それは「しつけ」ではなく「モラハラ」と言います vol.2 - 2016.03.20 Sun
こういった関わり、人の心の動きについてもう少し見ていきましょう。
人には、「秩序」や「正しいこと」を重んじたいという気持ちがあります。
ただ、これは人によって程度はさまざまです。
本当に些細なことなのに、「きまり」と名がつけば”守らずにはいられない人”、また、”守らせずにはいられない人”から、ゆるやかにある一定の範囲に収まっていればさして気にしないという人まで。
この「きまり」を重んじるという性格が強いことを「厳格な」と表現します。
アメリカ映画を見ていると、しばしば厳格な人に対して「ハイスクールの校長みたいだな」などと揶揄するシーンがありますね。
こういうのも人によりけり、程度によりけりです。
全面的に厳格な人もいれば、ある部分に関してはつい厳しくなって感情的になってしまうといった人もいます。
なかには、「自分には甘いが他者には厳しい」といった人もいますね。
細かく見るといろいろですが、子育てのこういった問題には「厳格さ」とは関係ないケースもありますので、これはまあいいでしょう。
ポイントは、次の段階とその次の段階にあります。
厳格な性格が強まれば強まるほど、それに適合していない状態(例えば、子供が「しつけ」を守れなかったり、社会的な規範からはみ出すような姿)に「不快」を感じるようになります。
人間の心というのは、「不快」を回避して「快」を求めようとする性質がありますから、子供のそういった姿に対して「理屈」ではなく「感情」で対峙していくようになりがちです。
(「モラハラ」になる人には、「社会的な規範に対する厳格さ」よりも、「自身の価値観からはみ出すことに対する不快」、こちらの傾向が強いかもしれません)
この「不快を回避しよう」「快を求めよう」というのは、意識してなされるわけではなく、心が無意識にしていくことです。
この部分がこうじていくと、「しつけをする」「きまりを守らせる」といったことが単なる理由付けに過ぎなくなってしまう場合もあります。
中にはこんな人もいます。
子供に、敢えて守れそうにない決まりを課したり、失敗するようなことをやらせて、その落ち度を責めるケースです。
人の失敗を責め立て、「自分が優位に立っていることを確認する」ことは、人間にとって「快」を感じさせる行為になりえるのです。
児童虐待事件の内容を見ていくと、暴力的な関わり以外にも、多くのケースでこういった関わりが見られます。
これは精神的な虐待なのですね。
昨年は、客が落ち度をあげつらって、店員に「土下座」を強要する事件がたくさんありましたね。
これも、同様の心理的「快」を求める人の心の動きが、かたちとなって出ているものだと思います。
いま、虐待事件の中で見られるといいましたが、このような対応は世間の家庭・家族の中でもしばしば見られる行為です。
こういったことが、「しつけ」や「教育」という建前のもと行われ得るということです。
それらの多くは意識してやっているわけではなく、無意識の心理作用として行われるので、それをしている人にそういった自覚がないことがほとんどです。
(なかには、「子供を泣かせるのが楽しい」などと公言して、そのような被虐的な関わりを意図的にしているといった人もいますが)
このような心の動きが、「子供を支配してしまう関わり」や「モラハラ」を繰り返してしまう人間の心の背景にはあります。
「他者の気持ちを感じ取る能力」
人間は自分を基準に、「だいたいどの人も自分と同じような能力や感覚をもっているのだろう」と考えがちですが、「他者の気持ちを感じ取る能力」というのは、人によりとても大きな差があるものです。
これは目に見えないだけにわかりにくくもあります。
このケースで考えれば、「子供が大事にしているものを使えなくなるように破壊する」という行為をした場合、”「その子がどのように感じるか」ということを感じ取る能力”に差があるということです。
人によっては、「そのようなことをしたら子供は自分のことを信頼しなくなるだろう」「激しく悲しむだろう」「自分を恨むだろう」などと予測して、あらかじめそういう対応をしない人もいます。または、そう考えついて、すんでのところでその関わりを止める人もいます。
中には、感情が激高してしまい、ゲーム機を壊してしまったが、そのあとで激しく後悔して「やりすぎてしまった」と感じられる人もいます。
また中には、その子供の感じる感情にはまったく気づかずに、激しく泣いている姿を「反省しているのだ」と自分なりに都合のよいように解釈してしまう人もいます。
相手の感情に気づくことができれば、自身の関わり方にブレーキをかけることもできますが、他者の感情を汲み取りにくい人にとって、それは難しいことになります。
子供に支配的に関わっていく人には、この他者の感情を理解したり、共感を感じることができにくいという傾向があります。
今回のこのケースでは、その後ネットで公開しているということから、おそらく子供を傷つける行為であることに気がついていないのではないかと推測されます。
また、そこからこの母親のもうひとつの心理状態も見えてきます。
それは、「自分はこんなにも”よい”(←その人が考えるところの)関わりができるだ」と表し、それを認めてもらいたい、賞賛してもらいたいという「承認欲求」の強さです。
親から抑圧や支配の多い関わりをされて育つというのは、親に「認めてもらえているだろうか」「承認されているだろうか」と絶えず顔色をうかがいながら育つということです。
親に「うん」とうなずかれなければ、自身の居場所を獲得できないという”育ち”です。
そのため、自身で自分の存在を肯定できにくい(自己肯定感が低い)ので、年齢が上がっても他者からの「承認」を強く欲します。
そういった面からも、母親自身が、いま現在子供にしているような方向性の子育てをされてきてしまったのではないかと感じられるのです。
こういった傾向は、ときに英才教育やステージママに育てられた人に見られる傾向でもあります。
「家庭でくつろげない子供」
さて、もうひとつ問題点が見えます。
このケースがそれに該当するかどうかを僕は判断することはできませんが、類似のケースを見ている経験から感じる点です。
この子がゲームに没頭し、ルールを守らなかった原因の根本はその母親の関わり方自体にあるのではないかということです。
この母親は、これまでにも慢性的に子供に対して支配的・抑圧的な関わり、感情的な対応をしていると考えられます。(なぜなら、これまでそういったことをせず今回この対応がはじめてだというのならば、上記に述べたような「後悔」の気持ちがでるので、自慢げにネットにアップするといった心境にはなれないだろうからです)
そのように抑圧的な家庭であると、子供はくつろいで過ごすことができないので、現実から逃避したくなります。
年齢がある程度いっていて自由が確保されていれば家庭外に逃げ出すということもできますが(東大三兄弟の家庭は年齢が高くてもその自由があったように感じられませんが)、現代の子供にとってはゲームは格好の逃避場所です。
ゲームそれ自体楽しいものですから、たくさんやっていたいと思うのは自然なことですが、さらには現実に帰りたくない理由があるならば、それはなおさら没頭してしまうことでしょう。
つまり、家庭における親からの支配と抑圧が、ゲームの時間を守ることができないという事情・心理状態を作り出し、それを理由として(この場合はゲーム機を壊すという)さらに支配と抑圧の行為を積み重ねているのです。
これでは子供はさらに追い詰められてしまいかねません。
子供は柔軟ですから、どこかでバランスがとれてそれでもまっすぐ育っていけることもあります。
そういった事例もたくさん見てきました。
こういった子育てにおける問題というのは、「子育てのやり方の問題」というよりも、「親自身の性向や性格・生育歴由来の問題」が根本の原因になっている側面があります。
保育士としてこういったケースに関わってきた経験がありますが、保育士という立場ではそういった親の抱える問題にまで踏み込むことは困難でした。
「自分にはなにか問題があるのではないか」と自身で気づいている人にであれば、なんらかのアプローチをすることはできるのですが、子供に対して強烈な支配を目指すようなひとは自己否定になることや、他者の意見を汲み取ることに対して強い拒否反応を示す人も少なくないので、保育園でできるだけのことを子供にして、あとは「どこかでバランスがとれますように」と祈るばかりといったことも少なくありません。
次回、そんな事例も見ながらもう少しこの問題を考えていきたいと思います。
人には、「秩序」や「正しいこと」を重んじたいという気持ちがあります。
ただ、これは人によって程度はさまざまです。
本当に些細なことなのに、「きまり」と名がつけば”守らずにはいられない人”、また、”守らせずにはいられない人”から、ゆるやかにある一定の範囲に収まっていればさして気にしないという人まで。
この「きまり」を重んじるという性格が強いことを「厳格な」と表現します。
アメリカ映画を見ていると、しばしば厳格な人に対して「ハイスクールの校長みたいだな」などと揶揄するシーンがありますね。
こういうのも人によりけり、程度によりけりです。
全面的に厳格な人もいれば、ある部分に関してはつい厳しくなって感情的になってしまうといった人もいます。
なかには、「自分には甘いが他者には厳しい」といった人もいますね。
細かく見るといろいろですが、子育てのこういった問題には「厳格さ」とは関係ないケースもありますので、これはまあいいでしょう。
ポイントは、次の段階とその次の段階にあります。
厳格な性格が強まれば強まるほど、それに適合していない状態(例えば、子供が「しつけ」を守れなかったり、社会的な規範からはみ出すような姿)に「不快」を感じるようになります。
人間の心というのは、「不快」を回避して「快」を求めようとする性質がありますから、子供のそういった姿に対して「理屈」ではなく「感情」で対峙していくようになりがちです。
(「モラハラ」になる人には、「社会的な規範に対する厳格さ」よりも、「自身の価値観からはみ出すことに対する不快」、こちらの傾向が強いかもしれません)
この「不快を回避しよう」「快を求めよう」というのは、意識してなされるわけではなく、心が無意識にしていくことです。
この部分がこうじていくと、「しつけをする」「きまりを守らせる」といったことが単なる理由付けに過ぎなくなってしまう場合もあります。
中にはこんな人もいます。
子供に、敢えて守れそうにない決まりを課したり、失敗するようなことをやらせて、その落ち度を責めるケースです。
人の失敗を責め立て、「自分が優位に立っていることを確認する」ことは、人間にとって「快」を感じさせる行為になりえるのです。
児童虐待事件の内容を見ていくと、暴力的な関わり以外にも、多くのケースでこういった関わりが見られます。
これは精神的な虐待なのですね。
昨年は、客が落ち度をあげつらって、店員に「土下座」を強要する事件がたくさんありましたね。
これも、同様の心理的「快」を求める人の心の動きが、かたちとなって出ているものだと思います。
いま、虐待事件の中で見られるといいましたが、このような対応は世間の家庭・家族の中でもしばしば見られる行為です。
こういったことが、「しつけ」や「教育」という建前のもと行われ得るということです。
それらの多くは意識してやっているわけではなく、無意識の心理作用として行われるので、それをしている人にそういった自覚がないことがほとんどです。
(なかには、「子供を泣かせるのが楽しい」などと公言して、そのような被虐的な関わりを意図的にしているといった人もいますが)
このような心の動きが、「子供を支配してしまう関わり」や「モラハラ」を繰り返してしまう人間の心の背景にはあります。
「他者の気持ちを感じ取る能力」
人間は自分を基準に、「だいたいどの人も自分と同じような能力や感覚をもっているのだろう」と考えがちですが、「他者の気持ちを感じ取る能力」というのは、人によりとても大きな差があるものです。
これは目に見えないだけにわかりにくくもあります。
このケースで考えれば、「子供が大事にしているものを使えなくなるように破壊する」という行為をした場合、”「その子がどのように感じるか」ということを感じ取る能力”に差があるということです。
人によっては、「そのようなことをしたら子供は自分のことを信頼しなくなるだろう」「激しく悲しむだろう」「自分を恨むだろう」などと予測して、あらかじめそういう対応をしない人もいます。または、そう考えついて、すんでのところでその関わりを止める人もいます。
中には、感情が激高してしまい、ゲーム機を壊してしまったが、そのあとで激しく後悔して「やりすぎてしまった」と感じられる人もいます。
また中には、その子供の感じる感情にはまったく気づかずに、激しく泣いている姿を「反省しているのだ」と自分なりに都合のよいように解釈してしまう人もいます。
相手の感情に気づくことができれば、自身の関わり方にブレーキをかけることもできますが、他者の感情を汲み取りにくい人にとって、それは難しいことになります。
子供に支配的に関わっていく人には、この他者の感情を理解したり、共感を感じることができにくいという傾向があります。
今回のこのケースでは、その後ネットで公開しているということから、おそらく子供を傷つける行為であることに気がついていないのではないかと推測されます。
また、そこからこの母親のもうひとつの心理状態も見えてきます。
それは、「自分はこんなにも”よい”(←その人が考えるところの)関わりができるだ」と表し、それを認めてもらいたい、賞賛してもらいたいという「承認欲求」の強さです。
親から抑圧や支配の多い関わりをされて育つというのは、親に「認めてもらえているだろうか」「承認されているだろうか」と絶えず顔色をうかがいながら育つということです。
親に「うん」とうなずかれなければ、自身の居場所を獲得できないという”育ち”です。
そのため、自身で自分の存在を肯定できにくい(自己肯定感が低い)ので、年齢が上がっても他者からの「承認」を強く欲します。
そういった面からも、母親自身が、いま現在子供にしているような方向性の子育てをされてきてしまったのではないかと感じられるのです。
こういった傾向は、ときに英才教育やステージママに育てられた人に見られる傾向でもあります。
「家庭でくつろげない子供」
さて、もうひとつ問題点が見えます。
このケースがそれに該当するかどうかを僕は判断することはできませんが、類似のケースを見ている経験から感じる点です。
この子がゲームに没頭し、ルールを守らなかった原因の根本はその母親の関わり方自体にあるのではないかということです。
この母親は、これまでにも慢性的に子供に対して支配的・抑圧的な関わり、感情的な対応をしていると考えられます。(なぜなら、これまでそういったことをせず今回この対応がはじめてだというのならば、上記に述べたような「後悔」の気持ちがでるので、自慢げにネットにアップするといった心境にはなれないだろうからです)
そのように抑圧的な家庭であると、子供はくつろいで過ごすことができないので、現実から逃避したくなります。
年齢がある程度いっていて自由が確保されていれば家庭外に逃げ出すということもできますが(東大三兄弟の家庭は年齢が高くてもその自由があったように感じられませんが)、現代の子供にとってはゲームは格好の逃避場所です。
ゲームそれ自体楽しいものですから、たくさんやっていたいと思うのは自然なことですが、さらには現実に帰りたくない理由があるならば、それはなおさら没頭してしまうことでしょう。
つまり、家庭における親からの支配と抑圧が、ゲームの時間を守ることができないという事情・心理状態を作り出し、それを理由として(この場合はゲーム機を壊すという)さらに支配と抑圧の行為を積み重ねているのです。
これでは子供はさらに追い詰められてしまいかねません。
子供は柔軟ですから、どこかでバランスがとれてそれでもまっすぐ育っていけることもあります。
そういった事例もたくさん見てきました。
こういった子育てにおける問題というのは、「子育てのやり方の問題」というよりも、「親自身の性向や性格・生育歴由来の問題」が根本の原因になっている側面があります。
保育士としてこういったケースに関わってきた経験がありますが、保育士という立場ではそういった親の抱える問題にまで踏み込むことは困難でした。
「自分にはなにか問題があるのではないか」と自身で気づいている人にであれば、なんらかのアプローチをすることはできるのですが、子供に対して強烈な支配を目指すようなひとは自己否定になることや、他者の意見を汲み取ることに対して強い拒否反応を示す人も少なくないので、保育園でできるだけのことを子供にして、あとは「どこかでバランスがとれますように」と祈るばかりといったことも少なくありません。
次回、そんな事例も見ながらもう少しこの問題を考えていきたいと思います。
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