「誰かの幸せのために誰かが犠牲になる」というビジョンをもう卒業しなければならない時代に来ています。
つぎのステージは、各人がみな(当然そこには子供・親も含まれる)がともに「自己実現」をしながら、ともに幸せになっていく対人関係や社会、組織の時代です。
「母親が犠牲になることで成り立つ家庭」
「母親が犠牲にならなければ成り立たない子育て」
「子供が犠牲になることで満たされる親の自尊心」
「妻が犠牲になることで、自尊心が満たされる夫」
「社員が犠牲になることで発展する会社」
「生徒や教員が犠牲になることで上がる学校の評価」
「選手が犠牲になることで盛り上がるスポーツ」
こういったことは明らかにおかしいと理解できる時代になっているはずです。
現実にはこういったことがたくさんあったとしても、「それを我慢して甘んじなさい」と言うのではなく、「どうしたらそれを改善していけるのか」を考える時代です。
しかし、子育てのなかで無造作に使われる「愛情」という言葉には、どうしてもそういった旧態依然とした考え方である、「親の犠牲の上に成り立つ子育て」という意味合いが、それを話すときに使う人の意図とは関係なく、切っても切り離せない状態で含まれてしまっています。
だから、「愛情」という言葉は、子育てが取り立てて深刻な状態でない人が聞いたときは、目くじらを立てるようなものでなかったとしても、そこに難しさや悩みを抱えている人には、とても大きなプレッシャーだったり、傷つける言葉となってしまうのです。
「それで傷つく人はそういう言葉を聞かなければいいだろう」と思うかもしれません。
しかし、それは浅い理解の仕方です。
なぜなら、そういった無造作に作り出された、雰囲気・空気が本来攻撃されるいわれのない人たちを攻撃する理由となってしまうからです。
しかも、それは「愛情」という「正義」をまとった攻撃になるので、大変たちの悪い攻撃です。
そこで攻撃される人は、反論もできず批判も許されず、味方もいない状況におかれます。
バス・電車内で問題となったベビーカー論争を思い出して下さい。
子育てポストが問題となったときの人々の声をいまいちど振り返ってみて下さい。
川崎市中1男子生徒殺害事件があったとき、被害にあった少年の母を責める声がたくさんあがったことを思い出して下さい。そのとき、加害少年の親を責める声がほとんどなかったこともあわせて考えてみて下さい。
これらの問題は、「愛情」という言葉を正義の盾にして、自分が傷つかないところから一方的にその人たちを責めているのです。
「愛情という価値観だけで計れないものがあるんですよ」と、そういったときに心ない中傷からその人たちを守れるよう、できるだけ多くの人、せめて子育てにまつわる保育・教育・子供関係者には知っておいてもらいたいと思います。
いまオリンピックをやっていますから、もう少しするとパラリンピックが始まるでしょう。
身体に障がいを抱えている人を、それを理由にさげすんだり、責めることのない時代になりましたね。
しかし、心の内面になんらかの問題を抱えていたり、その人のおかれた状況によって子育てがうまくいかず、人々がもてはやす「愛情」というステレオタイプの子育てができていない人は、いまだに責められる時代です。
本当は、もう一歩進めて、そういった人たちも社会的に援助して、ムリのない子育てをおくっていける時代にしなければなりません。
だから、いまだにさまざまな誤謬を含んでいる「愛情」という言葉を、子育ての終着点にしてほしくないと僕は思うのです。