かつては、子育ての基礎的な部分が家庭でそれなりに確立されることが多かったです。また、そうでない状況があったとしてもそれを望むことがさして問題ではありませんでした。
それゆえ、そのような「できる」の獲得を積み重ねていくところから保育をスタートし、多少なりとも管理や支配になってしまったとしてもそれなりに保育が無理なくまっとうできてしまいました。
保育所の本来の設置意義は、「家庭の代わりになって幼い子供たちが過ごす場所になること」ですが、その「家庭」の部分は実際の家庭でかなりの部分をまかなうことが可能だったので、保育所があえて「家庭」にならずともなんとかなってしまっていたわけです。
だからむしろ、かつての保育所のあり方は「学校」に近かったとすら言えるでしょう。
何らかの能力の獲得や集団行動などの確立、運動会、発表会や学芸会などの出し物的な部分を頑張るところにウエイトが持ってこられていました。
「家庭に代わって過ごす場所」という第一義的な機能よりも、「学んだり、習得させる」といった第二義的なところがクローズアップして当の保育士たちも考えていたわけです。
しかし、その頃から時代は大きく変わりました。
以下は、第二回保育セミナーのレジュメからの一部抜粋です。
<現代の子供たちの背景にあるもの>
a,家庭・家族のあり方 →核家族
b,親族との関わりの減少
c,地域のつながりの減少
d,保育の長時間化
e,保育の低年齢化
f,親のあり方の変化
・女性のあり方(教育・人生観など)の変化
・他者とのコミュニケーション力の低下
・子供と関わった経験
・就労の長時間化、激化 →余裕のなさへ
g,子供のあり方の変化
・きょうだいの減少
・他者のとの関わり・社会性の減少
・家庭での過保護・過干渉の影響の増大
・さまざまな経験の減少(遊び、生活)→幼さ
・親から受ける期待の増大
・早期教育、習い事の激化
h,親の関わり方の問題
・「負い目」「かわいそう」
・距離感 →どう関わったらいいかわからない
→「いいなり」や無視など。子育てそのものへの意欲がなくなってしまう
・「子供の尊重」のはき違え
・「不安、心配」の増大 →「正解探しの子育て」、早期教育などの与える「安心感」
i,親自身の生育歴上の問題 (子育てを機に表面化する諸問題)
・過度な期待 →作られた人生
・過保護・過干渉
・支配の連鎖(支配的人格の獲得)
・自己肯定感の低さ
・アダルトチルドレン
・孤立こういった社会的、家族観的変化などが、「いい悪い」ではなく否応なしに存在していて、現代の子供たちに必要なものも確実に変化しているわけです。
これまで、学校的な第二義的な保育の職務が中心だったところから、第一義的な本来の「家庭の代わりとしてその子供の育ちの基礎的な形成を支える」ことに立ち返らなければならない時代になっています。
しかし、現行の保育施設や、保育士の意識は、それらの状況の変化や子供たちに必要なものの変化を認識しておらず、まだまだこれまでの「上手い保育」を目指してしまっています。
それが結果的に引き起こしてしまうのは、「落ちこぼれ」にされてしまう子供や、「取りこぼされてしまう」子供たちの存在です。
また、本来くつろいで過ごす場所になるはずのところで、威圧や管理、支配を受けてなければならなくなってしまう子供たちへの影響です。
さらには、本来ならば子供たち一人一人のケアをし、子育てする保護者の助けにならなければいけないのに、かえって子供に負荷をかけて家庭に返すことで子育ての負担を大きくしてしまうといったことが起こってしまっています。
もう、「上手い保育」をしていれば済んだ時代はおわったのです。
子供だましなどのテクニックや、威圧や疎外などの力業で、子供を管理・支配をして自分の目の前でだけ「いい子」にして自己満足をしていたら、保育士の専門性を世の中の人たちが認めてくれることはありません。
本当に必要なものを見据えて保育をしなければならない時代になっています。
目に見える「できる」を達成させて満足するのではなく、その子自身の本当の成長や発達として適切に獲得させる「伸ばす」ということを理解し目指さなければなりません。
そのためには、「正しいこと」「○○しなければならない」「○○できなければならない」、「ちゃんと、きちんと、しっかり」はいったんどこかに置いておく必要があります。
それらの、燦然と輝く「正義」を念頭に描いて保育をしている内は、それを力業で子供に「させる」ことが保育士の関わりになってしまいます。
実は保育士の仕事が素晴らしい点は、「あるがままを受け入れてよい職業であること」なのです。
つづく。