このブログをはじめたときの一番最初の記事の内容は、「子供の二の腕をつかんで誘導すること」について触れていました。
これも実は「子供を支配しなくてもいいんですよ」ということを伝える趣旨の記事です。
「子育てとは子供の”支配”ではない」ということを世の人に伝えていくことが、たぶん僕がやっていくべき”仕事”なのだと思っています。
「子供を支配することが子育てなんだ」と考えて(もしくは先入観で無意識に)子育てをしてしまうレールに多くの人は乗っています。それでうまくいってしまう人もいますが、うまくいかない現実があるのを知っているので、できるだけ早い段階で別のレールがあることを伝える仕事です。
難しい言葉で言うと「子育てのパラダイム転換」を目指しています。
なぜそれが僕の仕事なのか?
それは、僕も「子供を支配することが子育てだ」と先入観で思っていた人間だからです。そしてまた同時に、子供時代その弊害を被った人間でもあるからです。
ただ、僕は本当に偶然が積み重なって保育士になり、そこで子供を育てることを実際にたくさん経験することができました。
しかし、その中でやはり「支配」の関わりで子供の「正しい姿」を作り出そうとしていました。
周りの先輩保育士たちも、多かれ少なかれ「支配」もしくは「管理」(おだてたりすかしたり、子供だましをしたりのテクニック的な関わり。コントロール)をすることで子供に関わっていました。
一部のもともとのその人の性格や気質、自然に体得された柔らか(受容的)な子供への関わり方を持っている人だけが、「支配」にならずとも子供と関わることができていましたが、それらはその人たち自身「論理」として確立してやっているというよりも、ほぼその人の「センス」でできてしまっていることなので、「これこれこうやればいいんですよ」と人に伝えられる形で理解している人はおりませんでした。
そういうわけで僕も保育を頑張ろうと思うと、”「支配」の強化”になっていました。
しかし、それをするとものすごいのです、”ストレス”が。
保育の仕事が楽しいものではありませんでした。
後から考えると、僕自身が「弱い人間」だったことが幸いしたようです。
自分なりに頑張るのだけど、子供の「支配」を徹底することができませんでした。
もし僕が「強い人間」で子供の「支配」がうまく、それで子供を動かすことができてしまっていたら、いまも同じように関わっていたかもしれません。実際、そのままベテランになっていく人も少なくありません。
そのため、「支配」を頑張ることに限界を感じます。
それが保育士になって4~5年目だったでしょうか。
一種のスランプにおちいっていました。
その後、僕がこちらの記事
『保育が福祉なのだと感じた瞬間』の中でも出てくるA保育士と組ませてもらったことで悟るものがありました。
このA保育士は、子供に関わる人がよくやるような作り笑いをすることもなく、端から見ているとぶっきらぼうと呼べるような関わり方をしています。子供のご機嫌を取ろうとも、歓心を買おうともしません。
ここまでだったらただの冷たい保育士です。
そういう冷たい保育士も中にはいます。しかし、このA保育士は違うのです。
子供がきちんと信頼感を持っているのですね。
ただの冷たい保育士ならば、子供はその保育士にさしたる信頼感を持ちません。そういった保育士も見てきたので、その違いはわかります。
作り笑いも、ご機嫌取りもしないけれども、もっと深いところで受け止めているのですね。子供にはそれがわかっています。
逆に、いくら子供のご機嫌とりをしても子供を心から受け止められない人も子供はわかりますから、そういう保育士にはあまり深い信頼感は持たないものです。
このA保育士にはその信頼関係がしっかりとあるから、ご機嫌取りやテクニックで子供をコントロールしなくても、子供が自然についてくるのでした。
また、それがあるために「嘘」がいらなかったのです。
好ましくないことにはきっぱりとNOと言うことができ、作り笑いもする必要がないのですね。
ただ、この人も「理論」としてしていたわけではなく、自身の体得したものとしてできているわけだったので、それを形として人に伝えられるわけではなく場合によっては誤解されてしまうのでした。
この同時期、僕は「個々の尊重」や「子供の人権」などについて学ぶようになるのですが、まだそれがそういった保育の実際のあり方や、「受容」や「信頼関係」などの気づきとつながっていませんでした。
ただ、このときに子供を「”できる子”にしなければならない」といった気負いから肩の力が抜けたようです。
つづく