パンツが濡れることで排泄の自立が進むのか? - 2014.12.19 Fri
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現在更新中なのが、ワークショップ第一回の要約なのですが、現行のワークショップはすでに第四回まで進んでいます。
そのワークショップ第四回が「排泄の自立について」でした。
その中で、こんな質問が出ました。
「おしっこが漏れてしまったときに、パンツが濡れることで出たことを自覚し、それで排泄の自立が進むとよく言われますが、それはどうなのでしょう?」
このことは、世間一般では「常識」「当たり前」の知識として知られていることだと思います。
トレーニングパンツなんかは、これを前提として存在していると言っても過言ではないでしょう。
もはや誰しもが当然のこととして受け入れているこのことですが、僕はこれについてもろ手を挙げて賛成できかねます。
むしろ、眉唾ものではないかとすら思っています。
「紙おむつをしていると、出た水分が吸収されて子供は濡れたことを自分で気づかない。
しかし、布パンツやトレーニングパンツ、布おむつなどだと、子供もおしっこが出た際に濡れることを感知するので、それによって排泄を自覚し、そこからトイレでする方へと意識が向かう」
という考え方です。
しかし、これまで多くの子供を見てきた経験からすると、「本当にそうかな?」と思うのです。
確かに、そういうことがないわけではないでしょう。
また、おむつからパンツへの移行期において、そのようなジャーッと漏れてしまう経験をすることが、子供の意識をトイレですることへ向けることもあるのは確かです。
しかし、このことそのものが排泄の自立をお膳立てしてくれるような主要な経験になるとは考えにくいのです。
要素としてはあるにしても、それをしたからといって、ことさら排泄の自立が進むというわけではないと思います。
このことを仮に大人に置き換えて考えてみると、明らかにおかしい箇所が一点あることがわかります。
変な話ですが、大人がパンツのままおしっこを漏らしてしまった場合を考えてみて下さい。
もし、大人がそうなった場合、おしっこが出てしまったと知覚するのは、パンツが濡れてからではありません。
それがわかるのは、おしっこが尿道から出てしまった瞬間(排尿感)です。
もしくは、それに先だって「膀胱がいっぱいで漏れそう」という、相当に大きな感覚が続いているはずです。
大人でパンツが濡れたと感じるまで、おしっこが漏れていることに気がつかないというのは、尿意を知らせる神経がなんらかの原因で麻痺していたり、痴呆などが進んでいてさまざまな感覚の機能が不十分である場合などでなければあり得ません。
このことは多くの方が同意することでしょう。
では、ひるがえってもう一度、子供に濡れたことをわからせる経験を重ねることで排泄の自立を推し進める、という考え方を見てみましょう。
その子供が、すでにおしっこがどのくらい溜まっているか知覚する機能や、おしっこが出る感覚を自分でわかるところまで発達が進んでいるのでしたら、このことはそうそう問題はないでしょう。
ですが、この方法が想定しているのは、おしっこが溜まっている感覚や、実際に漏れてしまう瞬間の排尿感が持てていない子も含んでいます。
むしろ、その段階の子供をトイレですることへと向かわせることが目的になっています。
このようなまったくそれらがない子供に、濡れる経験をさせることでトイレへと駆り立てたところで、おしっこに関する知覚が育っていないのであれば、それは意味がないことなのです。
それどころか、おしっこに対しての知覚がないまま、子供が自覚せずに漠然と大人に言われるがままにトイレに行かされたりしていると、排泄についての過去記事で述べたような、溜める経験をすることでおしっこの知覚が進むということが不十分なまま年齢を重ねることになりかねません。
もし、そうなってしまうと、かえっておしっこの排泄の自立が遠のく可能性すらあります。
年齢が上がっても、昼間は大人に促されたり、時間や生活の節目でトイレへ行く習慣がついているために目に見える失敗がないだけで、おしっこが溜まっているという知覚や排尿する感覚は未発達で、夜間は小学生になってもおむつをしている、夜尿が続いている、といったことが起こりかねません。
睡眠中の排尿は子供自身の知覚にすべてが任されているからです。
大切なのは、「とりあえずトイレでおしっこをする」ということではなくて、子供が自覚的に排泄を感知し、自分からトイレへ行くということです。
「ほらほら、おしっこ漏れると大変でしょ。嫌なものでしょ、だったらもっとトイレへ行くことを意識しなさいよ」
というように、ただ濡らすことだけで排泄の自立を推し進めようとする、この「常識」「当たり前」に言われている方法は、かなり無理のあること。
本質を見誤ったことだと思うのです。
おそらくこれは、なにがなんでも早くにおむつを取らなければと考えていた、昔ながらの子育て観が生み出してしまった、誤った考え方なのではないかと僕は思います。
紙おむつ・紙パンツを使っていても、おしっこが溜まってきたという感覚や、おしっこが出てしまったという感覚は、なんの問題もなく感じることができることです。
濡れなければそれがわからないという状態は、まだまだその感覚の発達が不十分であるということを意味しています。
それはまだおむつからパンツへの移行に踏み切っていい段階ではありません。
にもかかわらず、大人がとにかくおむつを取らなければとトイレへ行くことを強いてしまうのは、子供の発達の見極めを早まってしまっているからでしょう。
大人がおむつを外すことに焦ってしまうと、往々にしてこのような、能力が未発達なままでの先取りに駆り立てられてしまいます。
排泄にかかわらず子供の成長は、見た目の結果だけを出せばいいのではなくて、それが本当に子供自身の力として獲得させることが大切です。
そのためには、大人の目に「できる」姿が見えていなくても、子供にじっくりと力を貯めさせる期間というものが必要なこともたくさんあるのです。
現在更新中なのが、ワークショップ第一回の要約なのですが、現行のワークショップはすでに第四回まで進んでいます。
そのワークショップ第四回が「排泄の自立について」でした。
その中で、こんな質問が出ました。
「おしっこが漏れてしまったときに、パンツが濡れることで出たことを自覚し、それで排泄の自立が進むとよく言われますが、それはどうなのでしょう?」
このことは、世間一般では「常識」「当たり前」の知識として知られていることだと思います。
トレーニングパンツなんかは、これを前提として存在していると言っても過言ではないでしょう。
もはや誰しもが当然のこととして受け入れているこのことですが、僕はこれについてもろ手を挙げて賛成できかねます。
むしろ、眉唾ものではないかとすら思っています。
「紙おむつをしていると、出た水分が吸収されて子供は濡れたことを自分で気づかない。
しかし、布パンツやトレーニングパンツ、布おむつなどだと、子供もおしっこが出た際に濡れることを感知するので、それによって排泄を自覚し、そこからトイレでする方へと意識が向かう」
という考え方です。
しかし、これまで多くの子供を見てきた経験からすると、「本当にそうかな?」と思うのです。
確かに、そういうことがないわけではないでしょう。
また、おむつからパンツへの移行期において、そのようなジャーッと漏れてしまう経験をすることが、子供の意識をトイレですることへ向けることもあるのは確かです。
しかし、このことそのものが排泄の自立をお膳立てしてくれるような主要な経験になるとは考えにくいのです。
要素としてはあるにしても、それをしたからといって、ことさら排泄の自立が進むというわけではないと思います。
このことを仮に大人に置き換えて考えてみると、明らかにおかしい箇所が一点あることがわかります。
変な話ですが、大人がパンツのままおしっこを漏らしてしまった場合を考えてみて下さい。
もし、大人がそうなった場合、おしっこが出てしまったと知覚するのは、パンツが濡れてからではありません。
それがわかるのは、おしっこが尿道から出てしまった瞬間(排尿感)です。
もしくは、それに先だって「膀胱がいっぱいで漏れそう」という、相当に大きな感覚が続いているはずです。
大人でパンツが濡れたと感じるまで、おしっこが漏れていることに気がつかないというのは、尿意を知らせる神経がなんらかの原因で麻痺していたり、痴呆などが進んでいてさまざまな感覚の機能が不十分である場合などでなければあり得ません。
このことは多くの方が同意することでしょう。
では、ひるがえってもう一度、子供に濡れたことをわからせる経験を重ねることで排泄の自立を推し進める、という考え方を見てみましょう。
その子供が、すでにおしっこがどのくらい溜まっているか知覚する機能や、おしっこが出る感覚を自分でわかるところまで発達が進んでいるのでしたら、このことはそうそう問題はないでしょう。
ですが、この方法が想定しているのは、おしっこが溜まっている感覚や、実際に漏れてしまう瞬間の排尿感が持てていない子も含んでいます。
むしろ、その段階の子供をトイレですることへと向かわせることが目的になっています。
このようなまったくそれらがない子供に、濡れる経験をさせることでトイレへと駆り立てたところで、おしっこに関する知覚が育っていないのであれば、それは意味がないことなのです。
それどころか、おしっこに対しての知覚がないまま、子供が自覚せずに漠然と大人に言われるがままにトイレに行かされたりしていると、排泄についての過去記事で述べたような、溜める経験をすることでおしっこの知覚が進むということが不十分なまま年齢を重ねることになりかねません。
もし、そうなってしまうと、かえっておしっこの排泄の自立が遠のく可能性すらあります。
年齢が上がっても、昼間は大人に促されたり、時間や生活の節目でトイレへ行く習慣がついているために目に見える失敗がないだけで、おしっこが溜まっているという知覚や排尿する感覚は未発達で、夜間は小学生になってもおむつをしている、夜尿が続いている、といったことが起こりかねません。
睡眠中の排尿は子供自身の知覚にすべてが任されているからです。
大切なのは、「とりあえずトイレでおしっこをする」ということではなくて、子供が自覚的に排泄を感知し、自分からトイレへ行くということです。
「ほらほら、おしっこ漏れると大変でしょ。嫌なものでしょ、だったらもっとトイレへ行くことを意識しなさいよ」
というように、ただ濡らすことだけで排泄の自立を推し進めようとする、この「常識」「当たり前」に言われている方法は、かなり無理のあること。
本質を見誤ったことだと思うのです。
おそらくこれは、なにがなんでも早くにおむつを取らなければと考えていた、昔ながらの子育て観が生み出してしまった、誤った考え方なのではないかと僕は思います。
紙おむつ・紙パンツを使っていても、おしっこが溜まってきたという感覚や、おしっこが出てしまったという感覚は、なんの問題もなく感じることができることです。
濡れなければそれがわからないという状態は、まだまだその感覚の発達が不十分であるということを意味しています。
それはまだおむつからパンツへの移行に踏み切っていい段階ではありません。
にもかかわらず、大人がとにかくおむつを取らなければとトイレへ行くことを強いてしまうのは、子供の発達の見極めを早まってしまっているからでしょう。
大人がおむつを外すことに焦ってしまうと、往々にしてこのような、能力が未発達なままでの先取りに駆り立てられてしまいます。
排泄にかかわらず子供の成長は、見た目の結果だけを出せばいいのではなくて、それが本当に子供自身の力として獲得させることが大切です。
そのためには、大人の目に「できる」姿が見えていなくても、子供にじっくりと力を貯めさせる期間というものが必要なこともたくさんあるのです。
| 2014-12-19 | 排泄の自立 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
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