「えっ?」と思う人もいるかもしれないが、もし保育が政治的なものでないとしたら月の保育料は20万円を下回ることはないと断言できる。
レジャー施設などに行った際の託児の料金を見てみればいい。
なんらかの割引などがなければ、ある程度人員配置されている託児の1時間の保育料金は3,000円前後くらいからだろう。1日パックとかでも1万円くらいはすることだろう。
食事やおやつなどは別料金か、ついていても栄養や文化面(行事や食習慣)まで十分に考えられているものであることはそうそうないだろう。
純粋に営利だけで子供をあずかるとすれば、そうした金額をとらねばなりたたないということだ。
それが、一般的な保育であれば、所得に応じたスライドした保育料となり、月に何十万円もかかったりすることはない。
実際の経費は、営利で託児をしているところよりもはるかにかかっているにもかかわらず。
つまり、保育料として払う額の何倍もの金額が税金から投入されて保育は成り立っている。
これが、保育は政治といえるゆえん。
税金の投入という財布のひもを握られているゆえに、保育は政治の風向き次第で、簡単に良くもなり悪くもなる。
安倍政権になって以来、保育に限らず社会福祉、社会保障は劣化の一途をたどってきた。
それまででも十分とは言えなかった障がい者への給付は減らされ、生活保護も切り下げられ、国民年金もどんどんもらえないものへと変化させられてきた。
増税分はすべて社会保障に当てると言われていた、5%から8%への消費税の増額分も実際はほとんどそうは使われていなかった。
その一方で、大企業には減税し、のみならずさまざまな補助金助成金で税金を投入する施策が行われてきた。
もちろん、それらが景気浮揚策となり社会全体が潤っていくのならば、そうした施策もありだろう。しかし実際にそのようにはなっていない。
当初は、「トリクルダウンがくるまでタイムラグがある」と説明されていたが、昨今では「トリクルダウンがくるなどとは言っていない」と無責任さを発揮している。
経済政策だけでも十分にひどい。これだけでも政権が変わる理由に十分になる。
保育に関係している僕の立場から感じている、現在の安倍政権の怖さはそれだけではない。
それは、安倍政権は日本を全体主義にしようとすることを隠しもしていない点だ。
全体主義とは、ざっくりいえば「国家のために社会が一体となって国に尽くしなさい」という考え方のことである。
かつての第二次大戦前の日本も、そうした形をとっていた。
その中では、子供たちを全体の奉仕者とするべく、権力に従順な存在に教育してきた。
そこから、戦後の社会では、子供を兵士へと育て上げるような教育をしないという大きな反省の上に進歩してきた。
しかし、それはまた巻き戻されつつある。
すでに、教育基本法改正によって学校教育は全体主義を支えるための存在に子供を変えることができるようになってしまった。
道徳の教科化によって、国が求める考え方を子供に要求することが可能になった。
幼稚園教育も、すでに愛国心、国家や国旗というファクターが取り入れられ、それを子供に課しているところも少なからず出ている。
そして、幼保一元化のために、幼稚園教育と保育施設の指針の整合性をとるという理屈で、保育施設に対しても郷土愛や国歌に親しむというオブラートを一枚かぶせた形ではあるが、実質の全体主義のための子供の愛国化を求められるようになってしまった。
森友学園の映像がニュースになったとき、多くの人はあれを他人事と見たことだろう。しかし、それが日本中で行われる日がくるかこないかの瀬戸際にいまいる。
保育施設が税金によって財布のひもを握られている以上、もし強くこれを国が強制しようと思えば今後いつでもできる。
そうしてゆくゆくは、日本は戦争に進んで参加する国になるだろう。
もうすでに、集団的自衛権が制定されたことで、日本に関係無い戦争であったとしても、アメリカに追随する形で戦争に参加する下準備は整っている。
もう一押し、徴兵制なり経済的徴兵制なりの制度を何かのタイミングで作りさえすれば、我が子や孫がその戦争に行く日もそう遠い未来の話ではなくなる。
そんな簡単に戦争に参加するはずないと考えるかもしれない。しかし、一部の人にとって戦争はとても儲かる。
武器の売り買いに莫大な予算をつぎ込むことが可能になるので、戦争を都合良く利用する国、人は常にいるのが現実。
いま現に、社会福祉や社会保障に使うお金を削って、事故が多いとわかっているオスプレイや、F35をたくさん買っているように。
だから僕は安倍政権の存続に全力で反対したい。
子供や孫を戦争に送り出してもいいと思う人は、安倍政権を信任する党や政治家に投票すればいい。
もしくは、選挙にいかなければいい。
選挙に行かなければ、おそらく自動的にそういう国になることだろう。でも、僕は民主市議の制度にのっとって自分の意思を行使できる間にそれを使いたいと思う。
全体主義になってしまえば、それすら無意味化してしまうのだから。