例えば、子供への関わりの出発点が「負い目」である人が少なくありません。
「本来このようにしていかなければいけないのだけど、私はそれができていない・・・・・・」こういう気持ちがあって、そこから子育てをスタートするのでネガティブな気持ちが知らず知らず入ってしまいます。
いろんな理由はあるでしょうけれども、世代間のギャップがその原因のひとつとなっているのではないでしょうか。
自分自身の育ってきたとき、まだ自分の母親は専業主婦であったとか、仕事はしていても比較的時間に余裕がある状況だった人は少なくないと思います。
そこと現代の母親自身が忙しい状況と比べたら、自分がされたような子育てを我が子にできなくともそれは当然と言えば当然なのです。
(たとえ親の持つ余裕は同じであっても、”与えなければならないと考えられるもの”、”しなければならないこと”が増えていることも言えます)
しかし、人はそこを比べてしまいますから、自分がされたことを我が子にできていないと思うと、ついつい「負い目」が先に立ってしまいます。
そのような気持ちなどがあって、子供を大事にしていることを「努力」や「自己犠牲」で証明しようとしてしまいます。
それをすると、子育ての迷走が始まりやすいです。
僕は、著書のサインを求められたときの添える言葉のひとつに、「子供はいつでも親の一番の味方」という言葉を書くことがあります。
子供は、表面的には「○○ちゃんちは~~でいいな」といった言葉を口にすることはあったとしても、本質的には常に親の味方です。
じゃあ、「○○ちゃんの家の子になりますか?」という選択があったときに、それに「はい、そうします」と決める子はいません。
よしんばどんなに欠点があったとしてすら、その親のことを常に肯定したい、味方でありたいと子供は強く思っているのです。
だから、親が子供に対して「負い目」を持つ必要などないのです。
たとえ自分の家が貧しかろうとも、親が時間的に余裕がなかろうとも、それもひっくるめてその子の家庭であることをその子供は理解します。(親子間に情緒的なつながりが形成されていない場合は、その限りでないこともある)
でも、親が負い目を持ってしまえば、子供はその状況が受け入れづらくなります。
結果的に、依存を生んだりしてしまいます。するとその子育ては大変になります。
「負い目」を持つということは、言い換えれば「親が自分自身を肯定できていない」ということです。
人には欠点あるものだし、家庭には問題を抱えることだってあります。
それは当然のことなのですね。
それでも子供は、それらもひっくるめて親のこと、自分の家庭のことを常に「肯定しよう」という気持ちを強く持っています。
親がみずからその状況を否定してしまうのは、子供のその思いに冷や水をかけることになってしまいます。
子供は「お客様」ではなく、家族という共同体の一員なのですね。
どんな親であったとしても、子供は常にその親を肯定しようと思っていますから、そこをもっと信じてあげていいと思います。
「おっかなびっくりやる”正解の子育て”」よりも「堂々とやった”下手な子育て”」の方が得るものが大きいのではないかなと思うのです。
それがどうしても必要な場面はでてくるにしても、「自己犠牲」をすることで”子供を大事にしていることを証明”しようとしなくていいと思います。
日本の子育てでいちじるしく足りないのは、「言葉を使うこと」です。
「自己犠牲」で子供への思いを証明しようと頑張る前に、もっと言葉を使うべきです。
「私はあなたのことを大切に思っているよ」
「いつでも心配しているのだよ」
「大好きだよ」
ちょっとしたことだけど、この積み重ねがあってそれが子供の中で”揺らぎない自信”として核になるまで大きくなれば、それは将来にわたっての「生きる力」になることは確実です。
それは、親が自己犠牲をすることで関わったり、将来への布石として「できること」の獲得や早期教育などに躍起になったりすることよりもずっと大きなことだと僕は思うのです。