企画が通りました - 2014.06.30 Mon
あれから編集者の方のご尽力がありまして、僕の「叱らなくていい子育て」についての本を出版するという企画が通りました。
年内の出版を目指して、第一稿の締切が8月いっぱいと急ピッチで話が進んでおります。
最近になり、講演や子育てワークショップの企画、保育士情報のサイトへの寄稿や保育士人材派遣会社のHPでのブログの紹介、プロのコラムニストの方に取り上げられたりなどいろいろな展開がありました。
勢いで始めたこのブログ自体が続いているだけでも、そもそも驚きなのですが書籍化ということでなんか来るところまできたなぁと感慨深いです。
記事数も600を超え、コメント総数約7000、ブログ拍手数累計22000ほどにもなりました。
間違いなく読んでくださる方のコメントや応援がなければ、ここまで続くことはなかっただろうと思います。
みなさまのご声援に心から感謝いたします。
よくよく考えたら、ブログどころか保育士になったこと自体、勢いといくつかの偶然からでした。
けっして僕は保育士に向いている人間ではなかったのですが、自分が得てきた子育てや保育という知識が少しでも人々のお役に立てたのならば、保育士になったことも意義があったのだと思います。
現代は子供についてや、子育てというものが難しくなっている時代です。
子育てで悩み苦しんでいる人がたくさんいます。
同時に育ちの過程で苦しんでいる子供たちもたくさんいます。
それらが防げるものならばそれを防いで、「子供がいることによって、子育てを通して自分の人生はこんなにも豊かになった」と思えるような手助けをできるものならばしていくのが自分の社会貢献であり使命であると感じています。
そんなこんなでブログはいままで通り続けていきたいとは思っているのですが、一日5ページペースで原稿を書いてどうにか間に合うかなという状態なので、さすがにそちらにかなりの労力を注ぎ込まなければならない状況です。
更新ペースとコメント返信は当面かなり落ち込むことは避けられそうにありません。
それはどのみちしょうがないのですが、気になるのは相談コメントに対しての返信です。
これについて少し考えました。
これまでは相談があった場合、そのコメント欄にて返信して他にも類似の相談の多いものなどを特に「相談カテゴリ」の記事として再編集してUPすることがありました。
しかし、これもわりと手間のかかることであまり丁寧に網羅はされていません。
「これは他の人にも役に立つ相談で、よい回答ができたぞ!」などと思っても、それをまとめている時間がなかったりして、そのままコメント欄に埋没してしまっているものも相当数あります。
現在この状況になって、記事の更新もままならないところに相談コメントが累積していってしまうと対応しきれなくなってしまうということが予想されます。
ですので、相談のコメントへの返信は、特に個別的なもの、短いもの、僕のちからの範囲では返答できないもの、過去記事への誘導などだけで済んでしまうもの以外は、コメント欄で返信せずにそのまま相談カテゴリの記事としてUPしていってしまおうかと思います。
このようにすれば、内容がダブったり、ごちゃごちゃしてしまったりということはありますが、カテゴリとしてはアクセスしやすくなるでしょう。
中には一本の記事としては短いもの、内容がそこまで厚くないものということも増えてしまうかと思いますが、それらを吟味し考慮していると時間がいくらあっても足りなくなってしまいますので、試みにそのような形でしばらくやってみたいと思います。
どうぞご了承ください。
| 2014-06-30 | その他 | Comment : 54 | トラックバック : 0 |
『子供』と『子育て』の価値を高めたい Vol.5 意外と近い子育ての及第点 - 2014.06.27 Fri
その小さな目標「~~すべき」「~~できる」ということが漠然とたくさんあるので、子育てする人にはそれらが複雑に組み合わさって大きな乗り越えるべき壁のように見えているかのようです。
それはとても困難なことに感じられます。
しかし幼少期から心配の先取りをして、達成しなければならない課題というものを親みずから多くしてしまうことは子育てを難しくしてしまいます。
子育ての目標は単純なほうがいいのです。
ではそれはどんなこと?
それは第一に誰しも望むけれども当たり前過ぎて忘れられがちなのが「健康」ですね。
子供が健康であること。
これがまずどんな子育てにおいても第一に目標とされるべきことです。
これにはみなさんが同意なさることでしょう。
お子さんがすでに健康である人はそれが維持されてこれからもすくすくと成長していってくれることを望むでしょう。お子さんが病を抱えていたり、身体が弱かったり、なんらかの問題を抱えていたとしたらそれが回復して健やかに過ごしてくれることを願うでしょう。
お子さんが心身ともに健康であるならば、なにができようともなにができなかろうとも、もうそれだけでも子育ての及第点なのです。
僕はこれまでに、子育ての第一の目標は「かわいい子供にしよう」ということを述べてきました。
これなども子育てを単純にすることのひとつだと思っています。
多くの人が真面目に子育てをしています。
しかしその真面目さゆえに、「人見知りをしない子にしなければならない」「おむつを早くに取れるようにしなければならない」「指しゃぶりをしない子に」「友達とうまく遊べる子に」「人を叩かない子に」 などなど。
たくさんの課題をこなそうとしています。
しかし、そういうものはみんな後からついてくるものです。
なんの後についてくるかと言えば、良好な親子関係や人への信頼感、無理のない日々の生活、安定した情緒などの基本的なことです。
それらの意味するものをひとくくりにしてしまうと、これが「かわいい子供」なのです。
親から満たされる関わりをもらえずに親子関係が良好でなかったり、自分に必要なことをしてもらっておらずに人に対して信頼感を持てなかったり、毎日の生活が忙しすぎて気持ちに余裕がなかったり、情緒が不安定でイライラ・キーキーしていたり・・。
そのどれをとっても子供はかわいい姿にはなりません。
大人から見ると「手がかかる」だったり、「言うことをきかない」だったり、「困る行動ばかりをする」というように見えてしまいます。
子供が「かわいい子供」であるかどうかというのは、子育ての基礎が作られているかどうかということのバロメーターになります。
その基礎があいまいなのに、たくさんの「○○できる」の課題ばかりを気にしてもそれはなかなか子供のプラスにはなりません。
関連記事
乳児の遊び・関わり Vol.14 駄々っ子の言いなりになるよりも、可愛い子供にしてしまおう
「かわいい子供」というのは同時に、「親の手に余る状態ではない」ことを意味しています。
親が子供と関わっていて「うんざり」や「イライラ」を頻繁に感じていたら、親から見て子供が「かわいい」と感じてられる余裕がなくなっているということでもあります。
「かわいい子供」というのは、親の方のバロメーターにもなっているわけです。
このことからもわかるように、僕がここで述べている「かわいい子供」というのは、「我が子なのだからかわいくて当然である」といった建て前としてや、絶対的な意味合いでの「かわいい」ということではなく、日々の中でどう感じられているかという具象的な、相対的な意味での「かわいい」ということです。
ちょっとわかりにくくて申し訳ないのですが、その前者と後者の違いを的確に表す言葉がみつからないので、「かわいい子供」という表現を使ってしまっています。
いまの人たちの子育てを見ていると、子供の無邪気さや屈託のなさ、自由さ、愛らしさ、時間にしばられないのんびりさ、などなどの幼少期に特有の子供のあり方を押さえつけてまで、いろんな「○○できる」を課して返って子供の姿を難しくしてしまっていることが多々見受けられます。
少なくとも乳児期、3歳くらいになって社会性が発達してくる前の段階においては、「健康」と「かわいい子供」ということのふたつが目標で充分ではないかと思うのです。
よしんば、なにかがほかの子よりもできなかったり、幼かったりという姿があったとしても、「かわいい子供」という基礎的なものがクリアされている子であれば、3歳以降の社会性が発達してきて子供の得る経験が飛躍的に多くなる段階になると、おのずとそういった親から目に見える部分(親が気になる部分)の成長というものもついてきてしまうものです。
ともすると見えない不安に親の方が押しつぶされてしまいそうな現代です。
でも「子供が健康で可愛い姿をみせてくれている」このことに満足を見出してそれを十分に楽しめたら子育ての難しく感じていた部分というのはずいぶんと軽くなるのではないでしょうか。
そして結果的にもそれですんなりいくことも多いのです。
| 2014-06-27 | 日本の子育て文化 | Comment : 14 | トラックバック : 0 |
シャワーの活用 - 2014.06.26 Thu
まださほどでもないですが暑くなるとついついクーラーに頼りがちです。
最近は子供もクーラーに慣れすぎてしまっていて、気温の変化にとても弱かったり、代謝が悪かったりという特徴がはっきりと見えるくらいにでるようになってしまっています。
また、気温の変化を肌で感じることは、副交感神経に作用して自律神経の発達に影響があるというのは広く知られるところです。
熱中症対策などでの必要性もありますが、出来る範囲であればなるべくエアコン生活には慣らしてしまわないほうがよいと言えるでしょう。
そこでシャワーの活用です。
いまの家庭はシャワーが気軽に使えるようになっている方が多いことでしょうから、これを使わない手はありません。
シャワーのあとはクーラーよりも快適に過ごすことができるし、汗や汚れを流して清潔に保つことにもなります。
肌トラブルなどが多い小さい子であれば、シャワーで清潔にできるのはいいですよね。
一石二鳥です。
省エネになることも考えたら一石三鳥かもしれませんね。
保育園での0歳児クラスなのですが、夏の暑いときでも締め切った部屋でクーラーだけは子供の健康・成長によくないというので、看護師さんがクーラーをつけていても少し窓を開けたままにしていたりなど換気をするということをよくしていました。
*土日に書き溜めておいた分が尽きてしまったので、前号の続きは明日UPの予定です。
| 2014-06-26 | 子育てまめ知識特集 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
『子供』と『子育て』の価値を高めたい Vol.4 子育てを単純に - 2014.06.24 Tue
ではどうしたらいいでしょう?
僕が思うのは、子育てに単純で明快な「これでいい」というものを打ち出していくことです。
そう、「子育てを単純に」することなんです。
現代では、子供に必要だと思われるものがとても多くなってしまっています。
たしかにそれは事実でもあります。
例えば「ネットリテラシー」などということを、子供に交通安全を教えるようなことと同様に必要になるなど一昔前には考えられもしませんでした。
しかしそれでも、子育ての本質というのは実のところ大昔から変わってはいません。
「不安」と「心配」というものがあり、それらが様々な子供にまつわることを複雑に見せてしまっていますが、それらの多くは本当のところそうそう慌てなければならないものでもありません。
保育園で早期教育をしている人たちに話を聞きますと、「本当にそれが必要なことであると思ってやらせているわけではない」人の割合の多さに驚きます。
「なんとなく」と曖昧だったり、「周りがやらせているから」「メディアなどで盛んに言われているので」、「やらせておいたほうがあとで慌てないだろうから」などというように漠然とした目的でしかなく、なんらかの考えがあってや必要性を重んじてというわけではない人がとても多いのです。
つまり、考えた結果やらせているのではなく、情感的・感覚的な「気分」からさせているというわけです。
前回見たように「不安」と「心配」というのもその情感的・感覚的なものと言えるでしょう。
この前の事例にあげた早期教育の教室にいって自傷行為まででていた家庭も、私立小学校入試を目指しているというような確固とした目的があるのではなく、やはりそのように「やらせておいたほうがよろしいのではないか」という漠然とした理由からでした。
今の子育てする人たちには、本当の手で触って確かめた実感はないのに気持ちだけが先行して子育てが「難しく」「複雑に」見えてしまっています。
たしかに難しく複雑になった部分がないわけではありませんが、それらも全く別個の対策が必要なことではなくて、昔からあった子育てに必要なことの中にそれらを乗り越えるものも含まれているのです。
なので、問題が難しく・複雑に「見えてしまっているだけ」なのです。
子育ての難しく見える部分というのを落ち着いて取り去っていけば子育ては単純になりこれまで大きかった「不安」と「心配」から解放され、子育てを楽しんでいくという余裕を作っていくことも可能ではないでしょうか。
結果としてはこの「余裕」によって、現代で新しくでてきてしまった子育ての課題というものも乗り越えやすくなるのです。
だから、できることなら慌てる前に子育てを一度「単純に」してみたいと思います。
つづく。
| 2014-06-24 | 日本の子育て文化 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
『子供』と『子育て』の価値を高めたい Vol.3 「不安」と「心配」が大きい理由 - 2014.06.23 Mon
それは「これでいい」というものが見えないからです。
過剰な厚着をさせてしまう人の心理状態というのを以前に書いたことがあります。
その人は子供に「どの程度服を着せればいいか」ということに自信が持てません。
「これで風邪をひいたらどうしよう。体調をくずしてしまったらどうしよう」、そのように「不安」と「心配」がやまないので、ついつい「もう一枚、もう一枚」と余計に着せてしまいます。
しかしその「不安」と「心配」から、過剰に着せたことにより返ってかいた汗が冷えて風邪をひいてしまったり、体温調節能力の低い身体にしてしまったりと子供の不利益を招いてしまうことすらあります。
なにごともやりすぎはよくないのですが、「これでいい」と思える「自信」がないので、その「不安」と「心配」はとどまるところを知りません。
ゆえに、前回見たようなさして根拠のないような話などにすらとらわれてしまいます。
なかには「こんなトンデモ理論に!?」というものにまでどっぷりはまってしまうことすらあります。
いま早期教育が大流行しているのにも、このような親の持つ「不安」と「心配」という背景があるのではないかとも感じます。
「世間でいいといわれること」「周りの人がしていること」をすることで、親にしてみると「不安」と「心配」を多少なりとも解消して「安心」が買えるのです。
でも、これで本当に「安心」になるでしょうか?
なかには厚着と同じように、次から次へと数々の早期教育やら習い事やらをどんどん増やしていってしまう人もいます。
おそらく、少しでは「安心」にいたらなかったのでしょう。
保育園でもそのような家庭を少なからず見かけます。
ただでさえ保育園に長時間預けられることで子供には負荷がかかっているのに、親は漠然とした「不安」と「心配」が大きいので、目の前の子供の姿が正しく映らず子供の情緒や心が壊れていくほどにそれらを重ねてしまっている人がいます。
早期教育や習い事には限りません。
過保護・過干渉などにもそういう側面があります。
子供の現状に「これでいい」という見方ができないばかりに、ついつい「ああしよう、こうしよう」と手や口がでてしまいます。
こういった普段の関わりにあることも「不安」と「心配」と無縁ではないでしょう。
結局のところ、本質的な「これでいい」が見つからないまま、目先の「不安」と「心配」の解消をしていても本心からの「安心」にはいたらない人が多いのではないでしょうか。
また、見失ってはいけない点としてこのことがあります。
よしんば、それで親の「不安」と「心配」が解消されたとして、それが必ずしも子供のためとなっているのかどうか?というところです。
先に見た「親の望むもの」と「子供に本当に必要なもの」のベクトルの点ですね。
ここを親は気に留めていないと、「一生懸命子供にしていた」と思っていたことが子供の姿を難しくしていた原因ともなりかねません。
これはまさしく「子育ての迷走」です。
つづく。
余談ですが、そういえば以前こんな話を聞いたことがあります。
「母親はどうしても子供への近さやその細やかな気遣いによって、子供の姿に不安や心配を重ねてしまう。一方で、父親はもう少し客観的な広い立場から子供を見据えて、母親のそういった過剰な心配に対して「そう心配しなくてもいいのだよ」というセーブをしていた。そういう役割に自然となっていた」
というようなものです。
現実には母親でもどっしりと構えた人もいれば、父親でも細やかな人もいたりしてこのような見事な役割わけなどなされているものでもありませんが、まあ傾向としてはそういうこともなきにしもあらずというところなのかもしれません。
そういえば、最近のお父さんは昔よりもかなり過保護・過干渉な人が多くなっているというのは実感としても感じることはあります。
まあ、こちらも実は以前のお父さんが単に子育てにノータッチだったとか、関心が低かったのでそう見えなかっただけということもあるかもしれませんが。
それを父親がするかどうかは別としても、確かにその過剰な不安・心配をセーブしてくれる人は少なくなっているというのは言えるかと思います。
| 2014-06-23 | 日本の子育て文化 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
『子供』と『子育て』の価値を高めたい Vol.2 現代の子育てを難しくしているものの正体 - 2014.06.22 Sun
なぜでしょう?
それの原因の一部ですが、多くの親子を見ていて僕には心当たりがあります。
それは「不安」と「心配」です。
子育てする人は、「不安」と「心配」が大きいがために子育てをかえって難しく考え、子育ての迷走を生んでしまっています。
もともと子育てにはそういう側面が昔からあります。
ほんの些細な情報などにも、子育てする人は「不安」と「心配」ゆえに重く受け止めてしまいます。
子育てにはさまざまな噂話程度のような流行なども出ては消えしています。
昔こんな話がありました。
ベビーカーに子供を乗せるとき、子供が進行方向と逆向きだと、子供から見て流れる景色が人が普通に歩くときの風景と逆になるのでそれが脳の発達によくない というようなものです。
つまりこの話では、進行方向に向かって乗せなければならないというわけですね。
そうかと思うと、赤ちゃんはただ景色だけ見させられることは不安になるからよろしくない、ベビーカーは押す人と向き合う形で乗せるべきだ というような話もありました。
実のところ、このようなことはさして気にしてもしなくてもいいような話です。
脳がどうたらにしても、それがどこまで検証されたデータなのか、それとも単なる一研究者が述べている仮説なのかそういうところもこういった情報ではあいまいです。
よしんば、そのようなことがあったとしても実際には誤差程度というようなことも多いものです。
検証されたたデータであったとしても、データの取り方、データの採用の仕方によっていかようにも印象を誘導することは簡単です。
(健康食品などでもこの手のことはたくさんありますね。)
本当は大して意味のないことなのだけど、それの受け手が「不安」や「心配」を抱えているとそれはあたかもとても大変なことのように感じられて、「なんだか怪しいなぁ」とか「そういうこともあるかもしれないけど、そのくらいはこだわらなくても平気でしょ」などとは受け流せずに真に受けてしまいます。
「子供にたくさん卵を食べさせすぎると知能が低下する」という話を聞いたことのある人も多いのではないでしょうか。
これはなんと1950年代頃に当時のソ連で、ウサギを使った実験が話の発端となっています。
そもそも草食性であるウサギに動物性の卵を与えているのですから、前提としてかなりそのデータは怪しいものであるのは素人にもわかるでしょう。
しかし、その後この話は独り歩きしました。
子供に不利益があるという話は「不安」と「心配」を刺激するので、過剰に受け止められがちです。
なのでそれがまことしやかに現代まで伝わってきてしまっています。
この「不安」と「心配」をうまいこと刺激していけば子育てする人を対象にしたお金儲けもたやすくなせるでしょう。
子育てでなくとも、「先祖の霊が苦しんでいるからこの壺を買いなさい」といった霊感商法のようなものもこの「不安」と「心配」を巧妙に刺激しています。
以前行われた「ゆとり教育」が一般からも否定され崩壊したのは、ひとつの学習塾の宣伝がきっかけになりました。
それはこういうものです。
「ゆとり教育では円周率を 3でいい と教えている。これでは子供の学力は落ちるばかりです。しっかり塾に通わせて勉強させましょう」という意味合いのものでした。
実際にはこれは必ずしも事実ではありませんでした。
しかし、「不安」と「心配」を刺激されたこの情報はとどまるところを知らず、とうとう世論にまでなり「ゆとり教育」を破綻させるまでにいたりました。
(実際はこの「3でいい」というのは、小数点を教える前の段階の子供に対して伝える際には「3でいい」と言っているだけです。円周率を習う段階の子供に対してはもちろん、3.14・・・・で教えているわけですが、宣伝する側がその事実をあえて伏せたままセンセーショナルに言い表したにすぎません)
「不安」と「心配」というのはとても大きな原動力となってしまいます。
それが根拠のあるものであって、なおかつ意味のある対応をとるのであれば悪いことでもありませんが、それによってさして意味のないことに振り回されていったとしたらどうでしょう。
簡単に子育ての迷走にはまってしまいます。
子供相手にこれを過剰に煽って商売しているものがたくさんあります。
このブログが消されても困るので、何とは言いませんが落ち着いて考えればみなさんにも多岐にわたって、それがたくさん見えることと思います。
ではなぜ「不安」と「心配」がそれほどまでに大きいのでしょう。
ここを見ていくことが子育てを楽しいものとしていけるきっかけとなるでしょう。
つづく。
| 2014-06-22 | 日本の子育て文化 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
『子供』と『子育て』の価値を高めたい Vol.1 - 2014.06.21 Sat
必ずしも、今の人たちが「子供を大事にしなくなっている」と言いたいわけではありません。
「親が子供に望むこと」と「実際の子供の姿」と「親の自己実現」というもののベクトルがそれぞれ別の方に向きつつあるということがとても気になるのです。
2歳児の女の子。(仮にA子とする)兄弟はなし。
0歳から保育園に入所。1歳児クラスからは保育時間は毎日11時間を超えている。
お父さんはわりと子煩悩なタイプであるが、お母さんは子供に暖かい感情をあらわに出来るタイプではなく、「子供より仕事」という傾向の人。
その子は母親を求めるのだが、母親からの子供への関わりは「冷たい」と「そっけない」の間くらいな感じ。
そのような状況が0歳のときからなので、慢性的に情緒が安定しない。
キーキーと奇声をあげたり、かみつきやひっかきが頻繁に出ていた。
子供の母親への求め方もネガティブ行動が多くなっている。
普段からそういった姿であるから母親も余計に子供に対していい顔を向けられなくなっていた。
2歳児クラスからの担当保育士がA子を十分に受容を心がけて関係づくりをし、奇声やひっかき、かみつきなどを劇的に減らす。
月齢も高く知的な発達も進んでいたA子は、園での生活に安定を取り戻しさまざまな経験と通して自信をつけていく、家庭でもネガティブ行動が減る。
だがそれでも連日の長時間保育からの心身の疲れ、イライラというものは年齢なりにでている。
2歳児クラスだが月齢が高いため夏前には3歳になる。
A子は夏休みに家族で旅行へ行くと言われて、それを数ヶ月も前からとても楽しみにしていた。
「こんど○○いくんだー」と時々話しては笑顔をみせていた。
その子は0歳から保育園に通っているが、ほとんど休んだことがない。
土曜日もときどき仕事で預けられることがあるし、体調が悪い時でも解熱剤など飲まされてふらふらだけれども保育園に来ているというようなこともしょっちゅうだった。
親が平日に休みの時でも、あまり一緒に休むということはなく普通に預けられていた。
さらに2歳児以降の休みの土日は複数の習い事のはしご状態。
それが産休明けで0歳児クラスに入ってからなので、その子の人生のほとんど半分は保育園で過ごしているといっても過言ではない。
自我も大きく芽生えた3歳であるので、いろいろなことがわかるようになり普段本当は「家でのんびりしたい」「親にもっと甘えていたい」ということも我慢して園で頑張っているという姿がありありとでていた。
そんな中、「夏休みに家族で旅行に行く」というのがその子にとってとても大きな意義のあることだったのだろう。
そして、夏休みになり親が休暇を取り旅行に行き次の週帰ってきました。
どうだろう、楽しい思い出をたくさんつくってきたかな?
そう思っていたのだけど、A子はとんでもなく荒れています。
2歳児クラスになってだいぶ落ち着いてきた最近の姿からは考えられないほどに荒れています。
その子にも話を聞き親からも話を聞いてみると、なるほどこれはそうなりもするだろうということがわかりました。
なにがあったかというと、その旅行のあいだのかなりの時間を宿泊先のホテルの託児室に預けられていたのです。
日中や、親が夫婦でコース料理のディナーを食べている間などの複数回、そこに預けられていたそうです。
それにゆえに子供が旅行中からネガティブ行動を出していることに対して、お母さんはイライラして怒って押さえつけてしまったので、休み明けの保育園で爆発的な荒れとなって出たのでした。
A子がその旅行をとてつもなく楽しみにしていたのを知っている分、さすがにこれには不憫に感じられて仕方がありませんでした。
その両親はA子のことが大切に思っていないわけではないので、今回のことで自分たちが一体子供になにをしてしまったのかということを一応は理解をしたようです。
その後、そのA子には2歳児クラスから受け止めてくれた保育士が年長まで担任として持ち上がっていくので、かなりの落ち着きと安定、成長を見せます。
でも、なにかで精神的につまづいたときなど、その子が生育歴の中で獲得してしまった鬱屈したもの、我慢しているものなどが顔を出しとても感情的になってしまうというところが残っています。
このことが思春期などに問題として大きくでなければいいのですが・・。
事例が長くなってしまいましたが、カルチャーショックから感じるベクトルのズレというのを説明します。
我が家では家族旅行などの計画を立てるとき子供ができて以来、子供にどんなことをさせたいというのが真っ先にでてきます。
海で泳がせてあげたいとか、一緒に釣りをしたいとか、キャンプをしたい、スキーを経験させたい、果物狩りにつれていってあげたいなどなど。
そういうふうに考えるのが当たり前になっていました。
子供の楽しみ・喜びと、親の喜びのベクトルの向きがだいたい同じ方向になっているわけです。
このことは少なからぬ家庭でも同様だと思われます。
しかし、上の事例に限らずこういった「親のしたいこと」と「子供の望むもの・必要なもの」とが別々の方向に向かっているというようなケースが近年とみに増えています。
そこにもう一つ、「親が子供に望む姿」というもう一本のベクトルも加わります。
A子とは別の事例ですが、かみつきや情緒不安などがずっと出ているにもかかわらず、週に一回その日は保育園を休んで長時間にわたっての託児もしてくれる(=親と一緒に過ごすわけではない。預けて親はそのまま仕事へ)幼児教室に通わせているという人がいました。
ただでさえ幼かったり、安定していないにも関わらずさらに不慣れな環境でなおかつお勉強をさせられるところに連れて行かれます。
この子(3歳)とその妹(1歳)はそこに行ったあとの数日は荒れまくります。
ひっかきかみつき、妹にいたっては自傷行為もでるようなりました。
「子供が本当に必要なもの」と「親が与えたい・子供に望む姿」、「親のしたいこと」これらのベクトルの方向性がみんなバラバラなのです。
そのしわ寄せは結局のところ子供にかかってきます。
その妹が自傷行為でつけた頬の傷の跡は、年長になった時もそれとわかるくらいに残っていました。
別に今の親を責めようとは思いません。
そうなってしまう理由というのも理解できるからです。
でもしかし、その人たちももう一歩別の知識をもっていなければならなかっただろうとは思います。
子供の幼少期は、それらのベクトルがあまりにバラバラでは子供は健全には育てないということです。
多分ほかの多くの家庭でも同様かと思うのだけど、子供ができると子供の喜んでくれる顔が親の喜びにもなると思うのです。
現代はそれが必ずしもそうではないという現実に直面しはじめています。
| 2014-06-21 | 日本の子育て文化 | Comment : 20 | トラックバック : 0 |
子供になめられる Vol.3 支配がもたらす自己肯定感の欠如 - 2014.06.20 Fri
右下の羊さんのカウンターだと20600ですが、こちらはPCからのアクセスしか数えないようなので、スマホ等を入れるとそれだけの数字になりました。
26000プレヴューではなくてユニークカウントで26000です。
プレヴュー数だと75000超になります。
びっくりしました。最初は何かの不具合かと思いましたが、先日つけたばかりのアクセス解析が非常に役に立ってくれました。
共働き家庭の子どもは「かわいそう」ですか?
昨年書いた 子供にとって「かわいそうなこと」とは の記事があげられていたからです。
この僕の書いた記事の趣旨は、「子供をかわいそうにしてしまうのもしないのも親次第の部分がありますよ」ということなのですが、でもそもそもの保育の質に問題があれば本当に「かわいそう」な状況というのも出てきてしまいます。
保育士として、「保育」といいながら子供が本当の意味で「かわいそう」にしてしまっている状況を看過することはできません。
先日も、保育園の先生がこわいと言って行きたがらないというコメントがありました。
その事実が、たまたまなにかのことがあって子供が「こわい」と受け取っただけなのか、それとも子供を不安にさせるような関わりを常態として繰り広げてしまって「こわがらせて」いるのかはわかりませんが、もし日常から子供を威圧したり、不安にさせるような関わりでもって保育をしているのだとしたらそれは由々しき問題です。
そこの園がどうかは僕からはわかりません。
でも、そのような保育施設が実際に多数あることは知っています。
それをしているそこの保育者たちに子供を虐げているという自覚はありません。
その人たちは「当然」「当たり前」にすべきと思っていることを、当たり前にしているつもりなのです。
たまたまここであげた「なめる」という価値観にしても、子供を威圧することで従わせる「支配」でもって子供に対する関わりにしても、その人たちにとっては「当たり前」でしかありません。
なので、そのままでは少しも改善しません。
だってそもそも悪いことをしているなどと思っていないわけですから。
そうやって保育界は長いこと続いてきてしまいました。
本当にもう是正しなければなりません。
その人たちは「支配」を強化することが子供たちに言うことを聞かせる最良の手段だと信じているのでしょう。
前回述べた、余裕のない施設などではそうしなければ回らないと先入観で思ってしまっているのでしょう。
でも、真実は逆です。
保育者と子供との信頼関係をつくって、それによって子供と関わっていったほうがはるかに容易に保育を展開していくことができるようになります。
押し付けられた価値観ではなく、信頼関係の中から「よいもの」として価値観を与えられた子供たちは自分からそれに従おうとするし、大人が声を大きく張り上げなくても子供同士のあいだでルールを守り、守れない子には大人が口をださずとも子供同士でどうすべきかを伝え合い、能力の及ばない子には子供同士で手助けをしてくれます。
そのようになってしまえばはるかに楽になるし、なにより保育は楽しいものになります。
「それはたまたまそういう子供達だからできたんでしょ。私が見ている子供たちはそんな綺麗事では言うことなんか聞かないわよ」と反論する人がいるかもしれません。
しかし、そんなことはありません。
園の中で、子供が荒れていて保育士が新年度に担任として誰も持ちたがらなかったようなクラスが、1年でそのようになることも可能です。
それは保育士しだいなのです。
子供が不適応な姿(大人の望まない姿)ばかりを出していたら、その子に対して注意や叱責をするのは簡単です。
その子に受容や、優しい言葉掛け、肯定的に接するということは、ものすごくものすごくストレスフルなことではあります。
はっきり言って、叱ったり、怒ったりするのは楽なのです。
叱って、怒って、注意して、制止して、それだけで子供が思ったように育つのならば簡単です。
(自分の目の前でだけそれを現出させることで満足するのだったらそれは可能ですが)
でも、そうではありません。
だからストレスフルであっても、受け止めなければならないのです。
その大変なことをあえてできるか否かが、まさに現代の保育士に必要な「専門性」の最初の扉であると思います。
なぜ、子供を「支配」することがよくないのでしょう?
それは簡単に「自分に自信を持てない子」を育ててしまうからです。
「これをしたら大人に注意されるのではないか」、「怒られるのではないか」
支配が強化されてくると、子供は常にそのような意識を心に持っています。
子供というのはもともと大人を尊重し、信頼しています。
「子供になめられるな」と言う人は、子供には支配的に、威圧的に関わらなければ大人を尊重しないと先入観で思ってしまっているのでしょう。しかし、それは子供を大きく見損なった理解でしかないでしょう。それは子供を信頼しないということにほかなりません。
その大人が「支配者」であると、その支配者の価値観で自分とその大人との関係性を考えるようになります。
なので、そのように「何かをしたら怒られはしないか」と思って、何かをすることをためらってしまうのです。それは自分の行動に自信がもてないということです。ひいては自分に自信がもてなくなります。
また、「人の顔色をうかがう」というような行動も取るようになります。
これも自信のなさの表れです。
これらは「萎縮」というものです。
その他にも押さえつけられることへの「反発」や、大人に対して無関心になり本音のところでは尊重しなくなる「不信」というようなことも「育ち」として子供に獲得させてしまいかねません。
子供というのはそもそも「素直さ」や「無邪気さ」というのをふんだんに持っています。
その「素直さ」や「無邪気さ」がともすると子供の奔放な姿にもなってしまいますが、でも一方でそれがさまざまな好奇心となり、自分の身の回りのこと、世の中のこと、新しいことへの興味・喜びになり、成長の糧となるわけです。
たくさんの「支配」でかかわられる子は、素直さや無邪気さを押さえ込まなければなりません。
人によってはそれが「人がましくなった」「ものがわかるようになった」「おとなびた」と解釈しているのかもしれません。しかし、それは好ましいことではないのです。
大人の望む姿を強要されてきた子供は、こういう成長への活力というものがしぼんでしまいます。
「素直さ」や「無邪気さ」というものは、子供がふんだんに持つことを許された大きな美点です。
それを押しつぶして子供を支配してはならないのです。
それをよいものととらえた上で尊重し、それとは別に必要なこと(大人から見ての適応的な行動)をできるようにしていくことが大切なのです。
いま、大人のあいだでも「自己肯定感の欠如」というものがとても大きな問題になっています。
幼少期に自分に対する自信を持てない子は、大人になってもそれを引きずってしまいかねません。
「支配」で保育をする人は子供にそれをしているのです。
保育士はうまくやればその子供の人生を豊かにしてあげることもできます。
しかし、その逆もまたしかりなのです。
| 2014-06-20 | 日本の子育て文化 | Comment : 13 | トラックバック : 0 |
子供になめられる Vol.2 保育において - 2014.06.19 Thu
今度は公式のテンプレなので不具合が出にくいかと思います。
カテゴリーや新着コメント、月別アーカイブをプラグイン設定してあるのですが、ちゃんとでていますでしょうか?
もし、なにかおかしかったらコメントでお知らせください。
昨日の続きです。
でも、書いているうちに保育のあり方の話になってしまったので全然続きでもないかもしれません。
コメントでも頂いたのですが、保育士でもこの「子供になめられるな」ということを後輩に指導したりする人がいまだにたくさんいます。
その人たちには悪いけど、正直言って僕は「かわいそうだなー」と思います。
まあそこの子供たちもそうなのだけど、大人がね。
その人たちは、そういう保育しかしていないところで、職務経験を積んできてしまったのでしょう。
人員に余裕がなかったり、子供が詰め込まれていたりする施設では、いかに子供を効率よく大人の思い通りに動かすかというところに重きをおかなければならないところもあるでしょう。
本来はそのようにならないために、最低基準というものが法律によって定まっているのですが、現実にはそれらの基準でも充分であったためしはないし、実際の運用上としてはそれがつねに保証されているわけでもありません。
そのようなカツカツの状態で子供の世話をしていたとしたら、ごねられたり、トラブルばかり起こされていてはやっていけなくなってしまうわけです。
「右向け右」で言うことを聞いてくれる子供たちにしなければ、ならなくなってしまいます。
その施設ではそのうちそういう子供への関わり方ができて一人前の保育士ということになってしまうでしょう。
保育の中には厳密には「指導」という言葉はないのです。
なぜなら、保育所は学校とは違うから。
保育園は、学校を目指しているのではなく、本当は家庭を目指さなければならないわけです。
でも、これまでの保育園というのは少なからず学校のようになってしまっていました。
もちろん、きちんと家庭の代替としての役割を果たそうとしているところもたくさんありますが、園の案内には「家庭的な雰囲気で~~」と書いていても、それはどういうことなのか実際にはきちんと考えたこともなくてビシバシ言うことをきかせることがいい保育なのだと考えているところも少なくありませんでした。
はっきりいいます。
もう無理です。
そのような保育はもう現代では無理なのです。
現代では核家族の上に夫婦共働きが当たり前になっていて、お母さんもフルタイムでこれまでの男性と同じように働いています。保育時間もそれにともなって長時間化しています。子供とどうやって関わったらいいかわからないという人だって増えています。おじいちゃんやおばあちゃん地域の手助けも借りられない人も増えています。
そのような中で、保育園はかつてないほどに「家庭」としての機能を求められているのです。
お母さんが「お母さん」をしてあげられない分、保育士はその役割を果たさなければならないのです。
そうはいっても保育士は「お母さん」になりきれるものではありません。
だからこそ高い専門性が必要になります。
プロフェッショナルとして、個々の子供の育ちを正しく認識しそれに必要なことをしてあげられるだけの技量を持たなければなりません。
保育園にいる間だけ言うことを聞く子にして済んでいた時代は終わりました。
「なめる」とか「なめられない」とかを主軸に子育てをしている家庭で、子供がまっすぐ育つことはありません。
その保育士たちにしても大部分の人はそのことに同意するでしょう。
しかし、その保育園ではその価値観で子供に接するべきと考えています。
それには矛盾があるのです。
もういい加減気がつかなければなりません。
子供は大人との間に信頼関係を形成することで、きちんと大人の言うことを理解し自分からそれを考え行動するように育ちます。
「支配」することで子供の適切な行動を作り出す必要があると考えている人は、保育指針を読み直すといいと思います。
はるかむかしの保育指針であってもそれは変わりません。
保育の学校でも支配することで子供の行動を導くと教えていたところはどこもないはずです。
たしかに「叱る子育て」にしても、この「なめる」「なめられる」という子供を支配しようとする子育て観にしても、日本がこれまで長いことやってきてしまったことです。
世間に流布する子育て観をただそのまま保育士がしていたのでは、そこには専門性というものはかけらもありません。
素人ならばそういう人がいるのも仕方ないでしょう。
でも、保育士はプロなのだから世間に流布する子育ての方法をなんの検証もなくただするのでは不十分なはずです。
どうか高い専門性を身につけるようにしましょう。
でなければ、そう遠くないうちに保育士の知識は一般の人に劣ることになります。
いまですら、世のお父さんお母さんたちは子育てについて真剣に知識を吸収しようとしています。
これまではビジネス書しか置かれなかった都心の書店でも、子育てに関する本がたくさん売れるような時代になっています。
保護者から「ダメだな、この人は」そう思われている保育士がたくさんいます。
保育士が「私には経験がある」とあぐらをかいていたら、保育士の社会的地位はずっと低いままでしょう。
これほど大変な仕事をしているのに、何十年も前から低賃金なままです。
このことはどう言おうとも、社会的には「大した仕事」とは思われていないということです。
「大した仕事」とは思われていないから、子育て経験のある主婦やおばあちゃんでも「准保育士」などが務まると言われてしまうのです。
「大した仕事」でなかったから、営利企業が本業の片手間にどうぞやってくださいと、利益追求のための市場に解放されてしまいました。
専門性。専門性です。
キーキーして親の手に余っている子を半分でもいいからかわいい子供にして親元に返してあげます。
「こうすれば落ちついていきますよ」と適切なアドバイスをしてあげます。
それらが少しでも役に立てば、保育士というものが有用な仕事なのだと社会的にも認められていくでしょう。
これが実際のところ逆のことをしている保育園・保育士もたくさんいました。
保育園で厳しく関わられるので家庭でその反動として癇癪をおこしたりネガティブ行動を多発させたり、園の宣伝になる鼓笛隊をビシバシ教え込むあまり家庭で無気力になっていたり・・。
これまでの保育界は、その本質的なところでの専門性を脇においてきてしまっていました。
子供を思い通りに動かしたり、教え込んだりすることが専門性だと考えてきてしまっていました。
「なめる」「なめられる」「叱り方が足りない」などで保育を語っている人は完全に時代錯誤です。
いまからでも現代に必要な専門性を高める必要があると思います。
*『保育士が子供を威圧する保育はなぜ起こるか』の続きも忘れたわけではないのですが、時間がなくてまとめきれてません。さらっとでいいなら書こうと思えば書けるのだけど、きちんと書きたいのでまとまった時間がとれず伸び伸びになっています。
もしお待ちの方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。いましばらくかかります。
| 2014-06-19 | 日本の子育て文化 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
子供になめられる - 2014.06.18 Wed
関わりに自信のない保育士や教師が、毅然と子供たちに対峙することができず信頼関係の形成にいたらずに言うことを聞いてくれないというようなことはあるでしょう。
たしかにこういう状態は「なめられている」という言い方を当てはめることはできるかもしれません。
しかし、親子関係において「なめられる」というのはどうなんでしょう?
僕はそもそもそのような見方が入る余地というのは本来ないと思います。
「なめる」というのはなんでしょう?
これはつまり、支配・被支配の関係において、被支配の側が、支配の側を尊重せず従おうとしない、もしくは反発・反抗するという状態のことをさしています。
子育てを支配・被支配で考えている人だとしたら、子供が親に従わないとか反発を見せるという行動を見たときに、それを「なめている」と捉えるかもしれません。
「なめている」と捉える大人は、「舐められてはならない」と当然考えることでしょうから、その「支配」という関わりをより強化しようとするでしょう。
具体的には怒ったり、叱ったり、叩いたり、無視したり、脅したり、ものや食べ物をあげないといった何かを人質にとるような対応というのも考えられます。
子供と大人を比べたら当然大人の方が強いですから、子供を支配しようと思えばなんとでもなります。
その気になれば確実にその「支配の強化」というのは成功するでしょう。
しかし、それがいったい何をもたらすでしょう・・・・。
親子の関係を、支配・被支配にしたら、子供が力の弱いうちは子供は被支配側です。
でも、思春期くらいの力関係で同じくらいになった時には、それはどうなるかわかりません。
子供にはどんなにひどい扱いを受けていても「親を尊重したい」という気持ちがありますから、よしんば子供の方が力関係で上位にたっても、それを本気では出さずに親の優位を認めるという子もいるでしょうし、力関係で張り合うことを避けるために、親とかかわらない道を選択する子もいるかもしれません。
親子関係に支配・被支配というものが必要でしょうか?
封建時代ならばいざしらず、そのような親子関係など今の時代に必要ないと僕は思います。
おそらくこの考え方は、長いこと「叱る子育て」をしてきてしまった子育て観が産み落としてしまった弊害なのではないでしょうか。
ところが、いまだにこの種の考え方は日本人の中にわりと根強くあります。
1歳の子や、2歳といったほとんど赤ちゃんに対してすら、「私は子供になめられてしまっています」という価値観で悩んだりしている人がいます。
そのような幼少期から、親子関係を支配・被支配で構成しようとしたらとてもではありませんが、子育てがうまくいくはずはありません。
子供の反発と押さえつけ、さらなる反発、さらなる押さえつけの強化・・・・・。
その後の子育て人生がそれの繰り返しになってしまうでしょう。
そのような子育て、親子関係が楽しいでしょうか?
親がいなければ1日だって過ごせないような1、2歳の子が、その親を「なめる」などということはありえないのです。
大人の持つ先入観が色眼鏡になって、子供の姿をとんでもないものに見せてしまっているのです。
このように育てられた子供というのを見たことがあります。
その子供は人との関わりを、すべて支配・被支配として捉えています。
なので、友達関係においてもそれを行います。
力の強弱でもって人と関わろうとするのです。
他児からものを奪い取ったり、叩いたり、馬鹿にしたりということを平気でします。
その子にとっては、そもそもそれらが悪いこととは思えないので、平気もなにもないのです。
当たり前の行動なのです。
もしそういった行動をその親が見れば、「そんなことするんじゃない」と怒鳴りつけ、叱りつけ、特には叩きます。
しかし、その行為自体が、その子供の行動のモデルケースになっているので、そのように支配的に関わることはその子が他児に支配的に関わることを止めるどころか、その原動力にしかならないのです。
どこまでいっても出口がありません。
子供と親との間に必要なのは、「支配・被支配」の関係ではありません。
「子供になめられている」というように考えてしまう人は、本当に気をつけたほうがいいです。
その価値観で子育てをしたら、どれほど頑張ってもけっして子供はまっすぐには育ちません。
親子の間に必要なのは、互いに好意を示し大切に思いあっているという「信頼関係」なのです。
その信頼関係によって、子供は「望ましい姿」を親の思いと実際の行動を照らし合わせる中で獲得していくのです。
| 2014-06-18 | 日本の子育て文化 | Comment : 12 | トラックバック : 0 |
前向き抱っこ - 2014.06.17 Tue
抱っこと言ってもスリングでする前向き抱っこではなくて、要するに「リフト」として使われる前向きの抱っこのことです。
「リフト」に関してはこちら
乳児の遊び・関わり Vol.8 力で子供を動かしてしまうこと
具体的には両の脇の下に手をいれそこから抱え上げて、前向き(大人の進行方向と同じ向きに子供の顔が向いている)で子供を移動させたり、腰や足から抱え上げて前向きで移動させたりする、という関わりです。
これをここ最近になってとても頻繁に見かけるようになりました。
実はこのこと、1年半くらい前に親戚のおじいちゃんおばあちゃんが1歳の孫に頻繁にしているのを見てからいずれ記事にしようと気になっていることでした。
気にしていたものですから、周りでそうしている人がいると目ざとく観察していたのです。
どうにも最近特に多くなっているような気がします。
子供には個人差あるから一概には言えません。
でも、この関わりは「リフト」の中でもかなりよくない形のものです。
子供を抱えて動かすにしても、通常の抱っこ、つまり大人と子供が向い合わせになる形というのであれば、それがたとえモノ扱いのようなリフトであったとしてすら、まだ子供の方も大人に抱きつくという行動がとれます。
ある意味では、子供にとっても「抱っこしてもらっている」ことになります。
でも、前向きに抱え上げられる形だと、子供はなんにもできないのです。
大人に抱きつくことすらできません。
特に脇の下に手を入れて捧げ持つような形にしてしまっていると完全にそうなります。
動物を抱え上げる時に引っ掻かれたりしないようにそのように持ち上げることがありますね。
(あとおしっこ漏らしてしまった子供をお風呂場まで運んでしまうようなときにこれをしますね。その状態で抱きつかれたりするのは困るのでそういった時ならわかるのですが。)
あんな感じになって、子供はなにもできない状態でキメられてしまうのです。
抱きつくこともできないので、よりモノ扱いに近いです。
これを繰り返しして積み重ねてしまうと、その一年後くらいには大人と手をつないだりしない子、大人の言葉を聞かない子になっていく可能性というのが高くなっているのではないかと感じます。
子供の意思をまったく汲み取ろうとしない関わり、大人と意思を通わせないで子供に行動を強いるということになっているからです。
特に「弱い大人」タイプの人に多く見られます。
子供が行っては困るところに行こうとしているとき、有無を言わせず後ろから抱え上げて連れ戻したりするときや、素直に従おうとしない子供をトイレに連れて行ったりするようなときなどにこれを頻繁にしています。
そのときはそれで済んでしまいますが、もともと素直に従おうとしない子にこのようなリフトの経験を積み重ねていけば、余計に大人の意図に従おうとしない子になっていってしまうでしょう。
子供が大きくなってリフトもできなくなったとき、その人の子育てはお手上げになってしまわないとも限りません。
このことはその大人が、自分で自分の子育てをより大変なものにしてしまっているということです。
見ていてとても心配です。
「危険だと思う」、「してはいけないと思う」ということを子供がしているのならば、その行動を無理やりやめさせてしまえばいいのではなく、自分でやめるよう、少なくとも大人がそれはよくないという明確な意思を表していることが伝わるように関わっていく必要があります。
「弱い大人」タイプの人は、子供に毅然と対峙することが苦手なので、これを無意識に回避していってしまいます。
言葉で伝えたとしても、「あぶないあぶない」の繰り返し言葉であったり、子供の頭の上を通りすぎるだけの弱い言葉なので、子供に明確に伝わりません。
言葉で伝わらないので、そのうち物理的に動かす方へといってしまいます。
そこでリフトになります。
「弱い大人」や人とのコミュニケーションにストレスを感じる人は、相手が子供であっても目と目を合わせたりすることが得意ではありません。
なので、前向き抱っこになってしまうということがあるのかもしれません。
もうひとつあります。
「弱い大人」でなくとも、「過保護・過干渉」な人は指示的な関わり、子供に「どうすべき」という要求が多いので、どうしても「子供を動かさなければならない」という場面が増えてしまいます。
さらには子供がスルーしたりすることも多くなっているので、物理的に子供を扱ってしまうということがでてきてしまいかねません。
これもリフトを多くしてしまうことに一役かってしまっているでしょう。
「弱い大人」に関してはこちらからシリーズ記事になっています
相談 「弱い大人」と「強い大人」
| 2014-06-17 | 子育てノウハウ? | Comment : 13 | トラックバック : 0 |
母乳 → ファーストフード - 2014.06.16 Mon
放任気味。
かなり長く授乳を続け、
おそらく10ヶ月くらいから(←お母さん自身正確に覚えていない)、離乳食というか、食べさせたものがファーストフードや出来合いのものばかり。
1歳になった4月からその子は保育園に入園。
園の食事を一切受けつけませんでした。
白いご飯とおつゆを自分から食べられるようになるのに、そこから2年かかりました。
びっくりな話だけれども実際にあった話です。
そういえば、アクセス解析をつけたときに、これまで設定していなかった携帯用と、スマホ用のテンプレートを設定してみました。
僕からは確認していないのですが、適用されていますでしょうか。
スマホ用にはあまりに可愛かったので、季節外れとは思いましたがハロウィンの絵柄です。
僕はスマホ持ってないので実際見れなくて残念ですが、このテンプレートはほんと可愛いです。
このブログはやたら文字数が多いので、できるだけあまり目の疲れなさそうなのを選んでいます。
*携帯・スマホバージョンの「新着コメント、カテゴリ、月別アーカイブ」うっかり未設定でしたので追加しました。
ご指摘ありがとうございます。
| 2014-06-16 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 10 | トラックバック : 0 |
ご協力ありがとうございました - 2014.06.14 Sat
その数、まる二日間で80を超えるほどになりました。ここまで回答がいただけると思っていなかったので驚きました。
ほんとうにありがとうございます。
過去記事・新着記事、関係なく読んでくださっているのですね。
『叱らなくていい子育て』や『魔の2歳児』なんてブログ始めたばかりの5年前の記事なのですが、多くの方があげてくれていました。
いまでもさして進歩はしていませんが、文章なんか書き慣れていなくてかなりグダグダなのでお恥ずかしい限りです。
アンケートの中で多くの方が「目からウロコだったのは」という言い方をして下さっていました。
僕がしたかったのは「それだったんだなぁ」と今更ながらに感じます。
いろんな先入観で難しくなっているものを脱がしていって、本来の子育てに必要なことだけに一度単純化してしまう。
「子育て」や「子供」というのが大変なもの、つらいものではなくて、いいもの楽しいものであって、それはそのまま人生を豊かにしてくれる、そういうことを多くの人に伝えたかったのだと改めて思いました。
今回寄せられたアンケートでどういうことが求められているのかということが、かなり浮き彫りになってきました。
書籍になるかどうかというのは今の段階では正直わかりませんが、自分がこれまで考えてきたことを体系だててまとめるいい機会ですので、これを元にわかりやすい形にまとめ直していこうと思います。
皆様のご協力に改めてお礼申し上げます。
| 2014-06-14 | その他 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
アンケートのお願い - 2014.06.12 Thu
当初は一日の訪問者数が10人台でしたが、いまでは1000人を超えるほどになりました。
以前から書籍にして欲しいというお声を頂いていたのですが、ここに来て講演活動をするようになったり、さらに多くの方から本にして欲しい、プリントアウトして読んでいますとか、大事な所を書いて壁に貼っています、エクセルに読み込んでいつでも見れるようにしていますなど、自分では予想もしていなかったようなありがたいコメントもたくさん頂戴するようになりました。
そんなこんなで自分でもなんらかの形にしたいなとは考えていたのですが、出版社の方に企画書を通すにあたって人気の記事のページビュー数を教えてくださいと言われました。
その数が多ければ大きいほど可能性も高いと。
ところがなんと、恥ずかしながらPV数のカウントというのを僕はしていなかったのです。
3年半くらい前に、このFC2ブログのアクセス解析に登録してはいたのですが、これはPV数のカウントの機能が部分的にしかなく、その部分的なところでも直近4ヶ月分のデータしか残りません。
部分的にというのは、ページ毎にタグをつけねばならずそれも上限があって、その3年前の時点での記事にしかつけられていませんでした。
もともと、このブログを書くのは自分の感じてきたこと、考えてきたことというのを文章にしようというもので、読者のニーズに合わせて書くものを選んでいこうというものではなかったので、PV数というのはちっとも頭になかったのです。
そのころ検索ワードなどわかってこれはすごいなーなどとそれらの機能を一通り楽しんだあとはあまり気にせずにいました。
頭の中にあるものを文章化するのと相談コメントに返信するというだけでわりといっぱいでもありましたので、まあ仕方なかったかなとも思います。
そんなこんなで今更ながらもう少しまともなアクセス解析をつけました。
すっごい便利です。ほんとに今更ですが・・。
そこでお願いです。
PV数はいまさらどうしようもないのでそれはおいておいて、少なくともどんな記事が人気なのかというのを知りたいと思います。
これまでは大雑把にコメント数やブログ拍手の数でだいたいの動向を把握していたのですが、僕が理解している人気記事と、読者の方が実際に役に立ったというような記事というのはけっこうズレがあるのではないかと感じています。
構想数ヶ月、文章化に何日もかかって「ムムム、これはほかの人は誰も言っていない着眼点の全く新しいいいものがかけたゾ!」などと自分で満足しているものよりも、
下書きもせずに直接さらっと書いたようなことの方が、はるかに評判がいいなんていうこともしょっちゅうです。
余談ですが、自分でもなんでこの記事が多く読まれるのか不思議なんてところもあります。
例えば「ネグレクトされた子はどうなるか」 この記事など常にアクセス数が多いのです。毎月3000以上がずっと(これにはタグがついていた)。
どこかからリンクされてでもいるのかな?
そんな一般的な内容でもないと思うのだけど、それともネグレクトで悩んでいる人は僕の掴んでいる感触よりもずっと多いということなのかな?
そういうわけで、もし役に立ったとかこれは良かった、これで自分の子育ては変わったというような記事、カテゴリー、シリーズなんでもいいですので、そういうものがありましたら下のコメント欄よりお教えください。
また合わせて、こんなことも知りたい、書いて欲しいというようなこともありましたらどうぞ。
まあ、僕の力はかなり限定的なものなので、ご期待に添えるようなものがかけるという保証はありませんが、できるだけ参考にさせていただきます。
お暇なときにでもどうぞよろしくお願いいたします。
| 2014-06-12 | その他 | Comment : 112 | トラックバック : 0 |
保育が福祉なのだと感じた瞬間 - 2014.06.11 Wed
親のニーズや便利に訴えて商品価値を高くアピールし他との差別化をはかり、顧客を呼び込んだり、顧客の満足度を高めるというようにシフトしているところも多くなってきています。
それはまさにサービス業としてのあり方です。
『保育はサービス業か?』
それらはすでに ↑などの記事に述べた通りです。
僕自身は「保育」というのは「福祉」としてあるべきだと思っています。
保育園は社会の基礎の部分にあって、ひろく大勢の人に開かれているべきだと思うからです。
このことは「社会」そのもののセーフティネットとしての役割も果たしています。
保育が高い質で運営されていれば、学校に行って荒れる子や、将来非行や犯罪に走ってしまうことすらも未然に防ぐことができる場合だってあるでしょう。
また、「人を育てる」ということはどうしたってお金には換算できないものが多分に含まれています。
そしてその「お金に換算できない部分」というものが、もっとも大切な部分であるからです。
サービス業としての利益追求が進んでしまえば、その「お金に換算できない部分」というのはおろそかになっていってしまう可能性があります。
それは利益を生まないですから。
サービス業化した保育園というのは、保護者の目には魅力的に見えます。
なにしろ魅力的に見える部分に力を注いでいるわけですから、それは当然とも言えるでしょう。
でも、その本来もっとも大切なところである「お金に換算できない部分」というものと引き換えに、保育園を選んでいたとしたら・・・。
僕は保育というのは「福祉」だと思っています。
それは頭ではわかっていたけれども、本当に実感したのは明確にこのときというのがあります。
保育士になって数年たち、ようやく一通りの仕事が理解できてきた頃のことです。
2歳児クラスを担当することになりました。
24人の子供を4人の保育士が担任します。
安定した環境できめ細やかにみるために12人ずつの2部屋に分かれています。
なので、実質的には12人を二人で担任するような感じです。
そのとき僕が組んだ保育士が大ベテランなのだけど、ちょっと変わり者で有名な人でした。
まだ男性保育士が一般的でない時代だったので、変わり者同士でくっつけられたのでしょう(笑)
その先輩が変わっているという噂があったのは、少々やりすぎなところがあったためです。
悪い方にやりすぎというのではないのですが、保護者が忙しくてあまり見てもらえないうちの子供などを日曜日に自分が外出に連れて行ってあげたり、保護者と気軽に飲みに行ってしまったり、公立園(公務員)の保育士としてはたしかにちょっとグレーゾーンかなというところがありました。
でももちろん、親の立場からしたらものすごくいい保育士だったろうとは思います。
(この一緒に組んでいた先輩保育士を「A保育士」としておきます)
まあ、保育士間の噂など、よい人が悪く言われていて、悪い人がよく言われているなんてことがしょっちゅうですので噂などあんまり気にしてはいけないということでしょう。
その先輩と2歳児を担当していて、もちあがりで1歳から来ていた子がスタート早々の4月に引越しで退園してしまい、5月から新入園児が入ることになりました。
5月生まれの男の子(T君)、家族は母子2人暮らし、ときどき祖母の応援を得られる。(住まいは別)
月齢は高いのだが全般的にかなり幼い、それまでは無認可の保育所に入っていた。
情緒は不安定、イライラ、キーキーしている、ひっかき噛み付きなどがでている。
母親は子供を大事に思っていないわけではないが、子供の相手をするのが得意ではないタイプ。
また勤務時間も朝早くから夜遅くまでと長い。
5月生まれなので、入ってその月には誕生日がきて3歳。
だが、情緒は安定していないし、言葉もはっきりせずほとんど出ない。不快をあらわすのにキーといった奇声などが多い。
家庭では手のかかる時に、テレビを見させておくという時間が長かったとのこと。
その子の姿は家庭での関わりだけでなく、入園以前にその子が通っていた無認可の保育所というのも保育士の間では保育が雑なことで有名でそこから入園してくる子の多くが、情緒不安定というところであったので、それまでの保育歴も影響している部分はあると思われる。
入園当初、笑顔というものがなかった。
また、目つきがきつくなっている。
周りの子供に対して警戒心が強い。そのため予防攻撃的にこちらから手が出てしまう。
大人を信頼しない。大人に甘えない。
食べ物の好き嫌いが多い。というかそれ以前の「食事に対しての興味」(ご飯が良いものという感覚)が乏しい。
はっきり言って普通だったら問題児扱いされてしまっているタイプの子供だったと思います。
現にとなりの2歳児クラスの担任の一人はそのように捉えていました。
しかしA保育士も僕もそのようには捉えませんでした。
情緒が安定しない、幼い部分などはあるけれども、むしろ素直で純粋な部分をたくさん持っている子だと感じました。
ある意味では「幼い」ことが幸いしたとも言えます。
幼い部分がふんだんにあるからこそ、その後の関係づくりがうまく行きやすかったのです。
これが年齢通りの精神的な発達や年齢以上の発達を持っている子だったら、人を信頼するまでに時間がかかったりした可能性もあります。
簡単に言ってしまえば、この子は「幼いから甘えられた」のです。
A保育士は大ベテランで、子供が泣こうがキーキーしようが噛みつきをしようが動じることはありません。
否定のニュアンスをなしに、子供のそういった行動を止めることができます。
包容力というのでしょうか。けっこうきつい言い方などもするのだけど、大きなところで子供を大切にしているという気持ちが常に現れているので、そういうきつい言い方が子供には否定にはうつらないのです。
こういった大人としての姿勢は、僕もずいぶん実地に学ばせていただきました。
まだ排泄も自立していないのでおむつです。
食事や着替え、生活面のどの行動をとっても、そのたびごとにゴネたりキーキーしたりするので手がかかります。
この「手がかかる」姿を、「なんとかしなければならない」とか「大変だわ」「うんざりする」「イライラする」というようにネガティブに捉えてしまいそのように対応してしまうということもできます。
多くの人はそうなりやすいことでしょう。
しかし、この「手のかかる」ところを喜んで手をかけてあげたらどうでしょう。
それはプラスの関わりにすることもできるのです。
『おとーちゃん布団』の記事でみたように、ちょっとしたゴネなど良いか関わりにして返してしまいます。
強く言わなければならない場面になってしまっても、その後のフォローで最終的には受容の経験としてしまいます。
そのような生活面の「手のかかる」を通して、保育士と子供との信頼関係を築いていきました。
そういう積み重ねをするうちに、きつかった目つきが和らいできて、無表情だったところに表情がでるようになり、笑わなかった顔に笑顔が戻ってきました。
こう書くと平坦な道のりみたいですが、そうはいっても時にはT君の姿に本気でイライラしたりムカっとすることもあったし、本気で怒らなければならないこともありました。
注意してみてはいても、ふとした瞬間に他児に噛みつきをさせてしまい、相手の親御さんに平謝りで謝ったということだって何度かありました。
でも、信頼関係ができるにつれて、しゃべらなかったところに少しずつ言葉がでるようになり、「せんせー、せんせー」と後追いしたり、膝に乗ってきたり、甘えてきたりすることも多くなりました。
ただ、最初のうちは信頼関係の範囲が広くありません。
僕とA保育士に対してだけなので、担任が当番でない遅番の時などてきめんに情緒が不安定になります。
なので、遅番時に他児とトラブルになったり怪我をしたりということが多く、「今日はちょっと危なっかしいかな」なんていうときは、その子から見えるところで残業していたりしていました。
話が長くなってしまいましたが、「保育が福祉であると体感した」というのはこの子の担任をA保育士としていたときのことです。
まだ、排泄が自立しておらずおむつだったのですが、身体が小さめだったのもあったからかもしれません、3歳になっているのだからパンツタイプのおむつでも良いのではないか、自分で履いたりする経験から自立の方向性を持たせてあげられるのではないかなどと僕は考えていたのですが、その子はまだサイドをテープで止める乳児向けのおむつを使っていました。
そんな話をしていたとき、A保育士が言うのです。
「ああ、まだそれ(テープタイプのおむつ)でいいじゃないってお母さんに言っちゃったのよ」
「だって、そっちの方のがたくさん入っているから安いのよね」
あっけらかんとそのように続けます。
なにげない会話だったのですが、僕はこのときに「保育は福祉なのだ」と強く感じました。
前述のように、この家庭は母子家庭です。
お母さんは朝早くから夜遅くまで働いています。
T君のお父さんと別れているのも円満な離婚というものではなかったようです。
けっして貧しいというほどではありませんが、裕福というわけでもありません。
母子家庭で子育てしていくのはかならずしも楽ではないでしょう。
このA保育士は、その人の立場に立って考えているわけです。
顧客満足度を推し量るというレベルであれば、サービス業でも顧客の立場にたって考えるということはするでしょう。
しかし、相手の家庭の状況や置かれた立場などまでおもんぱかっていくというのは「福祉」としてだからこそのものだと思います。
なので僕はこの時の経験を忘れないでいます。
僕にとっての「福祉としての保育」というのはここに原点があります。
さてこのT君の後日談があります。
秋くらいにはだいぶ落ち着いて、噛みつきなどもほとんどなくなりました。
発語ははっきりしない部分もあるけれども、よく笑いよくしゃべる子になっています。
新年を迎える頃になると、ひとり遊びも上手になり安心しきって大人に背を向けた状態で鼻歌を歌いながらミニカーなどで遊ぶ姿もでていました。
それ以前は、大人を視界に入れておいてちょっと離れたりすると不安になって後追いをしたりしていた。
キーキーしたり落ち着かず多動的であった最初の頃の姿というのは、その子の本来の姿ではなく、机に向かってパズルなどをじっくりすることを好む、彼自身の素の姿というものも見られるようになりました。
あれほど好き嫌いがあったのに、自分から野菜なども食べては大人にそのできた姿を誇らしげに見せてくれるようにもなります。
そのように心の成長が進んできた頃、たしか秋の終わりごろだったかな、おむつがパッっととれました。
その子のおばあちゃんは(おばあちゃんといってもA保育士より若い)おむつが取れないことを気にしていたのだけど、もう少ししたらパッっと取れるから心配しないで大丈夫ですよと伝えていたその通りになったことにとても驚いていました。
子供がこのような成長を見せるようになって大きく変わったのはお母さんの姿です。
入園当初は、子供の相手をするのはうんざりしていたり、仕事で疲れているのもあってイライラしたり怒ったりということも多かったのだけど、子供が可愛らしい姿を多く見せるようになってお母さんに笑顔がたくさん増えてきました。
前の無認可園のときの経験で、迎えに行くと「T君がなになにをした(←よくないこと)」というのを否定的に言われることが多かったのもあって、自分で園に迎えに来ることをあまり好まずおばあちゃんに任せてしまうことも多かったのだけど、自分で迎えに来よう、少しでも早く迎えにいってあげようという気持ちになれたようです。
なので、そういうものを敏感に感じ取るのでそれはさらにT君にも良い影響をあたえます。
お母さんに可愛らしい甘えをだせるようになり、「この子を産んで良かったです」とあるとき話してくれたことがありました。
そんな矢先。
途中入園で入ってきたので、実はこの園は自宅からも職場からもだいぶ遠いいところでした。
建物なんかボロボロの不人気園でもあったので入れたということもあったのでしょう。
入園した当初、遠いいということもあって転園希望を出していたのが2月になって通りました。
お母さんも転園希望を出していたことを忘れていたそうでした。
中途半端だけど3月から職場と自宅に近い園に移れるとのこと。
お母さんは転園するかどうかまよっていたのだけど、
そちらに行けば親子で過ごせる時間が毎日一時間以上増えるということ。
これから先も保育園生活が長く続くこと。
おばあちゃんの負担も大きいこと。
など
いろいろ考えたら今転園するほうがいいというのをこちらからも伝えて、最終的には転園することに決めてもらいました。
子供と接することに負担を感じなくなったこともあって、お母さんも自信がついたのでしょう。
こちらからもT君は転園してもちゃんとやっていけますよと伝えたことにしっかりとうなずいてくれました。
T君は「お別れ」というのがあまりよくわかっていなかったよう。
園が変わるということは理解していたけれども、さまざまなものまでが変わってしまうとは思っていなかったようで、転園先でしばらくは僕とA保育士の名前を呼んで泣いていたそうです。
しかし、そちらでもとてもいい保育士に恵まれて、その後すぐ慣れていきました。
以上が僕にとって忘れがたいエピソードでした。
このような経験はサービス業や「子守り」としての預かるだけの保育をしていたら、けしてできなかっただろうと思います。
| 2014-06-11 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 24 | トラックバック : 0 |
親の右手と左手 - 2014.06.10 Tue
そのなかには家族連れも多いです。
たしかにファーストフードは手軽でおいしく食べられます。
子供も好むのでよく食べてくれます。
しかし、その列に並んでいる人の中にはこんなことを考える人はいるでしょうか。
「ファーストフードは子供は喜んで食べはするけれども、これを食べさせることで、普通の食事や野菜、魚などは食べなくなる」
個人差はありますからすべての子供がそうなるとは限りませんが、回数を重ねるたびにその可能性というのは高くなるだろうとは思います。
ファーストフードというのは、カロリー・塩分・油分という人間がおいしさを感じる要素というのが、とてもたくさん含まれています。
大人と違って味覚の基準、素材のおいしさなどを理解する前に、子供がそれらの味になれてしまうと、家庭の料理とくに味の薄いものや野菜などは食べにくくなります。
大人はよく子供の食事のことで心配をします。
子供に野菜を食べさせようと、小さく刻んでわからないようにしたり、はたまた言い聞かせて、粘って、しまいには無理やりやイライラしながら、怒りながらなどということもあります。
そのもとの原因に大人が普段なんの気なくしていることがあったとしたらどうでしょう。
そのうちの何割かは、遠回りまたは子供にいらぬ負担をかけているということになりはしないでしょうか。
子育ての中には、頭では子供を右に向かわせようとして右手で引っ張るのだけど、知らず知らず意識しないで左側に引っ張っているというようなことが多々あります。
このブログを読んで、それまで良かれと思って子供にしていた、ごまかしや釣りがむしろ子供の姿を難しくしていたということに気づいたなどという人も多いのではないでしょうか。
刺激のおもちゃなんかもそうですし、過保護や過干渉にも同様の側面というものがあります。
「当たり前」と思っていたことが実は「当たり前」ではないということが、子育てにはたくさんあります。
それゆえ、先入観だけで子供に関わっていたり、子供の姿に無頓着でいるとなかなか思うようにいかないことも多いです。
こういったことで子育てにつまづいてしまう人が多いので、なんとかできたらいいなぁとは思うのですが、「常識」になってしまっていることに異を唱えるというのはなかなか難しく感じます。
| 2014-06-10 | 日本の子育て文化 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
クレームという名のカウンセリング Vol.2 - 2014.06.09 Mon
いまは「子育てしながらバリバリ働けるお母さんって素敵!」というイメージ戦略を国やマスコミがしていますが、かつては「専業主婦で文化的な家電製品(←当時の最先端)を有効に使って家事や子育てをこなしながら、人生を謳歌する女性って素敵!」というようなイメージが流行していた時代もあります。
そのような時代においては、女性が働いて子供を預けているというような家庭が一頭低く見られたりしたこともあったのでしょう。
「保育園は貧乏な家庭がいくところ」のように今でも思っている人には、そのような時代に価値観を身につけた人なのかもしれません。
「保育園が貧乏な家庭がくるところ」などというイメージは、いまではぶっ飛ぶようなところもあります。
都心のお金持ちの住むような所ですと、送り迎えは外車かタクシー、とりあえずお受験は当たり前、両親ともに医者や弁護士、一流企業に勤めているというようないわゆるハイソサエティ、アッパークラスというような人がほとんどというような園もあります。
ちなみにとりたててお金持ち相手のすごいことをしている園(または保育料の高い園)というのではなくて、ごく普通の保育園です。
前回書いたような、「クレームという名のカウンセリング」がこういったところでは無縁かというと、それがそうでもありません。
むしろ多いということもあるようです。
最初のクレームが少々きちんとしていたり、理屈っぽかったりということもありますが、それこそ「髪型うんぬん」と同じようなものもあります。
「金持ち喧嘩せず」という言葉があります。
全部が全部ではないにしてもそれは一面の事実でもあるでしょう。
金銭的な余裕・生活の余裕というのは、精神の余裕をもたらすことが可能だからです。
しかし、そのような豊かさを持っている人も、今では余裕がなかったり、自己を内的に完結できないなにかというものを持ってしまっています。
本当に社会全体の余裕がなくなっていると思わざるを得ません。
さて、ここでちょっぴりおもしろい情景というのが出てきます。
保育士が勤務を終えて明日の準備も終わった頃(この時点でたいていはクタクタでサービス残業ですが)、ちょうど多くの家庭がお迎えにきます。
遅番を担当している保育士というのはあまり子供から目を離せませんので、そろそろ帰り支度でもという保育士が、暇そうに見えるのでしょう、そういった「クレームという名のカウンセリング」を求めている保護者につかまります。
そこで1時間2時間ときには3時間と話を聴くこともあります。
するとそこには、薄給で有名な保育士が、高給で有名なお医者さんや弁護士さんのカウンセリングをサービス残業でするという光景が見られます。
経済だけでなく、人間の心の豊かさというものについても真剣に考えていかないと今後どうにもならなくなってしまうのではないかと、僕なんかはかなり深刻に感じます。
| 2014-06-09 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
クレームという名のカウンセリング Vol.1 - 2014.06.08 Sun
近年では園に対する親のニーズや要望というものの比重が大きくなってきました。
以前ならば問題ではなかったようなことまでが、クレームとして寄せられるようにもなってきています。
ただ、今回の中心はこんなすごいクレームがあるというお話ではありません。
子育てする人がどういう状況にあるのかというお話になります。
登園時やお迎えの際、または電話などで相談なり質問なり、意見なり要望なりというスタンスで話が持ち込まれます。
なかには、大変怒っていたり、イライラしたりしてというものもあります。
それらはまあ、いわゆるクレームです。
普通に相談なり要望なり意見なりということであれば、それななにも不自然なところはないのですが、クレームとして持ち込まれるものの中には、それそのものではないものもあります。
しかも増えています。
どういうことかというと・・。
話のとば口は、子供が園で怪我をしてきたということや、持っていった衣服が戻ってきていないというようなちょっとした事実のこともあれば、なかには全然関係のない事実無根のこともあります。
(事実でないというのは一例をあげると、親は「保育園で怪我をしてきた」という主張なのだが、子供はそれは前の休みにショッピングセンターで転んで怪我したもので、親もそれを知っているはずと教えてくれたり などなど)
最初はそういったクレームで持ち込まれてそれを聞いていると、親の話はだんだんと違う方向にいきます。
会社や家庭・家族に対する愚痴だったり、純粋に子供とは関係のない親自身の思ったことや、趣味の話だったり。
まだ、子育てに関することならばそう不思議ではありません。
子供についての悩みや、将来への不安だとか、自身の子育ての大変さ、生育歴からくる悩みなどなど。姑問題の愚痴でもいいでしょう。
些細なものでも、背中を押してもらいたいというようなことも、子育てのなかではたくさんあるのはわかります。
でも、最初は子供にまつわることでのクレームとして持ち込まれたそれらは、きっかけとして保育士になにかを話すための理由としてあるだけで、本題は子育てについてですらありません。
なかにはこんなものもあります。
お母さんからのクレーム。
最初は「子供が怪我をしてきたどういうことだっ!」という話だったのだけれど、その怪我というのはそもそも、前日の朝登園時の視診で聞いたらそのお母さん自身が「昨日一緒に公園で遊んでた時にぶつけちゃいました」と言っていたもの。
「あれ、たしか公園でぶつけたっておっしゃってましたよね?」と返すと、
何日も前にあったような様々なことを引っ張り出して不満を述べていく。
それがいつのまにか仕事の愚痴になって、それで1時間も話したあとに、「私がこんなにイライラしてたのは、この前(そう最近でもない)髪型が(←お母さんの)変わったのに先生はなにも言ってくれなかったからなんだからねっ」
そういいながら、すっきりした笑顔で帰っていかれました。
「いやいや、別にツンデレアピールとかしなくても大丈夫ですから」とつっこみたくなってしまいそうですが、これはまあ一例です。
ここまで面白くはないにしても、こういうものがたくさんあります。
まあ、その髪型うんぬんというのもなにか言いたかったということの理由づけなのでしょうね。
その本質は愚痴を聞いてもらいたかった、不満をだれかに言いたかったということにあるのでしょう。
つまり、「クレームという名のカウンセリング」なわけです。
なんとなくこの構造は、現代の子供に多い、「なにかでゴネたりして理由をつけないと甘えられない」という姿に非常に似通っているような気もします。
こういったことがとても増えてきており、子育てがどうこう以前にいまの世の中から様々な余裕が失われてきているのだと感じます。
保育園という施設は、なんというか社会の根っこの部分にあります。
いろんなものが凝縮されて見えてきます。
| 2014-06-08 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
いじめについて考える Vol.8 - 2014.06.07 Sat
この報道をみてなんとも悲しい気持ちになりました。
残された家族はお金のために裁判を起こしたのでしょうか。
全くそのようなことはないと思います。
数々のいじめ事件の報道をみていて当局や学校の姿勢に感じるのは、とにかく責任を回避しようと数々の手管を弄するその不誠実な態度です。
お子さんのご家族は、自分の子供がいじめの被害にあっているという状況を、学校側は知らなかった、もしくは知っていても問題視しなかった、さらには問題視していたのに適切な対応・最低限必要な対応すらとらなかった、このような本来の責任を全うせずに子供を守ってくれなかった学校に対しての怒りや、責任をとってももらいたいという痛切な思いなどがあることでしょう。
<いじめっ子と学校の利害が一致する悲しい現実>
最初から当局や学校が誠実に対応していたのならば、裁判など起こさなかったというケースも多々あるのではないかと思われます。
しかし、そこに誠実さがない、責任を果たそうとも、取ろうとしないという印象しか受けないから裁判ということにならざるを得ないのでしょう。
自分の子供の命と引き換えに7000万円もらったとしても、それで納得できるものではありません。その10倍でも100倍でも同様です。
しかし、市と学校はそれにすら不満だという。
つまり、「子供の命を失った責任は自分には少しもないのだ」と言わんとしているわけです。
このようになると、学校側は「いじめの事実はなかったのだ」「あれはいじめではなく子供同士の許容範囲の関わりだったのだ」そのような主張になっています。
つまり、学校といじめっ子の利害は一致して、その気はなくとも結果としては学校といじめっ子はタッグを組むことになります。
過去のいじめ関係の事件を見ると、このようにいじめっ子と学校の利害は完全一致、被害者は泣き寝入り、というケースのなんと多いことか・・。
挙げ句の果ては、政治家やえらいおじさんたちがそれに便乗して「いじめられる側にも問題があるのだ」などと援護射撃をするようなこともありました。
このような体質でいいのでしょうか。
僕はいいわけないと思います。
こういうことで得をするのは誰なのでしょう。
おそらく本来責任を取らなければならないポストに立っている関係者たちだと思われます。
少なくとも、子供や一般市民ではありません。
現政権はいじめ問題の多発(実際は表面化にすぎないが)などを受けて、教育改革を掲げると言っていますが、その実態は教育を政治に取り込む方向に持っていこうとしていることが明らかです。
例えば、このいじめ問題のネックになってくるのが「教育委員会制度」ですが、これの掌握をさらに強めようとしています。
現在の教育委員会が形骸化し、このようにことにあたって責任を果たすつもりも、取るつもりもないただの官僚組織になってしまったのは、実は教育委員会に対する国・文科省(文部省時代含む)の支配を強めてきた結果です。
むしろ、僕は教育委員会を市民の手に返す、つまり「教育を市民の手に返す」ことが、このようなおかしくなってしまった体質を改善するために必要な唯一の策ではないかと思います。
「7000万円であなたのお子さんの命を売ってください。いや、やっぱりもうちょっと値切らせてもらいますわ」
そのようなことを恥も外聞もなくできる市や学校・教育委員会、そこにいる人たちというのが僕には恐ろしくてたまりません。
| 2014-06-07 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
超おすすめボードゲーム - 2014.06.06 Fri
これは本当におもしろいので紹介したいと思います。
すごろくなのだけど、そこに鬼ごっこが組み合わさった感じ。
ねずみはねこにつかまらないように、チーズを取りに行きます。
でも、サイコロの目によっては、ねこが追いかけてきて・・・。
ねこが動くたびに子供たちはキャーキャーいうくらいスリリング。
1ゲームが10分くらいでさくさく進むので、飽きずに何度も楽しめます。
大人も楽しいですよ。
ドイツ製ボードゲームというと、やはり木製コマがなんともいえない味をだしてくれます。
これもやはりその伝統にのっとっていて、ねずみも、敵役のねこすらもかわいらしく憎めません。
国産のものは本当にその多くがプラスチックのようになってしまったけれども、こういった作りの良さが玩具自体に愛着を持たせてくれます。
4歳くらいのお子さんがいて、なにか家族で楽しめるゲームをお探しなら、本当にこれはおすすめです。
| 2014-06-06 | おもちゃ | Comment : 19 | トラックバック : 0 |
子育ては雪だるま作りに似ている - 2014.06.05 Thu
「毎日子供と一緒にいることが楽しくなった」
「小さいうちから読んで子供の姿がとても可愛く育てることができた」
「あんなに大変だった子供と過ごす時間が楽しくなってきた」
というようなお言葉をたくさん頂戴するようになりました。
特にイヤイヤ期あたりや、行動が活発になるその少し前くらいの時期、また保育園に通っているお子さんをお持ちで子供の行動が気になるようになったりしたことで、ここにたどり着く方も多いようです。
「子育て」というのは、雪だるまを作ることになぞらえられると感じています。
最初は小さな雪玉を作ってそれを正しい方向にコロコロと転がしてあげる。
そうするとそれがだんだんと勢いづいていって、なめらかに回転させていける。
ときには、それでもうまく転がらないときがあったりして、誰かに押すのを手伝ってもらったりもするけどね。
僕が書いたことが少しでも役に立って、子育てが楽しくなったと言ってもらえるのは大変うれしいです。
でも、たぶん僕がしていることは、「こっちの方向にこうやって転がすといいですよ」と伝えてせいぜい最初の数回、転がすのを手伝っているようなものなのだと思います。
子育てっていうのはどうも循環式になっていて、いい方へ回るとさらによい方に回るようになり、逆に悪い方へ回ってしまうと、どんどん悪い方へといってしまいがちです。
なので最初のひと転がしふた転しをいい方向へむけるか、うまく回っていないときはいい方へと切り替えるなんらかのきっかけが必要なのでしょう。
いまは子育てというものが難しく感じられるようになってしまっていて、闇夜に手探りで雪だるま作りをしている人や、一生懸命に頑張って難しい方へと転がしてしまっている人、ここまではなんとか持ってきたけどにっちもさっちもいかなくなってしまったという人が多いのだと思います。
そしてその難しさを大きく捉えてしまうので、どこから手をつけたらいいかわからない、どうやっても自分には無理というように感じてしまうこともあるのだけど、本来は子育てというのは単純なもので、テコでも動かないなと感じていたようなことが、些細な気づきやちょっとした関わりで回せることもあります。
たとえば「くすぐり」のようにね。
このブログを読んでくれる人の中には、何冊もの育児書や育児雑誌、さらには専門的な子供関連の本などを読んでいらっしゃる方もいます。
それでもここで書かれていたことが一番役に立ったと言ってくれます。
多分、今求められているのは、そういった単純で些細なきっかけなのかもしれません。
| 2014-06-05 | 子育てノウハウ? | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
喜怒哀楽と表情 - 2014.06.04 Wed
「子供に向き合っているつもりなのに、子供がアウトオブコントロールになっているのを変えられない」
子育てを一生懸命している真面目な人がしばしばこういう状況になっています。
僕が述べているような「受容」や「先回りした関わり」「くすぐり」などをしても事態が好転しているように感じられないという人もいます。
子育てというのはどうしても人間相手のことですから、言葉や行動だけを「こうするといい」というものになぞったとしてもその通りにいかないことがあります。
では、そこにはなにが足りないのでしょう。
言葉で説明するのは難しいことがらなのですが、「姿勢」「気持ち」「ニュアンス」というようなものでしょうか。
冒頭にあげた
「子育て精一杯頑張っているのにうまくいかない」
というような人は、子供に対した時の「感情の表出」というのが良い形でともなっていないことが多いです。
ネガティブな感情は伝わりやすいもので、ポジティブな感情は伝わりにくいので、「喜怒哀楽」のうち「怒と哀」はまあいいでしょう。
問題は「喜と楽」の部分です。
「子供に精一杯向き合っている」
という人は、確かにその通りに精一杯向き合っています。ときには無理を重ねてまで向き合おうとしています。
しかし、そういう状況になっている人の多くは、ポジティブな感情ほど硬直してしまっています。
例えば、笑顔がでなくなっていたり、表情が乏しくなっていたり、笑い声があげられなくなっていたり、などなど。
特に子育てがうまくいかないことで自分を責めていたり、自信を失っている人だと、これは端的に現れます。
僕は相談への返信なのかで、「自分を責めないでください」「責めてもマイナスになることはあってもプラスにはならないから」というようなことをたくさん言っています。
関わる大人がその気持ちから少しでも脱することができないと、なかなか子供が満足するような関わりというのをできません。
子供は大人の言葉には出さない、態度や表情、気持ちそういう些細な部分を敏感に感じてしまうものだからです。
そうなると、大人の方は「精一杯頑張っている・向き合っている」という思いとはうらはらに、子供の側からすると「お母さんは気持ちよく僕の相手をしてくれていない」というのが感じられるので、例えば「満たす」ということで考えても、なかなかそこの関わりからは満たされるというところまで行き着きにくくなってしまいます。
もともとの性格で笑ったり、感情を顔にあらわすのが不得意な人というのもいます。
そうでなくとも、子育てに疲れてしまったり、自分を責めていたりすると、ポジティブな感情というのはなかなかでなくなってしまいます。
しかし、こういうことは自分のことでありながらなかなか自分では気がつきません。
「子育て精一杯頑張っているのにうまくいかない」
こういう人は今一度、子供の相手をして楽しいとか、物事を子供と共感するとかのポジティブな気持ちをわかりやすくだしてみることで、案外簡単に好転させられるかもしれませんよ。
よしんば、これは演技であっても効果的に働くということもあります。
「もう子供の相手に疲れてしまってうんざり」という人でも、結局のところいつまでもその状態に大人がとどまっていては、事態は好転させられません。
「子供がネガティブ行動ばかりになっている。それに対して怒ってばかりになり、笑顔も出ない」
こういう事態になっていたとして、その状態を続けていれば子供のネガティブ行動が自然になくなって大変な時期は通過するわけでもありません。(なかにはそういうケースもありますが)
これを解決するには大人の方から関わり方を変えるしかないのです。
そういうときに少し一念発起して、自分のテンションをあげるなりして、演技でもいいからポジティブな感情をわかりやすく出していきます。
こういうことって慣れない人には言葉でいうほど簡単ではありません。
でも、自分を責め続けたり、うんざりという状況に耐え続けるよりも、そのときだけ頑張ってしまったほうがたいていの場合ずっと楽です。
わかりやすくポジティブな感情を子供に伝えていくことで、子供の姿というのはかなり変わってきます。
ネガティブな出し方が減り、可愛い姿というのを出しやすくなります。
(ただし、それまでの満たされない期間が長期にわたっていたりする場合は、一時的に溜め込んでいたものが吹き出すので、むしろネガティブな出し方が増加するというようなケースはある)
そのようになってくると、子供の相手はそれ以前よりも楽になるはずです。
すると、親の方にも余裕ができるので、良い感情を出しやすくなります。
なので、悪循環を好循環へと変えていくことが可能になります。
保育士とか幼稚園の先生とか、子供相手の仕事をしている人の中には、しばしばオーバーに驚いてあげたり、喜んであげたりする人がいますよね。
必ずしもそこまでする必要もないのですが、良い感情をわかりやすく出していると、子供は安心してすごしたり、満足してすごすということがしやすくなります。
以前、講演したとき「ギャルママ」の例を出したのですね。
その時はあんまり時間がなかったのできちんと伝えられなかったのですが。
普段はどちらかというと放任気味で、言葉遣いもせめて子供相手にはもう少し丁寧にしようねという感じなのだけど・・。
子供は割合にそれでも満たされてしまっています。
なぜかというと、
「それ、ちょーかっけーじゃん!」
などのように、感情の表し方というのがストレートというかわかりやすく子供にだせているからなのです。
なので、ぜんぜんきめ細やかな子供の相手などしていないのに、子供は安心と満足を見いだせてしまっています。
逆に、真面目で一生懸命子供に対しているような人の方が、その真面目さゆえに悩んでしまったり、心配が募っていたり、自分を責めたりなどで、ポジティブな感情というのが子供の望むほどにはでなくなっており、それゆえに子育てが難しくなってしまっているという状況が引き起こされることが多々あります。
そういうわけで、「頑張っているのに思うようにいかない」という人は、いまいちど自分の表情だとか、子供に関わる際の姿勢を点検してみるといいかと思います。
| 2014-06-04 | 相談 | Comment : 12 | トラックバック : 0 |
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