「しつけ」が危険 - 2016.06.05 Sun
北海道の置き去り事件で無事男の子が保護されましたね。
どうなるかと心配しておりましたが、本当に無事でよかったです。
この件を機に、にわかに「しつけ」についての関心が高まっておりますので、僕も必要と思うところを述べておきたいと思います。
(「自立」についての記事のつづきは、日をあらためて)
「しつけ」という言葉は、子供関連の専門家や教育学者なども現代でもさかんに使っています。
しかし、僕は「しつけ」という考え方で子育てにのぞんしまうことは危険なことだと、これまで一貫して述べています。(「しつけ」でブログ内検索していただければたくさん出てきます)
そして、「しつけ」という概念に依らなくても、「子育て」ができる方法を提示し続けてきました。
現代は、もはや多くの人が考えている「しつけ」では子育てがうまくいかない時代に入っています。にもかかわらず、「しつけ」による子育てしか知らないことで多くの弊害が生まれています。
今回のように、結果としての「虐待」までいかなくとも、「子育て」=「しつけ」と思って子育てをしてきたことで子育てそのものが大変になり、子供を可愛く思えない、許容的にみれないといった状態になってしまうことも少なくありません。
今回は、あらためて「しつけ」で考える子育てが持っている問題を明らかに示していきたいと思います。
1.現在では「しつけ」は、「用法用量を正しくお使いください。さもないと子供を死に至らしめることがあります」という”劇薬”です。
現代において、「しつけ」という考え方はとても危険なのです。
すでに、個々の家庭の子育ては、大きな家族や地域などとは切り離され孤立した状況で行われています。
その「しつけ」が不適切なものであった場合。他者との関わりのある状況であれば、だれかがセーブしてくれたり、補ってくれることで大きな問題にならないこともケースによっては考えられますが、現状それは難しいのです。
現在は、子育てが孤立化しており、他者の目にとまりにくくなっています。また、個人主義的な考え方が進んでいて、人の子育てに他者が介入することがしづらくなっています。
子育てがさして問題なくおくれる人であれば、「しつけ」という考え方によって子育てを行っても大きな問題にはなりません。
しかし、そのような人ばかりではないのです。また、子育てや子供への関わり方がわからない人は今後さらに増えていきます。
つまり、いままでは”用法用量”が自然任せでも守られていたとしても、それはたまたまでしかないのです。
”用法用量”がわからない人にとっては、「虐待」ですら「しつけ」になるのです。
2.同時に「しつけ」は「子供を殺してしまっても許される”免罪符”」になっています。
現在の日本では、いきすぎたしつけによって子供に大きなダメージを与えたり、最悪殺してしまっても「事故」で済む”理由”となっています。
「いきすぎた”しつけ”」と「正しい”しつけ”」の間の境界線は見えるでしょうか?
残念ながら、それはあいまいです。
特に、「いきすぎた”しつけ”」をする人ほど、それは見えないのです。
3.「しつけ」は、「目標だけが与えられて手段を明示していないプロパガンダ」になっています。
「しつけ」とは、「子供をあるべき正しい状態にしなさい」と”親”に対して要求していく”強迫観念”になっています。
「しつけ」は「子供はこうあるべき」という「目標」だけは強く示しますが、その一方で「無理なくその子をその正しい姿にするためにはこうすればいいですよ」という方法は何一つ説明していません。
その方法を示す代わり「しつけ」が強調して訴えかけてくるのは、その親に対して「子供の正しい姿が出ていないのは”親であるあなたのせいです”」というプレッシャーです。
そして、その親の横に無言で”劇薬”をおいていくのです。
4.「しつけ」が伝える子育てのメソッドはひとつしかない、それは「支配をつよめること」。
「しつけ」は前提として、「子供は親に従順であること」を暗に要求しています。
(この点が昔の価値観を持つ人には特に重要になっています。逆にそういう志向があるので、子供の「個性」や「人権」「尊重」といった概念がそれをおびやかすものとしてその人たちの目に映ります。そのため、そのような人たちはしばしば「個性」や「人権」「尊重」という言葉に大変攻撃的です。日本の政治家たちが『子供の権利条約』への批准を渋り続けたのもこの辺りの考え方が影響しています)
「親に従順でない状態」は「しつけ」の概念による子育てでは、”あってはならないこと”です。
ですから、それに直面すると親は子供に対しての支配の強化・しめつけをしなければならなくなります。
その方法はさまざまで、怒ったり叱ったりすること、叩くこと、疎外すること、置き去りにすること、言葉でののしること、言葉ではずかしめること、脅すこと、
子供のモノを壊すこと、子供のしたいことを否定・邪魔すること、などなど。
この考え方・先入観は子育てを不健全にしてしまいます。
さらには「虐待」も招きます。
例えば、子供の自我の発達を否定することや、子供の自主性・主体性を奪うことなど。
(このためかつての「第一次反抗期」という言葉は、”反抗するならそれは押しつぶさなければ”と考えてしまう人がいるので言葉自体を見直さなければなりませんでした)
現在の子育てが迷走した結果なりやすい「親がいいなりになること」や「ごまかし」「モノで釣ること」などのさまざまなコントロールの手段は、”支配を強めることはしたくないのだけどどうすればいいかわからない”という気持ちが生んだ、”支配の子育てメソッド”の亜種といえます。
5.「しつけ」は常に耳元でささやく
「しつけ」の考え方によって、親は「子供を正しい姿にしなければならない」という”先入観”、さらにはそれが強まった”強迫観念”のもと子供を「正しい姿」にするべく、子供へのアプローチをします。
そのとき、「しつけ」は常に次のことを親に要求していきます。
・”今すぐ”
「(しつけで考えるところの)正しい子供の姿」を「今すぐ!」作り出しなさい。
そのように考えてしまうので、親は子供の行動に寛容になれません。また、子供の心身の成長発達や、時間の経過による成長を考えてあげること、待ってあげることができなくなります。
その結果、子育ては「過干渉」になるべくしてなります。
また、「先取り」で考えてしまうようになります。(「正しい姿」が遅く出ることは好ましくないので、「早くに」それを獲得させようとするため)
それはしばしば、子供の「発達段階」を無視した理不尽な要求となって、子供の姿を難しくする原因となっています。
・”あなたの責任で”
「しつけ」の概念は、親の責任を強調します。
それは、「しつけ」がすんなりいく子相手、すんなりいく状況、それができる親であればよいですが、すんなり行かない状況では脅迫の言葉になります。
裏を返すと、「子供の姿が”正しくない”のはおまえのせいだ!」と常にその親を責めるのです。
また、世間もそのように親を見ます。
例えば電車の中で子供が騒いでいた場合、「あのお母さん、子育て大変そうだな。いっちょ私が手伝ってあげるか」とはなかなかなりません。
「しつけのなっていない子供だ、あの親はなにをやっているんだ!」そのように非難の視線を親に向けることになっています。
(電車バス内でのベビーカーにまつわる論争がありましたが、その視点はまさに↑これになっています)
このことは、さらに親に対して”強迫的”に「しつけ」を迫ることになります。
こうして、本来の子育てとは関係のない方向、「私が世間様に非難されないために・・・・・・」へと子供へのアプローチが切り替わってしまいます。
(「人見知りしない子にしなければ」「断乳しなければ」「おむつを早くに外さなければ」といった意識も少なからずここからきていますね)
結果的に、”子供の力を伸ばす方向”ではなく、”子供を大人の思い通りにするためのアプローチ”が「しつけ」=「子育て」として確立していきます。
6.「しつけ概念」による「しつけ行為」は”言うことを聞かない子”を作り出すマッチポンプ
しつけは、支配すること・圧力をかけることをその手段として、子供の姿を大人の好ましいものに無理やり改変していく子育てとなりかねません。
それは「しつけ」の概念が要求している「子供の正しい姿」という”型”の中に、子供を無理やりはめ込んでいくような子育てです。
そこでは子供へのダメ出し、非難、叱る、怒る、自我の押さえつけなどなどの、子供を「否定」する方向での関わりが山のように積み重ねられてしまいます。
「否定」というマイナスの方向でのアプローチが多くなれば、子供はその親はもちろん大人全般への「信頼関係」という、子供の健全な成長のために必要な力をつちかうことができなくなります。
すると、かえって大人の「アプローチには従わない」もしくは、「自分の意思や感情に逆らいながらしぶしぶ従う」という状態に子供の育ちを持って行ってしまいます。
結果的に、「いうことをきかせなければ」として行う「しつけ行為」は、子供を「いうことをきかない子」にしてしまいます。
「しつけ」が主張するメソッドでは、それができやすいタイプの子以外、「しつけ」の望む子供の姿はむしろできないのです。
従わせる関わり→従わなくなる子供→より強い支配→より従わない子→さらにより強い支配
という”いたちごっこ”です。
つまり、「しつけの行為」はかえって「”しつけの考え方”が望んでいない子」を作り出すマッチポンプになっているのです。
それが生み出す結果は
・「体罰」「虐待」に代表されるような、強烈な支配の関わりの強化
・子育てする人の強いストレス、イライラ、怒り
・結果(子供の行動)が思わしくないことによる、親が自分自身を責める気持ち
・結果的に思い通りにならないことからくる、あきらめ、子供の無視、放任
・思い通りにならないことからの、コントロール(管理)としての関わり
例)テレビゲームを与えて静かにさせる、菓子やモノで釣る、など
このようなことを子育てにもたらします。
北海道の置き去り事件の例で言えば、その子供が最初”人や車に石を投げていた”とされる行動そのものが、それ以前の普段からの親による否定的・支配的な関わり方が、そのような”大人の思いや要求に鈍感な子・応えない子”(いわゆる”言うことをきかない子”)つまり大人に対して「信頼関係の低下した状態」が引き起こしていた可能性があります。
そこを親はさらに矯正しようと、より強い支配(置き去りにするという脅迫・痛い目)をすることで解決しようとしています。これでは子供が望ましい姿になることはありません。なったとしてもそれは”強い支配をする人の前でだけ”です。それ以外の人の前では少なからず問題行動を示すようになります。
7.「しつけの子育て」は”自己肯定感”の低い人間を作り出す
「しつけ」は、押さえつけ・支配・ダメ出しなどの「否定」の方向での関わりが主になります。
また、それを親と子という非常に近い距離での関わりの中で、濃密にたくさん積み重ねていきます。
それは、”親の顔色をうかがう”子供にしてしまったり、否定されることを怖れて自発的な行動ができなくなる子供にしてしまったりします。
その結果、自己肯定感がとても低くなったり、ものごとへ取り組もうとするモチベーションや自信の低い子供にしてしまったり、自分を大事と思えない”自尊感情の低い”性格を作り出してしまったりします。
また、その反動として”承認”されることへの渇望、つまり承認欲求への餓えみたいなものをもった人間にしてしまいかねません。
これらは思春期・青年期、そして大人になってまでその人への人格に影響を与えていきます。
8.定型発達でない子は、「落ちこぼれ」になってしまう
「しつけ」は常に子供の「あるべき姿」「理想像」を目指している。
そうでない状態は、否定的にみられる状態になってしまいます。
それが、「できる子」ならばいいけれど、現実はそうとばかりではありません。
現実を見ず、理想を追うようになると、不適切なことがたくさん起こってしまいます。
「”しつけ”の概念」が先にあって、子供を見ていくことはその人の意識が子供を”落ちこぼれ”にしてしまいます。
「正しい子供像」のような理想を念頭に置いた熱心な教育者が、むしろ多くの子供を切り捨てていく人間になっている皮肉な現実も目にします。
とても狭い「あるべき子供像」を先に設定してしまう”子供への視点”である「しつけの子育て」は、すべての子に対して適切な子育て・教育方法ではなくなっています。現代では、もはやそのことに気づかなければならないでしょう。
今回の北海道の置き去り事件のケースが特徴的であるのは、普通の親が「しつけ」として頑張ったことが、結果的に命を脅かす「虐待」になったことです。
つまり、このことは多くの人が「しつけ」という先入観でしている子育てが、実は「虐待」と紙一重の危険性を持っていることを示唆しています。
僕は、これまでの「しつけ」というメソッドだけしか持たなかった日本の子育ての現状は、もはや乗り越えられるべきものであると考えています。
どうなるかと心配しておりましたが、本当に無事でよかったです。
この件を機に、にわかに「しつけ」についての関心が高まっておりますので、僕も必要と思うところを述べておきたいと思います。
(「自立」についての記事のつづきは、日をあらためて)
「しつけ」という言葉は、子供関連の専門家や教育学者なども現代でもさかんに使っています。
しかし、僕は「しつけ」という考え方で子育てにのぞんしまうことは危険なことだと、これまで一貫して述べています。(「しつけ」でブログ内検索していただければたくさん出てきます)
そして、「しつけ」という概念に依らなくても、「子育て」ができる方法を提示し続けてきました。
現代は、もはや多くの人が考えている「しつけ」では子育てがうまくいかない時代に入っています。にもかかわらず、「しつけ」による子育てしか知らないことで多くの弊害が生まれています。
今回のように、結果としての「虐待」までいかなくとも、「子育て」=「しつけ」と思って子育てをしてきたことで子育てそのものが大変になり、子供を可愛く思えない、許容的にみれないといった状態になってしまうことも少なくありません。
今回は、あらためて「しつけ」で考える子育てが持っている問題を明らかに示していきたいと思います。
1.現在では「しつけ」は、「用法用量を正しくお使いください。さもないと子供を死に至らしめることがあります」という”劇薬”です。
現代において、「しつけ」という考え方はとても危険なのです。
すでに、個々の家庭の子育ては、大きな家族や地域などとは切り離され孤立した状況で行われています。
その「しつけ」が不適切なものであった場合。他者との関わりのある状況であれば、だれかがセーブしてくれたり、補ってくれることで大きな問題にならないこともケースによっては考えられますが、現状それは難しいのです。
現在は、子育てが孤立化しており、他者の目にとまりにくくなっています。また、個人主義的な考え方が進んでいて、人の子育てに他者が介入することがしづらくなっています。
子育てがさして問題なくおくれる人であれば、「しつけ」という考え方によって子育てを行っても大きな問題にはなりません。
しかし、そのような人ばかりではないのです。また、子育てや子供への関わり方がわからない人は今後さらに増えていきます。
つまり、いままでは”用法用量”が自然任せでも守られていたとしても、それはたまたまでしかないのです。
”用法用量”がわからない人にとっては、「虐待」ですら「しつけ」になるのです。
2.同時に「しつけ」は「子供を殺してしまっても許される”免罪符”」になっています。
現在の日本では、いきすぎたしつけによって子供に大きなダメージを与えたり、最悪殺してしまっても「事故」で済む”理由”となっています。
「いきすぎた”しつけ”」と「正しい”しつけ”」の間の境界線は見えるでしょうか?
残念ながら、それはあいまいです。
特に、「いきすぎた”しつけ”」をする人ほど、それは見えないのです。
3.「しつけ」は、「目標だけが与えられて手段を明示していないプロパガンダ」になっています。
「しつけ」とは、「子供をあるべき正しい状態にしなさい」と”親”に対して要求していく”強迫観念”になっています。
「しつけ」は「子供はこうあるべき」という「目標」だけは強く示しますが、その一方で「無理なくその子をその正しい姿にするためにはこうすればいいですよ」という方法は何一つ説明していません。
その方法を示す代わり「しつけ」が強調して訴えかけてくるのは、その親に対して「子供の正しい姿が出ていないのは”親であるあなたのせいです”」というプレッシャーです。
そして、その親の横に無言で”劇薬”をおいていくのです。
4.「しつけ」が伝える子育てのメソッドはひとつしかない、それは「支配をつよめること」。
「しつけ」は前提として、「子供は親に従順であること」を暗に要求しています。
(この点が昔の価値観を持つ人には特に重要になっています。逆にそういう志向があるので、子供の「個性」や「人権」「尊重」といった概念がそれをおびやかすものとしてその人たちの目に映ります。そのため、そのような人たちはしばしば「個性」や「人権」「尊重」という言葉に大変攻撃的です。日本の政治家たちが『子供の権利条約』への批准を渋り続けたのもこの辺りの考え方が影響しています)
「親に従順でない状態」は「しつけ」の概念による子育てでは、”あってはならないこと”です。
ですから、それに直面すると親は子供に対しての支配の強化・しめつけをしなければならなくなります。
その方法はさまざまで、怒ったり叱ったりすること、叩くこと、疎外すること、置き去りにすること、言葉でののしること、言葉ではずかしめること、脅すこと、
子供のモノを壊すこと、子供のしたいことを否定・邪魔すること、などなど。
この考え方・先入観は子育てを不健全にしてしまいます。
さらには「虐待」も招きます。
例えば、子供の自我の発達を否定することや、子供の自主性・主体性を奪うことなど。
(このためかつての「第一次反抗期」という言葉は、”反抗するならそれは押しつぶさなければ”と考えてしまう人がいるので言葉自体を見直さなければなりませんでした)
現在の子育てが迷走した結果なりやすい「親がいいなりになること」や「ごまかし」「モノで釣ること」などのさまざまなコントロールの手段は、”支配を強めることはしたくないのだけどどうすればいいかわからない”という気持ちが生んだ、”支配の子育てメソッド”の亜種といえます。
5.「しつけ」は常に耳元でささやく
「しつけ」の考え方によって、親は「子供を正しい姿にしなければならない」という”先入観”、さらにはそれが強まった”強迫観念”のもと子供を「正しい姿」にするべく、子供へのアプローチをします。
そのとき、「しつけ」は常に次のことを親に要求していきます。
・”今すぐ”
「(しつけで考えるところの)正しい子供の姿」を「今すぐ!」作り出しなさい。
そのように考えてしまうので、親は子供の行動に寛容になれません。また、子供の心身の成長発達や、時間の経過による成長を考えてあげること、待ってあげることができなくなります。
その結果、子育ては「過干渉」になるべくしてなります。
また、「先取り」で考えてしまうようになります。(「正しい姿」が遅く出ることは好ましくないので、「早くに」それを獲得させようとするため)
それはしばしば、子供の「発達段階」を無視した理不尽な要求となって、子供の姿を難しくする原因となっています。
・”あなたの責任で”
「しつけ」の概念は、親の責任を強調します。
それは、「しつけ」がすんなりいく子相手、すんなりいく状況、それができる親であればよいですが、すんなり行かない状況では脅迫の言葉になります。
裏を返すと、「子供の姿が”正しくない”のはおまえのせいだ!」と常にその親を責めるのです。
また、世間もそのように親を見ます。
例えば電車の中で子供が騒いでいた場合、「あのお母さん、子育て大変そうだな。いっちょ私が手伝ってあげるか」とはなかなかなりません。
「しつけのなっていない子供だ、あの親はなにをやっているんだ!」そのように非難の視線を親に向けることになっています。
(電車バス内でのベビーカーにまつわる論争がありましたが、その視点はまさに↑これになっています)
このことは、さらに親に対して”強迫的”に「しつけ」を迫ることになります。
こうして、本来の子育てとは関係のない方向、「私が世間様に非難されないために・・・・・・」へと子供へのアプローチが切り替わってしまいます。
(「人見知りしない子にしなければ」「断乳しなければ」「おむつを早くに外さなければ」といった意識も少なからずここからきていますね)
結果的に、”子供の力を伸ばす方向”ではなく、”子供を大人の思い通りにするためのアプローチ”が「しつけ」=「子育て」として確立していきます。
6.「しつけ概念」による「しつけ行為」は”言うことを聞かない子”を作り出すマッチポンプ
しつけは、支配すること・圧力をかけることをその手段として、子供の姿を大人の好ましいものに無理やり改変していく子育てとなりかねません。
それは「しつけ」の概念が要求している「子供の正しい姿」という”型”の中に、子供を無理やりはめ込んでいくような子育てです。
そこでは子供へのダメ出し、非難、叱る、怒る、自我の押さえつけなどなどの、子供を「否定」する方向での関わりが山のように積み重ねられてしまいます。
「否定」というマイナスの方向でのアプローチが多くなれば、子供はその親はもちろん大人全般への「信頼関係」という、子供の健全な成長のために必要な力をつちかうことができなくなります。
すると、かえって大人の「アプローチには従わない」もしくは、「自分の意思や感情に逆らいながらしぶしぶ従う」という状態に子供の育ちを持って行ってしまいます。
結果的に、「いうことをきかせなければ」として行う「しつけ行為」は、子供を「いうことをきかない子」にしてしまいます。
「しつけ」が主張するメソッドでは、それができやすいタイプの子以外、「しつけ」の望む子供の姿はむしろできないのです。
従わせる関わり→従わなくなる子供→より強い支配→より従わない子→さらにより強い支配
という”いたちごっこ”です。
つまり、「しつけの行為」はかえって「”しつけの考え方”が望んでいない子」を作り出すマッチポンプになっているのです。
それが生み出す結果は
・「体罰」「虐待」に代表されるような、強烈な支配の関わりの強化
・子育てする人の強いストレス、イライラ、怒り
・結果(子供の行動)が思わしくないことによる、親が自分自身を責める気持ち
・結果的に思い通りにならないことからくる、あきらめ、子供の無視、放任
・思い通りにならないことからの、コントロール(管理)としての関わり
例)テレビゲームを与えて静かにさせる、菓子やモノで釣る、など
このようなことを子育てにもたらします。
北海道の置き去り事件の例で言えば、その子供が最初”人や車に石を投げていた”とされる行動そのものが、それ以前の普段からの親による否定的・支配的な関わり方が、そのような”大人の思いや要求に鈍感な子・応えない子”(いわゆる”言うことをきかない子”)つまり大人に対して「信頼関係の低下した状態」が引き起こしていた可能性があります。
そこを親はさらに矯正しようと、より強い支配(置き去りにするという脅迫・痛い目)をすることで解決しようとしています。これでは子供が望ましい姿になることはありません。なったとしてもそれは”強い支配をする人の前でだけ”です。それ以外の人の前では少なからず問題行動を示すようになります。
7.「しつけの子育て」は”自己肯定感”の低い人間を作り出す
「しつけ」は、押さえつけ・支配・ダメ出しなどの「否定」の方向での関わりが主になります。
また、それを親と子という非常に近い距離での関わりの中で、濃密にたくさん積み重ねていきます。
それは、”親の顔色をうかがう”子供にしてしまったり、否定されることを怖れて自発的な行動ができなくなる子供にしてしまったりします。
その結果、自己肯定感がとても低くなったり、ものごとへ取り組もうとするモチベーションや自信の低い子供にしてしまったり、自分を大事と思えない”自尊感情の低い”性格を作り出してしまったりします。
また、その反動として”承認”されることへの渇望、つまり承認欲求への餓えみたいなものをもった人間にしてしまいかねません。
これらは思春期・青年期、そして大人になってまでその人への人格に影響を与えていきます。
8.定型発達でない子は、「落ちこぼれ」になってしまう
「しつけ」は常に子供の「あるべき姿」「理想像」を目指している。
そうでない状態は、否定的にみられる状態になってしまいます。
それが、「できる子」ならばいいけれど、現実はそうとばかりではありません。
現実を見ず、理想を追うようになると、不適切なことがたくさん起こってしまいます。
「”しつけ”の概念」が先にあって、子供を見ていくことはその人の意識が子供を”落ちこぼれ”にしてしまいます。
「正しい子供像」のような理想を念頭に置いた熱心な教育者が、むしろ多くの子供を切り捨てていく人間になっている皮肉な現実も目にします。
とても狭い「あるべき子供像」を先に設定してしまう”子供への視点”である「しつけの子育て」は、すべての子に対して適切な子育て・教育方法ではなくなっています。現代では、もはやそのことに気づかなければならないでしょう。
今回の北海道の置き去り事件のケースが特徴的であるのは、普通の親が「しつけ」として頑張ったことが、結果的に命を脅かす「虐待」になったことです。
つまり、このことは多くの人が「しつけ」という先入観でしている子育てが、実は「虐待」と紙一重の危険性を持っていることを示唆しています。
僕は、これまでの「しつけ」というメソッドだけしか持たなかった日本の子育ての現状は、もはや乗り越えられるべきものであると考えています。
| 2016-06-05 | 日本の子育て文化 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
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