦なくそれを出していたので、あまりよい反応ではないにしても母親からの関わり、関心(母親の自主的なものではないが)も向けられていたといえるでしょう。
しかし、この女児Eはもともとのんびりとした性格で、不思議とさほどのネガティブな要素を見せずに過ごせていました。
女の子同士の友達関係がよかったことや、おばあちゃんはなにかと優しい人であったこともその安定にプラスになっていたのだと思います。また「お姉ちゃん」として頑張ってもいたのでしょう。
小学校に入り、母親が朝起きないために寝坊や遅刻、朝食抜きということがたびたびでてくるようになりました。
しかし、まだ保育園時代からの気の合う友達が同じ小学校にいたりするので、さほどのネガティブな行動も出さずにその子のもちまえのほんわかした性格でその生活をこなしていきます。
しかし、高学年の頃から不登校になることが多くなり、中学校に入ってしばらくすると家庭も学校もドロップアウトしてしまいます。
のんびり穏やかだったこの子の持ち味は消え失せて、イライラや怒りばかりが前面に出てきます。
一方で、乳幼児期にさんざんネガティブ行動や情緒の不安定を出していた妹の方は、小学校中学校ともそれなりに無難にこなせていってしまうのでした。
それがすべてではないでしょうけれども、我慢して押し込めてきたために「親に向き合ってもらえなかった」Eと、ネガティブ行動満載で親が向き合わざるを得なかった妹との生育歴の違いが、あとあとこのような形で出てきた部分もあるのではないかと感じます。
ひるがえってAの事例を考えますと、けっしてうまい子育てはできてはおりませんが、このAには母親や園の保育士が「向き合った」というたくさんの事実は積み重ねられています。
心の成長の過程で必要なものが持ててこなかったという穴もあいていますし、そこを適切に埋め戻せてもおりません。けれども、いま現在それの成果は目に見えていないとしても、埋め戻そうとした努力の跡はあるのです。
Aにとってこのことは、ドロップアウトせずに(もしくはしたとしても)戻ってこれる灯台のような経験としてAの中に蓄積されていくのではないかと思うのです。
この蓄積というのはその人の人生の分水嶺となるほど大きなものとなるかもしれません。
| 2014-09-11 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 14 | トラックバック : 0 |
お月見 - 2014.09.09 Tue
8月の下旬頃から9月8日はお月見なんだよという話を家族でしていました。
(中秋というのは暦のことなので、必ずしも満月とは限りません。 正確には本日が満月になります)
むーちゃんは楽しい思い出や経験というものをとても大切にとっておくタイプなので、こういう行事やイベントというのが大好きです。
一週間くらい前からお月見でお団子を食べるのをずっと楽しみにしていました。
昨日は曇っていたけれども少しでも月がでないかなと待っていたのだけど、残念ながら雨が降ってきてしまってとうとう月は出ずじまいでした。
むーちゃんはその間、「はやくおつきみしようよ~」と待ってくれていたけど、さすがに仕方がないので、家の中でお団子を食べることに。
お茶を点てるためにお湯を沸かしている間に、お兄ちゃんがなにかしているなと思っていたら、きいろい色紙を丸く切り抜いてかもいに糸でつるしてお月様に。
そんなかんじでお月様は見られなかったけれども、楽しみにしていたお月見をすることができました。
むーちゃんはお団子を満足して食べ終えると、「むーちゃんおつきさまにいってきまーす」とイスをひっぱてきてその上に登ってお兄ちゃんのつくったお月様を触ったり、宇宙船にのってるごっこをしてから、お団子の入ったかごを大人の方に持ってきて、「はい、お月さまのウサギさんがつくってくれたおだんごだよー。おみやげ~」と楽しそうに遊び続けていました。
月は見えなかったけれど、きっとむーちゃんのなかでは「お月見」というものが楽しいものとして記憶されていくことでしょう。
たいしたことはしていないのですが、やって良かったなと思います。
最近ではお月見のような日本の伝統行事的な文化というのはすたれてきてしまっていますよね。
ハロウィンの飾り付けやクリスマスの行事などはするのに、もともとの自分たちの文化をかえりみなくなってしまっているのは残念なように感じます。
ちなみに、来月8日には「皆既月食」が全国で見られます。
時間的にも18時15分から始まり(皆既食となるのは19時25分から20時25分)子供でも見やすいです。
いまから子供たちと楽しみにしておくのもいいかもしれませんね。
http://www.nao.ac.jp/astro/sky/2014/10.html (国立天文台)
| 2014-09-09 | 我が家の子育て日記 | Comment : 15 | トラックバック : 0 |
子供の心にぽっかり穴を開けてしまう Vol.3 - 2014.09.08 Mon
母親は大変まじめな性格で乳児期から「子供に正しいことをさせなければ」というスタンスで一生懸命に子供の行動の制止やダメ出し、注意などをたくさん重ねてきてしまった。
結果的にそれは「否定」の過干渉(マイナスの関わり)となってしまっている。
そこに前述のように、「かわいがったり」「受容する」(プラスの関わり)ということを知らないできていた。
プラスの関わりがほとんどない状態で、山のようなマイナスの関わりをAはこれまで生きてきた年数分積み重ねられてしまっている。
この状況は5歳の年長になった段階でちょっとやそっと良い関わりをしたとしても、その関わりの蓄積はこれまでの穴埋めに費やされるだけでAの目に見える姿を好転させるほどのところまでは簡単には届かない。
まじめな人というのは、「こうしなければ」というビジョンを強く持ってしまっているといえます。
そこにプラスしてこの母親はすぐに感情的になりやすい人でした。
いろいろ話をした上で母親も「受容」ということを心がけなければならないということは理解してくれています。
でも、まだ「こうしなければ」のビジョンは気持ち的に譲れません。なので、Aが逸脱した行動をしてしまうと感情が激してしまって、ついつい否定的な関わりを出してしまいます。頭ではそれをセーブしなければと思ってはいるのだけど、激してしまう感情をコントロールできません。
叩いたり、否定的な言葉を我慢することはできても、不機嫌な表情や状態が続くのまではなかなか抑えられません。
絵本を読んであげる、くすぐりをするなど、これをするといいですよと言われたことはまじめにするのだけど、まじめすぎるというか応用がきかないのでそういった暖かい柔らかい気持ちでの関わりというのはそれら以外の場面ではあまりだせません。
やはり以前と同じく座ってご飯を食べられなかったり、朝起きておむつからおしっこがあふれていたり、他児の親の前で他児にちょかいを出したりするとイライラやうんざりとした気持ちが顔にでてしまいます。
保育士と話をして、悩みや愚痴を聞いてもらってこんなことをしていってあげるといいですよということを伝えると、それからしばらくは子供も笑顔がでたり、素直に大人に関われたり、他児ともそれなりに遊んだりということができるのだけど、次の週くらいにはまた元の様子にもどりその月はその状態をひきずり、また翌月に「先生、どうしたらいいのでしょう・・・」というのを繰り返し、一進一退というような状況でした。
この母親自身も一生懸命努力はしているのだけど、母親自身の生育歴や性格、自己肯定感の低さなどがあって努力だけでは如何ともしがたいところがあるのでした。
母親の話によるとAが0歳の頃から大泣きしたときは泣き止むまで「無視」をしたり、泣かないようにずっとおしゃぶりをくわえさせていたり、1歳すぎてからは無視や放置をする疎外感を使って子供を思い通りにしようとしたりというのを繰り返していたとのことです。
また、泣かれると困るので家に居るときはずっとテレビを見せていたりということもしていました。
ふつうですと、取り立てて気性の荒い赤ちゃんでもなければ、0歳1歳のころはそうそう意識をしなくても「かわいいかわいい」といった関わりを自然ともらえるものです。
家族が大きければ親だけでなく、祖父母や兄姉などからもそういう経験をもらうことができます。
このAの場合は父は無関心で母も暖かく関わるということを知らない人だったので、本来ならば赤ちゃんの頃に蓄積されるであろう受容や自己肯定感というものがぽっかり穴を開けています。
それは子供のネガティブ行動として、2~3歳以降たくさん出続けていますが、Aの状況はそれだけではありません。
人間の成長の基礎の部分が欠けているので、情緒面にも問題がでています。
奇声をあげたり、日によって今日は荒れているなという様子のことがしばしばあります。
5歳になって顕著になったのは自慰行為です。「性器いじり」といった程度の軽いものではありません。何をしていいかわからないとき、何もすることがないとき、手があいているときは無意識に性器をこすっています。
また、女性や女の子にくっついたり、触れたくてしかたがありません。
大人のするような性的な感情ではないのですが、皮膚感覚的な面で無意識に求めてしまうのです。
女性保育士の胸も触ってきます。B保育士はそれを許容していましたが、あるとき「そういうことお母さんにもしてみたら?」と聞くと、
「ママの触ると怒られるからできない・・」と答えたということです。
この状況にある子に5歳児並みの「できること」を要求してもそれは無理なのですが、母親はその気持ちをおさえることはできません。
話を聞いているので頭ではわかっているのだけど、ついついおむつを寝るとき外せないことを「はずかしいこと」「できるだけはやくに取れるようにしなければ」という気持ちを一旦置いておいてあげることができません。
少しでも排泄のこと気にさせてはよくないよと言われていても、「あなたの好きなヒーローもののキャラのトレーニングパンツ買ってあるからね」と期待を匂わせてしまいます。
座ってご飯を食べられないことを「〇〇ちゃんは座って食べられていると」と比べるようなことをAに言ってしまいます。
これらは結局Aの自己肯定感を下げていってしまいます。
自己肯定感のない子というのは、「受容の容れ物」に穴が開いているようなものです。
その状態でいくら「甘えさせる」や「満たす」という関わりをしても、それらは漏れていってしまってなかなか貯まりません。
まず第一に、親の方が「〇〇できるように」という意識を切り替えて、「できなくてもありのままを認める」というところに立たなければならないのですが、Aの母親にはそれが簡単ではありません。
「トレーニングパンツを履いて欲しい」という期待を親がのぞかせるということは、「おしっこをもらしているあなたじゃダメだ!」と言っているのと同様のことで、Aにはそれは大きな否定としてとらえられてしまいます。
そのようにとらない子もいますが、自己肯定感の低い人間というのは自分の否定に対してはとても敏感になっていますので、大人の方にそのつもりがなかったとしても悪い方へととってしまうものです。
大人がそれに気づかないと、自分で容れ物に穴を開けているのにそこに水を注いで「ちっともこの容れ物水がたまらないわね、頭きちゃう!」とマッチポンプでイライラを自ら作り出し、そのイライラを子供に向けるという悪循環となってしまいます。
子供の問題だけならば、第三者の働きかけで影響を与えていくこともそれなりにできなくはないのですが、大人の方にもその人の問題があるとそれは容易ではありません。
このAのケースはまさにそれでした。
Aの自慰行為を大変苦々しく思ってはいるけれども、抱きしめたり、スキンシップをとることを「甘やかしなんではないか」と頭で考えてしまって気持ちよく受けてあげられなかったりというところから脱することができません。
Aの問題の前に、母親の方の「不安」「心配」「自己肯定感の低さ」といった問題が横たわっているのでした。
母親はAに胸を触られたりすると「気持ち悪い」という気持ちが先にたって手ひどく拒絶してしまいます。
このことはAからすると自分を受け入れてもらうことを、最も受けて欲しい母親から拒否されたという経験になります。
こういう経験が蓄積されている子は、自分を素直に出すことができなくなります。
関わって欲しい保育士や、遊んで欲しい友達に蹴りをいれたり、パンチをすることで関わりを求めざるを得なくなってしまうのです。
しかし、当然ながらそれで受け入れてくれる人はそうそういません。
仮定の話が許されるのであれば、Aが2歳や3歳のときの段階で、いま母親がする気になった受容的な関わりというものが少しでも持てていたら状況はもっと楽に好転させられたはずです。
しかしいまは幼い部分が多いとは言え、5歳年長となり甘えを素直に出すことにも恥ずかしさを感じてしまうし、おもらしをしてしまうことには劣等感を感じざるを得ません。子供のいろいろな問題を解決するためのハードルが上がってしまっているのです。
一方で親の方の「5歳になっているのに・・」といった焦りはどうしてもよりおおきくなってしまいます。
もっと言えば、0~1歳の段階で子供は優しく受け止めることで育てていくんだよと誰かに教えてもらう機会があって、たとえ下手な関わりでもいいから無視や放置といったことをせずに育ててきていてもまた話は違ったことでしょう。
子供の小さいときにつくった穴というのは、それをあとから埋め戻そうとするのは大変です。
それでも親がその気になりさえすればできないことではありませんが、小さいときにその気になれなかった人がより大変になった大きいときにそうするのは簡単なことではありません。
最近の相談でも乳児期の子供に対して、無視や放置、疎外感を利用することで大人の思うとおりの姿にしてきてしまったというものが何件もありました。
親が自分を認めない、受け入れてくれないという経験は子供にとって心に穴をあけてしまうような積み重ねとなってしまいます。
ただ、穴があいただけならば自然と埋め戻されることもあるかもしれませんが、大人に受け止めてもらえないという自己肯定感の低さ・自己否定感というものを強く持っている子は、その開いた穴に「怒り」を貯めていってしまいます。
いまの多くの人が子育てをしている状況、「核家族」という家族形態には「保険」がありません。
母親が子育てに向いていない人だったとしても、祖父母や叔父叔母などが身近にいればその人たちが少しなりともカバーできる部分があります。これが子育ての「保険」になっているのですが、いまはそれらはあまり望めません。
実を言うと「核家族」すら機能していないこともあって、このAの家庭のように父親が子育てに無関心であったり、父親がほとんど家にいない状況などでは「母と子」しかいないことになります。それは実質的には「不完全核家族」となっているということです。
母親ひとりで子育てがつらいときは助けを求めることも必要なのだけど、いまの状況というのはそれができないことも少なくないので、こういうことは単に「子育て」だけの問題にとどまらず難しいところです。
| 2014-09-08 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 13 | トラックバック : 0 |
相談 「子供の泣きに負けてしまう」 ー依存とどう向き合うかー - 2014.09.07 Sun
不思議に思っていたのだけど、記事更新すると読者の方がリアルタイムにわかるようなやり方とかあるのですかね?
いくつか「はじめにお読みください」を更新日を未来にすることでブログ先頭記事にあげてはどうかというご提案をいただいているのですが、それをすると最新記事をUPしたときにPINGが発信されなくなってしまうそうです。それだと記事更新をお待ちくださっている熱心な読者の方にご不便をかけてしまうかと思って、「はじめにお読みください」を未来記事にしていない理由なんです。
今後もしこれ以上読者数が増えてしまったときなど必要があると感じれば、「はじめにお読みください」をいつでもトップにくるように未来記事にするかもわかりません。
今回の相談は「弱い大人」タイプの人が、子供の依存を強くしてしまうことから抜けられないというケースへの初歩的な対応策を書きました。これは相談者さんだけでなく、いまの子育てしている人のけっこうたくさんの人に参考になるのではないかと思います。
9月3日 たまちゃんさんの相談コメントへの返信
現在2歳1ヶ月と3ヶ月の息子の母親です。
上の子はまだ卒乳していません。人見知り、場所見知り激しく私か主人、時には主人でもだめで、私の姿が少しでも見えないと大泣きします。病院などで私からどうしても離れないといけない時などは、離れた時泣くものの、その後はすぐ泣き止み聞き分けよくおばあちゃんと過ごせているようです。
里帰りをした頃から、私とおっぱいへの執着というか依存は激しくなり、ご飯をちゃんと食べなくなりました。
ご飯の後にしようねと言っても泣いて泣いておっぱいをせがみまいけないことはいけないと一貫して言わなければと思い毅然とした態度で言ってますが、あまりに泣くため精神上よくないかもと思い根負けしてしまっています・・
このブログに会うまで、いけないことは優しく言うぐらいで叱るなんてことはほとんどしてきませんでした。ですが、下の子が産まれてからは、下の子の授乳を妨げたり、危ないことをした時などどうしても毅然と怒らなければいけない場面が出てきたこと、このブログからしてほしくないことは子供が泣いてでもさせない親の一貫した態度が必要だと言うことを学び、実践してますが、自分の怒り方でいいのか、迷います。本当に私は弱い大人です。。
息子が産まれてから外出出来るようになってからは毎日のように散歩をしたり起きてる時は一緒に遊んでいます。毎日大好き大好きといい、たくさん抱きしめ、かといって過保護にならないよう自分で出来ること、したいことは止めずにさせてきたつもりだったのですが、いいなりになってきたことが多いのも事実で、過保護過干渉になっていたのでは、それが私やおっぱいへの依存を強めた要因じゃないかと悩んでいます。
今特に悩んでいることが、食事よりおっぱいが主となっていることと、食事中座って食べれないということです。昼夜問わずおっぱい、おっぱいでぐずることが多く、息子は満たされてないのかなと悲しくなります。
受容、共感等続けていきながら、おっぱいではなくご飯を食べてほしいこと、座って食べることなど私がしてほしいことは泣かせてでも一貫して毅然と言い続けるべきなのでしょうか?ご飯が嫌にならないか心配で、強く言う日もあればそうじゃない日があってしまい一貫した態度を保てません。。
まとまりのない文章ですみません。どうすべきかアドバイスくだされば嬉しいです。よろしくお願いします。
「なぜ依存が強くなってしまっているか」という点を理解してそこを留意できるかどうかということが、いまの状況を安定させていくことにつながると感じます。
まずは「泣きに負けない強さ」でしょうか。
これは、目を怒らせて子供の主張を押し返すといった強さというよりも、子供が泣きによって自己主張をしてもそれによりおどおどしたり、どうしたらいいだろうと構えてしまうのではなく、おおらかにそれをいなせるというような大人の強さです。
「包容力」とでもいうものが近いでしょうか。
それによって子供の泣きそのものを受け止めてしまわないと、子供はそのように「大人を困らせる種類の自己主張」をどんどん募らせて行ってしまいます。
この「泣きに負けない強さ」=「おおらかさ」を姿勢として持って行くことがまず第一段階だと思います。
それを持っていたとしても、子供の出し方が即変わるということはないでしょう。これはあくまで姿勢であるからです。
その上で子供が自己主張なりをしてきたときに、それが気持ちよく受けられるならば受ける。気持ちよく受けられないことならばそれを無理して受けないという一貫した大人側の姿勢でもって対応していく。
この段階で受けられないという必要があって大人が強い態度を示すのならばそれはそれでいいのです。
でも、先ほどの第一段階の姿勢のないところでこれをいくらしても子供は拒絶反応を示すばかりです。
年齢的なものもあるし、下に生まれたことを考えればこういった甘えの強くなる姿というのは当然のものです。
でも、その甘えをよい出し方にするか、ネガティブな出し方にするかというのは大人の姿勢や対応によって変わってきてしまうでしょう。
「いいなり」や「泣きに負ける」ということを大人が繰り返していたら、子供の方もいつまでたってもよい出し方を身につけることはできずに、大人を困らせることを甘えを受け止めてもらうことの代償行為にしていってしまいます。
これを切り替えていくのは、「ネガティブな出し方を受けない」ということをまずしてしまうのではなく、「よい出し方に変えていく」ということを先にしていくべきです。
最初から子供のネガティブな出し方を否定しても、子供はそれにかわるなにものかをまだ獲得していなければ、「受容してもらえない」というマイナスの気持ちばかりを大きくしていってしまうからです。
受け止めない甘え Vol.2
このあたりの過去記事や、「素直な甘え」「かわいい甘え方」などで検索すると該当記事がでてくるでしょう。
もちろん「先回りした関わり」などで受け止めるということをしていくこともいいのですが、足りないのは「受容」そのものではなくて子供の姿をありのままに受け止めるという大人の方の姿勢にもあると思います。
>息子は満たされてないのかな
例えば、こういう大人の気持ちは子供に対する「負い目」となってしまいます。
その「負い目」は子供の依存を助長します。
こういうことは「弱い大人」タイプの人にありがちなのですが、このような気持ちをもっていると「受容」を心がけてそれを実践していても、それが子供のなかに「満たされた気持ち」としてなかなか貯まっていけません。
子供のことをプラスにとらえられないでいる気持ちを引きずってしまうと、子供の容れ物に穴が開いたような状態となってしまうのです。
なので、いくら大人の方が「受容」や「共感」を重ねても目に見える結果につながっていきにくくなってしまいます。
「これをしてもうまくいかないのではないか」「私が弱いから子供が安定していかないのだ」といった気持ちは、たとえそれが事実であってもそこに大人がとらわれてしまうと、子育てにおいてプラスの蓄積が難しいです。
大人がおどおどしていては、子供の姿を安定させていくのは難しいです。
失敗してもいいからと自信をもって臨むか、「どうしよう」「こうしなければ」「子供を〇〇にしなければ」といったことを気にして関わるのではなくて、ただありのままにそれを受けていくような「おおらかさ」というものがあるとすんなりといきやすくなります。
というわけで、
>座って食べることなど私がしてほしいことは泣かせてでも一貫して毅然と言い続けるべきなのでしょうか?
これをして子供にそれがよい形で通じて子供の姿が安定していくか、逆にネガティブな姿を増大させてしまうかというのは、それ以前の大人の姿勢に大きな要素があるのです。
ですから、まずは子供の自己主張を大きな包容力でもって、それがいい悪いどうしたらうまくいくかいかないかという視点抜きで、まるごと受け止める。
それにより自分の気持ちを揺らがせてしまうのではなくて、いまこの子はそういう時期であり心情であるから出ている成長の一過程の姿なのだと達観して認めてしまう。
それをどうするかはそのあとで慌てず考えればいいこと。
自分が大人として困る出し方をされたら、それをそのまま「子供のために」と無理して受けるのではなくかわいい出し方にして、大人も子供も気持ちよく受けられるようにかえてあげられる道筋を大人の方から示していく。
子供の姿を「満たされていないから」「受容がたりないから」などとネガティブにとらえない。そのようにとらえることは同時に、親自身の自己否定にもなっているので子育てにはプラスには働かない。
>昼夜問わずおっぱい、おっぱいでぐずることが多く、息子は満たされてないのかなと悲しくなります。
こう思えば思うほど依存は募ってしまうでしょう。
この3点をまずは気にとめて関わりを安定化させていけるとよいかと思います。
そのあとに出てくる実際の関わりのうまい下手というのは、それらに比べればさほど大きなことではありません。失敗しながら、試行錯誤しながらいろいろとやっていくなかでよい方法を見つけていけばいいことです。
子育てを「心配」で埋め尽くしてしまうのではなくて、ときには開き直ってしまうことも子育てのプラスに働くこともあります。
「おっぱいばかり飲ませてたらこの子のためにならないわ。食事をきちんととらせなければ」と思いながら、ご飯で半分おっぱいで半分づつおなかいっぱいにするのも、
「はいはい、おっぱいがいいんですね。じゃあ半分食べたしおっぱいでもいいか~」とおおらかに笑顔で受けて、ご飯半分おっぱい半分にするのと栄養的にはかわりませんね。
でも、子供が受ける気持ち的な部分はまったくといっていいほど違ってきます。
この前者のように自分がしていることを気持ちよく認められないというのも「弱い大人」の特徴です。
どうせやるのならば、おおらかにひらきなおって気持ちよくやってしまえばいいのです。
前者では子供はずっと満足を得られないままネガティブな行動を続けていくしかありません。
後者ならばたしかにいまは幼い姿をだしているかもしれませんが、先々に気持ちよく自立をさせていく展望を子供にもたせられます。
こういった大人の気持ちの部分も留意するといいかもしれませんね。
「どうせ同じことをするならば気持ちよく」です。
追記
食事中座って食べられないというのは、「あとからついてくる問題」だと感じます。
上記のことへの対応をしていけば、その後にはなにかすごい対応をしなくても普通に安定してくるのではないかと思いますよ。
| 2014-09-07 | 相談 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
子供の心にぽっかり穴を開けてしまう Vol.2 - 2014.09.07 Sun
絵本を読むことをしらなかったというのはそれの象徴的な出来事としてあげています。
そこからいろいろ話を聞くと、子供をかわいがったり楽しく一緒にスキンシップを持ったりという関わりを子供にするということそのものを認識していなかったのです。なので当然ながらそのようなことを子供にもしたことがなかったとのこと。
Aはこれまでの生育歴において、受容や甘えというものをほとんどまったく知らず、ネガティブな行動をすることによって母親の目を向けてもらうことで育ってきたのでした。
こういうケースでも父親が子煩悩であったりしてなんとかバランスがとれる場合もありますが、この家庭では父親も母親と似たタイプで感情の表し方などもとぼしい人でさらに子育てには無関心であったので、子供の養育はほとんど母親まかせでした。
Aはネガティブ行動のほかに、母親の過保護やいいなりになってしまうことも受容の代償行為にしていたろうと思われる。
しかし、母親はAのことをいつも「〇〇ができない子」という視線でしか見ておらず、自己肯定感を高めてあげるような関わりもしていないので、そういったものを受容の代わりとして引き出しても、「満たされた気持ち」として蓄積されていくことはそう簡単ではない。
母親に子供の話をしても、よくそこまで悪く考えられるなーと驚いてしまうほどAの行動を悪い方へ悪い方へととってしまう。
自己肯定感や「満たされる」ということに関して、このAほど低い子というのはそうそういないだろうと思われる。
そう考えるとむしろこのレベルの姿でとどまっているのは、このAの持ち前の個性や幼さが有利に働いていた結果なのではないかとも考えられる。
それからいろいろあってしばらくたち、母親の方から自分の関わり方を変えてでも子供の姿を安定化させていきたいという気持ちがでてくる。
(それまでにも「受容」などについて話はするも気乗り薄であり、さして実践した様子もなくAの姿にほとんど変化はなかった)
母親はそれまでAの姿に対して、「あきらめ」や「うんざり」という気持ちを強く持ってしまっていた。
園での生活が安定してきたり、保育士が「素直な甘え」「かわいい関わり」を出せるようにAに対して取り組んできたことで、少しずつAの姿にも変化が現れてくるようになった。
母親はそこから「関わり方」によってAの姿が良い方へと向けていけるのだということに希望が持てるようになった様子。
この段階になってはじめてきちんと、Aの姿がなぜこのようになっているのか、どういった関わりがこうしてしまうのか、しまってきたのかということを母親にも理解できるように伝えていった。
受容不足、自己肯定感の低さのためにネガティブな行動、他児へちょっかいを出すような行動、人が嫌がることを進んでしまうこと、大人の言葉が聞けなくなっていること、保育園に入って安定した姿がでるようになったのは「信頼関係」を作ったからであり、「叱る」「怒る」でそのようにできているわけではないこと、子供自身がもともと「落ち着きのない子」「聞き分けのない子」「悪い子」ではないということ。
この母親はAのことをそういった、「A自体に問題があるために適応的な行動ができないのだ」というような見方をしてしまっており、働きかけることを無駄なことなのだというあきらめを持ってしまっていた。
しかし、子供の様子に目に見える変化がでてきたことでその「あきらめ」に変化がでてきた。
そこからさらに時間をかけて話を聞き、園側からもAにもたくさんのよい部分があること、本当は大人に認められたいと思っていてもそれが素直にだせなくなっていること、どのようにしていけば良い姿を出せるようになっていけるかといったことを伝えていく。
また排泄が確立していないことも、そういった精神的な面と無関係でなく失敗を叱っても良くなるわけではないこと。むしろそのことが子供のネガティブな行動を増やしてしまうことなども伝える。
母親はこのことを十分に理解してくれるのだが、ここからもさらに対人関係の難しいところでそれだけではすんなりとはいきませんでした。
つづく。
| 2014-09-07 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
子供の心にぽっかり穴を開けてしまう Vol.1 - 2014.09.05 Fri
これはかなり極端なケースですが、多くの人が抱えている悩みや問題を濃縮してすべて抱えてしまっているようなものでした。ですからこの事例から、程度の差こそあれいまの子育てで気をつけるべきなんらかのヒントが見いだせるのではないかと思います。
父母と男の子の3人家族、祖父母などの協力は得られない状況。
年度の半ばを過ぎてから年中クラスに転入してくる。(以降この男の子をAとする)
Aは低月齢で身体も小さく、幼い部分が多くあり理解力なども年齢に比して発達していない。(知的な問題があるわけではない)
日中おむつこそ履いていないものの、午睡時はほぼ毎回睡眠中に漏らしてしまう、家庭での様子を聞いたところ夜間はおむつをして寝ているとのこと。園でも午睡中おむつを使うことを提案してそのようにする。
友達との関係もうまくとれないので、一緒に遊びたくてもそれができない。結果的に、ちょっかいを出したり遊びを壊すことで関わろうとする。また、家庭ではヒーローものやテレビゲームでしか遊べないので、そういった刺激の強いものを小さい頃からたくさん与えられてしまっている。そのため、構成遊びなど友達と作って遊ぶものということをあまり理解できていない。Aに悪意はないのだが、壊すこと叩くことなどを遊びとして理解しており、結果的に他児が嫌がる状況になってしまっている。
情緒が安定しておらず、着替えや片付け、散歩に行く際、集団での遊びなど生活の節目節目での行動がスムーズにいかない。
それらの行動の多くが大人からすると注意しなくてはならないようなことばかりになってしまっている。
言葉では伝えきれないのだが、子供らしい無邪気さとか幼さゆえの他児へのちょっかいだったり節目でのゴネというよりも、その背後に意地悪さや陰険さが感じられるような出し方をするので、保育士としても関わりにくく、受け止めようという姿勢をもって臨んでいてすらほとほと疲れきってしまうような姿の子供になってしまっていた。
例えば、気づかないふりをしてわざと他児の目の前でドアを閉めてぶつけようとしたり・・・など。
(参考:過去記事「ねちっこい甘え」について ― 受容の大切さ ―)
母親というのが、現代の子育ての難しくなる原因を一身に兼ね備えてしまっているような人であった。
初対面で会っても多くの人が「この人は対人関係不得意そうだな」と感じさせるようなタイプで、感情の表出も苦手。仕事でも人と関わるよりも圧倒的に数字やパソコンとしか関わらないような職種。
Aと向き合っているときも、通常の顔=無表情と怒っている顔か不機嫌な顔しか出していなかった。
また、母親自身も自己肯定感の低さを感じさせるところがあり、「すみません」が口癖のようになっている。
Aは2歳で無認可の託児所に入るまで家庭で母親と過ごすが、公園や児童館などでAが他児にちょっかいを出したり、他児のものをとってしまうことがいたたまれず、自分たち親子のことを悪く思われているのではないかと過剰に気にしてしまっていたとのこと。
そのため注意や制止、叱る、先回りしての行動の規制などが非常に多くなる。
2歳から入った無認可園は、大勢の預かった子供を最低限の人員で叱って怒って大人の手のかからない状態に押さえ込んで保育をするというところだったので、お迎えのたびに「今日はこんなことをして困りました」というようなことを言われることが多かったとのこと。
「もっとしっかり叱ってしつけなさい」という趣旨のこともたびたびいわれるので、母親もよけいにガミガミと子供に関わるようになってしまった。
そういった経緯や母親自身の自己肯定感の低さのためか、子供のことを良い方向に受け止めるということができない。
子供が描いた絵や作ったものを誇らしげに母親に見せても、「(描いてある絵が子供の言ったものに)そんな風に見えない」とか、「(工作を)これではすぐに壊れそうだ」というようなネガティブな返答ばかりをする。
子供に感心が低いとか放任気味というのではなく、もともと真面目な人で「子供をしっかりと育てなければ」と強く責任感を感じてしまっている。
しかしそれゆえに、過保護と過干渉がさらに過剰になり、しかもダメ出しや行動の規制などの「ネガティブな過干渉」の関わりが子供との関わりのほとんどとなってしまっていた。
乳児期からその状態であり、公園などでの他児との関わりや、託児所での指摘からそれらがより徹底的になされるようになっていた。
年中のときの担任の一人が、Aを献身的に受け止め受容と肯定をして信頼関係を築いていく。(さらっと書きましたが、これは本当に大変な労力を要することで、そのような力量と意欲を兼ね備えた保育士がこのときの担任であったことはAにとって本当に幸運なことであったでしょう。以降この保育士をB保育士と表記します)
前の園に通っていたときは、「先生がこわい」「いきたくない」ということばかりをAが言っていたが、新しい保育園に来てから「保育園がたのしい」「先生が大好き」と家庭でも話すようになり、当初なにかを指摘されるのではないかと構えていた母親も、保育士にだんだん心を開くようになってくる。
途中入園だったのでほどなく進級し年長になり、B保育士も持ち上がりで年長クラスの担任となり、異動してきたばかりのC保育士と二人担任になる。(B・C保育士とも20年以上の保育歴を持つベテラン保育士)
この年長クラスは個々にはそれなりに問題を抱えている子も多かったが、B保育士がずっと持ち上がりで信頼関係を築いてきていたので、クラスとしては安定していた。
そのため、Aがちょっかいを出したり、遊びを壊したり、集団での遊びや行動を中断させても、それを大目に見てあげたりAに譲ってあげたり、Aをフォローしてあげたり、幼くてできないことを女の子たちが世話してあげたりと集団としての力が強く機能していた。
そういう面もあって、Aにとっては居やすい雰囲気が作られていただろう。
C保育士も意欲も力量もある優れた保育士であったが、Aの方にまだたくさんの人に信頼感を抱けるほどの余裕はないので、信頼関係の形成途中という状況であった。
AはB保育士との信頼関係によって生活や遊びが安定を示してくる。
しかし、そういった姿というのはB保育士の存在があってしか出せない段階であり、B保育士が週休で休みになりC保育士しかいない状況ではやや安定を欠いてしまう。B・C保育士もいない早番遅番の時間などだと荒れた姿が出てくる。
B保育士がいないときには、ケガをした、ケガをさせたというようなこともしばしば出てしまう。
B保育士との信頼関係で安定した姿が出るというのは、具体的には例えば他児を叩いてしまうような状況でもそれをぐっと我慢したり、遊びを壊してしまおうとするのを直前でやめたりと自分の行動を律する姿がB保育士の存在によって出すことができているのである。
Aは遊びを提供しても遊び込めないし、楽しめないことが多かったのでB保育士はAとの関わりに絵本を使っていた。
Aのために読んであげるという機会を持ち、Aに大人に好意的に向き合ってもらっているという実感を経験させるために可能なときには積極的に絵本を読んであげるという活動をしていった。
これを続けることで、Aは大人とポジティブに関わる方法をひとつ身につけることができた。
「絵本を読んで」という関わりである。
Aが家庭でも絵本がおもしろい楽しいと母親に話すようになり、しだいに「絵本を読んで」ということを求めるようになった。
これが結果的に、母親の方の「どう関わっていいかわからない」という子供に対して構えてしまう気持ちに突破口を開いた。
そしてもうひとつ、このことから保育士にとっても衝撃の事実がわかった。
長いので次回に続きます。
| 2014-09-05 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
相談 保育園では問題ないが家では困った姿が目立つ(2歳4ヶ月) - 2014.09.02 Tue
すみません順番がちょっと前後してしまいました。
いつもお世話になっております。
お父ちゃんさんのブログに出会い、くすぐりをする等少しずつ関わりを変化しているところです。
2歳4か月の女の子の母で、経済的な事情で娘が6か月の頃からずっとフルタイムで働いています。
今月末に出産を控えており、お盆休みと同時に産休に入っているため、最近は娘と家で過ごす時間が多いですが、家族構成は娘・夫(中学校教諭)・私(広告代理店の営業時事務)・(ともうすぐ下の子)で核家族、実家・義実家・親戚等、すべて遠く、普段は保育園(7時~19時)にお世話になって何とかやっている状況です。
夫は家事・育児共に協力的で、私が残業の日はごはん・お風呂・寝かしつけまでやってくれます。娘は夫を試したり、所有したがったりと、まるで我儘な恋人のように振る舞うことも多く、夫が休日出勤等でいなくなると、仕事だと何度も説明してから出かけるにもかかわらずベランダから泣きながら夫を呼び続けるなど(30分程度)、お父さん大好きっ子です。(私にも同様のことをすることもありますが、夫に対するものとはちょっと違うように感じています)
うちでの娘は、好き嫌いをして葉野菜を食べなかったり、思い通りにいかないと物を投げたり親を叩いたり、「やめてほしいな」とお願いすると「やめてほしいなじゃないの!」と怒鳴ったり…といった我の強い子なのですが、保育園では全く違うようで、自分からお友達を叩く等しないどころか、お友達に噛まれてもやり返さない、先生の言うことをよく理解して言うことを聞く、と言った感じで、主任先生からも「4月生まれということを除いても本当に発達の早い賢い子ですね」と言われています。
オムツは本人の「オムツでしたい」という強い希望で外せずにいますが、私自身はあまり気にしていません。(園では一日に数回連れて行くようですが、うちでは誘っても「行かない」と強くお断りされるので断念してしまっています)
うちと外で随分と様子が違うようなのですが、単なる甘えなのでしょうか?それとも、親の対応が下手で保育園のように上手に子育てできていないのでしょうか?夫とふたり、どうしたものかと悩んでいます。
多分に推測が入りますのでそのおつもりで参考までにどうぞ。
>うちと外で随分と様子が違うようなのですが、単なる甘えなのでしょうか?それとも、親の対応が下手で保育園のように上手に子育てできていないのでしょうか?
これは普通のことです。
むしろある意味では健全とすらいえます。
大人だって会社でビシッとしていたら、家ではだらっとしたりするのは誰しもありますよね。
子供もそれと同じです。
逆に、「家でいい子、外で問題児」の方がずっと根深いものがあることが多いです。
ここからは多分に推測になりますが、
>うちでの娘は、好き嫌いをして葉野菜を食べなかったり、思い通りにいかないと物を投げたり親を叩いたり、「やめてほしいな」とお願いすると「やめてほしいなじゃないの!」と怒鳴ったり…といった我の強い子なのですが
こういう姿はお母さんに対する一種の甘えの出し方なのだと感じます。
女の子と母親ですと、素直に自分の感情を出せずにこのようなひとつ角を曲がったような出し方をしてしまうことが往々にして見られます。いわゆるツンデレに近いですね。
その背景にあるのは、12時間にわたる保育時間ですからこの頑張りを認めて欲しいというものがまずあるでしょう。
「私はこんなにも頑張っているのだからそれをしっかりと認めてよ、お母さん!」という主張をネガティブな出し方を通してしているわけですね。
もうひとつは、お母さんにもっとおおらかに穏やかに過ごして、ありのままの自分を受け止めて認めて欲しいということなのだと感じます。
このあたりは過去記事の「全面肯定」というところが関連記事になります。検索するといくつか出てくると思います。
>うちと外で随分と様子が違うようなのですが、単なる甘えなのでしょうか?それとも、親の対応が下手で保育園のように上手に子育てできていないのでしょうか?夫とふたり、どうしたものかと悩んでいます。
この部分が、「家庭でも外と同じようにきちんとできるはずだ、きちんとできるように育てなければ」という気持ちが少しでもあっての問いなのならば、お子さんのメッセージはより先鋭化します。
つまり、「できない私であってもありのままの自分を受け入れてよ」という心理があるわけです。
「できること」に目を向けた育児になってしまうと、しばしば子供はこの心理状態に追い込まれていきます。
だから、わざわざ大人が気に入らないであろうという姿をだすことで、深いところでの「受容」と「肯定」を求めるという行動にでてしまうのです。
真面目な人、一生懸命に子育てしようとする人ほど、こういうことに直面してしまいがちです。
そこに留意して、大人の側の大きな包容力でもって、子供のネガティブな姿ごと受け止めてしまうような姿勢を出していくことで子供の姿を安定化していきやすくなります。
これらは大人の方の自信のなさや迷いなども拍車をかけてしまいます。
大人の方もいまの状態が「子育てがうまくいっていないのだ」とか、「長時間預けているから負担をかけてしまっているのだ」というようにネガティブにとらえるのではなく、誰しも当然出てくる成長の一過程だと思って長い目で、またおおらかに見ていくことが大切です。
「受容」「肯定」「認める」「温かい目で見守る」といったことの積み重ねでお子さんの姿は安定化していけるでしょう。
まずは、くすぐりなどでお互いが楽しいという経験を共有していってみるといいと思いますよ。
| 2014-09-02 | 相談 | Comment : 10 | トラックバック : 0 |
相談 自傷行為にどう対応したらいいのか?(1歳10ヶ月) - 2014.09.02 Tue
コメント欄にて返信したのですが、つぎに記事にしようと考えていたことと関連性があったのでこちらにもあげておきます。
以下に転載してある相談コメントは、僕の返信に対する再コメントになります。
最初のコメントに対しては、直前にあった
『相談 母親に噛みついてくる(1歳半) イニシアチブと気分バロメーターの話』こちらの記事と近い内容だったので、そちらへの誘導をしたため
「子供の様子にもよるのですが、自傷行為は他者を傷つける行為と変わりませんのでそれは明確に止めるべきことであると僕は考えています。 」
ということ以外はあまり述べていません。
ミカイデさんのコメントのあった記事は両方ともこちら
「成長期の対応に手を焼いている」
こちらの記事いまのところ55個コメントがついていますが、その一番下4つが相談と返信になっています。
返信ありがとうございました。お忙しい中でのお返事、大変ありがたく読ませていただきました。
ぺちぺちゴンゴンの自傷行為はやめさせるべきだ と断言頂いて、まずは安心しました。
その行為についてどう対応するのがいいのか調べたり聞いたりしてきたものの、受け流す や あたたく見守る や 放置する のが良い のようなことばかりで、ならば と試してみるものの、一向に改善することもなく、むしろひどくなる(放置は最悪でした)ばかりで、解決するどころかその道筋さえも分からなく、おでこをぶつけ続ける息子を前にしておろおろしたり、抱きしめながら こっちまで泣きたい気分になり実際泣いてしまったり、なんてこともありました。
かまってほしいからやるんだから、ほおっておけばいい、自然と学習してやめるから
というアドバイスも受けたことがあって でもそれをすると もっとひどくなるし、ますます止まらないし、なので泣き叫ぶ息子のおでこに手を添えてせめて床にぶつけないよう防いだり、抱きしめたり しているんですが(そうすると、多少どころかすごく時間がかかる時もありますが、落ち着いてくるから と思っても、どこかでそのアドバイスが引っかかって、ああこれで ますますかまってほしい気持ちを助長させてるんだな
と自責する感じでした。
そんな態度が、弱い大人だったり、曖昧な対応につながって、むしろそれで息子もネガティブな態度でしか示せなくなっていたのでしょう。ぺちぺちの手を止めて、しっかりと伝えてあげたいと思います。
イニシアチブ気分バロメーターの記事も読みました。
ぺちぺちゴンゴンがあまりにも続き、(時間的にも日数的にも回数的にも)実際うんざりしていたし、彼を受け止めきれないまま、やめようって伝えても伝わりませんものね
まだまだ母親一年生で、こちらのブログで勉強しながらの毎日で、わかっているようでも、実際は弱くなっていたり、言いなりの状態を作っていたりしたんだな、と振り返って、今日からは新たな気持ちで息子と向き合っていこうと思います
普段はとってもチャーミングな彼で、親子三人で笑いあったり、彼の宇宙語も大活躍なおしゃべりをしたり、お手伝いも頼まなくてもやってくれたりと、楽しいことのほうが断然多いです。
それも、おとーちゃんのおかげです。これからも、愛読して彼と一緒に成長していけるといいなと思っています。
追伸 コメントを頂く間に、くすぐり や 夜消灯後に寝付くまでに30っ分ほど満足いくまで二人でベッドで遊びじゃれをしたり、 じーーーーっを日中心がけてやってみたりしているうちに、ぺちぺちゴンゴンも少なくなってきたように感じてます!
>かまってほしいからやるんだから、ほおっておけばいい、自然と学習してやめるから
それで問題なく解決する程度のことであればいいのですが、場合によってはそういった対応が問題をこじらせてしまうこともあります。
世の中には、子供の姿を「大人から見て」問題のない状態にするというたぐいの子育てテクニックとでも言うものがあふれています。それなりの知名度のある育児関連の本などにもそういうものは多く見られます。
上記のものであれば、これは「疎外感」を利用して子供を大人の望む姿に改変しようという関わりのテクニックです。
それは子供の「成長を援助する」といった子育ての本質とは違う次元にあるものです。
全面的にそれらがよくないということもありませんが、現代の子育てでは「子育て=大人の望む姿にする」になってしまっていますので、あまり混同してしまうのは危険なこともあります。
ただこの言葉の前半は確かにその通りでもあります。
>かまってほしいからやるんだから
子供は適切に「かまってほしい」というサインをだしているわけですね。
なぜそのサインを出しているかと言えば、「大人が適切にかまっていないから」というのが現実なわけです。
それにたいして「ほうっておけばいい」というのはあまりに情のない回答です。
その言い方を借りれば、
「そこまでのことをしてかまって欲しいと言っているのだから、適切にかまわなければ」
ということが正解になるわけですね。
自傷行為は、僕は怒ってでも否定すべきだと考えているというのは以前にも述べました。
大人が自信を持ってそれができないでいると、そのネガティブな出し方のなかで子供は受容の代償行為を見いだしていってしまいます。
>なので泣き叫ぶ息子のおでこに手を添えてせめて床にぶつけないよう防いだり、抱きしめたり
コメントであるところの、こういうことを子供は自傷行為をすることによって大人から引き出しているわけです。
でも、誰しもがわかるようにこれは健全な関わり方ではありません。
ですから、不健全な関わり方を否定して、健全な関わりにかえる必要があるわけです。
前の返信コメントでも、先ほども「怒ってでも」と述べましたが、これは「あなたが大切だからそれはして欲しくないのだ」ということをしっかりと込めてきっちり伝えるべきことです。
別に怒らなくてもいいのですが、人が本気で全身全霊を込めて伝えようとしたら、ときに怒ったり泣いたりしてでも伝えようとするでしょう。そういった意味合いでの「怒ってでも」ということです。
「自分が大事に思えない」というのは、これは生きていく上での大大問題です。
しかし、いまはこの「自分が大事に思えない」を抱えたまま大人になっていく人というのがとても増えています。
「自分を大事に思える」ということを子供に伝えられるのは、まずもって親なわけです。
僕はこれまでに「自己肯定感」という言葉をたくさん使っていますが、この「自分を大事に思える」というのはその「自己肯定感」のさらに奥にある「自尊感情」というより基礎的な部分です。
いまお子さんはそれをこの時期にしっかりと持ちたいと願っているわけです。
そしてそれを与えられるのは親です。
なので、放置するとか無視するという選択肢はありえないことなのですね。
今の段階ならばいくらでもその穴埋めをすることは可能です。
無理をする必要はありませんが、お子さんが身をもって教えてくれたせっかくの機会ですからありのままを認めていくことで子育てを安定化していければいいと思います。
| 2014-09-02 | 相談 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
乳幼児期の性教育について - 2014.09.02 Tue
一言で言ってしまえば、僕は「あんまり気にしすぎない」と言うので良いのではと思っています。
もう20年以上は経つのかな、世界的に「性教育は早めにした方がよいのでは」というムーブメントがありました。
その主張はいろいろなところで取り上げられましたので、いまでも少なくない人がその影響を受けて「性教育を早期にしたほうがいいのか?」という考えを持ってしまっているのではないかと思われます。
実際にアメリカなどをはじめとして多くの国でその考えにのっとって実践もされました。(多くは学齢期に入ってからです。早いものだと小1から)
しかし、結果は必ずしも想定していたものとはならなかったのです。
たしかにその性教育によるある程度の成果は見込めるものの、逆に性的な関心を早めてそれゆえの問題がそれ以前よりも多くなってしまったのです。
このことが意味しているのは、「正しい知識」さえ与えればいいということではないということです。
これまでは「早期に与える」というムーブメントが大勢を占めていたわけですが、一周回って「与えない」という積極的な選択肢も考慮すべき点になったといっていいでしょう。
僕は乳幼児期において性教育ということは考えていませんが、それの前段階になることと、のちのちの性的な問題につながることの遠因はあると思います。
前段階になることというのは「大事にされる経験」です。
これが元になって子供のなかに作り出す「自尊感情」また、そこから派生する「自己の身体を大切にする感情」それらがさらに「他者の身体や個人の尊重」ということを生み出すでしょう。
このことが性的な教育以前のところにあることだと言っていいでしょう。
これらのことが獲得していなければ、上で紹介した近年の性教育の早期化をいくらしたところで望ましい結果とはなり得ないはずです。
もう一点の遠因というのは、機能不全家族やその他の不適切な子供への関わり方によって、恋愛感情や性的な関係によってそれらの穴埋めを子供が求めて行ってしまうという現実です。
「アダルトチルドレン」と言う言葉があります。
元々は、アルコール中毒の家庭のような機能不全家族において、幼少期の問題をひきずったまま大人になってしまっているものを指す言葉でしたが最近ではそれの範囲が拡大して以下のようなことを指すようになっています。
以下wiki「アダルトチルドレン」から抜粋
近年では「幼少時代から親から正当な愛情を受けられず、身体的・精神・心理的虐待または過保護、過干渉を受け続けて成人し、社会生活に対する違和感があったり子供時代の心的ダメージに悩み、苦しみをもつ人々」を総称して、メンタルケア(心理療法)が必要な人をアダルトチルドレンと呼ぶこともある。(引用ここまで)
こういった状態が家庭への帰属感を喪失させ、家族から適切に受けられなかった感情を男女関係や性的関係などの代償行為へと向かわせてしまい、その過程で子供の妊娠など性的な問題が発生してしまうことがあります。
子供の性的な問題の背景には、幼少期の親子間の関係などが大きく関わっているのです。
それが遠因となって起こっているということでしたら、それは「正しい知識」の問題ではありません。
このように乳幼児期においての性教育というのは具体的な性的な問題そのものではなく、基礎的な親子関係や適切な関わり方、「自己肯定感」「自尊感情」といった通常の子育てのなかででてくることが大切ではないかと考えています。
ちなみに、親から良い感情をもらいたくてももらうことができずに、変に大人びていってしまう子供というのは保育園の年長くらいであきらかに見て取れます。その子たちが将来早熟化するという可能性は高いのではないかと感じます。
| 2014-09-02 | 心の育て方 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
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