小論文 保育・教育現場における”ノーマリゼーション”の目的と意義 - 2014.10.22 Wed
◆はじめに
『ノーマリゼーション』(注1)という概念が世に広く知られるようになって久しく経つ。しかし、それの実践という点からは保育・教育現場においてまだその意味合いが正しく理解されてはおらず、単なる聞こえのよい修飾語となっているに過ぎない面がある。
『ノーマリゼーション』の意義を正しく理解することで、子どもへと関わる実践におけるよりよいアプローチをする一助として頂きたくこの小論文をしたためる。
ノーマリゼーションの考え方が導入される以前は、発達に大きな個性を持った子ども、ハンディキャップを負った子どもは、それらが特別な事情を持つということから他の子どもとはその多くを別枠で対応されてきた。
それが個別の事情に合わせた特別手厚い対応であったかというと、必ずしもそのようではなかった。むしろ、一般的な発達具合を持つ子どもと足並みをそろえられないだろうという決めつけとも取れる理由から、隔離的に扱われるという側面も強くあったと言える。
現在はノーマリゼーションの精神から可能な点においては、同一の場での適切なアプローチを模索するところにきている。
しかしながら、その本来のノーマリゼーションの精神が正しく理解されていないために、多くの現場においてそれらの子どもへの不適切な関わりが積み重ねられてしまっている。
多くの現場において、それに従事する人たちはさまざまなアプローチや援助・指導の方法を学び、身につけようとしている。
だが、それらのさまざまな方法論というものも、目指す方向である「ノーマリゼーションの目的」が正しく理解されていなければ、そこでケアを受ける子どもたちの本当の利益とはならず、その従事者たちの自己満足で終わりかねない。
そして、私の知る限りそういったケアを受ける子どもたちの本当の利益とならずに終わってしまっている例は実に多い。
いくら子どもへの関わり方などの方法論の研鑽を重ねようとも、その目的があいまいなままでは十分に適切な援助とはなりえない。
さまざまな現場においてあいまいである『ノーマリゼーション』の目的と意義を正しく理解することで、そこで行われている子どもたちへの援助を適切に行えるように方向修正をしていくことが、多くの実践の場において必要となっている。
<ノーマリゼーションの二つの誤解>
◆当事者側の誤解
日本の社会の底流には、”同質化への志向”、”劣等処遇の思想”というものがあると言える。
周囲の他者と同じであることに安心を見いだし、そこから大きく逸脱しないことを望むという傾向を多くの人が持っている。これが”同質化への志向”である。
”劣等処遇の思想”とは、公費で保護を受ける人の待遇は一般の人よりも一段と低いものでなければならないという考え方である。(注2)
こういった考え方を多くの人が持っているため、『ノーマリゼーション』が導入されて以来、障がいやハンディキャップを持っていても通常の場で通常の処遇を受けることがノーマリゼーションであるという部分がとくに着目され、その現場での実情や、そのハンディキャップを持った当事者の利益であるかどうかに関係なく、通常の場に入るということを目的として一般に理解されてしまった。
”同質化への志向”や”劣等処遇の思想”という世間の見方があることから、それまで障がいやハンディキャップを持っている人たちやその家族は肩身の狭い思いをしていた。
それゆえ、そこでの援助を受ける子どもの最善の利益ということとは関係なく、通常の場に入ることだけが目的とされてしまった一面がある。
このことは小中学校などの義務教育の場でとくに多く見られ、その子どもの発達段階や個性からすべてのカリキュラムを普通学級で行うことがその子どもの利益とならないということが明らかな状況でも、家族が他の一般的な発達度合いを持つ子どもと同様のカリキュラムを求めるといったケースが多数ある。
このようなことが、日本におけるノーマリゼーションの理解のされ方のひとつ目の誤解である。
◆子どもを預かる施設側の誤解
もうひとつの誤解は、学校・保育園といった施設側の誤解である。
ノーマリゼーションの考え方が日本にも広まり、社会的な要請が高まってくるようになり、学校・保育園に対してもその積極的な受け入れを監督官庁から指示されるようになった。それ以前から積極的に受け入れているところもあったが、大きな動きとなったのはやはり、官庁の指導があってからのことであろう。
しかし、その際にその受け入れることの意義や目的までもが適切に浸透されたわけではない。むしろ、それを指示した官庁の側もその本来の意義・目的を正確に認識していたわけでもなさそうである。
「社会的な要請があるので門戸を開きなさい」といった上意下達的なものとして指示され、その実際は各個の現場の自主性に任されたかたちとなった。
現場の側がそこからまず着手したのは、主にそこでのその子どもたちへの実際の関わり方のメソッドである。
「どのように対応していけばよいか」というところに終始して、障がいやハンディキャップを持った子どもを『ノーマリゼーション』として関わっていくことの意義自体は、あまり顧みられることがなかった。
しかし、それゆえにノーマリゼーションの目的自体が誤解されてしまっており、当事者である子どもたちには不適切な関わりが積み重ねられてしまっている現実がある。
その誤解とは、ノーマリゼーションとノーマルシーの混同である。
<ノーマリゼーション(normalization)とノーマルシー(normalcy)の違い>
『ノーマリゼーション』というのは、多様な個性やハンディキャップを持つ人を”ノーマルにする”ことではない。
本来の意義は、そのような個性やハンディキャップがあっても”ノーマルに過ごせる”ことである。
例えば、足が悪く歩行や走ることが困難な人がいたとする。
この人が理学療法によるリハビリに通い歩行を訓練することは身体的にノーマルな状態に近づかせようとすることで、これは『ノーマルシー』である。
このようなノーマルシーの援助も障がいなどの多様な個性やハンディキャップを持つ人にとっては必要な取り組みであり、それはおかしなことではない。
しかし、ノーマリゼーションとして受け入れた学校・保育園などが目指すところは第一義的にはそれではない。
それらの子どもたちを「ノーマルな人と同じになるように訓練しなさい」という要求をされているわけではないのである。
ノーマリゼーションとして求められている第一のことは、それらハンディキャップを持つ人がノーマルに過ごせるように生活条件を整えることなのである。
つまり、目指すべきなのはその子どもが他のノーマルな子どもと同様に振る舞えることではなく、他のノーマルな子どもが感じられるような喜びや楽しみ達成感などを、多様な個性やハンディキャップを持つ子どもも区別なく同様に享受できることなのである。
その子どもが、大人の課した目的を達成できるかどうかとは関係なく、当事者である子どもが自分以外の子どもと同じような満足感をそこで得ることができるのならば、それで第一義的な意味でのノーマリゼーションは達成されるのである。
この子どもにさまざまな教育的・発達的なアプローチをするのは、この前提となるノーマリゼーションが達成された後に考えられるべきことであり、そのノーマリゼーションという個人の尊重・尊厳を制限してまで、それの前に教育・保育目標を置くことは適切ではない。
逆に、いくらその子どもをノーマルな子どもと同じような到達点に近づけたとしても、その本人の意思に反したり、満足感を得られずにそれを行っているのでは、少しもノーマリゼーションは達成されてはいないのである。
ある幼稚園ではこのようなことがあった。
運動会でリレーの競技があった。自閉的な傾向を抱えていたその子は、その競技に参加することに激しい抵抗を感じ、走ることを嫌がり拒否した。
しかし、その担任の教師はその子にリレーに参加することを求め、それでも拒否したために、運動会当日は嫌がるその子を担任教師が小脇に抱え上げてトラックを走りリレーに参加させたのである。
この事例の子どもは、その子の個性や意思を尊重されたと言えるだろうか、明らかに尊重されているとは言えない。
教育や保育目標のためという理由で、教師や保育士はその子の個性を無視してまで、大人の意思を押しつけることはノーマリゼーションの精神の中にはないことである。
この子の個性を尊重し、それを勘案した上でその子どもが他の子どもと同様に運動会を楽しみ、そこに達成感を見いだせるような配慮をすることが、その子どもを受け入れる施設にはノーマリゼーションとして第一義的に求められていることなのである。
<当事者・主体としての子どもという視点を持つこと>
子どもは不適切な関わり方をされても、その大人に対してそのことに直接不平を述べるということができない。障がいや発達に問題を抱えていたりハンディキャップを持つ子であれば、それはなおさらのことである。それゆえ援助する側がされる側の当事者(子ども)への配慮を欠いてしまうと、容易に主客の転倒が起こってしまう。(注3)
教育や養育の主体というのは誰であろうか。それは本来そこでの教育や発達を援助される子どもである。
しかし、援助者である大人がその子ども本人の個性・意思や置かれている状況に鈍感になってしまうと、「する側」(援助者側の大人)の論理ばかりが優先され「支配者」になってしまい、「される側」(当事者である子ども)が「従うべき存在」となってしまう。そのようになれば、その子どもにとっての適切な成長・発達・学習をうながすことよりも、支配する側の思惑を実行させることが目的という状況に容易に変質してしまうだろう。
子どもへの養育・教育というものは、本来その子どもの自己実現を援助するために行われるものである。だからこそ、その過程においてもその子どものあり方を否定した方法で行うべきではないのである。
ノーマリゼーションの提唱者バンク-ミケルセンは、ノーマリゼーションとは本当は難しいものではなく、相手の立場に自分を重ねて自分がされたいと望まないことはしない、そんな当たり前のことなのだと述べている。
◆おわりに
教育や保育の現場で、このようなノーマリゼーションとノーマルシーを誤解したことから、当事者である子どもの尊厳を傷つけてしまうような扱いが今も頻繁に行われている。
ノーマリゼーションとして求められていることをそこに従事する人間は正しく理解していないために、その子どもたちをノーマルに扱うどころか逆に劣等感や疎外感を感じさせるような対応を重ねてしまっている。
しかしながら、そのノーマリゼーションの本来の目的と意義を正しく認識していないそのことが、さらにそこで行っていることを客観視し省みてよりよい援助をする必要があるということ自体に気づけなくしてしまっている。
この点を認識しなければ、今後もこのような対応というものが続いていってしまうことであろう。
あらためて『ノーマリゼーション』の本質を理解することで、すべての子どもに最善の利益を与えられる視点を、子どもに従事する多くの人には理解して頂きたい。
注1 『ノーマリゼーション(normalization)』は、日本では『ノーマライゼーション』とも表記・発音されている。ここでは提唱者であるバンク-ミケルセンの用法にしたがって『ノーマリゼーション』と表記していく
注2 ”劣等処遇の思想”については以下の参考文献『「ノーマリゼーションの父」N・E・バンク-ミケルセン その生涯と思想』より引用した。
注3 このことはその子どもが不満を述べられないということだけでなく、保護者にしても同様の側面がある。保護者によっては「障がいやハンディキャップを持っている子を預かってもらっている」という負い目を感じていることがある。そのような保護者にとっては、納得のいかないこと、不満などがあってもそれを積極的に施設側に述べることを躊躇してしまう。子どもを預かる施設側はそこまで踏まえ、当事者に対する一層十分な配慮を心がける必要がある。
参考文献
「ノーマリゼーションの父」N・E・バンク-ミケルセン その生涯と思想
花村春樹 訳・著 ミネルヴァ書房
連続授業 命と絆は守れるか? -震災・貧困・自殺からDVまで
宇都宮健児 浅見昇吾 稲葉剛 編 三省堂
ノーマリゼーション(normalization)の原理
N.E.バンク-ミケルセン 中園康夫 訳 四国学院大学 論集42
Sorge(気遣い)とケア論 -ケア論の基礎づけの試み-
小館貴幸 著 立正大学哲学会紀要第3号抜粋 2008年3月
ユネスコ「生命倫理と人権に関する世界宣言」
文部科学省HPより
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● COMMENT ●
ノーマライゼーション
私は障がい者福祉の仕事をしてきたのですが、
はて、私のやってきたことはノーマルシーだったのかな、と頭が弱い私は考えてしまいました…
もしまた現場に戻る機会があれば同僚とこの論文を元に、話してみたいな、と強く思います。
お父ちゃんさんの投げかける様々な問いが必ず、大きなうねりになると考える一人です。
今後もよろしくお願いします!
こんばんは。
なんだか受容が必要なのは、子どもも大人も変わらないなぁ、と論文ではありますがつい感情移入しながら読みました。
障がいのボーダーラインに関わらず子どもを画一化しようとしている現状のように、大人にも個性的であることは許されていないのでは、としみじみ社会に出て、また子どもを持ち感じています。
画一的に出来るように教え込まなければいけない、と思い込んでしまっているのだとしたら、スタッフや施設の上の人間こそカウンセリングを重ねて受容をしないと変われないのでは・・・と悲しく思いました。
障がいのあるなしに関係なく、自分と相手は違っていいと自信を持ちたいです。金子みすゞのようですが・・・。
この論文がたくさんの方の目に止まって生かされ、受容される子どもたちが増えますように。
同時に、スタッフ間でも相互受容がなりたつ施設が増えますように。
まとまらないコメントですが応援しております。
青りんごさんへ
私も似たような状況で、上が2歳9か月、下が6か月のママです。
上の子の対応、大変ですよね。
ただでさえ下の子は抱っこしてることが多いし、授乳は頻繁なうえ時間も10分以上かかりますから、上の子が手持無沙汰になってしまうのもわかります。
ただ、上のお子さんはDVDが本当に見たくて要求しているわけではないと思うんです。
テレビやDVDって、大人でも、不安なときや何か考えたくないことがあるときに、現実逃避の手段として手っ取り早いものではありませんか?お子さんは大好きなお母さんが赤ちゃんにとられちゃったような寂しさや不安や嫉妬を現実逃避したくてDVDを要求しているように思えます。
テレビやDVDは依存性が高くて、大人でもついつい見てしまうし、なかなか終わりまでやめられずだらだら見てしまうものなので、お子さんに途中でやめたり点いてるものを見ないようにしてといっても難しいと思います。
うちでは、授乳の時間はほぼ上の子に絵本を読み聞かせしています。
私は片手しか空いてないので、上の子に横に座って絵本を押さえていてもらいます。
今では授乳が始まると、好きな本を選んで、自分から持ってきます。
下の子には授乳に集中できず申し訳ないですが、1日のうちには下の子だけの時間もあるので、仕方ないと割り切ってます。
親子のスキンシップの時間にもなり、絵本もいっぱい読んであげられます。
お母さんが時間を少なくしたいと思っているのなら、それをお話しして、出産前のように時間を決めてあげたほうがよいと思います..
最初は抵抗すると思いますが、お母さんがスキンシップしてくれるほうがずっとうれしいんじゃないでしょうか。
お母さんがぶれずにいたほうが筋が通っていて、お子さんも不安が少なくなるような気がします。
参考になればうれしいです。
ありがとうございました。
お忙しいのに質問してしまいすいませんでした。
今、参考文献に挙げられていた 花村春樹(1994年)『「ノーマリゼーションの父」N・E・バンク‐ミケルセン―その生涯と思想』ミネルヴァ書房.を読んでいるところです。
読書時間が通勤電車の中のみでなかなか読み切れないのですが、読んでいて分かりやすく、私のような門外漢でも「ノーマリゼーション」とは何か、その成り立ちや理念が理解できます。読んでいて専門家でなければこの本で足りるなと思っていたところです。
中でも「第2部 ノーマリゼーションを語る ―講演、論文、最終講義-」P139-199 は、理解にとても役立ちます。
今回教えていただいた薗部 英夫(2009)『北欧 考える旅―福祉・教育・障害者・人生』全国障害者問題研究会出版部.ですが、さっそく近隣図書館で取り寄せ依頼を出しました。
届いたらこの本もじっくり読んでみます。
自分で探した論文で 岡崎幸友(2010)「「ノーマリゼーション」の今日的意味と役割」『吉備国際大学研究紀要(社会福祉学部)』第20号、9-18ページ というのがありました。これは「ノーマリゼーション」と「ノーマライゼーション」の二つの表記とその違いや流布の歴史的展開などについて書かれていて、なぜ二つの表記が出現したのかや違いについてよくわかりました。
また続きを楽しみにしています。
いつもありがとうございます。
えぽっこさんへ
お礼が遅くなり申し訳ありません。
おっしゃる通り、DVDを見たがるというのは、DVD自体を見たいというよりも、やはり私とのスキンシップや関わりを持てない時間(授乳中など)の暇つぶしとして手っとり早いものだからだと思います。
授乳中に絵本を読んであげるのはいいアイデアですね。もともと絵本は好きな子なので、授乳=絵本を読んであげる時間としてあげられたらいいかもしれません。
毎回とはいきませんが、こちらでコメント拝見してから、DVDを見ようとするときはできる範囲で私のほうから息子に関わろうとすると、DVDをつける回数や時間が減ったような気がします。
同じような悩みをもたれた方がいたというだけでと大変励みになりました。
こちらの場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。
お互い2人育児大変ですが、頑張りましょう!
青りんごさん
ただ親の心構えの方向性としては、
「先回りして失敗を恐れない」という気持ちを持つといいかもしれません。
生後4ヶ月ということであれば、まだまだ大変な時期だし、身体的にも万全というわけでもないでしょう。
そうやってなにかDVDなどに頼ってしまうことがあったっていいと思います。
上の子の方も本心からDVDがみたいというわけではなくて、単なる習慣になっていたり、甘えたいという気持ちを健気におさえているがゆえにそういった素っ気ない態度をとってしまうのかもしれません。
もし本当にDVDの見過ぎでよくないと感じるならば、いっそのことまったく使わないという選択肢を選ぶこともできますし、まあいまはしょうがないと割り切ってある程度すきにさせてしまうというのも選ぶことができます。
どういった対応をとるにしても、心配を先に立たせて子供への対応がおっかなびっくりになってしまうことはよくありません。
思うとおりにやってみて、それでうまくいかなければ後戻りしたっていいのです。
もうひとつの方向性としては、「よくないところ」を減らそうなくそうとするよりも、「いいこと」を増やすことでバランスをとっていけばいいということです。
テレビを見せた後で、それを消させてじゃあ別のことをしましょう、というのは子供の性質としてなかなかそのようにはいかないものです。
ならば、その前に少しでもいい遊びをすることでメリハリをつけたり、外に出てしまうなど環境の切り替えで「いいあそび」をしてしまう。
その後テレビを見る時間が多少多くなったとしてもそれでバランスをとってしまうことで、さほど影響を大きくせずにしていけるかもしれませんよ。
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現在3歳4ヵ月の長男、4ヶ月の次男のママをしています。2人目が生まれて以来子育てについていろいろ悩むこともあり、ネットでいろいろ検索はしていたところこちらにたどり着き、日々参考にさせていただいております。
もしよろしければ、ご相談させていただけないでしょうか。
上の子との関わり、特にDVD(テレビ)についてなのですが…
下の子が産まれる前は、DVDもテレビも1日何時間と決めて、ダラダラ見せることはなく過ごしてきました。積極的に外出して子育てサークルに行ったり、おうちでも子供としっかり向き合って遊ぶ時間を作っていました。
ところが、次男妊娠中切迫早産で2ヶ月入院し、そのまま退院することなく出産となり、その間は夫や義母、一時保育などにお世話になり、なんとか乗り越えました。ただ、突然ママと離れ離れになり、慣れない保育園にも長時間預けられ、上の子のストレス、不安は相当なものだったと思います。
そのため、帰宅後は私のできる範囲で、上の子優先で日々生活しています。ただ、甘えさせることと甘やかすことの境界線が自分の中で最近曖昧になってしまい、戸惑っています…。
その中でも特にDVDに関してですが、私が入院していたときは、どうしてもDVDやテレビの時間も長くなり、要求されれば見せていたような状態のようです。それは仕方なかっただろうとは思います。
ただ、出産後私が帰宅してからも、多少のメリハリはつけつつ、やはり以前よりは圧倒的にDVDを見せている時間が多いです。要求されない限りはつけませんが、どうしても下の子の授乳のときだけは、放っておかれる上の子がかわいそうで、DVDをつけてしまいます。私のほうから「DVD見る?」って誘うことも…。
悩んでいるのは、授乳が終わって、よし上の子の相手をしよう!と私が思っても、上の子が引き続きDVDを見たがることです。もちろんこちらの都合で見せたり消したりするのは私の勝手なのはわかっています。なので、そのまましばらく一緒に見たり、ストーリーのキリのいいところまできたら、「休憩しようね」と消したりしています。うまくいけばそのままママと遊びはじめるのですが、タイミングが悪いと、DVDを消すと機嫌が悪くなります。いろんな遊びを提案しても「やだ、やらない」とその場でうずくまってしまいます。
そこまで言うなら見せてあげようかとも思うのですが、せっかく下の子の世話が終わり私の手が空いている時間にひたすらDVDを見せるのはとても時間がもったいない気がしてイライラしてしまいます。
「そんなにDVDばっかり見てたら目が悪くなるよ!(←これは言い訳ですが)ママと遊ぼうよ」とつい声を荒げてしまうことも…。
ときには、DVDをつけたまま遊んでみようとしてみると、やはり要所要所でDVDが気になるようで、ママとの遊び(おままごととかミニカー遊びなど)に集中しきらず、中途半端な状態になってしまい、すごく残念です。
とにかく妊娠期からから現在まで、上の子は我慢だらけだっただろうと思うので、むやみにDVDを制限するのもどうなのかとは思いますが、私の中でも方針が確定しません…。
大変おおざっぱな悩みになってしまいましたが、何かこの状況にアドバイスいただけないでしょうか。
お願いいたします。