夕食に焼いて出したところ、兄は魚好きなので普通に食べましたが、むーちゃんは一本食べて「もう一本いる?」と声をかけるもあんまり浮かない顔で、「ううん、むーちゃんもういい」と。
ややワタの苦みもあるし、まるごとなので背骨や小骨もあるので、まあそんなものかなと「うん、そっかー」とそのまま受けました。
しかし、数日してまた出すと、今度は味に慣れたせいかおいしさがわかったみたいで、自分からとって食べていました。
僕はしばしば子供に対して「
肯定も否定もしない」という姿勢を用います。
上の例だと、「うん、そっかー」という部分です。
そのまま、ありのままを「受けるだけ」にしています。
食事のことに限らないけど、世の大人たちが子供に対して、「うちの子それ苦手なので」「それできないので」と先回りして決めつけてしまうのをときどき見かける。
僕はこういうのを「もったいないなー」と感じます。
子供の姿・成長というのは今が終点ではありません。つねに過渡期にあります。
今日苦手であっても、明日はそうではないかもしれない。
でも!
大人が「ああ、あなたはこれが苦手だよね」と言ってしまったら、かなりの子がそこから自分で足を踏み出そうとはしなくなってしまいます。
本当はそれをクリアできる力がある子であっても、苦手として確定してしまいます。
ある意味では、これは子供の力、子供の成長の伸びしろというものを大人が信じていないということです。
大変もったいないと僕は思います。
今、「子供の尊重」ということ、現代でどうもそのベクトルがずれてしまっていることについて考えをまとめています。
以前ドラえもんでの食事のシーン「親は焼き魚、子供はハンバーグ」というのをあげましたが、「それは苦手だよね」と親が決めつけて、「どうせたべないから」と次の時から食卓に出さないという様子は、今では普通のものとなっています。
こういうことを、子供を「尊重して」「配慮して」「大事にして」という意味合いでしている人もいるかもしれません。
でも、なんかずれているようにも感じます。
そのずれ始めたところをさかのぼって見つけ、そこを見直すことで現代の子育ての不安定さというものを、もしかするとより安定した方へとすることができるのではないかという感触がなんとなくあります。
まあ、そんな大げさなものでもないのですが、近いうちそれをまとめて書いてみようと思っています。
追記
→こちらの記事を書きました
大人と子供の位置 《やさしさ保育園とさばさば保育園の記事・コメントを読み返してみて》