「道徳」が危険信号になっている - 2017.03.26 Sun
来年の4月から、小学校で行われる「道徳」の授業は「教科化」されます。
「教科化」とはどういうことかというと、その習得度によって評価をしたり・点数をつける科目になることです。
それにともなって道徳の教科書も今度から国の検定を受ける必要がでてきました。
そのニュースがこちら↓
「道徳」教科書の初検定 8社すべてが一部修正し合格
はっきり言って、これにより日本の教育はまずい方向へ行くことでしょう。
そしてそれは教育だけに留まりません。
この問題は単に学校の教科の一部が変更になったというだけではなく、人々の「内面の自由」に国が介入することを制度化したことに他ならないからです。
極端な言い方をすれば、「はい、みなさん。これが正しい価値観ですよ。覚えましたか、テストに出ますからね。それ以外の答えを書いたら間違いですよ!」
というようなことになりかねません。
テスト云々は誇張にしても、実際にやっていることの本質はそれと変わりなくなります。
例えば、今後展開されるこの「道徳」の中で重視されるもののひとつが、「伝統的家族観」や「家族愛」なるものです。
「家族を大事にしましょう」「家族は互いに助け合いましょう」
こういったことを字面だけで読めばそれはいかにも「正論」に聞こえます。
しかし、これを価値観として押しつけていくのはとてもとても怖いことになります。
僕、ひとつ予言をします。たぶん、これは残念なことに当たるでしょう。
近い将来、5年遅くとも10年以内に、「学校の教師が、ひとり親家庭の子を、ひとり親家庭であることを理由に差別したり、いじめに荷担する」といった事件を目にすることになるでしょう。
おそらく複数件こういったケースを目にするようになってしまいます。
ある種の理想像をして、「これが正しい価値観ですよ」と言ったり、「これが正しい家族のあり方ですよ」と考えることは、結果的に「排除の論理」を生むことになります。
そうでない状態を「否定する」心理を人に持たせてしまうことを防げません。
正しいものをひとつに決めてしまうことを僕は「統一的価値観」と呼んでいますが、それを持ってしまうと、それ以外の状態を人は許容できなくなってしまう心のクセを人間は持っているものです。
学校の先生が、「そういった家族観が正しいのだ」と考えるようになると、そうでない状態の子供を許容できなくなります。
すると、そうでない家庭の子に対して否定的な見方や対応をしていくことになります。それはその内、無自覚な行動になり差別的な対応を生むことにつながりかねません。
また逆に、それに適合する家庭の子供をえこひいきするといったことも起こりうるかもしれません。
なぜそんなことが言えるかというと、これまでさんざんそういうことが現にあったからです。
しかし、そういった統一的な価値観でものを判断するのではなく、当事者の立場になった考え方などが普及することにより、だんだんとそのような不適切な対応を克服してきたという経緯があります。
その間、何十年とかかって現場の心ある先生やそれを指導する立場の人たちの努力によって、本当に少しずつ改善されてきたのです。
そして、そのように統一的な価値観によって、それに合わない子を否定してしまうような教員が居ても、それをしてはよくないことという空気を作ってなんとか押さえられるようにしてきました。
しかし、今後、国のお墨付きを得て「これが正しいのだ!」ということを教えられるようになると、その空気は吹き飛んで、差別やえこひいきをする教員がその主張を強めていくことでしょう。
そもそも現代の「道徳」のあり方として、「これが正しい考え方です」という押しつけがそもそも間違った方向性です。
これからの「道徳」はとりもなおさず、「多様性の許容」である時代になっています。
「これが正しいものです」をしていくと、それはマジョリティにのみ都合のよいものとなっていきます。
「お父さんお母さんそしておじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らしているのが正しい家族のあり方です」なんてことを教えれば、それを教わった子供にとって「排除の論理」を生み出しかねません。
例えば母子家庭や児童養護施設の子供は、それを理由にいじめられたりするでしょう。
そのようになってしまえば、「道徳」がむしろ「いじめ」を助長するということです。
なんとも本末転倒ですが、それが現実のものとなるでしょう。
昨今ではよくLGBT(性的少数者)のことが話題になりますが、こういった人たちもその道徳が説くところの「正しい家族のあり方」の前には排除されることとなってしまうでしょう。
発達障がいなどがあって、他の子と同じように行動できない子も排除されることになるでしょう。
上のリンク先の記事の中でも
>小学1年生のある教科書では、申請段階では、物語に友達の家のパン屋を登場させていましたが、「国や郷土を愛する態度」などを学ぶという観点で不適切だと意見がつけられ、教科書会社は「パン屋」を「和菓子屋」に修正しました。
というところがありますが、これもよくよく考えると少しおかしいのです。
このごろ教育の現場などで「愛国心」を取りざたされることをよく見かけますが、
そもそも「道徳」と「日本を愛する心」はイコールでしょうか?
現在の小学校には、日本以外にルーツを持つ子供もたくさん通っています。
僕が直接知っているだけでも、ロシア、ブラジル、フィリピン、中国、韓国、台湾、メキシコ、アメリカ、イギリスなど、それらの国の子だったり、両親のどちらかがそのような外国の人というケースの子供も普通に小学校に通っています。
「日本って素晴らしい、日本人であることに誇りを持ちなさい」的なことを学校で子供に教えはじめたら、それ自体は悪いないようでなかったとしても、結果として「排除の論理」を生み外国にルーツを持つ子供たちはいじめられたり否定されかねません。
いまですら、外国の血が流れている子供の多くがいじめや嫌がらせにあった経験を持っているのに、学校がそれを助長するようなことになるでしょう。
国は一方で「グローバル化」を進めているのだから、道徳もそれにあった形で「多様性の許容」でなければならないはずなのに、矛盾した状態になっています。
本来の、人としての基本的な「道徳」には、「どのどこの国」は関係ないですよね。
どの国の人であれ、人としての道徳は共通するものがあり、それらこそ普遍的な道徳と考えられるものです。
ましてや、「”パン屋”をわざわざ”和菓子屋”に変える」なんていうのは、あまりに稚拙すぎるこだわりで恣意的な介入であることを隠す気もないかのようです。
でも、「道徳」=「日本を愛する心」にしたい人が、この道徳をめぐるところではロビー活動などを今に始まったことではなく何十年も前から暗躍していて、その人たちの主張がこうして現実のものとなってきてしまっています。
このまえの教育勅語の問題もそうですが、「道徳」=「日本を愛する心」にしたいのは、戦前の道徳の教科であった「修身」に通じる思想なのですね。
今、森友学園問題を契機として、ようやくそのことが一般の人にも見え隠れしはじめています。
しかし、マスメディアはこの問題を理解しているはずなのにきちんと伝えようとしていません。
それも不安をかき立てます。
この問題に興味がありましたらどうぞ↓
『特集ワイド「家庭教育支援法」成立目指す自民 「伝統的家族」なる幻想 家族の絆弱まり、家庭の教育力低下--!?』(毎日新聞)
『議事録から臭い立つ、「道徳」の教科化を目論む文科省のホンネ』(武田砂鉄)
『幼稚園は「能力」を育てる場所なのか 2018年度改訂「幼稚園教育要領」への疑問』(Newsweek ニュースの延長戦 武田砂鉄)
『道徳教科化 皇民化教育の再来を危ぶむ』(琉球新報)
これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態(現代ビジネス 木村草太)
『道徳教育の充実に関する懇談会』(文部科学省HP)
(↑委員の中には今話題の日本会議系の人もしっかり入っています)
今後の道徳教育の改善・充実方策について(報告) (↑の報告書)
「教科化」とはどういうことかというと、その習得度によって評価をしたり・点数をつける科目になることです。
それにともなって道徳の教科書も今度から国の検定を受ける必要がでてきました。
そのニュースがこちら↓
「道徳」教科書の初検定 8社すべてが一部修正し合格
はっきり言って、これにより日本の教育はまずい方向へ行くことでしょう。
そしてそれは教育だけに留まりません。
この問題は単に学校の教科の一部が変更になったというだけではなく、人々の「内面の自由」に国が介入することを制度化したことに他ならないからです。
極端な言い方をすれば、「はい、みなさん。これが正しい価値観ですよ。覚えましたか、テストに出ますからね。それ以外の答えを書いたら間違いですよ!」
というようなことになりかねません。
テスト云々は誇張にしても、実際にやっていることの本質はそれと変わりなくなります。
例えば、今後展開されるこの「道徳」の中で重視されるもののひとつが、「伝統的家族観」や「家族愛」なるものです。
「家族を大事にしましょう」「家族は互いに助け合いましょう」
こういったことを字面だけで読めばそれはいかにも「正論」に聞こえます。
しかし、これを価値観として押しつけていくのはとてもとても怖いことになります。
僕、ひとつ予言をします。たぶん、これは残念なことに当たるでしょう。
近い将来、5年遅くとも10年以内に、「学校の教師が、ひとり親家庭の子を、ひとり親家庭であることを理由に差別したり、いじめに荷担する」といった事件を目にすることになるでしょう。
おそらく複数件こういったケースを目にするようになってしまいます。
ある種の理想像をして、「これが正しい価値観ですよ」と言ったり、「これが正しい家族のあり方ですよ」と考えることは、結果的に「排除の論理」を生むことになります。
そうでない状態を「否定する」心理を人に持たせてしまうことを防げません。
正しいものをひとつに決めてしまうことを僕は「統一的価値観」と呼んでいますが、それを持ってしまうと、それ以外の状態を人は許容できなくなってしまう心のクセを人間は持っているものです。
学校の先生が、「そういった家族観が正しいのだ」と考えるようになると、そうでない状態の子供を許容できなくなります。
すると、そうでない家庭の子に対して否定的な見方や対応をしていくことになります。それはその内、無自覚な行動になり差別的な対応を生むことにつながりかねません。
また逆に、それに適合する家庭の子供をえこひいきするといったことも起こりうるかもしれません。
なぜそんなことが言えるかというと、これまでさんざんそういうことが現にあったからです。
しかし、そういった統一的な価値観でものを判断するのではなく、当事者の立場になった考え方などが普及することにより、だんだんとそのような不適切な対応を克服してきたという経緯があります。
その間、何十年とかかって現場の心ある先生やそれを指導する立場の人たちの努力によって、本当に少しずつ改善されてきたのです。
そして、そのように統一的な価値観によって、それに合わない子を否定してしまうような教員が居ても、それをしてはよくないことという空気を作ってなんとか押さえられるようにしてきました。
しかし、今後、国のお墨付きを得て「これが正しいのだ!」ということを教えられるようになると、その空気は吹き飛んで、差別やえこひいきをする教員がその主張を強めていくことでしょう。
そもそも現代の「道徳」のあり方として、「これが正しい考え方です」という押しつけがそもそも間違った方向性です。
これからの「道徳」はとりもなおさず、「多様性の許容」である時代になっています。
「これが正しいものです」をしていくと、それはマジョリティにのみ都合のよいものとなっていきます。
「お父さんお母さんそしておじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らしているのが正しい家族のあり方です」なんてことを教えれば、それを教わった子供にとって「排除の論理」を生み出しかねません。
例えば母子家庭や児童養護施設の子供は、それを理由にいじめられたりするでしょう。
そのようになってしまえば、「道徳」がむしろ「いじめ」を助長するということです。
なんとも本末転倒ですが、それが現実のものとなるでしょう。
昨今ではよくLGBT(性的少数者)のことが話題になりますが、こういった人たちもその道徳が説くところの「正しい家族のあり方」の前には排除されることとなってしまうでしょう。
発達障がいなどがあって、他の子と同じように行動できない子も排除されることになるでしょう。
上のリンク先の記事の中でも
>小学1年生のある教科書では、申請段階では、物語に友達の家のパン屋を登場させていましたが、「国や郷土を愛する態度」などを学ぶという観点で不適切だと意見がつけられ、教科書会社は「パン屋」を「和菓子屋」に修正しました。
というところがありますが、これもよくよく考えると少しおかしいのです。
このごろ教育の現場などで「愛国心」を取りざたされることをよく見かけますが、
そもそも「道徳」と「日本を愛する心」はイコールでしょうか?
現在の小学校には、日本以外にルーツを持つ子供もたくさん通っています。
僕が直接知っているだけでも、ロシア、ブラジル、フィリピン、中国、韓国、台湾、メキシコ、アメリカ、イギリスなど、それらの国の子だったり、両親のどちらかがそのような外国の人というケースの子供も普通に小学校に通っています。
「日本って素晴らしい、日本人であることに誇りを持ちなさい」的なことを学校で子供に教えはじめたら、それ自体は悪いないようでなかったとしても、結果として「排除の論理」を生み外国にルーツを持つ子供たちはいじめられたり否定されかねません。
いまですら、外国の血が流れている子供の多くがいじめや嫌がらせにあった経験を持っているのに、学校がそれを助長するようなことになるでしょう。
国は一方で「グローバル化」を進めているのだから、道徳もそれにあった形で「多様性の許容」でなければならないはずなのに、矛盾した状態になっています。
本来の、人としての基本的な「道徳」には、「どのどこの国」は関係ないですよね。
どの国の人であれ、人としての道徳は共通するものがあり、それらこそ普遍的な道徳と考えられるものです。
ましてや、「”パン屋”をわざわざ”和菓子屋”に変える」なんていうのは、あまりに稚拙すぎるこだわりで恣意的な介入であることを隠す気もないかのようです。
でも、「道徳」=「日本を愛する心」にしたい人が、この道徳をめぐるところではロビー活動などを今に始まったことではなく何十年も前から暗躍していて、その人たちの主張がこうして現実のものとなってきてしまっています。
このまえの教育勅語の問題もそうですが、「道徳」=「日本を愛する心」にしたいのは、戦前の道徳の教科であった「修身」に通じる思想なのですね。
今、森友学園問題を契機として、ようやくそのことが一般の人にも見え隠れしはじめています。
しかし、マスメディアはこの問題を理解しているはずなのにきちんと伝えようとしていません。
それも不安をかき立てます。
この問題に興味がありましたらどうぞ↓
『特集ワイド「家庭教育支援法」成立目指す自民 「伝統的家族」なる幻想 家族の絆弱まり、家庭の教育力低下--!?』(毎日新聞)
『議事録から臭い立つ、「道徳」の教科化を目論む文科省のホンネ』(武田砂鉄)
『幼稚園は「能力」を育てる場所なのか 2018年度改訂「幼稚園教育要領」への疑問』(Newsweek ニュースの延長戦 武田砂鉄)
『道徳教科化 皇民化教育の再来を危ぶむ』(琉球新報)
これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態(現代ビジネス 木村草太)
『道徳教育の充実に関する懇談会』(文部科学省HP)
(↑委員の中には今話題の日本会議系の人もしっかり入っています)
今後の道徳教育の改善・充実方策について(報告) (↑の報告書)
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