子供の尊重の実践 vol.2 ”見えない”ことが最大の問題 - 2016.02.22 Mon
前回の続き。
保育の中でそのように、子供の背中に手を当てて誘導するといった行動を普段から多用している人を観察しているといろいろなことが見えてきます。
まず、その保育士がそのようにする対象の子供は、”その保育士が指示された行動に従えないだろうと考えている子”に対してしていることです。
例えば、”集団行動ができないと目されている子”にしています。
「この子はその行動が自分ではできない(やらない)、だからそれができるようにサポートしているのだ」
というわけですね。
たしかにそれは一見道理のようです。
しかし、実はここに大きな問題が隠れています。
この考え方は、「どうせこの子はできないのだ」とその子の能力を軽視した立場から子供を見下ろしているのです。
そこにはある種の決めつけがあります。
別の言葉で言うと、その保育者は「その子が”その行動をとれる”と信じていない」わけです。
もしかすると、人によっては「別に悪いことをしているわけでなし、そんなことは取るに足りない問題なのでは?」と感じるかもしれません。
しかし、よりよい保育を目指そうとしたとき、これはとても大きな問題をはらんでいます。
子供はバカではありません。
幼い子供だとしても、自分を信じて関わってくれる人と、信じていない人の違いはしっかりとわかっています。
自分のことを信じてくれない人に、子供は本当の信頼関係を寄せることはありません。
(その大人を好きさせることも、依存させたり、甘えさせることはできる。
しかし、それらは信頼関係とは別。実の親子であっても信頼関係がなくなる例があることを考えると、それが別に機能していることがわかるでしょうか)
その人に本当の信頼関係を持つことはないということは、つまり、自主的に喜んでその人の指示に従ったり、話をきちんと聞こうとすることはなくなります。
さきほど、
”その保育士が指示された行動に従えないだろうと考えている子”
”集団行動ができないと目されている子”
と、やや持って回った表現をしているのは、
その子にその行動を取る能力が欠けているわけではなく、その保育者が適切な信頼関係を築いていないために、”その人の指示に従えない状態に追い込まれている”可能性があるからです。
(一見幼いその子だが、その子のことを注意してばかり、叱ってばかりのA保育士の言うことは聞かないが、その子をかわいがってくれるB保育士の場合は聞く、といったケースはそれに該当する)
最初に上げた例で言えば、
「この子はどうせこの行動を取れないだろう」と保育者が、ある種の決めつけをする。
↓
背中に手を当てて誘導、腕をひっぱる、リフトをして動かす などの対応
↓
その子はその保育者が自分を信じてくれていないことを、日々の生活の中で慢性的に感じる
↓
信頼関係の低下
↓
より指示に従わない
↓
保育者は「この子はやっぱり行動のできない子だ」とさらに決めつけを強める
このサイクルが悪循環となってしまいます。
場合により、その子が行動に従えないという問題の発端は保育者の側にあったのかもしれないのです。
「その大人が自分のことを信頼してくれないから、自分も信頼で返さない」と子供が無意識に行動している
もし、この状況に子供を追い込んでしまったのだとしたら、その責任は保育者の側にあるのです。
にもかかわらず、保育者の側からはその問題は見えません。
その保育士からすると、問題の原因は「行動に従えないその子」にあるように見えてしまうのです。
人によっては、それがこうじてその子に冷たく対応したり、「悪い子」認定をしたり、疎外を使ってあたたかみのない保育をしていってしまうケースもあります。(「親があまいからだ」、「家庭のしつけがなっていないからだ」などの責任転嫁の思考をとるケースも見られます)
「背中に手を当てて誘導する」といったことは一見些細な問題に見えます。
これが、言うことを聞かない子の腕を怖い顔で乱暴に引っ張って、心を傷つけるような暴言をその子についているというのであれば、その対応が子供への尊重を損なっているという問題は多くの人にはっきりと見て取れます。
それに比べると、手を当てるだけというのは少しも問題にはみえないことでしょう。しかも、やっている人にももちろん悪意などなく、「よかれ」と思ってやっています。
しかし、ここが「子供の尊重」のとても大きな問題なのです。
つまり、しっかりとした意識があって問題を認識する視点を持っていないと、”目に見えない”ことがです。
子供の尊重を損なう対応は、優しくやろうとも、問題が目に見える形で強くやろうとも、極端なことを言ってしまえば同じだけのウエイトを持っているのです。
しかし、現実には「”優しい”子供の尊重を損なう行為」が保育の中で少なくありません。
この問題は、保育士ひとりひとりが”子供の尊重”についての正しい理解を持ち、意識を持って保育に臨んでいかなければなくなっていくことはないでしょう。
どれほど具体的な関わり方の保育のマニュアルを作ったところで、子供を見る保育士の意識、心の持ちようにまで響かせることはできません。
僕は、子供の尊重を損なわないよう、子供の姿を見るとき「過渡期として考える」ということをお伝えしています。
それについては次回。
保育の中でそのように、子供の背中に手を当てて誘導するといった行動を普段から多用している人を観察しているといろいろなことが見えてきます。
まず、その保育士がそのようにする対象の子供は、”その保育士が指示された行動に従えないだろうと考えている子”に対してしていることです。
例えば、”集団行動ができないと目されている子”にしています。
「この子はその行動が自分ではできない(やらない)、だからそれができるようにサポートしているのだ」
というわけですね。
たしかにそれは一見道理のようです。
しかし、実はここに大きな問題が隠れています。
この考え方は、「どうせこの子はできないのだ」とその子の能力を軽視した立場から子供を見下ろしているのです。
そこにはある種の決めつけがあります。
別の言葉で言うと、その保育者は「その子が”その行動をとれる”と信じていない」わけです。
もしかすると、人によっては「別に悪いことをしているわけでなし、そんなことは取るに足りない問題なのでは?」と感じるかもしれません。
しかし、よりよい保育を目指そうとしたとき、これはとても大きな問題をはらんでいます。
子供はバカではありません。
幼い子供だとしても、自分を信じて関わってくれる人と、信じていない人の違いはしっかりとわかっています。
自分のことを信じてくれない人に、子供は本当の信頼関係を寄せることはありません。
(その大人を好きさせることも、依存させたり、甘えさせることはできる。
しかし、それらは信頼関係とは別。実の親子であっても信頼関係がなくなる例があることを考えると、それが別に機能していることがわかるでしょうか)
その人に本当の信頼関係を持つことはないということは、つまり、自主的に喜んでその人の指示に従ったり、話をきちんと聞こうとすることはなくなります。
さきほど、
”その保育士が指示された行動に従えないだろうと考えている子”
”集団行動ができないと目されている子”
と、やや持って回った表現をしているのは、
その子にその行動を取る能力が欠けているわけではなく、その保育者が適切な信頼関係を築いていないために、”その人の指示に従えない状態に追い込まれている”可能性があるからです。
(一見幼いその子だが、その子のことを注意してばかり、叱ってばかりのA保育士の言うことは聞かないが、その子をかわいがってくれるB保育士の場合は聞く、といったケースはそれに該当する)
最初に上げた例で言えば、
「この子はどうせこの行動を取れないだろう」と保育者が、ある種の決めつけをする。
↓
背中に手を当てて誘導、腕をひっぱる、リフトをして動かす などの対応
↓
その子はその保育者が自分を信じてくれていないことを、日々の生活の中で慢性的に感じる
↓
信頼関係の低下
↓
より指示に従わない
↓
保育者は「この子はやっぱり行動のできない子だ」とさらに決めつけを強める
このサイクルが悪循環となってしまいます。
場合により、その子が行動に従えないという問題の発端は保育者の側にあったのかもしれないのです。
「その大人が自分のことを信頼してくれないから、自分も信頼で返さない」と子供が無意識に行動している
もし、この状況に子供を追い込んでしまったのだとしたら、その責任は保育者の側にあるのです。
にもかかわらず、保育者の側からはその問題は見えません。
その保育士からすると、問題の原因は「行動に従えないその子」にあるように見えてしまうのです。
人によっては、それがこうじてその子に冷たく対応したり、「悪い子」認定をしたり、疎外を使ってあたたかみのない保育をしていってしまうケースもあります。(「親があまいからだ」、「家庭のしつけがなっていないからだ」などの責任転嫁の思考をとるケースも見られます)
「背中に手を当てて誘導する」といったことは一見些細な問題に見えます。
これが、言うことを聞かない子の腕を怖い顔で乱暴に引っ張って、心を傷つけるような暴言をその子についているというのであれば、その対応が子供への尊重を損なっているという問題は多くの人にはっきりと見て取れます。
それに比べると、手を当てるだけというのは少しも問題にはみえないことでしょう。しかも、やっている人にももちろん悪意などなく、「よかれ」と思ってやっています。
しかし、ここが「子供の尊重」のとても大きな問題なのです。
つまり、しっかりとした意識があって問題を認識する視点を持っていないと、”目に見えない”ことがです。
子供の尊重を損なう対応は、優しくやろうとも、問題が目に見える形で強くやろうとも、極端なことを言ってしまえば同じだけのウエイトを持っているのです。
しかし、現実には「”優しい”子供の尊重を損なう行為」が保育の中で少なくありません。
この問題は、保育士ひとりひとりが”子供の尊重”についての正しい理解を持ち、意識を持って保育に臨んでいかなければなくなっていくことはないでしょう。
どれほど具体的な関わり方の保育のマニュアルを作ったところで、子供を見る保育士の意識、心の持ちようにまで響かせることはできません。
僕は、子供の尊重を損なわないよう、子供の姿を見るとき「過渡期として考える」ということをお伝えしています。
それについては次回。
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