まず、大人であるあなた自身がNOと言える存在であり、それを子供にも持たせられるか。
この「NOと言える」ができるためには、「NOを許容できる」が必要となる。
もし、「NO」を口にしたときに、不機嫌になる存在がまわりにいれば、その人はNOが口に出せなくなっていく。
・性教育とはNOと言えること
・性教育とは(あなたが)NOを許容できること性教育が人格形成に与える部分でもっとも重要なところをピックアップすると、このふたつがあげられる。
互いにNOと言うことができ、それを互いに許容することができるようになるとき、人は他者とパートナーシップ(対等の人間関係)を築くことができるようになる。
対人関係を上下の中でとらえる価値観が強い人は、NOが許容できなくなりやすい。
ものごとに対するNOを自分の存在へのNOと受け取らざるを得なくなってしまうから。
それはまったくの勘違いなのだが、他者を自分の上か下かという価値観で捉えている人は、そのように解釈してしまう。
このメンタリティを強く構築してしまうと、もっともプライベートな対人関係である性的関係においても、NOの許容できなさ、そればかりか相手の支配、嗜虐的な価値観へと発展しかねない。
現実には圧倒的に
・NOの言えない女性
・NOの許容できない男性という形で顕著に現れる。
これは個々のレベルでは、結果としてどちらにも、他者とパートナーシップを気づけない人格形成へとつながってしまう。
また、社会的なレベルでは
・NOの言えない組織人(男女に関わらず)
・NOの許容できない硬直的な組織を作り出すことにもつながる。
つまり、NOの言えなさが風通しの悪い社会や、負荷をためながら生き続ける人生を生み出してしまう。
NOが言え、NOを受け入れられるのは、自立した人格の形成があってこそと言える。
他者のNOが受け入れられない人は、支配関係に依存している弱さを抱えている人格形成である。
他者が自分に服していないと自分の存在が保てないような気がする。それが不安となり怒りへと発展する。
こうしたメンタリティだ。
これは周りの人にとってもその人との関係がしんどいものになるばかりでなく、その当の本人にとっても生きづらさとなる。
自分を保つためには、他者にマウンティングをし続けなければならず、しかしそれをすれば人が自分から離れていき、よりマウンティングを強め・・・という悪循環となる。
お金や権力で人を縛ろうとする人も根は同じ。
「誰のおかげで飯が食えていると思っているのだ」と凄む父親は、「あなたたちが支配下にいないと自分が保てないのです」と告白しているようなもの。一見強さに見えるものが弱さの裏返しであることの端的な例だ。
子育てにおける性教育は、つまり、他者に支配されない人生を歩める人格形成であり、他者を支配しなくとも人生を歩める人格形成に直結している。
◆性的合意
狭義の性教育で言えば、NOの言える、NOを許容できることは、「性的合意」を指す。コメントでも紹介されていた、性的同意についてイギリスの警察署が作成した動画↓(リンクはハフポストの紹介記事)
必ず知っておきたい「性的同意」の話。紅茶におきかえた動画を見てみようもっともプライベートな対人関係でこうした性的合意の取れる人間性は、社会的な人間関係においても他者と対等なパートナーシップを築くことができる。
これはその人の人生の豊かさ、ひいては安定した社会の形成へと直接つながっていく。
だから、性的な価値観が独自に形成されてしまう前の年齢で、教育として性についての理解を子供たちに伝えていく必要がある。
◆能動的な性教育の必要性
僕はいまこのように性教育について述べている。
しかし、大変残念ながら僕自身は失敗作としてある。
あとで理解しても遅いのだ。
僕自身がこうしたことを理解したのは、だいぶいい歳になってからのこと。
それ以前には、この基本的なことを理解せずに生きてきたばかりに人を傷つけもした。
性教育は、
「放っておけば勝手に学べる」ものではない。
放っておけば間違った知識を吸収する率の方が圧倒的に高いもの、そう認識しておく必要がある。
社会に出る前、さらにはプライベートな性的対人関係を築く年齢になる前、性加害、性被害を受ける前、こうした段階で能動的に教える必要がある。
しかし、現状の日本の社会で、また日本の文化の中で性教育が適切に施せるか非常に怪しい。
家庭での育児は、いまだに「しつけ」の概念が中心だ。
この「しつけ」の子育ての中で、子供にNOと言えるだけの成長を得させられるだろうか?
育てる側、育てられる側、それぞれその人の環境、性格で得ることもできるだろう。
しかし、しつけの基本構造は、親の支配に服する子を作ること。
構造がこれなのだからそれに飲まれてしまえば、NOと言える子、またNOをムリなく許容できる親の存在はむしろ例外的なものとなるだろう。
日本の現行の学校教育の中で、NOと言える子を育てていくことができるだろうか?
学校も、学校や教師に服する子供を一生懸命、それこそ勉強を教えること以上に熱を入れて作り出そうとしている。
ここに性教育に学校がなかなか本気で取り組めない本当の理由が隠れているのではないか?
敬語で男性配偶者のことを指すとき、「ご主人」や「旦那さん」などと従属関係でしか夫・妻を表すことができないような日本の文化の中で対等のパートナーシップを理解していくことができるだろうか・・・etc.
僕はさまざまにそんな疑問を感じる。
将来的には進歩していくかもしれないが、少なくともいま現在子育てをしている人たちは、他人任せにするのは危険だろう。
だからこそ、こうしたところの理解を深めていく必要がある。
NOと言えるのは、反抗や反発と同義ではない。
それは自分の考えや意見を持つこと、なおかつそれを表せること、つまり自主性・主体性を持てることに他ならない。
言い換えれば個の尊重ということでもある。
我が子の子育てで、どうしたら自主性・主体性を持てるようにできるだろう?
個を尊重しつつも、必要なことを伝えていくことができるだろう?
また、親がそれを無理なくできるためには?
これが性教育の段階、そしてその前の段階で重要になる。
性教育の観点ともからめ、今後はさらにそのあたりもまとめていきたい。