そこに書かれていたのが、
「叩いたり、餌でつったりしてしつけることは過去のものだ。
愛情をもって世話をしたりすることで信頼関係を形成し、それによってきちんとしつけをすることができる。」
というような趣旨のことが書かれていました。
犬のしつけですら、もう20年も前にこのように言われているのに、人間の子供のしつけでは依然として「子供を叩かなければならない」ということがいまだに平然といわれています。
叩いてしつけない、餌で釣らないというのは犬のしつけでは常識になりつつあります。
現に本当に有用な高度な訓練を必要とする犬のしつけでは、もはやいっさい叩いたりしないそうです。
介助犬・盲導犬・警察犬・麻薬捜査犬などなど。
人間との信頼関係こそが大切になっています。
こういっては犬に失礼かもしれませんが、犬ですらそうなのになぜいまだに子供にはそれを平然とするのでしょう。
それをする人たちの多くは、おそらく客観的な検証や、体系的な子育て論に基づいてそのように言うのではなく、前時代から引きずってきた価値観から精神論的にそのように言っているとしか思えません。
「叩くこと」で「子供が学ぶ」と考えるのは、一種の幻想でしかないと僕は考えます。
この仕事を通して僕は叩かれて育てられた子も少なからず見ています。
その子達は、その親や、世間で「子供を叩いてしつけなさい」という人たちが意図するように育っているでしょうか?
乳幼児期から叩かれて育てられた子は、その多くが大変手のかかる子になります。
支配的で「叩く」その親の前では素直で従順かもしれません。
しかし、そうでない場所では大人の言うことなど聞きはしません。
つまり、「叩かないとわからない子」になってしまっているだけなのです。
「叩く」ということは物理的な痛みを発生させますから、それを嫌だと思えばそうされないように振る舞います。
しかし、「その大人から見ていい子」にそのときしているだけで、子供が自覚的に大人のいわんとすることを理解したりして、本当に成長しているわけではありません。
まさにかつての動物のしつけ・調教と同じように、痛みによってその状況における「禁止」を教え込んでいるだけにすぎないのです。
なので、その痛みのない場所・環境では、なにも律するものがなくなってやりたい放題です。
そして、叩くことを実地に学んでいますから、他者を叩くことに良心の呵責を覚えることはありません。
そういった子は受容されることは少なく、叩かれたり支配されることばかりが多いので、他者を攻撃したりして自分の鬱憤を晴らさなければならない理由をたくさん抱えています。
また、手のかかる子になるのとは逆に心を閉ざしてしまう子になることもあります。
大人に対する信頼感を欠如させているので、保育士がなにかを働きかけようとしても、容易に心に入り込めません。
ある意味、手のかかる問題児よりもこちらの方が非常に対応が難しくなります。
叩いて育てられても、まっすぐ育つ子も中にはいます。
でも、そういった子は別の誰かがきちんと受容してくれていたり、親が手を出しているとしても一方でたくさん可愛がることもできている子です。
また、頻繁・常習的にではなく、極限的にしか「叩く」を使っていない程度ということもあります。
しかし、そういう子ならばそもそも「叩く」という行為を大人が使わなくても、きちんと育てる子なのです。
単に大人の志向で叩かれているだけで、「叩いている」からきちんと育っているわけではありません。
「しつけ」「躾」という言葉は、いろいろな面や用法で使われています(例えば 箸の使い方=お箸のしつけ など)から、一概にすべてが良くないというわけではないのですが、
現代で、子育てにおいて使われるとき、こういった強権的で支配的な大人から子供への関わりかたという考え方も多分に含まれています。
もちろん、そう取らない人もいるでしょうけれども、現実にそのようなニュアンスで解釈していたりする人もたくさんいますので、僕は「しつけ」「躾」を志向する子育ては言わないことにしています。